蒼天の空に何を見る 4
違う、違うと繰り返し叫ぶ女の声が、ルシウスの耳から遠のいていく。
何故、アリューシャが母を弑したのか。
その理由を、ずっと知りたかった。
それが。
(それが…っ、そんな理由で…!)
湧き上がるのは強烈なほど鮮明な怒り。
余りにも稚気に塗れた愚かな理由に、衝撃が稲光のように一気に身体を突き抜けた。
冷静な思考は、その閃光に白く塗りつぶされ、ぎりと握り締められる拳、掌に爪が突き刺さる痛みすら曖昧なほど、感覚が遠のく。
怒涛の如く押し寄せた嵐のような感情を、ルシウスはきつく目を閉じることでやり過ごした。鼈甲色の瞳が見えなくなれば、葛藤を覗かせるのは、その眉間に寄る皺だけだ。
ふいに、わめきたてていた女が、短く悲鳴を上げた。
その声に目を開ければ、マティアスが扉の前を離れ、アウラの腕を背中へと捻り上げた状態で、取り押さえているところだった。痛みに顔を歪めて、女が床に膝をつく。
「勝手を致しました。理性を失い、危険に見えましたので」
彼はその姿勢のまま、顔だけをルシウスに向けて謝罪した。
護衛として騎士団長がそう判断したのであれば、実際そうだったのだろう。
その判断を疑うことはない。
「許す」
ルシウスは、その行動を容認した。その声音はいつもと変わらず、冷静で、静かだ。
だが、荒れ狂う嵐が過ぎ去ったあとの彼の心には冷たい悲しみが覆いかぶさる。
…まるで、霧雨の降る薄曇りの世界のようだ。
冷え切った心と虚無感に立ち上がる気力すら奪われる。
叱られるのが嫌だった。たった、それだけのことで母は死なねばならなかったのか?
特権だけを求めて、その責任を果たそうとしないアリューシャの行動を母が繰り返し、注意していたことは知っていた。だが、それは母として、公妃として、子を想う精一杯の真心だ。
愛情がなければ、誰も叱ってくれはしない。
アウラの醜い自己弁護の言葉を耳にしながら、ルシウスは、自分の胸に空いた洞を自覚する。
塞ぐ術をすぐには、見つけられそうにない。
なぜ。
こんな女の言葉が届いて、母の言葉は届かなかったのか。
その質問が愚問でしかないことはわかっている。
理性的な思考は、妹の欠落を理解して、もう諦めろと囁き続ける。
妹は、自分に都合の良い、気持ちの良い言葉にしか、耳を傾けようとはしないのだ。
どうして、叱られる理由を考えなかったのか。
母の目を見れば愛情を感じることができたはずだ。あの暖かな手を兄妹で取り合って、いつも独り占めして甘えていたのはアリューシャ自身だったのに。
母の送別式での彼女の涙は、…本当に悲しかった訳でも、母を弑した後悔の涙でもなく、母を無くした可哀想な公女を演じていただけだったのだと、その事実を飲み込めば。
……やるせなさに胸に空いた穴から慟哭が零れ落ちていく。
「私は貴方の妹のために、あんなに尽くしたのに!…こんな扱いってないっ!」
ようやく本性を見せ始めた女がルシウスを睨みつける。
ルシウスはその視線を正面から受け止めると、胸のポケットから小瓶を取り出し、その中身を彼女の顔に向けてぶちまけた。
「きゃぁ!」
女は悲鳴を上げ、思わず飲み込んでしまった薬液を慌てて吐き出そうとする。だが、異変は早々に現れた。
ガクガクと震える膝、喘ぐような呼吸に、開いたままの口角からだらりと唾液が零れていく。
意識は清明なのだろう、信じられないものを見るようにルシウスを見つめるその姿にほんの少しだけ溜飲が下がる。
ルシウスは、初めて明らかな怒りを面に出し、立っていられなくなった女を見下ろした。
「ひと思いに殺してしまいたいと思わないでもないが、そうやって、唾液を垂らしたみっともない姿を晒しながら、じわじわと嬲られる恐怖の方がお前にはお似合いだろう」
小瓶の持ち主は、今目の前で喘いで倒れ込もうとする彼女自身である。
「痺れ薬だったか?力は入るまい。お前への処遇はその罪に最も相応しいものを用意した。もう、後悔など求めない。絶望して朽ちていけ」
証明出来るほどの証拠はないが、この女の余罪はまだある。
被害者は、将軍の婚約者や母だけではない。
ルシウスの友人の恋人であった心優しい令嬢も、同様に謀られて自死している。
夜会の最中、卑劣な貴族の男に弄ばれたのだ。彼女は眠り薬を盛られ、抵抗できないようにされていた。
楚々とした美しい女性であり、真実、高貴なる義務を果たす尊敬できる人であった。単純にアリューシャと並び評されること、それが不愉快に思われ、排除されたのだ。身勝手な感情で、彼女が受けた行為はあまりにも、惨い。
…床に倒れこみ身体を痙攣させるこの女は、自分の薬で人が人生を狂わせていくのを、遊戯のように喜々として楽しんでいたのだ。高潔で尊敬に値する人間ほど、貶めた時に感じる甘美な愉悦は心地よく、まるで美酒に酔いしれるようだったに違いない。
この女に、罪悪感などない。
だから、平気で嘘をつき、何もかも人のせいだと責任逃れに終始する。
彼女は理由が欲しかっただけだ。
薬の知識を使い、人を弄ぶ理由を。
アリューシャは彼女の望む最高に素晴らしく魅力的な大義名分であり、
「公女のためだもの」
…その言葉は、甘露のように魅惑的な、まさに魔法の言葉だった。
そんな相手に、反省など望めない。望もうとも思わない。
