エピローグ
手放しで喜ぶことは出来ないと、自覚はしているが、とりあえず目処は立ったらしい。
……停戦協定だ。
和平と結びつかないところは、ユーディシアもサンゼも、その場に全権を持っている国の代表者がいないせいだろうと、アリーシャは思いたかった。
ミゲル達に言わせれば、どちらにしても雪深くなる冬には停戦せざるを得ないわけだから、みんなで手を合わせた命がけの行動も、少し停戦が早まった程度の価値らしい。
あの時……。
こちらの望むふうに、風が吹いて晴れてくれた。
風向きが駄目で、雨が降ってしまったら、絶対、うまく運ばなかったのだから、天候が持ち直してくれたのは、神のおかげというより、太陽のようだった兄、リュークのおかげというべきだ。
それに、アリーシャが何とか有り合わせで作った眠り薬入りの砲弾は、一度目は効果があるだろうが、二度目は通用しない代物だ。
もしも、翌日もサンゼ帝国が攻めてきたら、大変なことになっていたに違いない。
だから、きっとサンゼ帝国側も、停戦したかったのだと、ここは見るべきなのだ。
アリーシャ達は、幸運だったのだ。
「先日、将軍が停戦協定に調印してきてくれました」
「ああ、それは指令。あの重要な局面で怪我したボケジイサンのことか?」
ミゲルが揶揄したところで、シーファスの肘鉄が入った。
セジが苦笑しながら、肩を竦める。それだけの仕草だが、アリーシャには肩の荷がおりて、生来のセジが蘇ってきたようで嬉しかった。
「まあ、そのボケたジイサンでもいいですけれど」
「いや駄目だろう。セジ」
「アリーシャ嬢。大丈夫ですよ。部屋は離れています」
そういうことではない。
アリーシャには、シーファスとセジの関係が、この従者にして、この主がいるという気がしてならなかった。
セジは、執務室にアリーシャとイリス、そして大砲隊のミゲル隊長を呼びつけた。
ミゲルは身分が低いとはいえ、今回一番手柄を上げた兵士の一人なのだから、本営にいたところで、何の違和感もない。けれども、その煤汚れた格好と、乱れた髪と髭は、正規兵の中にあると、異様に目立っていた。
「それで、今日は一体何なのですか。セジ様?」
イリスが気だるそうに欠伸をする。
昼過ぎまで眠っていたのだが、まだ寝足りないらしい。
行儀のなっていないイリスに、シーファスが渋面を作ったが、セジはそんなシーファスの顔が面白いようだった。
「別に対した用件ではないですよ。大砲隊の皆さんに、報奨金を少しばかりですが、出そうかと思ったのです。貴方達のおかげで、何とか停戦にまで持ち込むことが出来たのですから」
「ふん。随分と気前が良いじゃないか。何だか裏がありそうで、嫌な予感までするぜ」
「裏ではありませんよ。貴方達には報奨金と休暇を出します」
「はっ?」
ミゲルが大きな口をぽかんと開けた。
「休暇だと?」
「どうせ春までは、停戦なんです。故郷にでも戻ってくれば良い。お金があれば少しはのんびりも出来るでしょう」
「何か企んでるのか?」
「俺はただ職業軍人ほどつまらないものはないと思っただけです。貴族は武功を立てれば、適当に隠居して優雅な暮らしを送る者もいるようですが、貴方達には何の保証もない」
「それで、大砲隊だけっていうのは、贔屓じゃないのかい?」
「すべての義勇兵に、金と休暇を与えることが出来るほど、人手もお金もあるわけでもないので……。まずは権利のある貴方達から行って下さい」
セジは執務室の広い机の上で手を組んだ。それを黙って、ミゲルが見つめる。
イリスが沈黙に耐えられずに、口を挟んだ。
「……ええっと。じゃあ、私達は何で呼ばれたんでしょう?」
「ああ、それは当然、イリスにも、アリーシャさんにも都に帰ってもらうためです。ついでだから、義勇兵に休暇の道すがら、都まで護衛を頼もうかとも思っていたんです。手配師も帰してしまいましたし、イリス一人では心もとないでしょう」
「はあっ!? 何ですって! セジ様は私の弓の腕前を見てなかったんですか!?」
「――まったく見ていないけど?」
「くわーっ!」
容赦ないセジの一言に、奇声を上げてイリスが激昂した。
「どうせ、セジ様はアリーシャさんのことしか見てなかったんでしょうよ。戻って来るなり、アリーシャさん抱えちゃって。国を背負った大将が敵陣のまん前で立ち往生なんて聞いたことないですよ」
「まあまあ、先生。セジ、イリスさんは私の先生なんだぞ。もう少し敬意を持って接するべきだ。ちゃんと敬語も使うんだ。いいね?」
「分かりました。アリーシャさん」
「は、腹が立つ」
うまく収めようとしたのに、かえって火に油を注いでしまったようだ。アリーシャは、セジに向かって宙をさまよっているイリスの拳を掴んで、後ろから抱き抱えた。
勿論、イリスも本気ではなかったのだろう。そうでなければ、アリーシャが止めることなど出来るはずがない。
「……で。セジも私達と一緒に帰るのか?」
話の延長のように気軽に尋ねる。
しかし、セジは苦い表情で首を横に振った。
「…………セジ?」
