第3章 ③
妃の明かした真相に、アリーシャは揺れていた。
まさか、自分のためにセジが動いたとは思えない。勿論、国益を優先したのだろう。
だけど、その決断の材料に、ほんの少しでも自分が関わっていたとしたら?
恐ろしかった。
眠れなくなるほどに……。
妃は、だからどうしろとか、アリーシャに命令はしなかった。
そのまま何事もなかったかのように、城に帰って行った。
それが一番不気味だった。
まだ、アリーシャのせいで戦争にまで発展したのだと、罵ってくれたほうが良かった。
命に代えても、セジを連れ戻して来いと命じられたのならば、アリーシャは覚悟を決めて戦場に赴いただろう。
でも……。
その後、アリーシャの周囲には何も起こらなかったし、起きなかった。
今日も空は青く、都は穏やかだ。
……ただ、少しずつ知り合いの男性達が去って行き、セジがいないだけだ。
「この世の終わりのような顔をしているますねえ?」
「……先生?」
授業終了後、教室から出て行こうとしていたアリーシャにイリスが声をかけてきた。
先日とは違い、今日は数人の生徒が顔を出したので、教本通り、護身術の授業が行なわれた。
気の入らないアリーシャは練習相手に手を後ろに絡め取られてしまって、痛みに半泣きになったのだった。
「護身術の授業に疲れたって、顔じゃないですねえ?」
「そこまで、疲労感漂っていますか?」
「目の下の隈が特に……」
イリスに指摘され、目の下を引っ張ってみたものの、どうにかなるものでもない。
「もしかして、セジ様が気になるんですか?」
「うわっ!」
アリーシャは、周囲を見渡して、己の口元に人差し指を置いた。
磨き上げられた飴色の床は静寂を湛えていて、死角になっている教室の前後に二本ずつ立っている真鍮の柱には、人が隠れているような気配はなかった。
幸い、アリーシャは舞踏会でセジにふられたという話になっているらしいが、人のいる場所で、セジの名前は出したくない。
「そんなに、慌てなくても……」
「困ります。セジに興味のある女の子が何処に潜んでいるかなんて、分からないし」
「……そういえば、噂によると、アリーシャさんはセジ様を振ったんだとか?」
「わっ、私が!?」
「違うんですか?」
「違いますよ。私がセジ……様に振られたっていうのが正しい噂で……」
「でも、噂でしょう?」
「…………噂です」
「実際はどうなんですか?」
イリスが大きな瞳をきらきらさせて訊いてくる。アリーシャは急激に疲労感に襲われた。
「話すと、とてつもなく長くなると思います」
「うーん。じゃあ、いいです」
意外に、あっさりイリスは退くと、自分から話しかけてきたくせに、難しい顔で沈黙した。
ドレスと同じ細長い緑色の耳飾りが教室に差し込む夕陽にきらりと反射した。
「先生?」
自分と比べて、頭二つ分低いイリスを、アリーシャが見下ろすと、下の方からあー、とか、うーとか、謎の唸り声が落ちてきた。
そして、イリスはやがて観念したようにアリーシャの肩にしっかりと手を置いた。
「迷ったけれど、もう疲れちゃいました」
「先生、迷っていたんですか?」
奇声をあげているようにしか、思えなかったのが正直なところだった。
「そのセジ様についてなんですけど……」
「セジに何かあったんですか!?」
身を乗り出し、イリスの懐に掴みかかろうとしたアリーシャの腕を、イリスは両手で掴んだ。
「アリーシャさんの方が、もっと周囲を警戒したほうが良いんじゃないんですかあ?」
「…………あ」
反省して、口元に手を当てるアリーシャを見下ろして、イリスは桃色の鮮やかな唇を綻ばせた。
「これは、聞いた話ですが、セジ様、戦地で療養中らしいですよ」
「何……?」
アリーシャは刹那、鈍器で後頭部を殴られたような衝撃を受けた。
セジが苦しんでいる。
その痛みが遠い戦地から、アリーシャの体に伝わってくるようだった。
「先生。それは本当ですか!?」
「本当ですよ。だってミザラ様から聞いたんですから」
イリスは暢気に欠伸をしている。
静かな微笑に、アリーシャは戦慄すら覚えた。
「どうして、先生は笑ってられるんですか。今、セジは戦場で……?」
「だって、セジ様が死んだって報告は受けていませんよ。これで戦線から離脱してくれたら、セジ様の面子は立つし、命の心配をする必要はなくなるじゃないですか?」
「…………そんな。セ、セジは、何がなんでも残りますよ。離脱なんてとんでもない。昔から一度決めたことは絶対に曲げないんです。こちらが腹の立つくらい……」
