第4章 ④
――嘘だったのか。
騙されたのか、騙されるべくして騙されたのか……。
セジが冷たい理由がアリーシャにも分かった。
体調も良好で、都に手紙なんて送った記憶すらないのなら、どうしてアリーシャがこんな所までやって来たのか分からないはずだ。
一体、何をしに来たのか?
……というのが本音だろう。
しかも、アリーシャの飲ませた薬が効いていれば、彼のアリーシャに対する思いも消えているのだから、迷惑以外の何物でもないはずだ。
「…………ああ」
落ち込む。
そして、投げ出してきた現実の重さに、打ちのめされていた。
書き置きは残してきたものの、カナテも両親も心配しているだろうし、怒っているはずだ。
今回ばかりは、殴られる程度では済まされないかもしれない。
勘当されてしまったら、どうするのか……。
――それに、勉強はどうする?
聖院は長期休暇に入っているだろうが、宿題は出ているはずだ。
勉強道具の一切を、アリーシャは持ってこなかった。
鞄の中は、乾燥させた薬草で一杯だ。
一体、自分は何をしたかったのだろうか。
夜が深まっているのに、まだセジ達が舎営している貴族の別荘に着かないのも、憂鬱の原因の一つだった。
もしや、セジは、シーファスに命じてこのまま馬車を都に向けろと命じているのではないだろうか……。
外が暗いので、アリーシャには何処を進んでいるのか、確認する術もない。
「まあ、セジ様を一目見られて良かったじゃないですか」
「イリスさん……」
「だって、アリーシャさんは、セジ様が好きなんでしょう?」
「…………私は」
正直分からない。
セジは、大切な存在だ……と思う。
だけど、 アリーシャがセジを好きだったとして、だからって、どうしようもないではないか。
今、重要なのはアリーシャの感情などではないのだ。
「イリスさん、目的をすりかえていますよ。貴方はお妃様の意向を叶えるために、ここに来たのではないですか?」
「突き詰めれば、そういうことになりますかね」
「私は、この首飾りをセジに返そうと思っていたんです」
「えっ?」
アリーシャは、服の中に埋もれている首飾りを引っ張り出した。
中心を彩る石は、今日も目映い輝きを放っている。
――チェイン。
絆の石だと、イリスは言った。
何度か貰ってしまおうかと思ったけれど、先ほど再会したセジを目の当たりにして、アリーシャは思ったのだ。
「やっぱり、これはセジに返すべきだ」
「返すのですか?」
「だって、こんな高いもの。私が持っているべきじゃない……でしょうから」
「求婚を断ると?」
「どうして、そういう話になるんですか?」
イリスは、これ見よがしに深く溜息をついた。
「アリーシャさん、まさかとは思いますが、本当に分かっていないんですか? それとも、知らないふりを貫いている? あの表現で分かりませんでしたか? 男性が女性に愛情の形として、贈る「絆」の宝石といったら、求婚以外ないでしょう」
「…………それは、本当ですか?」
女の子という概念から、自分が外れていることは重々承知しているが、まさか、そんな意味が宝石にあったなんて、思いもしなかった。いや、色恋に関しては鈍感だと自覚があるアリーシャが思い至るはずもない。
「古代は、男同士の友情とかでもその石を贈ったらしいですけど。現在、この石を使う時は、求婚の時がほとんどですよ。アリーシャさんが照れて怒り出さないように、遠回しに説明したんです。察して下さい」
「照れて、怒り出すって……」
怒り出す予定はなかったのだから、早めに説明して欲しかった。
アリーシャは、両手で顔を覆った。
益々、返さなくてはいけない。
表立って、この首飾りをしたこともないし、家族にも、していることは隠していたが、もしも、アリーシャがこの首飾りをしていることがばれたら、周囲の人間は、アリーシャは結婚間近だと誤解することだろう。
本当、あまりの無知に我ながら閉口して、顔を上げることもできない。
「私はてっきり、アリーシャさんがセジ様の気持ちに応えるために、ここまで遥々やってきたんだと思っていたんですが……」
「そうですよね。傍から見たら、それ以外考えられないですよね」
「えーっと……。アリーシャさん。もしかして、違うんですか?」
違うというより……。
……セジとは、何もないのだ。
抱き締められたのは、最後に会った舞踏会の一度きり。
それ以上、二人の間に何かあったわけではない。
「うわっ!」
考え込んでいるアリーシャを驚かすように、馬車が大きく揺れて止まった。
アリーシャは前に突っ伏しそうになったところを、イリスに抱き抱えられた。
「失礼」
馬車の扉が乱暴に開く。
無愛想を絵に描いたような男、シーファスが闇の中に佇んでいた。
「この辺りの夜道には今だに慣れなくて。申し訳ありません」
「着いたんですか?」
イリスが尋ねた。
「着きましたよ。車寄せがないので少し歩いて頂きますが」
