第6章 ②
とりあえず、アリーシャは自分の部屋に急いだ。
戦いといっても、暗黙の規則はあって、日が昇らなければ戦いは始まらない。公式の戦いで夜襲などしようものならば、その国は他国から卑怯だと嘲笑されるのだ。
サンゼは極悪だと話に聞いていたが、その辺りのことは、まだ守られているようだ。
だが、間もなく容赦ない攻撃が待っている。
この七日間、ずっと日暮れまで絶え間なく、争いが続いていたのをアリーシャは知っている。
今日、始まらない理由は何一つない。
そして、セジはこれから前線に立って戦いを指揮する。
ああいう生真面目な人間が、真っ先に死ぬのだ。
アリーシャは恐れている。
アリーシャの兄のリュークだって、真面目に国を憂えた挙句、戦って死んだ。
遺体はないので、今まさに、同盟を組んでいるスティリアの兵に殺されたのかも分からないけれど、あんな思いは二度としたくはない。
アリーシャは直ぐにドレスを脱ぎ捨てると、鞄の底から旅のせいでよれよれになってしまった兄の形見の軍服を取り出した。
まず、シャツを着て、上着を羽織る。
深緑色の軍服はぶかぶかだったが、アリーシャが着られないほどではなかった。
微かに、兄の匂いがして、嬉しくなる。
何処かで護ってくれそうな気がするから、アリーシャは勇気を持ち続けることが出来た。
「兄さん……、セジと私を護ってくれ」
――と。
そこで、廊下に響く激しい靴音を聞いて、アリーシャは覚悟を固めた。
「アリーシャさん!!」
「セジ……」
力任せに、扉を開け放ったセジと、アリーシャは目が合い、動揺した。
こうなることは想像していたが、いきなり扉を開けられるとは思っていなかった。
引き込まれてしまいそうな青い瞳が真っ直ぐに、アリーシャを捉えている。
こうして、ちゃんと向かい合うのは、七日ぶりだった。
「一体、何をしているんです。帰って来たら、まず俺の部屋に来るようにと伝えて……!」
だが、激しく捲し立ててから、しかしセジは突然、扉をばたんと閉めた。
ようやく、アリーシャが着替え中だということを察したのだろう。アリーシャはシャツ一枚の姿で、まだズボンを履いていなかった。
「し、失礼しました」
「気にしていないよ。セジ」
「…………アリーシャさん。貴方は」
深呼吸と共に、セジは落ち着きを取り戻そうとしているようだった。
「一体、何を考えているんです?」
「似たようなことを、最近よく言われるよ」
「聞きました。義勇兵に、大砲を借りたいと申し出たとか? 貴方だって分かっているはずだ。いきなり素人が扱えるものじゃないでしょ?」
「そうだね。だから、とりあえず義勇兵に教えてもらえれば良いと思う。まあ、指定したものを砲弾に使ってもらえるだけでも、私は良いんだけど……」
アリーシャは、兄の軍服をすべて着終わった自分を鏡の中に見た。
ズボンがぶかぶかだったので、それが見た目にも出てしまうことを気にしていたのだが、ベルトをしめれば、ぴったりだ。
意外に似合っていると感じてしまうのは、よくないことなのだろうが……。
「アリーシャさん、聞いたでしょう? 今回、俺は戦いの前線に出る。貴方が戦いになど出てしまったら、俺は戦う理由を見失ってしまうんですよ。貴方は、戦いが落ち着いたら、すぐにでも都に帰るんです」
「この戦いが落ち着く……なんてことはあるのかい。セジ?」
とんと、アリーシャの目の前の扉が揺れた。セジが寄りかかったせいだろう。
「それを、俺が作るんですよ。俺は貴方には生きていて欲しいんです。俺は貴方を助けたいんですよ」
「冗談じゃない。私と君は師弟じゃないのか? 師が弟子に助けられるなんて、お粗末な話じゃないか」
「屁理屈を……。勇気だけで、解決できる問題じゃないでしょう!」
苦悩に満ちた叫びがセジの悲鳴のように聞こえた。
きっと、それはセジが今までに抱えてきた苦痛の一角だ。
アリーシャに悟らせまいとしていた心根に、今初めてアリーシャは対峙している。
……負けるわけにはいかなかった。
覚悟なんて、都を出てきたときから出来ていたはずだ。
セジと一緒に都に帰りたい。
絶対に、セジ独りを戦場に送るわけにはいかない。
――だから。
「手紙が届いたんだ」
「手紙?」
「私がキーファを旅立ってからすぐに次の手配師が召集されたらしくてね。私宛ての手紙を、ここまで届けてくれたんだよ」
「……差出人は?」
「母さんからだった」
セジが息を呑むのが扉越しにも伝わってきた。
「……俺のせいだな。リュークさんも奪って、貴方も奪うなんて、殺されても仕方ない」
