第5章 ①
どうせ目覚めるのならば、アリーシャに起こしてもらいたい。
起きているのに、眠ったふりをして、アリーシャがどんな手で自分を起こしてくれるのか、セジは見届けるのだ。
こんなに嬉しいことはないだろう。
分かってはいる。
実際、そううまくいかないことは……。
だけど……。
「起きてください!」
無遠慮に大きな手がセジを激しく揺さぶった。
もう、何処をどうとっても、この人物がアリーシャでないことは明らかだ。
「何だ?」
セジは、寝起きの悪さを、そのままぶつける。
よく通る低い声は、いっそ忘れてしまいたいセジの従者・シーファスのものだろう。
また起きた途端、この男のお小言を聞くのか。
最悪だった。
うんざりしながら、セジは目を開ける。
……と。
全身が石の錘を括りつけたかのように、重く感じた。
特に、頭が重い。
だが、発熱している時の朦朧とした重みではなく、熱が下がった後の虚脱感を主とした重さだった。
前頭部を押さえながら、ゆっくり上体を起こすと何かがセジの肩からするりと落ちた。
肩掛けのようだ。
…………女物。
そこで、思い出した。
昨夜、アリーシャがここにいたのだ。
そして、セジはアリーシャに…………。
「うわっ!」
ぼんやりと昨夜の記憶を辿っていると、目の前に無愛想な男の顔があった。
シーファスは、相変わらず小さな顔に尊大な表情を浮かべていた。
「しっかりして下さい。指令!」
「起き抜けにお前の顔を見たんだ。しっかり出来るはずがないだろう」
「そのくらいの口が利けるのならば、大丈夫なのでしょうね」
「…………シーファス?」
シーファスが皮肉の混じらない笑みを浮かべたので、セジは驚いた。
逆に怪しい。
急いで、頭を切り替えると、真率に聞き返した。
「何があった?」
「どうやら、小競り合いではなくなりそうですよ。敵が領内に侵入しました」
「…………そんな」
セジは勢いだけで起き上がった。
正直、まだ全快とは言いがたいが、休んではいられない。
それに、ここ最近は、ずっとこの調子なのだ。
「……で、戦況はどうなっている?」
「聞こえませんか?」
「…………あっ」
気がつかなかった自分を恥じた。
地の底から沸きあがるような怒号が、津波のようにこちらに迫って来るのを感じた。
風でもないのに、窓が揺れているのは地響きのせいだろう。
素早く窓の外を覗き込むと、砂煙の先に、こちらに移動を始めている敵の姿を視認することが出来た。
サンゼ帝国は、正攻法でこちらに攻めてくるようだ。
しかし、考えてみれば平原での戦争だ。ユーディシアの背後に回らない限り、他に攻め込む方法もないはずだ。
「まったく、こんなに騒がしいのに、指令は起きないんですからね」
そう言われると、返す言葉もなかった。
まさか、アリーシャが作った薬のせいだとは言えなかった。
あの風邪薬には、睡眠効果もあったらしい。
「交戦中だということは分かった。――で、戦況は?」
「そりゃあ、いきなり攻め込まれたんですから、こちらの方が分は悪いに決まっているじゃないですか。スティリアも援護には来てくれるそうですが、やる気はないようですし」
当然だろう。
つい最近まで、ユーディシアは、スティリアに刃を向けていたのだ。
昨日の敵を命がけで助けるほど、スティリアはユーディシアに義理は感じていない。
だからこそ、サンゼ帝国は、この戦いに勝機を見て、攻め込んで来たのだ。
こうなることは、分かり切っていたはずだ。
だが、あまりにも睨み合いの期間が長すぎた。
このまま冬になって、動けなくなり、来春まで戦争は起こらないのではないかと、セジは感じたくらいだったのだ。
何故、今更?