シーファスはイリスの手を取り、地面に降ろすと、アリーシャにも手を差し伸べた。
うながされるままに、シーファスの手に手を乗せて、整地されている地面に下りる。
そこで、ようやくアリーシャの目も暗がりに慣れてきた。
白い影が視界の真ん中に浮かび上がる。
巨大なそれこそが平原の真ん中に立つ、貴族の別荘なのだろう。
都に点在している貴族の屋敷よりは、見劣りするが、それでも敷地の広さには溜息が出た。
一体、アリーシャの家が幾つ入るのだろうか……。
アリーシャは、呆然となりながら、シーファスの後を歩いた。
シーファスという男が何だか怖くて、アリーシャは、行き先を訊くことが出来なかった。
だが、擦れ違った兵士達には「指令のもとに行く」と伝えていたので、どうやら、セジのもとに案内してくれているようだ。
「指令」というのがセジを示す役職だということは、先ほどの義勇兵との乱闘で、アリーシャにも分かっていた。
短い石段を上ると、大きな正面玄関が見えてくる。シーファスが顔を見せると、二人の警備兵は敬礼しながら横にずれた。
重そうな扉を開けたシーファスは、アリーシャ達を中に招いた。
柔らかい赤絨毯をおそるおそる踏みしめ、廊下を進むと、中央に大理石の螺旋階段が出現した。靴音を響かせながら、シーファスはぐるりと階段をのぼり、アリーシャとイリスが到着するのを待って、突き当たりの部屋の戸を軽く叩いた。
「イリス嬢、アリーシャ嬢をお連れしました」
「……ああ」
短い声は一瞬、誰だか分からなかったものの、成り行きからいって、セジ以外考えられない。
扉を開けると、案の定セジが部屋の中央を陣取っている大きな机に向かって、書きものをしていた。
やはり、セジはアリーシャ達よりも一足先に宿営地に着いていたらしい。
アリーシャとイリスは、都に強制送還はされなかったようだが、それでも、セジの機嫌が悪いのは変わっていないようだった。
アリーシャが部屋の中に入っても、セジはアリーシャに一瞥もくれなかった。
……イリスを見ている。
「確か……。名前はイリスだったかな。母上の護衛は辞めたと聞いていたが……?」
「今回は、アリーシャさんの護衛です」
にっこりと笑って、イリスはアリーシャを前に押し出したが、セジは反応すら示さなかった。
「遅くなってしまいましたが、わざわざキーファからこんな辺境の地まで……。ご苦労様です」
そして適当に挨拶をすると、書き留めていたものを、投げやりにイリスに差し出した。
「これを、母上に。俺は健康そのものだったと伝えておいてくれ」
「セジ様。しかし……、ミザラ様の御心も察して下さい」
勢いで受け取ってしまったイリスは、はっとして書状をつき返した。
「セジ様。このまま膠着状態が続いていたら、貴方様がここにいる意味もありません。ここは一度都に戻られて、英気を養われてから、再び出陣されたら、どうなのでしょう?」
「……冗談じゃない」
セジは鋭い眼光をイリスに向けた。
「貴方がたはまだご存知ではないかもしれませんが、昨日サンゼの小隊がこちらの領地に攻め込んできました。幸い小競り合い程度で、サンゼの方も本格的に動いては来ませんでしたが、これが呼び水になって、本格的な戦闘が始まるでしょう。スティリアとも話し合って、共同戦線の作戦準備をしているのです」
「…………嘘」
アリーシャは、思わず声を上げた。
まったく気付かなかった。
道中で色々と噂を仕入れていたが、耳に入るのは、両軍共目立った動きはなく、このまま戦いにもならないのではないかという、希望的な憶測ばかりだった。
アリーシャも、うまくはいかないと悟りつつも、そうなれば良いと、心の底では思っていたのだが……。
しかし、今。
セジだけをとらえていた瞳を、彼の背後の窓に移すと、遠くに小さく、けれども無数に灯っている松明が目に入った。
あれがサンゼの軍営なのだろうか。
敵……がいる?
間近の敵と、毎日この部屋で向き合っているセジの緊張感は、半端でないだろう。疲れて当然だ。
「分かったでしょう。アリーシャさん」
セジは、相変わらずアリーシャから目を逸らしていた。
「確かに、今まで兵士達は戦えない鬱憤がたまっていましたが、先程、義勇兵が貴方がたに絡んだのは、闘争心が爆発した結果です。彼らは戦いたいんですよ。貴方がたが来るという報せを聞いて、何とか今回は俺も間に合いましたが、あと一歩遅れていたらどうなったことか分かりません。あの辺りは、義勇兵の野営の近くですし、貴方がたが連れ込まれていたら、俺ではどうにもならなかったかもしれない。これは敵国との戦い以前の問題なんですよ。あんな野獣の中に、貴方がたのような女性がいたら、どういう結末を招くことか……。分からないわけではないでしょう?」
アリーシャは沈黙した。
イリスも言葉を返さない。
森閑となった部屋の中で、セジがめくる書類の音だけが響いていた。