第5章 ③
「ついて来て下さい」
シーファスがアリーシャを促したので、アリーシャはおぼつかない足取りでシーファスの後を歩いた。
本当は、判断能力を維持するために、少しだけ休もうと思っていたし、互角の戦況であれば、実戦には少し時間を置きたかった。だが、シーファスの言葉を耳にして、アリーシャは悠長にしていられなくなった。
「指令は今日にでも軍部を押し切って、戦いの前線に立たれるでしょう。急いで貴方の望みを叶えなければ、出撃命令が下って、義勇兵もみんな出払ってしまいますよ」
シーファスが淡々とだが、断言したので、アリーシャは戦慄を覚えた。
「どうして、そんな……」
「戦いの実質的な采配を委ねていた将軍が大怪我をしましてね。誰もセジ様を止められる権力者がいなくなってしまったということもあります。セジ様は、以前から自分が戦闘に立つべきだと主張していましたし…」
「でも、貴方の言い草では総力戦ってことじゃないですか。そこまでするくらい、戦況が悪いなんて……」
「数の問題でしょうね。サンゼ帝国は広いですから。兵士の数が多いのでしょう。平原での戦いでは分の悪さで五分五分と思い込んでいたのですが、圧倒的な兵力の差を見せつけられれば、兵士たちは弱気になります。その気持ちの落ち込みが戦況にも影響している。だから、指令は総攻撃をかけて、優勢であることを味方に知らしめたいのです」
「自分が出ることで、兵士達を鼓舞しようというわけか……」
本営も兼ねているこの大きな別荘には、怪我人は運び込まれて来ない。だから、アリーシャには爆音と悲鳴のような怒声が耳の中をすり抜けていくだけで、いまいち戦いに身を置いているという実感が得られなかった。
しかし、シーファスは道すがら呼び止めた何人もの護衛を連れて、アリーシャを外に誘った。
ユーディシアの陣地とはいえ、安全という保障がないからだろう。
「アリーシャさん!」
いきなり、背中に重みが加わって、アリーシャは前のめりに転びそうになった。
寝不足の双眸に、黒のドレスはともかく、太陽の光を吸収した金髪は眩しい。
「先生……」
「イリスです」
イリスがほとんどの体重をアリーシャの両肩に乗せていた。軽いのだが、今のアリーシャには、受け止めるのが辛い重さだ。
「本当、目を離すとすぐこれなんですから。私は一応アリーシャさんの護衛として、ここに来たんですからね。置いていかないで下さい」
アリーシャは、鼻から落下しそうな眼鏡を押さえる。眠りこけていたのは、イリスの方だったが、責める気はない。
「イリスさんは、セジを護るのが役目ではないのですか?」
「どうせ、セジ様には取り巻きが沢山いるんですから、私は必要ないですよ。それより、アリーシャさんは、……もしかして、試すんですか?」
何だか不安そうだ。イリスはアリーシャが作っている物については知っていたし、協力もしてくれたが、何を試そうとしているかは、分かっていないはずだ。
「とりあえず、実験をしてみたかったんですが、いきなり実戦となりそうですね」
「で、でも、アリーシャさん。貴方、ぜんぜん眠っていないでしょう。休んだほうが良いんじゃないですか?」
「残念ながら、時間がないんですよ」
「時間って……? もしかして、まだセジ様、お一人で全軍を指揮するとか息巻いているんですか?」
「息巻くというよりも、独り決めしたといった感じです」
さりげなくシーファスは、アリーシャとイリスの会話に入ってきた。
「もう誰にも止められないでしょうね」
なるほど。
アリーシャは、そこでようやくシーファスの真意を読み取った。
シーファスも、やはりセジに危険を冒してもらいたくないのだろう。
ここでアリーシャに協力するのは、セジの力になるためだ。
表立ってセジに協力するのが極まり悪いので、裏からセジを支援しようとしている。
ミザラ妃と一緒である。
どうして、セジの周囲にいる人間は感情が読みづらいのか……。
そう思い至ると、アリーシャは頭を抱えるしかなかった。
その際たる人間が自分であることに、気付いたからだ。
膝枕していた時のセジの台詞からして、アリーシャの行動と言動は彼にとって、意味不明のはずだ。
「アリーシャさん、この人、意外に喋る人らしいですね?」
イリスが耳打ちしてきて、アリーシャは笑うことしか出来なかった。
