第1章 ③
――そして。
七日間はあっという間に過ぎた。
セジはあれ以来、アリーシャの前に姿を現さなかったので、舞踏会に誘われたのはアリーシャの幻聴だったのではないかと疑ったくらいだが、わざわざ前日に届くようアリーシャ宛てに、差出人なしの手紙で舞踏会の時刻を知らせてきたので、やはり本気なのだろう。
アリーシャは学業と薬の調合に、意欲を燃やしていたせいで、自分の格好などすっかり忘れてしまっていたが、いざドレスを身にまとってみると、鏡を叩き壊したくなるほど、自分の立ち姿は情けなかった。
まあ……。
化粧は面倒だし、似合わないから適当で良い。
頭の後ろで纏めた髪がほつれているのも、不器用だから仕方ない。
でも、桃色のドレスは自分には似合っていないと、アリーシャは思っていた。
こういう女性的な色は自分には向かない。
色はもっと地味なほうが良かった。
青とか緑とか……、落ち着く色でよかった。
ただでさえ、瞳の色が違うせいで目立つのだ。色で目立っても嬉しくない。
しかし、せっかく祖母がアリーシャのために仕立ててくれたドレスだ。
着ないわけにはいかなかったし、他にドレスの持ち合わせもなかった。
アリーシャは、祖母が趣味でつけたという胸元のふわふわした毛を撫でた。
赤色に染めた羊毛は、肌触りは良いが、時代遅れだ。
去年は、本当に学友達が羨ましかった。
戦争の影響で、縮小されている舞踏会だったが、それでもみんな一生に一度というくらいの気負い方で、競うように着飾っていた。
専門の仕立て屋で拵えたドレスは光沢があって、適度に露出度が高く、同性であるアリーシャですら、周囲の艶やかさに見惚れたくらいだ。
派手なドレス姿のわりには、飾り気もなくて……。
こんな自分が誰かに舞踏会に誘ってもらえるはずがない。
みじめだった。
今年もその気持ちは変わらないが、目的は舞踏会ではないので、去年よりは幾分心の痛みも強くはない。
目立たない薄手の白い上着を羽織って、アリーシャは微妙にドレスを隠す。
さすがに、今年も舞踏会に参加すると知れたら、両親も怪しいと思うだろう。
たとえ、祖母がアリーシャは離れで調合に精を出していると嘘をついてくれたとしても、家から出て行くのが見つかったら大変だ。
アリーシャの自宅と薬屋は離れている。家は薬屋と離れているので、計算通りであれば、両親とは入れ違いで済むはずだ。
自宅の庭は、ディアナの森から持参した薬草の数々が雑草のように生い茂っていて、狭いようで広いような奥行きを発揮している。
踵の高い靴と、無駄に大きな鞄のせいで、覚束ないアリーシャの足場を、辛うじて夕日の名残りが明るく染める。
アリーシャは急いでいたが、走ることは出来ずに、歩幅を縮めて早足するのが精一杯だ。
鬱蒼とした家を抜けると、小さな道に出る。
おそらく、会場となっている学院の大講堂に到着する頃は、舞踏会は始まっているだろうが、最初からセジと踊るつもりもないアリーシャにはどうでも良いことだった。
既に痛んできた左足を庇いつつ、砂利道を歩いていると、ふと薄闇の中に浮かぶ明かりが視界に入った。
……まさか?
