第4章 ②
ほとんど旅支度もせず、自宅に置手紙一枚だけを残して、慌しく出立したアリーシャにとって、ユーディシアの都キーファから、ラクス大河にかけられた大橋を渡るまでは長かった。
とにかく、友人すら少ないアリーシャが毎日見知らぬ人間と言葉を交わさなければならないのだ。
国王直属の手紙の配達を行なう職名を手配師と呼ぶらしい。
臨時に指名された中級貴族の若者は二人で、アリーシャとイリスの乗っている馬車の前を駆けている。
正直、知らない人だし、身分というものに対して無頓着なアリーシャにとっては、愛想笑い一つも拷問だった。
助かったのは、イリスがいたからだった。
誰にでも考えずに声をかける事が出来るイリスは、アリーシャの口下手を適当に庇ってくれた。
おかげで、アリーシャも何とか日常会話が出来る程度には、彼らと親交を深めることが出来た。
初日に抱いた恐怖心を考えたら、途中で引き返さずに済んだのは、自分でも奇跡だと思えた。
「もう少しで、アナベア平原に着きますよ」
沈んでいく残照を窓越しに眺めながら、イリスは鼻歌交じりに告げた。
キーファから南下して、景色がずいぶんと変わっている。
そろそろ着くのではないかと、アリーシャも予感していたが、間違っていたら、さすがにうんざりしそうなので、道程のことはなるべく考えないようにしていたのだ。
「そうですか?」
「手配師が言っていましたよ。そろそろじゃないかって……」
「イリスさんは、アナベア平原に行くのは初めてなんですか?」
アリーシャは隣に座っている、イリスを凝視した。
相変わらず、妹と称しても良いほどの童顔を、大きな瞳が際立てていた。
イリスは素っ気無く、返答した。
「当然、初めてですよ。私の過去の仕事は、ミザラ様の身辺警備ですからね。何が悲しくて、お妃様がこんな辺境な場所まで来なければならないんです?」
「それは、そうだけど……」
戦場が近くなるにつれて、不安がこみ上げてくる。イリスを信じてないわけではないが、彼女には、護身術を習っていただけで、実戦を見たわけではない。万が一、戦いが始まってしまっていたら、どうしたら良いのか、アリーシャには想像を描くことが出来なかった。
大体、自分より体の小さなイリスが強いのだろうか……。
「アリーシャさんって、同行してくれって頼んできたくせに、私のこと信用していないですよね?」
「いや、そういうつもりじゃなくて……」
言い当てられて、どきっとした。
とっさに、アリーシャは否定したが、まったく意味のないことだったに違いない。
「…………ごめんなさい」
「まあ、無理もないことですけど」
イリスは馬車の座席に預けていた体を、ひょいと起こした。
「アリーシャさん。見て下さい」
「えっ?」
イリスは自らの胸元を指差した。
子供が無理に大人に近づこうとしているような、ぶかぶかの黒のドレス姿に、今になってアリーシャは気付いたのだが、まさか、そのままドレスの胸元を、イリスが恥じらいもなく、自らの手を突っ込むとは、予想もしていなかった。
「ほら」
「はっ?」
胸を見ろと、そういうことなのだろうか?
