第2章 ③
ーー翌々日。
「――――――あれ……?」
アリーシャは呟いた。
指定された時刻、指定された場所にきちんとアリーシャはやって来たはずだった。
だが、そこには日頃、四角い眼鏡をかけ、ゆったりと仕事机に座っている理事長の姿はなく、教師の姿もなかった。
「ここは……」
一瞬、部屋を間違えたかと思い、後退して扉にかかっている部屋の名称看板を確かめたほどだ。
間違ってはいなかった。
ここは、ちゃんと聖院の最上階にある理事長室だ。
数回、アリーシャも足を踏み入れたことがある最上階の部屋。隠れ家のような六角形の部屋は記憶に鮮明だ。
しかし、おかしい。
不自然なのは、中央を陣取っている応接用の長椅子に腰をかけている女性の存在だった。
「お待ちしていました。アリーシャ=セレスさん」
「…………待つ。貴方が? 私を?」
……ミザラ妃だ。
見違えるはずがなかった。セジの母親である。
あまりにも意外すぎて、アリーシャの頭の中は真っ白になった。
「ままっ、とりあえず部屋の中に入ってください」
廊下と部屋の丁度境目で、直立不動になっているアリーシャの背中を押したのは、今日も切れ目の入っている艶やかな赤のドレス姿のイリスだった。
「すいません、アリーシャさん。お妃様が会いたいっていうから、極秘裏に手配させて頂いたのです」
「はっ?」
イリスは申し訳さそうに、何度も頭を下げた。
「騙すつもりはなかったんです。でも、妃が聖院に来るなんて誰かに聞かれたらまずいので」
「いや、先生。そうじゃなくて」
アリーシャが聞きたいのは、そんなことではない。
「アリーシャさん」
しかし、ぴしゃりとミザラ妃に止められて、アリーシャは口をつぐんだ。
「突っ立っていても話は始まりません。とにかくおかけなさい」
「…………は、はい」
アリーシャは、動揺を飲み込んで、言われるがまま弾力性のある革張りの長椅子に一人腰をかけた。
向かい側には、無表情なミザラが窓の外の青空を背景に、置物のように座っている。
「あの、一体お二人はどういう関係なんですか?」
「彼女……、イリスは私の元護衛なのです」
「えっ?」
本当に?
アリーシャは、不思議な気持ちで背後に立っているイリスを見返した。
イリスは確かに武術の教師ではあるが、小柄で華奢な体格だ。
この人が妃の護衛なんて、務まるのだろうか?
しかし、イリスにはアリーシャの考えなど、お見通しらしい。
「一応、護衛だったのは本当ですよ。限界を感じたのは確かですけど。ミザラ様の護衛を辞めてから、教師になるための勉強を始めたんです。ほら、私っておしゃべりじゃないですか? 教師なら、ずっと喋っていられるかなあって」
「……それは、知りませんでした。凄まじい経歴ですね」
おしゃべりなわりには、自分のことを話すのは苦手らしい。
おそらく、今ここでミザラ妃に告白されなければ、一生アリーシャはそんなイリスの過去など知ることもなかったに違いない。
「貴方は、おしゃべりだから護衛にはむかないのです」
ミザラは、机の上に出ていた茶を一杯口に含んで、長く息を吐いた。
この人がこんなに動くところを、アリーシャは初めて目にした気分だった。
「お妃様は、酷いですね。私がお妃様のお願いごとを聞き届けたんですよ。それを……」
「貴方のそういうところが駄目なんです」
言い返すミザラ妃に、アリーシャは初めて人間らしさを感じたが、感動している暇はなかった。
――ミザラ妃がアリーシャに会いたかった?
有りえない。
会ったこともほとんどない妃が、一体アリーシャに何の用があるというのだろうか。
………………まさか!?