「セジ。私も意外だったけれど、母さんは、恨み言なんて、まったく書いてなかったよ」
「えっ?」
「私が決めたことならば、もう何も言えないってさ」
「まさか」
「本当だ。手紙そのものを見せてもいい。母さんも父さんも、君やラティス公を責めることは間違いだと分かっていたんだ。でも、怒りをぶつけずにはいられなかった。仕方なかったみたいだね。だけど、もう、そんなことはやめたって……」
アリーシャは、手櫛で髪を梳き、一つに結った。
鏡台の上に置いた両親の手紙を一瞥して、微笑する。
「手紙には、絶対生きて帰って来て欲しいって書いてあったから、私はここで命を落とすつもりなんてない。それに、両親の手紙には、この手紙を優先的に届くように指示してくれたのは、ミザラ妃だともあった」
「母上が……?」
「そうみたいだよ。そうでなけば、私達と一緒に手配師は来たのに、すぐにまた手配師が召集されるなんて、おかしいじゃないか。最低一月はかかるものだろう?」
「そう、ですね」
セジは歯切れ悪く納得した。
アリーシャは立ち上がった。
「だから、君もちゃんと生きて帰らなければ。それに、犠牲者だってこれ以上増やしちゃいけないんだよ」
「貴方に何が出来るというのです?」
「セジ?」
外に出て行こうと、扉の取っ手に、手をかけていたアリーシャはそのままの姿勢で停止した。
「危険な目に遭ってまで、何をしようというのですか。確かにこの別荘は現時点では、安全な所です。そう簡単にサンゼも攻めては来られないはずですから。でも、絶対的に安全というわけではない。もしも、ユーディシア軍が大敗してしまったら? この別荘が敵に渡ってしまったら、貴方はどうするのです?」
「分かっている。大丈夫だなんて保証は何処にもないことくらい」
「いいや、分かってなんかない。貴方は何にも知らないままなんです。戦争がどんなに悲惨なものか分かりもしないでしょう」
「……兄さんは、死んだぞ」
「そうです。リュークさんは死んだ。リュークさんだけではない。この数日間だけで、何人もの人が犠牲になっているんです」
「そうだな。理屈では分かっている。だけど、それは君も一緒じゃないか、セジ。君だって戦争とは無縁に生きていただろう」
「俺は、ラティス公の息子ですから。知らないわけにはいかないんです。でも、貴方はまったく関係ないんです」
「私も、話題に上がっている魔女の血統だ」
「帝国が魔女を差し出せと言い出したことは、緘口令を敷いている」
「だからって、私が心穏やかにいられるわけないだろう」
「お願いだから……。頼みますから、アリーシャさん。俺の言う通り大人しくしてください。貴方には、自由に野原で薬草を摘んで、下らない薬を作って、研究をして、ただ平穏に生きていて欲しいだけなんです。俺は……」
「セジ……」
「何度も何度も、俺は言っているじゃないですか。俺はそのために、自分の気持ちも殺す決意をしていた。貴方が貴方らしく生きられるのならば、好きだとか言って、貴方につきまとって、困らせるつもりもなかった。なのに、貴方は……」
「セジ、それは……」
その話題は、話の趣旨から大きくずれている。
けれども、アリーシャはもう正すつもりはなかった。
扉を引く。
セジが押されるように、部屋の中に入ってきた。
「アリーシャさん?」
「君が大切なんだ。セジ。私には……」
「えっ?」
よほど意外だったのか、セジは何度も瞬きをしていた。
しかし、アリーシャの言動に驚いているのか、見慣れない軍服姿に驚いているのかは分からない。
「この感情が君と同じものなのかは、私にもよく分からない。でも、本気じゃなければ、わざわざ都から君を追いかけては来なかっただろう。……だから、私は、もう君と別れるつもりはないんだ。首飾りも返すつもりはない」
「アリーシャさん。それは本気で……、本心ですか?」
「この場面で、さすがに私も嘘など言わない」
「おかしな薬を飲んで、変になっているわけじゃないですよね?」
「寝不足だが、薬なんか飲んでいないよ」
「本当に?」
「しつこいな」
「アリー……シャさ」
セジがおそるおそる震える手をアリーシャの鼻先まで伸ばしてきたところで、いきなりそれを押しのけるように、ぬぅっと白い手がアリーシャの首に巻きついた。
「良かった! アリーシャさん。とうとう告白できたんですね!」
「イリスさん!?」
イリスの背後には、シーファスの冷めた笑顔も垣間見えた。
アリーシャは額に手を置いた。
……すべて二人には聞かれていたらしい。