「俺は戻れませんよ。ここで色々と残務処理をしなければなれませんし、スティリアともちゃんと会合を持たなければいけません。それに、一応停戦とはなりましたが、帝国軍は引き上げたわけではないのです。いつ攻めて来るか分からないでしょう」
アリーシャは暗い気持ちで、イリスを解放して、セジに迫った。
「でも、セジ。それじゃあ君の体が持たない。私が何のために来たのか分かっているだろう。それに……。私が手ぶらで帰ったら、君を心配しているミザラ妃はどうなるんだ?」
「大丈夫ですよ。母上には適当に伝えておいて下されば」
「何が大丈夫だ!? 適当にだと?」
怒って良いのか、悲しんだ方が良いのか、どうして良いかアリーシャは困ってしまう。
君の気まぐれにはうんざりだ……とでも言えば良いのだろうか。だが、それを言うのなら、アリーシャもずっと気まぐれだったのだ。セジを責める権利はない。
「心配してくれて有難う。アリーシャさん。でも、毎日貴方がくれた薬は飲んでいますから」
「あのな。その薬だってすぐになくなってしまうんだ。一体、君はどうしたいんだ? 春までならば、君だって都に帰っても良いはずだ。違うか?」
「――ですが、俺には責任があります。今回だって決して無傷だったわけじゃない。死傷者だって出ているんですから……」
「…………ったく。くだらねえ!!」
ミゲルがどんと机を叩いた。
「俺たちは職業軍人で結構。俺もあいつらも帰る故郷もなければ、金なんて持たせたって、すぐに女と酒に消してしまう馬鹿ばかりだ。あんたの情けは、まるで情けにもならねえよ」
「…………ミゲル隊長?」
「指令さんよ。俺達はここに残るぞ。いくらあんたが偉くても、私的なことであんたに指導される覚えはねえんだ」
「しかし……」
「俺達が残れば、このお嬢さん方の護衛はいなくなるな。もっとも俺達の隊以外は皆礼節なんて言葉を知るような連中じゃないからな。何がどうなるか、俺にも分からねえが?」
「困りましたね。セジ様。彼らに彼女たちを預けることですら、貴方は不快感一杯だったというのに……」
「シーファス。ここでは指令と呼べと命じたはずだ」
セジは額を押さえた。頭が痛いのか、色々と考えをまとめているのか……。
「良いじゃないですか、セジ様。どうせ、ユーディシア軍全体にアリーシャさんの存在なんてばれていますよ」
「私は愛人という噂を聞きましたがね」
「俺は婚約者だと、小耳に挟んだがな」
「……大変なことになっていますね。セジ様。義勇軍の一部では、アリーシャさんがセジ様の何なのかで、賭けが始まっていますよ。私も一応婚約者の方で乗っておきましたけど」
イリスが腕を組み、セジは机に突っ伏した。シーファスがわざとらしく笑った。
「いい加減、けじめの一つでもつけて来たら、どうですか? 私も貴方のおかしな嫉妬心のせいで、毎回振り回されるのには、飽きましたから」
「シーファス。飽きたというのはどういうことだ。俺の方が毎回お前の暴言に我慢しているんだ。……でも、まあ」
セジは瞳を閉じて、腕を組み、しばらくしてから諦めたように口元を緩めた。
「せっかくのミゲル隊長のお言葉ですし、今回はご好意に甘えるとしましょう」
「えっ、じゃあ、セジ。キーファに帰るのか!?」
アリーシャのうわついた問いかけに、セジが顔を上げ、鷹揚にうなずくと、視線がぶつかった。見惚れるほど綺麗な微笑を返されたが、何故かアリーシャは背筋がぞくりとした。
……あれ?
「確かに、アリーシャさんのご両親には一度ご挨拶に伺おうと思っていたんです」
「あっ。ああ、リューク兄さんのことなら、父さんも母さんも、少しは柔軟になってきたみたいだから、大丈夫だ。都に帰った時にでも立ち寄ると良い。特にカナテ祖母さんは喜ぶよ」
「それは、良かった。じゃあ、アリーシャさんとのことも、きっと許して下さいますね」
「…………はっ?」
「あの首飾りを貰ってくれるのでしょう? 意味を知らないだなんて今更言いませんよね」
アリーシャは、ドレスの下に隠れているチェインの上に手を置いた。
まさか、知らないとは言えなかった。
「ああ、私ちゃんと話しましたよ」
イリスが余計なことを話したせいで、アリーシャの立場は追い詰められている。決定的なことを言われているわけではないが、大いに狼狽した。
「いや、でもな。セジ……」
「軍全体に貴方の存在が知れ渡ってしまったんですから。もう俺は男として責任をとらなければいけませんよね。けじめはつけないと」
「けじめ? 何だ、それは。責任も何も、君が一体何を先走っているのか、私にはまったく」
「当然、結婚を申し込みに行くんですよ」
「わわわっ!!」
とうとう口に出してきた。
アリーシャは、耳を塞いだ。
恋人を通り越して、何故そこに行ってしまうのだろうか。意味が分からない。
「セジ、その……。別に私は前言撤回しようとしているわけじゃないんだ。……でもな」
「では、帰りましょうか。アリーシャさん。帰ると決めたら早い方が良い。今すぐにでも出発しましょう」
「おいっ」
今までの苦悩は何処に消えたのだろうか。それともすべて狂言だったのか?