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「…あの侍女への尋問は…他の者に任せるべきでしたか」
マティアスの言葉は、彼自身も居た堪れない思いに駆られたからに違いない。
だが、人任せにすべきことではないのだ。
自分の母の事であり、妹のことであり、この国のことなのだから。
公妃暗殺に関してはその首謀者がアリューシャであったことから、その事実を知る者は限られている。今後も、明るみにされることはないだろう。
刺のように鋭いものを飲み込み、胸の穴を塞ぐ方法をどこかで求めながらも、ルシウスは蒼天の空の下、次期後継者として自分のあるべき姿を模索する。
「それでも。……知らないより知ったほうがいい。聞かなければよかったと思う。けれど、それではいけないんだ。母を看取った俺は知るべきだと、その気持ちに変わりはない。…アリューシャは自分のために母を殺した。そして、今度は将軍の婚約者を殺そうとした。ならばこれ以上あの子は公女でいるべきではない。父の出そうとしている選択は厳しいが…だが、こうでもしなければ、あの子は自分というものを見つめようとはしないだろう」
公女という肩書きを失い、卑しいものでも見るように見下していた平民になって、初めて彼女は自分が世界の中心ではないと知るはずだ。全て剥ぎ取られて、アリューシャというたった一人の娘になってようやく、彼女は自分を省みることが出来るのかもしれない。
聖職者たちは、厳しい眼差しで彼女を見つめ続けるだろう。
いつか、自分の罪を理解するときが来ればいいと思う。
その時初めて、彼女の贖罪は始まるのだから。
ようやく知り得た真実は、何の救いも見出すことなど出来ないものだった。
そして、罪をいくら暴こうとも、誰からも懺悔の言葉は聞かれない。
それでも、弱音を吐き出すこともせず空を見上げるルシウスに、励ましも慰めも、何か違う気がして言いあぐねたマティアスは、結局必要な報告だけを口にした。
「先ほど知らせが入りました。あの女は、城を出立したそうです。自害させないよう、轡をつけて。痺れ薬も追加できるよう持たせてあります」
「簡単に死なせてやるなよ」
確かにアリューシャには生来、傲慢で歪んだ気質があったのだろう。だが、それを助長し、彼女の名のもとに密やかに毒や薬を使い、人を弄んでいたのはあの侍女だ。
彼女をもっと早くアリューシャから引き離せたのであれば、何かが変わっていたのだろうか。母は、友人の恋人は失われること無く、今も笑っていられたのかもしれない。
だがそれも、アリューシャ自身が邪魔をした。
母のような、姉のような側にいることが当たり前の存在。公女自身がそう言って彼女を重用し続けたからこそ、彼女はその欲を醜く肥大化させていったのだ。
彼女は今実家であるフォロイ家への帰途にある。ただ無為に帰したわけではない。
ルシウスは彼女が最も忌避するであろう、悍ましくも過酷な罰を与えた。
あの家では現在でも制限のかけられた範疇で、犯罪者を被験者にして人体での実験を続けている。そして、彼女の両親はその被験者を全て失い、やむなく新たな被験者を求める申請を出しているところだった。だから、ルシウスはその求めに応じ、新たな被験者を、くれてやった。親として子は可愛い。しかし、探究心と愛情を天秤に架ければ…熱心な研究者である両親の傾く方向を知っているからこそ、アウラは狂ったように動かぬ身体で無様な姿を晒してでも、ルシウスの前から逃げ出そうとしたのだ。
毒は痛い、毒は苦しい、毒は人を醜く変えていく。
姿かたち、声、心…毒を使った遊戯に長けた女は、使われることの恐怖を誰よりも知っている。
ようやく手に入れた被験者を、そして、フォロイの家名を汚した彼女を両親はきっと死なせないよう、大切に扱うはずだ。―――実験材料として、末永く。
それが彼女のみならず、娘の内面に気づかずに王城にあげた両親に対する罰であると言うことを十二分理解しているから。
被験者にとっては長く続く地獄のような日々。
それを子供の頃から見て育っているからこそ、その苦痛を前にして女は安らかな死を望む。
だが、多くの人間の人生を弄んでおきながら、そんな勝手許されるはずがない。
「させてなるものか。恐怖に慄き、痛みに長く苦しんで、助けてくれるはずの両親が目の前で己を苛むことに絶望して死んでいけ」
後悔の無いものには罰ではなく、後悔すら必要としない絶望を与えてやればいい。
ルシウスは残酷な性格はしていない。3人兄妹の中では、多分誰よりも温厚で優しい。
だからこそ、虐げられた者たちの気持ちを思い、彼らに厳罰を与えるのだろう。
数日後には、アリューシャも城を出ることになる。
「結婚」と名が付こうとも彼女が嫁ぐのは聖職者である。結婚式は形式だけのもので、かの土地で宣誓をするだけの、ドレスも、煌びやかな祝賀もない、とても簡素で味気ないものだ。
何の準備もいらない。財も一切持参は許されない。
彼女は身一つで、誰も付き添うこともなく、ただ監視されてグランディアに向かうことになる。
もう二度と会うことはないだろう。
とうに覚悟はしていたことだ。
それでも。
「君が、無邪気な子供のままであれたなら…よかったのかな。
……さよなら、愛しい妹」
兄としての、小さな別れの言葉は、誰にも届くことなく…
碧虚へと、静かに、飲まれて消えていった。