そんな気すらした。
「今、槍隊と、騎馬隊が前衛に出て戦っています。義勇兵は後方支援という形で、大砲や、弓を担当してもらっています」
「そうか……」
貴兵舎できちんと兵法を勉強した貴族達の方が兵力にはなる。
貴族の子弟を捨て駒にしたくないというもっともな考え方もあるが、実際闇雲に戦うだけの義勇兵を前面に押し出せば、あっという間に陣形は崩れてしまうのは確かなのだ。
「昨日の義勇兵、ミゲルとエスカルだったか? 彼らはまだ謹慎させているのか?」
「えっ?」
刹那、シーファスは鋭い赤茶の瞳を大きく見開いた。
「シーファス?」
この男らしからぬ態度に、セジが眉根を寄せると、すぐに回答が得られた。
「彼らは謹慎中のはずです。貴方の言いつけどおり指示しましたから。戦争が始まったとはいえ、義勇兵の兵力をいきなりあてにするほど、軍も落ちていないはずですからね」
「…………いい」
「はっ?」
「彼らは無罪放免だ。個人的には気に入らんが、腕はいい。演習の時の様子を見ていたが、大砲を撃つときの動きは素早く無駄がない。平民とはいえ、戦いの経験は長いのだろう」
「はあ……」
「どうした?」
「いえ」
短く否定されると、更に気になるが、しかし続きを促しているほどの時間もない。
「くそっ」
苛立ちをそのまま吐き出して、セジは、執務室を出て歩き始めた。
シーファスが適度な間を保ちながら、後ろを追いかけてくる。
爆音で床が揺れて、一瞬よろめいたが、構わず、軍人が集っているだろう地下の部屋を目指した。
前兆もあったのに、本格的に攻め込まれたことは悔しい。
けれども、もっと腹立たしいのは、セジだけが置き去りになって、出撃されたことだ。
セジが前面に出なければ意味がないではないか。
犠牲を払っても戦うことを望んだのは、セジだ。
しかし、そんな感情を一瞬で吹き飛ばすほどの現実に、セジは行き当たった。
螺旋階段を使って、一階に下りた時だった。
一階の小部屋を、アリーシャとイリスにあてがったのを、思い出したのだ。
「……おい、シーファス!」
「今度は何です?」
「アリーシャさんと、イリスは帰ったんだな」
無論、否定は許さないという口調で訊いた。
戦争がとうとう始まってしまった。
よりにもよって今日だ。
重要なのは、無事に彼女達がこの危険な土地から去ってくれることだ。
「……帰れる、はずがないでしょう」
「………………何だと?」
殺気を帯びた目で睨みつけると、嫌がらせのように溜息が返ってきた。
「敵が攻めてきたのは、陽が昇る前です。夜も明けないうちに、ご婦人方を悪路に馬車で帰すような真似はしませんよ。ちゃんと朝が明けてから返すのが普通でしょう」
そうかもしれないが、そんな理屈では割り切れない感情がセジを支配していた。
これで、アリーシャにもしものことがあったら、わざわざ戦地にまで出張ってきたセジの覚悟は意味がない。
一階の奥に足が向きかけたセジは、しかし未練を振り払うように、軽く首を振った。
今、セジがしなければならないのは、軍部に顔を出し、少しでも自分の影響力を確保することだ。
セジに立場がなくなれば、アリーシャだって守れなくなる。
「行くぞ。シーファス」
「えっ?」
「早くしろ」
「何故?」
「軍議に決まっているだろう?」
「アリーシャ嬢に、会われないのですか?」
「彼女は元気なんだろう?」
「イリス嬢に、昨夜貴方と何があったのか聞かれて、辟易としていましたが」
「それは、好都合だ」
「はっ?」
「行くぞ」
うながすと、慌ててシーファスは追いかけてきた。
シーファスが変だ。
きっと、開戦の影響だろう。
生死がかかっている戦いに、気が動転しないほうが変だ。
せめて自分だけは……。
セジは、強く拳を握り締めた。