戦地に似合わないくらい、誇らしく咲き乱れている赤い花の庭園を抜けると、小さな黒塗りの門があった。
「この裏口から行くほうが近道なんです」
シーファスは言いながら、早足でずんずんと進んだ。
裏口は、馬車が通れるようなものではなかった。人が二人通れるか否かの狭さである。
最初に訪れた時、ここを通らなかったのは、アリーシャとイリスが馬車に乗ってきたからかもしれない。
長い期間、馬車に乗りっぱなしで、七日間引きこもっていたアリーシャにとっては、辛い運動だった。
息が切れている。
しかし、シーファスも、イリスも平然としていて、数人の護衛兵よりも速やかに歩き出していた。
裏口を抜けると、世界は別のものになっていた。豊かな緑は姿を消し、見渡す限り草木の茂らない黄色い地面と、空だけの殺風景な景色が広がっていた。
「ここからは、覚悟して下さい」
シーファスは、振り向きもせずに言い放つ。
そして、今まで安閑としていたイリスの顔も突如変化した。
厳しい顔つきだった。
今まで地面を睨みながら歩いていたアリーシャは、イリスの鋭い眼差しを追った。
小麦色の土壌に、風に激しく揺れている天幕が幾つも並んでいる。
真ん中の一際巨大な赤の天幕からは、呻き声が漏れ聞こえてきた。
「義勇兵の宿営地の場所、変わったんですかね? 私達が義勇兵に会ったのは、もっと西でしたよ」
イリスは大きな碧眼を、シーファスに向けた。アリーシャには、まったく分からなかった。
少し歩いたし、ここで義勇兵に絡まれたのだと言われれば、きっと信じてしまっただろう。
「戦いが始まって、宿営の配置が変わったのですよ。貴方達が通ったいう西には、重傷者を配置しています。こちらに運び込まれた怪我人はまだ治る見込みのある者達ですよ」
「うーん。痛いと訴えられるうちが、生きているっていうことですものねえ」
「イリスさん……」
「その通りだな。お嬢さんよ」
「…………あっ」
この声は……。
アリーシャには、聞き覚えがあった。
そう……、七日前にアリーシャを魔女だと暴き、下卑た笑いを浮かべていた義勇兵。
「もしかして?」
イリスも声を上げた。
シーファスの背中で見えなかったが、既にその男は、シーファスの前にいるらしい。
「まったく、気は重いですけど、仕方ない」
シーファスは、よく聞こえる独り言を呟くと、ようやくアリーシャを振り返った。
「彼が砲兵のミゲルです」
「あん?」
小さな瞳を眇めて、ミゲルは、シーファスを見上げていた。隣に並ぶとシーファスの方が少し背は高い。その時点で、ようやくアリーシャにもミゲルの相貌が明らかになった。
そいえば、この男だったな……。
アリーシャは、特徴的なミゲルの顎の無精ひげを見て、七日前のことをすべて思い出した。
「副司令……? これはどういう了見だ?」
「貴方を紹介しただけですけど?」
シーファスは上等な鉄面皮を着用しているようだった。
その無愛想が益々ミゲルの感情に火をつけるらしい。
「はっ。意味が分からねえ。わざわざ女共を連れて来て、俺達を嗤おうとでもいうのか? それとも、何か、俺達に謝罪でもさせるつもりなのか?」
「貴方達もしつこいですね。指令からの命令で謹慎は解除されたでしょう。それとも、そんなに罪悪感を持っているんですか? だったら、さっさと謝ってください。素早くして下さいね。時間がないので」
「あーー、ちょ、ちょっと待ってください!」
アリーシャは慌てて仲裁に入った。
セジよりははるかに大人だと思っていたシーファスだったが、それはアリーシャの思い違いだったらしい。
気がつけば、騒ぎを聞いて義勇兵が集まり出している。
その中には、やはり見覚えのある男達もいた。
「ミゲル隊長! その女と再戦するんですか?」
この非常時に、ひやかしや野次が飛ぶのは、ある意味さすがだった。
しかも、ミゲルという男は隊長らしい。恐ろしいことだ。この男が隊長というのならば、義勇兵というのは、とんでもない人間の集まりなのだろう。
「そいつは面白そうだな。俺もその小さい女には肘鉄食らったしな。隊長が出るまでもないですよ。あの時は不意打ちを食らったが、今度こそ俺が叩き潰してやります」
群集の中から、幼い少年が前面に出て来て、アリーシャは面食らう。だが、正規軍と違って、義勇兵は十五歳から応募可能だ。子供がいてもおかしくはなかった。