しかし、イリスが見せたのは胸元ではなく、胸元から引っ張り出した皮製の財嚢だった。
「財布?」
イリスはアリーシャの問いに肯定することなく、無遠慮に中身を覗いた。
「意外に少ないですね。中級貴族だっていうから、もっと持っているかなって思ったのに」
「な、何?」
「こっちはどうだろ?」
イリスは、もう一つ大きな財嚢を取り出した。
「先生……。まさか?」
つい……というか、反射的に、先生と呼んでしまった。
いや、この女性は、つい先日まで道徳を説いていた教師だったはずだ。
「えへっ」
「えへっじゃないっ!」
アリーシャの動揺を一気にかきたてるように、イリスは舌を出した。
「結構、スリって簡単な職業なんですね。手配師は危険な仕事だから、緊張感を持って彼らは励んでいるかと思ったのですが、ちょっと近づいただけであっさりと取れました」
「いや、先生。それは……」
アリーシャは怒鳴ろうとして、自分の眼鏡が曇っていることに気付いた。
一呼吸置いて、眼鏡を取り、布で拭くと、冷静になることが出来た。
馬車の進みも、穏やかだ。
…………落ち着こう。
この人は、先生だ。そう言い聞かせなければ、やってられない。
「それ、頼むから、あの二人にちゃんと返してあげてください。困るでしょうから?」
「一応、往復に足る金額は残してきましたけど?」
「そういう問題じゃなくて」
「はいはい」
イリスは投げやりにうなずくと、馬車の窓枠に腕をついて言った。
「でも、アリーシャさんは私のことあまり信用していないようなので、少し信用してほしかったのです」
アリーシャは黙り込んだ。
そんなことを言われても困る。
「私、ミザラ様が不憫でならないんですよ」
「ミザラ妃を、先……、貴方がですか?」
「はい」
「どうして?」
「ミザラ様は不器用な方です。セジ様が心配で、だから元側近だった私を貴方に同行するように仕向けたのです。息子が療養中だと私に言って……。そうでなければ、こんなふうに首尾よく、馬車に乗ることも、手配師の中に紛れ込ませてもらうことも出来ませんよ。今頃、セジ様のもとには、私が向かったという報告が入っていることでしょう」
「……つまり、お妃様はセジを心配しているということなんですか?」
「絶対的に、表には見せないお方ですが、毎晩眠れないくらい心配されています。そして、セジ様を都に帰すことが出来るのは、アリーシャ様をおいて他にいらっしゃらないと考えてらっしゃる」
「…………本当に?」
つい、本音で尋ねてしまったら、イリスに睨まれた。
「ミザラ様があのように頑なになられたのは、ラティス公のためなのですよ」
「はあ?」
「ミザラ様は、若い頃は明朗で活発な姫君であらせられたそうなのですが、ユーディシアに嫁いでいらっしゃって、実家のサンゼ帝国が無理難題をユーディシアに要求するうちに、今のように、変わってしまわれたのです」
……それは、実話なのだろうか。
対面した時のミザラの氷のような表情からは、そんな面影など微塵も感じなかった。
「でも、ラティス公はミザラ妃以外、側室は取られていないし、いつも二人でいるから、そんなに悪い仲でもなさそうだけど?」
「アリーシャさん、分かりませんか。ミザラ様は心の底からラティス公を慕っていらっしゃる。だから、実家の無理難題が許せないのです。自分がユーディシアにいることによって、ラティス公の判断を迷わせてしまうのなら、自分などいないほうが良い。嫌われたほうがましだと、お考えになっているのです」
それは、思いもよらない話だった。
ああいう性格なのだと、アリーシャは勝手に苦手意識だけを抱いていた。
もしも、イリスの言うことが事実ならば、とんでもない誤解だ。
奨学金のことで、わざわざアリーシャのことを呼びつけたのも、セジをアリーシャに迎えに行かせたかったから?
……でも、ミザラ妃はアリーシャを前にして素直になれなかった。
そして、セジの急変を知ったミザラ妃は、いても立ってもいられなくなって、イリスを使い、アリーシャを焚き付けたのか?
「…………まさか」
そんなはずがない。
そこまで、ミザラ妃が自分をかっているとは思えない。
「孤児だった私を引き取って、養育して下さったのはミザラ様です。私は女中のようなことは出来なかったので、力でしかミザラ様のお役に立つことは出来ませんでしたが、私にとってミザラ様は母のような方です」
「……そうか」
イリスがこれほどまでに、慕っているミザラ妃だ。
セジを嫌っているはずがないではないか。
「分かりましたよ。イリスさん。私は愚かだな。今更になって知ることばかりだ。自分の気持ちだけで精一杯で、相手のことなんて考えようともしなかった」
アリーシャは苦笑した。
「でも、イリスさん。その財布はちゃんと返してくださいね」
「えっ……。結局そこなんですか」
イリスも苦笑して、お互いに大笑いした。
…………その時だった。
がたっ
――と左に大きく傾いでから、馬車が停まった。