「そう……なんですか?」
アリーシャは、再び周囲をうかがってから、「はい」と、小さく頷いた。
「先生? セジは怪我をしているんですか? それとも病気なんですか?」
「それは、分かりません。私も直接現地から届いた手紙を見たわけではないですから。でも、ミザラ様もアリーシャさんと同じことをおっしゃっていましたよ。息子は自分の決めたことを意地でもやり遂げようとするから厄介だって」
「お妃様が?」
ミザラはアリーシャにとってよく分からない存在だ。
アリーシャにもセジにも、冷たい言葉しか寄越さないのに、アリーシャには、セジが都を旅立った理由を話した。
アリーシャを苦しめたかったのか。
そういうわけではないと、アリーシャは何となく感じている。けれど、分からない。
ミザラがどういう意図で、そんなことを口にしたのかなど……。
「……まっ。とりあえず、私が言いたかったのははそれだけです。安心してください。戦地も睨みあいの状態が続いているようなので、すぐに、アリーシャさんが恐れているような泥沼の戦いに発展することなんて、ありえませんよ」
「でも、先生。 そんなの、分からないじゃないですか。いつ、何が起こるかなんて!」
――馬鹿だ。
アリーシャは自分自身に、呆れていた。
イリスは、狼狽しているアリーシャを慰めようと温かい言葉をかけてくれているのだ。
……それが分かっているのに、どうしてアリーシャは反発してしまうのだろう。
「すいません」
「何を言っているんですか。別に構いませんよ。私の勝手でアリーシャさんにセジ様のことを話してしまったのです。アリーシャさんが心配で仕方ないって顔をしていたから……」
「………………私は」
「ほらでも、セジ様、命には別条ないようですし、アリーシャさんはしっかり待っていれば良いんじゃないですかね。生きていれば、また会えるものです」
「でも、療養って……? 怪我だって黴菌が入ったら、取り返しがつかないし。敵の矢が掠めたとかだったら、毒の心配もしなければいけない。それに、病気だったら尚更……、伝染病の疑いはないのか、味方に毒を盛られていないか、その土地の水は体に合っているのかどうか……、調べなくちゃいけません」
「アリーシャ……さん?」
アリーシャは、興奮して首飾りを握りしめた。
「それ」
イリスが緑色の瞳を、夕陽の色に染まっている宝石に傾けていた。
それは、セジから舞踏会の夜に渡されたものだ。
部屋に置いていてもなくしそうなので、アリーシャは毎日つけるようにしていたのだ。
これは、セジからの預かり物なのだ。なくすわけにはいかないと、言い訳のようにして大切にしていた。
普段は、長い襟首の下に隠しているのだが、今だけは外に出して触れたかった。
「チェインですね……」
「えっ?」
「その宝石の名前です」
イリスは、宝石の値踏みでもするように目を細めた。
「聞いたことはありましたが……、それが?」
「薬草は研究しているのに、鉱物のことは知らないんですか。チェインって言ったら、一度は女の子が憧れる宝石ですよ」
「そう、なんですか……」
なるほど。やはり、アリーシャは普通の女の子ではないようだ。
鉱石よりも、ユーディシアに生息する草花の方に興味があるのだから……。
「さては、もらったんですね?」
「どうして、分かるんです?」
「宝石の名前を知らないようなアリーシャさんが自分で買うはずがないじゃないですか。チェインっていうのは、「絆」を差す古代のガルト語で、男性が女性に贈る愛の宝石なんですよ」
「…………絆?」
アリーシャは雷に打たれたように、刮目した。
昔、セジとの間に感じていた確かな絆。
それはもう切れてしまったと、アリーシャは思っていた。
…………けれど。
セジは、アリーシャとの絆を信じていたのだろうか。
話すこともなくなっていた六年もの間、ずっと……。
だから、この石をアリーシャに託したのだろうか。
すべては、アリーシャの作った薬のせいだと思っていた。
薬が見せた幻だったのだと、自分自身を納得させようとしていた。
いや、アリーシャが思い込もうとしていただけなのか……。
「…………先生」
アリーシャは、両手で宝石を強く握ると顔を上げた。
もう、迷いはなかったし、今を逃したら一生後悔すると思った。
「戦況はいまだ膠着状態で、動きはないとおっしゃっていましたが、それは確かなんですか?」