心底、楽しそうにも見える。
「セ、セジ。君は勘違いをしている。君が毎日飲んでいる薬にはニサラの葉が入っていて、ニサラの葉には興奮作用があるんだ。だから、君は少し薬の副作用を受けてしまっているかもしれないんだよ。……ええっと、つまり君の行動も言動も本心からではないのかもしれないのであって……」
「また、それですか?」
セジは、ミゲルとイリスとシーファスを部屋に残して、アリーシャを部屋の外に連れ出した。皆の生温かい瞳がアリーシャには痛々しい。
セジの意図の掴めない行動には、閉口ものだ。アリーシャの手を取り、軽やかに階段を下りているので、きっとアリーシャにあてがった部屋に行くつもりなのだろう。
アリーシャの荷物を先にまとめてしまおうという魂胆に違いない。
「じゃあ、貴方も興奮作用入りの薬を飲んでみれば良いじゃないですか」
「私には、ニサラの葉の副作用は出ないよ。小さい頃から薬は飲み慣れているし……」
「……飲み慣れてる……ね。去年、舞踏会で貴方が飲む予定だった薬にも、ニサラの葉は入っていたんですか?」
「はっ?」
「飲んだ人間を魅力的に見せる薬」
「な、な、何……」
「イリスから聞きました。アリーシャさんでも、自分を魅力的に見せたいと思うんですね」
「セジ、いや……。それは」
急いで、言い訳を探すが、真実を取り繕う言葉など、簡単に出て来るものでもなかった。
――何てことだろう。
アリーシャは青くなってから、途端に燃えるように熱くなった顔を片手で押さえた。
舞踏会でのことを、うっかりイリスに話してしまった。アリーシャは、口止めしたつもりでいたが、あの人を相手にそんな約束をするなんて、あってないようなものだったらしい。
「貴方にも、可愛らしい一面があるんですね」
「なかなか失礼なことを言うようになったな。セジ」
あまりの気恥ずかしさに、セジと繋いでいる手が汗ばんできた。何とかして手を振りほどこうするが、セジが放してくれない。
「嫌だな、アリーシャさん。俺は貴方のそういう部分も含めて、好きなんですよ」
「だから、どうして君はそうすぐに歯が浮くような台詞を……」
「魅力的に見えませんでしたかね。あの日からの俺は?」
「…………えっ」
一体、彼は何を言っているのだろう。薬の効果などに頼らなくても、セジは十分魅力的だ。
しかし、そんなことをはっきり言えるほど、アリーシャは器用な人間ではない。
「分かりませんでしたか。でも、それじゃあ、貴方が煎じた薬が効いているかなんて分からないじゃないですか。それとも俺の方が実験体になりすぎて、薬が効かなくなったとか?」
セジは言いながら、軍服の胸ポケットから薬の包みを取り出す。アリーシャが瞳を瞬くと、セジはおもむろにアリーシャの眼鏡を外して、にっこりと笑った。
……絶対、何か企んでいる。
その時になってアリーシャは気付いたが、手遅れだった。
「貴方だって自分で飲もうとしているんだから、薬は効くんでしょう。副作用だけ効かないなんて、変じゃないですか。だったら、試す価値はあると思いますが? ニサラの葉の成分、知りたくないんですか? なんなら、いっそ、二人で飲んでみましょうか。興奮作用があるというこの薬を」
セジは、アリーシャの肩を片手でしっかりと抱き、扉を開けた。
さすがのアリーシャにも分かった。セジがどうしてあの場から席を外し、アリーシャと二人きりになろうとしているのか。
アリーシャの言動を逆手に取り、口移しで薬を飲ませようなどと謎の勢いで迫って来るだろうことも。
恐ろしいほど、鮮明に想像がついた。
だけど、もう。
……この腕から逃れようとは、思わなかった。
アリーシャは軽く息を吸って、セジと扉の先の一歩を踏み出した。
【 了 】
ただ、身分差×幼馴染みの話が書きたかっだけだったような気がします。
……なのに、いつの間にかおっさんと大砲の話になってましたね。
今回また見直してみて、びっくりしました。
後半、おっさんが出張るし、副官が出張るし、戦っているし、恋愛はどこにいったのか。
そも、この戦術は有効なのか。今となっては、永遠の謎ですが、もういいか……と開き直りました。
ちなみに、セジの名前の由来は「お世辞」のセジです。
大体どの作品も、そういった感じで、ネーミングセンスがなくて、痛ましい限りです。
毎回の言葉ですが、ここまでもしお付き合いして下さった方がいらっしゃったら、お目汚しを失礼いたしました。このような愚作にお時間を頂きありがとうございます。




