第2章 ②
「ごめんなさい。せっかく来てくださったのに」
「えっ?」
窓の外を呆然と眺めていたアリーシャは、急いで教壇に視線を向けた。
聖院の広い講堂には、アリーシャと武道術の教師しかいなかった。
教師の名はイリスという。新任の教師で、まだ若く子供のような顔立ちをしているくせに、更に敬語を使う変わった女性だ。
当然、イリスはアリーシャに向けて話したのだろう。アリーシャは慌てて笑顔を作った。
「いいえ。私は大丈夫です。こうして静かな所で自習するのも楽しいですし」
「そう言ってくれると、とっても有難いんですけど」
イリスは教壇から下りて、アリーシャに近づいて来る。
動きやすく切り込みの入っている純白のドレスの裾がひらりと捲れてから、元に戻った。
裾がふわっと大きく広がっているドレスが女性の服装として一般的であるユーディシアにおいて、その格好は異端とも言える。
生徒の父母からは抗議の声も上がっているらしいが、似合っているのでアリーシャは気にも留めていなかった。
「本当は、今日から授業再開させるつもりだったんですけどねえ……」
強い北風が窓を叩きつける。
空は鉛色だ。
天候はあまり良くないが、そんな理由で何度も休校になったりはしない。
イリスはアリーシャの前の席に座って、真ん中で二つに結った金色の癖毛を弄びながら、溜息を吐いた。
「まったく、今日も召集なんてびっくりですよ」
「本当、驚きました。つい先日もあったばかりなのに」
人気のない聖院に足を踏み入れた時から、アリーシャも予想はしていたが、まさかという思いもあった。
「この国の男が根こそぎ死んでしまったら、女も招集されるんでしょうかね?」
ぼんやりと呟くイリスに悪意はない。
でも、アリーシャの脳裏にはセジの姿が浮かぶ。
この国の男が大勢犠牲になる前に、セジが命を落とすだろう。
セジには弟がいる。
後継者がセジ一人であれば、いくらなんでもそんな無茶はまかり通らなかっただろうが、他にも候補がいるのならば、セジがいなくても大丈夫だということなのだろう。
どうして、軍隊なんかに。
何で、戦わなければならないのか……。
「大変なことになっちゃいましたよ。一体、これからどうなるのやら……」
「本当に……」
大声で言うには憚れることだが、そう思ってしまうのだから仕方ない。
ラティス公は、あの舞踏会の直後、突然、大きな政策転換をした。
―――我がユーディシア公国は、サンゼ帝国を敵国と見なし、スティリア王国に助力する。
定例演説でその言葉は飛び出し、大勢の国民を驚倒させた。
翌日からは、全国に触れが公布され、それが真実なのだと思い知らされた。
触れには、延々と、サンゼ帝国の非について説かれていたが、一般人にはついていけない成り行きの目まぐるしさだった。
今の兵力では、サンゼ帝国には勝てない。
みんな分かりきっていることだった。
だから、ユーディシア公国はサンゼ帝国に尽くしていたのではないか?
――それを、何故今更?
国民の協力が必要だと、ラティス公は自ら国民を呼び、説得に回っている。
それを、国民は「召集」と呼んでいた。
一般人の男子を、ラティス公は軍に入隊させたいのだ。
しかし、国民の権利が保障されているのがユーディシア公国の特徴でもある。
本人が行くという選択をしない限り、戦争など行く必要はない。
現時点で、戦争に行きたいと志願する者の人数は圧倒的に少ない。
だが、ラティス公の呼び出しに答えるのは、一応、国民の義務である。
特に聖院をさぼりたい貴族の子息には、格好の口実であり、国王の話に耳を傾けるという名目を使い、遊興場で遊んでいたりする。
どうしようもない有様だった。
「元々、聖院に入学する女子自体がそんなに多くはないですしね。大人数の男子が召集を理由に休んでしまったら、授業を進めるわけにはいかないし……。それが分かっているから、召集のかかった日は女子も授業を休んでしまうし。……何だか、私疲れてしまいましたよ」
「でも、私は今日も招集があるなんて知りませんでしたよ」
「アリーシャさんの家は、街から少し離れているんでしょう。そこまで伝令が届いてなかったのかもしれませんね」
同情的な溜息を吐いて、イリスはアリーシャを見た。
今回のような目に遭うのは、三回目だ。
さすがに、アリーシャも慣れていたし、舞踏会以来、勉強もろくろく手につかない状態が続いていたので、丁度良かった。
「まったく、つまらないですねえ。ユーディシアは」
イリスは、鼻を鳴らした。
「聖院にいる男子は、金持ちの軟弱な男ばかり。暇潰しに学校に通っているような奴らばかりですもの」
「先生……」
あまりの奔放な発言に、アリーシャは心配になったが、次の一言に呼吸を止めさせられた。
「戦場にいるセジ様は、お辛いのでしょうかね?」
「…………セジ」
胸に鋭い痛みが走った。
名前を言うと、暗い現実が重みを増して、アリーシャの体にのしかかる。
どうして、何も言ってくれなかったのか。
あの舞踏会の日…………。
彼はすべてを、決めていたのではないか?