「派手な戦いはまだ起こってないって、聞いています。やはり、サンゼもいきなりユーディシアが敵に回ったから、驚いているみたいで」
「それに。…………これから、もっと寒くなる」
「アリーシャさん?」
「寒さは、戦争には厳しい。特にユーディシアよりも南に位置しているサンゼ帝国や、スティリア王国は寒さを嫌う。昔起きた戦争でも、冬なった途端、両国共に引き上げたという事例が何回も存在している。雪でも降ってしまえば、戦いにはならない」
「えーっと。アリーシャさん。貴方、もしかして?」
イリスの瞳が大きく見開かれた。
「――行く、つもり?」
「先生だって、今の話を私にする時点で、その可能性を考えなかったわけじゃないと思いますが?」
「いや、でも……、その。アリーシャさんは、分別のある人だと私は思っていたんですけど?」
「残念ながら、城から大砲を盗んで壊したことがあるような人間ですよ。私は……」
「はっ?」
アリーシャは、思い出していた。
悪戯が発覚して、父親に殴られたアリーシャの手を握って泣き続けたセジの姿を……。
今も、アリーシャの知らない所で、独り傷ついているかもしれない。
「幸い、これから長期休暇に入る。戦争の影響で試験は学期明けになったし、何とかなるでしょう」
「奨学金、もらえなくなるかもしれませんよ」
「この戦時下に、いつまで奨学金がもらえるかなんて分からないじゃないですか?」
「まあ……」
イリスは、猫のように大きな碧眼を細めた。一応、心配してくれているらしい。
「でも……。アリーシャさんは女の子なんですよ。戦地に女性一人で行くなんて、どうかしています」
「分かっていますよ。私一人では無理なことくらい……」
「……あのぉ。やっぱり……とは思いますけど?」
腕組みをして、イリスは机に寄りかかった。皆まで言わずとも、イリスはアリーシャの意図を察したらしい。
アリーシャが、イリスの閉じてしまった長い睫毛をじっと眺めて待っていると、しばらくしてから、唇だけが開いた。
「貴方の気持ちは分かりますが、私は教師ですから、休暇中も聖院から出ることは出来ませんよ。しかも、生徒を戦地に連れ出すなんて、とんでもないことです。アリーシャさんのご両親にどう申し開きをすれば……。 これでも私、教師っていう仕事好きなんですよ」
「…………無理、ですか?」
アリーシャにとって、一か八かの賭けだった。
自分と命賭けで、戦場に行ってくれるような奇特で強い人間なんて、アリーシャにはイリス以外思いつかなかった。
イリスは目をつむったままだ。
アリーシャは、説得するつもりはなかった。
こんなこと無理強いはしたくない。
駄目……か。
諦めかけたその瞬間、イリスは小さく首を振って、苦笑した。
その表情は、自嘲と表現したほうが正しいかもしれない。
「でも、私はミザラ様の元護衛官です。お世話になった恩は返したい」
「先生?」
「つまり、私も貴方もミザラ様に焚きつけられたんですよ。セジ様を迎えに行けと……。こんな情報がわざとらしく、私に入ってくる時点で、ミザラ様、私を巻き込む気満々なんだなって、伝わってきますもん。仕方ないですよね。こうなったら、私も長期休暇を勝ち取ってきます」
「一緒に行ってくださるんですか?」
「戦場とキーファの都を結ぶの郵便屋……、手配師に紛れ込めば、安全に戦地に赴くことが出来るでしょう」
「手配師にですか?」
「意外に城には知り合いが多いんです。どうやったら、戦地に堂々と入ることが出来るか、調べていたんですよ」
「先生!」
「だーから、アリーシャさん。今からは、私、先生ではありませんからね。どうぞ、イリスと呼んでください」
「でも……」
逡巡していると、イリスはアリーシャの肩を軽く叩いた。
「道中で、先生とよばれたら、かえって怪しまれてしまいますからね。どうか私を、アリーシャさんの友人にしておいて下さい」
それもそうだ。
先生と呼ばれ続けるのも、イリスには苦しいかもしれない。
「イリス……さん?」
イリスは、こくりと頷く。
童顔なイリスだ。アリーシャと同い年というより、むしろ年下に見えるくらいなので、友人と紹介しても、違和感は持たれないだろう。
「さあ、そうと決まったら支度を急がなければ! アリーシャさん、行きますよ!」
「…………イリスさん」
あまりの大声に、アリーシャはげっそりした。
確かに、先生というよりは、困った友人である方がしっくりくる関係なのかもしれない。