「……お妃様! もしかして、セジが!?」
激情が怒声のようになって、アリーシャの口から飛び出した。
しかし、妃は首を横に振った。
「あの子は関係ありません。戦場で適当にやっているでしょう」
「適当って……」
どうしようもなく、ミザラの言い方は、アリーシャの癇に障る。
今、この瞬間もセジは命の危険に晒されているのかもしれないのだ。
しかし、アリーシャの激昂を受け流すように、ミザラはさらりと言い放った。
「何と言おうが、私の勝手です。母親失格と蔑まれても、私があの子を生んだのは事実で、私はどう転んだってあの子の母親です」
「どう転んだって? そんな酷い……」
「私はこんな不毛な話を長々と続けるつもりはないのですよ。アリーシャさん」
取り付く島もなさそうだ。
アリーシャ肩に入っていた力を抜いて、荒立っている気持ちを切りかえようと軽く胸を叩いた。それを見計らうように、ミザラは一言呟いた。
「私は、貴方を、一目見ておきたいと思ったのです」
「…………へっ?」
あまりの一言に、拍子抜けした。
どうして今なのか。疑問は数え出したらきりがない。
アリーシャを見たいと言った人間の目的は、大体一つだ。
「金色の瞳が珍しいから……ですか?」
「そうですね」
「では、さぞ楽しんで頂けたことでしょう」
「サンゼ王国で見たことのない色です。見世物小屋に入れたのなら流行るでしょうね」
「…………そうですか」
何という、不躾な人なのだろうか。
とても、穏やかになど戻れない。
この人がセジの母親なんて。
アリーシャは、遠い昔の記憶を辿っていた。
セジは、自分のことを母は嫌いなんだと、よくアリーシャに語っていた。
城に帰りたくないと、駄々をこねた日もあった。
今更になって、アリーシャは彼の言葉に合点がいった。
こんな母親だったら、アリーシャも家になど帰りたくないだろう。
「ミザラ様」
さすがに言い過ぎだと、イリスに咳払いされても、ミザラは眉一つ動かさなかった。
「何を怒っているのです? 私は別に貴方を城に招いたわけでもありませんし、一応は奨学金の審査も兼ねています。別に不都合はないと思いますけど」
「奨学金の審査を、お妃様が?」
「国のお金です。私が審査しても問題はないはずですが?」
「そうですね」
アリーシャは、納得するしかなかった。
「私の私的な用件は終わりましたが、貴方に来年度も奨学金を手配するかどうかの審査は残っています」
終わったな……と、アリーシャは落ち込んだ。
この妃が相手では、来期の奨学金の資格はないに等しいだろう。そのつもりで、わざわざ聖院にやって来たのではないかと、疑いたくなるような気分だった。
奨学生に関しては、権力者の私的な気持ちは反映されないものだと思っていた。
奨学金制度を受けることが出来たのは、学院で薬学の成績が一番だったからだと、思いこんでいた。
もしも、そんなところにまでセジの影響力があったとしたら、アリーシャは大人しく聖院を辞めるしかない。
「では、これは審査として貴方にお聞きしますが、貴方は聖院を卒業して何をやりたいと思っているのですか?」
「……私は遠くない未来、家業の薬屋を継ぐと思います。でも、過去の薬学だけでは目まぐるしく変わっていく時代に対応しきれない。だから、私はもっと専門的なことを研究したいと思って聖院に入ったのです」
「勉強以外には、興味がないと?」
どうして、そういう聞き方をするのだろうか。
アリーシャは溜息交じりに答えた。
「興味なんて……。私にとって、薬学の勉強意外に何があるというのでしょうか?」
勉強だけしか、自分は出来ない。
他のことに手を出そうとしても、出し方が分からない。
つまらない人間だと、アリーシャ自身自覚している。
くだらないことに変に真面目で、肝心なところでひねくれている。
セジも嫌気が差して、アリーシャのもとから去って行った。
薬学の知識を深めることだけが、唯一自分の矜持になるのなら、たとえ、どんな気持ちを抱えていても、机にかじりつくしかないではないか……。
――だけど。
「もういいわ」
ミザラがあっさりと首肯したことで、アリーシャは我に返った。
――やってしまったと、後悔した。
思いがけず、ムキになってしまった。
もうどうしようもない。
うまく言い繕う方法すらアリーシャには分からなかった。
しかし、ミザラの背後に佇むイリスは意味ありげな微笑を浮かべていた。
……何故?