果たして、予感は現実になった。
「アリーシャ=セレスさんですね」
黒塗りの馬車だったため、暗がりに紛れて発見するのに時間がかかった。
馬車の御者台から降りてきた、長身の男性は畏まってアリーシャの前で深々と頭を下げた。
「主からの言いつけで、お迎えに上がりました。シーファスと申します」
「……セジ、か」
アリーシャは苦々しく呟いた。手回しだけは優れている。もっと他にやることはないのかと毒づきたいが、そんなふうになってしまったのは、アリーシャのせいでもあるので文句は言えない。
「いえ。私は歩いて講堂に向かいます。大丈夫ですから」
こんな豪華な馬車で講堂なんかに向かったら、無駄に目立ってしまう。
しかし、御者の男性は首を横に振って、眉根を寄せた。
「それはいけません。私が主に叱られてしまいます」
「でも……」
「申し訳ないのですが、私もこんなことで、主に叱られたくはないのですよ」
「……う」
従わないわけにはいかなくなってしまった。
この若い御者が怒られるのは、アリーシャの望むところでもない。
それに、今更追い返すのわけにもいかない。
仕方なく、アリーシャはシーファスに促されるまま、馬車に乗り込んだ。
柔らかい座席を持っている馬車は、一人で乗るには恐ろしく広かった。
落ち着くわけがなく、アリーシャは、がちがちに緊張して、肩身を狭くして座っているだけだった。
出来ればゆっくりと。
アリーシャの頼みを無視して、素早く進んだ馬車は、案の定、舞踏会に間に合ってしまった。
きっと、セジから間に合わせるように、指示されていたに違いない。
馬車を留める場所がないという理由で、卒業生で賑わう正門の前なんかで馬車から降りる羽目になったアリーシャは、あからさまに注目を浴びていた。
「何で、こんなことに」
うつむいて、歯をくいしばりながら、歩を進める。
アリーシャの心は暗かった。
泣きそうだった。
こんな不本意な姿で、衆目を集めたいはずがない。
とにかく上着は脱ごうと、下を向いたまま乱暴に上着をはぎとった瞬間だった。
「アリーシャさん」
不意にむき出しになっていた肩に、がっしりとした人の手が触れて、アリーシャはびっくりした。
そんなふうに、優しい声で丁寧にアリーシャの名前を呼ぶのは、たった一人しかいない。
「…………セジ」
アリーシャは顔を上げて、眼鏡越しにセジを睨みつけた。
しかし、見れば見るほど悔しくなる。
何と華のある青年なのだろう。
艶のある黒髪は綺麗に整えられていて、つい最近まで子供っぽいと感じていた詰め襟の制服は、卒業生に手渡されるケープを身につけただけで、王者の威厳を発揮していた。
もう子供っぽいとは感じなかった。
一人前の大人の男性に映った。
そして、端正な顔立ちには男のくせに色気すら感じた。
「遅いので気になって待ってたんですよ。一体何かあったんですか。アリーシャさん」
「どうしたも、こうしたも……」
アリーシャは、わざと家を出る時間を遅らせたのだ。
……こうならないために。
だが、その複雑な気持ちをどう説明して良いのか、アリーシャには分からなかった。
その一瞬の隙をついて、セジは、ひょいとアリーシャの眼鏡を取った。
「ちょっと。何を……」
セジは、瞳を弓形のようにして微笑した。
「あんまり、金色の瞳が綺麗なもので。ちゃんと俺に見せて欲しくて」
「…………っ」
さらりと言うには、恐ろしいくらいきざな台詞だ。
アリーシャは顔を横に向けて、赤面している自分を心の中で罵倒した。
落ち着け。
これは、セジの本来の姿ではない。
「とにかく、立ち話はいけない。中に入ろう。な、セジ」
「ええ」
嫌味なくらい、穏やかに頷いて、セジが大講堂の純白の扉をひいて、会場に入る。
途端に、わっと歓声が上がった。
人、人、人の嵐のようだ。地味だった去年の比ではない。
警備の人間もいるので、大変な混雑だ。
勘弁して欲しい。
上座に設けられている大きな緋色の椅子に腰をかけているラティス公とミザラ妃の視線も感じて、アリーシャはじりじりとセジから離れた。
ここ一年の間に培った決意は、とっくに折れそうだった。
「え、ちょっとアリーシャさん」
「また、あとで! セジ」
アリーシャは、人ごみに囲まれて身動きの取れなくなったセジを放って、その場を脱兎のごとく逃げだしたのだった。