だから、アリーシャに別れを告げたのではないか?
だったら、せめて幼馴染に対する餞別に、すべてきちんと話して欲しかった。
何もかも、半端なままでいきなり遠くに去られてしまったら、後味も悪いし、心も苦しくなる。
しかし、セジだけを責めるのもお門違いだ。
悪いのは、アリーシャだ。
一年もあったのに、ちゃんとセジに向かい合おうとしなかった。
セジの謎の愛情表現に振り回されるだけで、彼の現状について一度も尋ねようとしなかった。
放っておけば、子供の頃のようにセジはアリーシャを聖院まで追いかけてくると思っていたのだろうか。
そんなに、自分は彼に追いかけて欲しかったのだろうか。
「…………最低だ」
独り言を呟くと、イリスが何故か深刻に受け止めていた。
「そうですよね。奨学金で通っている貴方にとっては、ちゃんと勉強が進まないと困ってしまいますよね。これじゃ、学力試験も出来ません」
「あっ、いえ……」
慌てて訂正しようとしたアリーシャの言葉を遮るように、イリスが手を叩いた。
「そうだ。言い忘れてました。理事長からの伝言です。アリーシャさん。来期の奨学生の審査会をするから、明後日聖院の理事長室に来るようにと……」
「えっ。もう?」
アリーシャは目を瞬かせた。
聖院は貴族の巣窟のような所だが、学院に通う貴族は稀少だ。
貴族は男子ならば貴兵舎という、兵術に特化した全寮制の男子校に子供の頃から入れられているし、女子は子令院という女子の手習い、裁縫や音楽などを磨く学校に通うのが普通だ。
それらの学校を卒業した貴族の子供達で、親の跡を継ぐのには、まだ猶予のある者。
彼らが暇潰しに目指す学校が「聖院」であり、聖院は、ユーディシアの最高教育機関である。
可能性のある者を、身分に問わず幅広く募るのが学問の本分だというラティス公の命で、庶民にも聖院を受験する資格は与えられているが、学費の余りの高さに庶民が入ることはほとんど出来なかった。
それではいけないと、現在のラティス公が奨学金制度を導入し、アリーシャはその制度を利用している。
聖院の奨学金は、国からの補助金で賄われている。
年一回、成績と日頃の生活、学院長との面接を経て、翌年も奨学金が降りるかが審査されるのだ。
審査は温かくなる東方月の初めだと聞いていたのだが……。
「まだ成績は出ていないはずですが……?」
学力試験すらままならない状態で、どうやって審査するのだろうか。
それでも、呼び出されているのなら行くしかない。
アリーシャの家業である薬屋は、繁盛しているが、莫大な学費を払うまでの余裕はない。
「成績が出る前に、面接をやっておこうという話……なんでしょうかね?」
「はあ……?」
そうなのか。アリーシャには分からない。
何だか不審だが、アリーシャは頷いて、風の音が怒号のように響く外に再び目をやった。
降り出した雨がぽつりと窓を濡らす。
冷たい北風が聖院の庭の花壇を荒らし、正面の木の枝を撓らせた。
目にしただけで、寒々しい光景。
アリーシャは、厚手のカーディガンを羽織っていて、寒くはない。
けれども、教本の上に置いた指先はがちがちに冷えていた。
今頃、セジはどうしているだろう?
戦場になっている国境付近は、都よりも暖かいはずだ。
それでも、冬は来ているわけだし、南方は天気が変わりやすいとも聞くので難儀しているに違いない。
もしも……。
セジがこの世からいなくなってしまったら?
寒さとは違う、悪寒に襲われてアリーシャは強く肩を抱いた。