「青春の悩みですよね。アリーシャさん」
「先生……」
そういう方向に持っていくのか。
げんなりしたアリーシャは、頭を抱えた。
笑いごとではない。真剣な悩みである。
その勉強すら、最近満足に出来ていないのだから、奨学生を取り消されても仕方なかった。
そして、まさしくミザラもそこを抉ってきた。
「そう主張するわりには、西方月から授業中にぼんやりすることが多くなったと、私は理事長から報告を受けましたが?」
「……それは」
よくぞ調べたものだ。
奨学生は、アリーシャを含めて五人いる。
そのすべての生徒の情報をミザラが耳にしているはずがないだろうし、他の四人が妃に面談されることもないだろうと、アリーシャは思った。
「戦争の影響じゃないでしょうか? まともな神経だったら、誰だって勉強なんて手にもつきませんよ」
「貴方に聞いているんじゃありませんよ。イリス」
ミザラは一蹴する。
「まったく、強情なんだから」
イリスは、反省した気配もなく、肩を竦める。それに対抗するようにミザラも大きく溜息を吐いた。
「アリーシャさん。貴方はどうなのです? 自分には勉強しかないと言っているわりには、何故、勉強すらまともに出来なくなっているのですか?」
「……私は」
アリーシャの脳裏に、セジの顔が浮かんで、消えた。
「分かりません」
自分の内心に巣食っている、言い知れないもやもやの正体を、言葉に纏めることなど、今のアリーシャには出来なかった。
「そうですか」
ミザラは人形のように、応じた。
「イリスの言っていることも一理あるでしょう。今期の試験結果が出ない限り、保障はできませんが、前回の試験では奨学生の審査基準は満たしていますから、貴方の奨学金に関しては、私が証人となって手配するように指示しておきましょう」
「……えっ」
ミザラは、そそくさと腰を浮かす。アリーシャは、呆然とミザラの言動を振り返った。今の発言は、奨学金を認めるということなのだろうか?
「貴方は、何もかも雑音を聞かずに、貴方の道を進めば良い」
その一言に、ハッとした。
腹立たしい人だとは思う。――が、ここでアリーシャはミザラを帰すことは出来なかった。
そうだ。この人はセジと繋がる唯一の手掛かりなのだ。
「お妃様!」
アリーシャは、立ち上がった。
「セジは? セジ様は無事なのでしょうか? 戦争はどうなっているのです!?
どうしてセジ様は戦争になど自ら赴いたのですか!?」
アリーシャはおもいきり気迫を込めて、問いかける。
ミザラは相変わらず眉一つ動かさなかったが、口角が少しだけ上がったような気がした。
「…………アリーシャさん。それは、勉強に不必要な雑音を耳にすることになりますよ」
「そんなこと、どうだって良いです」
咄嗟に言い返したが、すぐにミザラは反応しなかった。
沈黙が通り過ぎる。
セジのことを、呼び捨てにしてしまったから、ミザラは怒っているのだろうか。
しかし、ミザラは再び椅子に腰を沈めると、やがて、小さな口を開いた。
「私には、愚かなくらい正直な夫と、頑迷なほど真っ直ぐな息子が二人いるのです」
「えっ?」
どういう風の吹き回しか、ミザラは、話してくれる気になったらしい。
「夫は兼ねてから、帝国のやり方が気に入らないようで……。しかし、この国の将来のことを憂いて、仕方なく帝国の言いなりになっていました」
……帝国のやり方?
噂では耳にしたことがある。
サンゼ帝国は非情だと。
攻略したスティリア領では、スティリア人の女性や子供まで皆殺しにしたらしい。
だが、それは直接ユーディシアには関係のないことのように思えた。
でも、どうだろう。それだけ冷酷な国が、もしもスティリアを攻め滅ぼしてしまったら?
次の犠牲になるのは、ユーディシアだ。
「戦争が優勢になってきたと思いこんでいるのか、帝国は、付き従うユーディシアに過酷な要求をするようになりました」
ミザラは他人事のような話し方で、淡々と述べる。それがかえってアリーシャの心をざわつかせた。
「我が国は黙って要求を呑んでいました。それで、自国の人間が守れるのならば安いものだし、私の親族を裏切るわけにはいかないと、夫は言いました。息子達もスティリアの民は可哀相だが、自国の人間を護るためならば仕方ないと、納得していたようでした。――ですが」
ミザラは、はっきりとアリーシャを見据えた。
「帝国は、とうとう戦場に慰安目的で女性を寄越すように……などと、血迷ったことまで要求してくるようになったのです」
「なん……て?」
アリーシャは声を荒げた。
「そんなこと、知りません」
「そう。貴方にまで広まっていないということは……、やはりこの戦争は、ラティス公が先走ってしまったみたいね。サンゼ帝国を、裏切るなら、裏切るで、もっと準備期間を費やすべきだった」
「どうして、そんな急に?」
「愚息の怒りが遠因でしょう」
ミザラは、さらりと告げた。
「帝国は、こう付け加えたのです。世にも珍しい金色の瞳を持つ魔女を見てみたいから、退屈な戦場に連れて来いと……」