「あれ、アリーシャさん。私、あんな小さいの相手にしましたっけ?」
「あの時、イリスさんは沢山の人を相手にしていましたからね。私もまったく覚えていませんが……」
「何だと!」
それが益々癇に障ったらしい。少年はミゲルと同じ漆黒の髪を乱して、イリスに殴りかかろうとした。
「まあ、待て。エスカル」
その首根っこを的確に捉えて、ひょいと持ち上げたのは、意外にもミゲルだった。
「お前の気持ちも分かるが、俺たちの敵は、平原の向こうの奴らだ。まあ、ここ数年で俺たちの敵もころころと変わるので、やりにくいことこの上ないのは確かだがな」
「ほう。指令の温情も忘れ、皮肉を言って気が済んだか。ミゲル?」
「…………んだとぅ!?」
「隊長~」
顔を近づけ、睨み合っているシーファスとミゲル。ミゲルは相変わらず、エスカルと呼ばれた少年兵を持ち上げたままだ。そして、一定の距離を取って、アリーシャ達を取り囲んでいる兵士達の存在。
「しばらく、黙っていることは出来ないのか」
長く時間をとられる敬語をやめて、アリーシャは一歩前に踏み出した。時間の無駄を省かなければいけない。
やがて、ミゲルの厳つい顔がこちらに向いた。
「魔女が何の用だ? 魔法でも披露して勝ち戦にでもしてくれるっていうのか?」
「魔女……?」
衆目が一気にアリーシャに集中した。
さすがに面と向かって魔女と呼ばれることは、アリーシャにも抵抗がある。しかし、ここで言い返すのも売り言葉に買い言葉だろう。
「そうだ。……私は魔女だよ。だから、こんな戦争は魔法を使って、すぐに終わらせたい」
「はあっ?」
「ときに、私の魔法には、色々と制約がある。貴方たちの助けが必要なんだ。貴方たちが使う大砲を貸して欲しい」
「お嬢さん、なかなか寝惚けたことを言うな。その言い草だと、あんたも戦いに出るような感じだが?」
「当然、大砲の前にはいるつもりだ。成果が出なければ何の意味もない」
「小娘が、ふざけてんじゃねえよ!」
捕らえていたエスカルをその場に振り落として、ミゲルは怒声を上げた。
「戦場では常に死がついて回ってる。あんた方が想像しているような綺麗なもんじゃねえんだよ。何も知らないで、のうのうと都で生活していた魔女さんが一時の気まぐれで参加するもんじゃねえ!」
「…………何だ」
アリーシャは口元を綻ばせた。
「結構、人情家なんだな。貴方……。ミゲルさん……か」
「な、何?」
「アリーシャさん?」
イリスがおずおずと、アリーシャの肩に手を置いた。
「心配ないですよ。イリスさん。私を叱りつけるっていうことは、この人は見ず知らずの私の命も惜しんでくれているってことでしょうから」
「うっ」
ミゲルが低く呻いた。
「俺はそういうつもりじゃねえし。大体、そのドレスのひらひらは何だ? 戦地にそんな格好で来るんじゃねえよ」
「そうか。……そうだった」
すっかり失念していた。
動きやすくて目立たない灰色のドレスだったが、場違いなのは言えている。
勢いに動かされて、アリーシャはここまで来てしまったが、それは軽率な行動だったのだ。
「では、私がちゃんと義勇兵に入隊するつもりで、相応しい格好をしたら、貴方は大砲を貸してくれるのか?」
「だから、そういう問題じゃないだろう!」
本気かどうかは分からない。だが、怒りにまかせ、ミゲルが大きな拳を宙に振り上げた。
「危ない!」
そして、アリーシャを庇うように、イリスが前に出た。
――瞬間。
「―――副指令!!」
群集をかきわけて、紺色の軍服姿の青年が走ってきた。
軍服の色は、義勇兵と正規兵とで分けられているのだから、この青年は正規兵なのだろう。
「副指令! 指令がお呼びです! そ、それと、そのそちらの女性の方達も……」
「……セジか」
シーファスは正規兵の青年には声をかけることはなく、すぐさまアリーシャに目を向けた。
「こうなることは、予測の範疇だったので、早々と貴方を引っ張り出したのですが……」
「そうでしたか。私は何も考えてなかった」
「お嬢さんよ。そんなに俺達を動かしたいのなら、指令の命令でも、もぎとって来いよ。そしたら、あんたの望みくらい叶えて……。いててててて!」
「アリーシャ嬢」
薄ら笑いを浮かべているミゲルの腕を捻り上げると、シーファスは小首を傾げた。
「一体、これから、どうするんです?」




