5
「アリューシャを本当に、ポートデイルに降嫁させるおつもりですか」
「無論」
「彼は聖職者ですよ?」
冬狼が戦う神であるように、フメラシュの主神である雷鳴獅子もまた、夏を司る戦神だ。そして、それを信仰する修道会が、この国では戦いを担う。
周囲の国境を護る彼らは、中央の騎士団よりも、実質的なこの国の守護集団であった。
その中に、最も危険で小競り合いも多い東の国境を拠点に活動するガランディアと言われる武闘派の修道会がある。ポートデイルはそこに属する聖職者であり、長くフメラシュを護る戦士であり、また、カテリーナ公妃の従姉弟でもあった。
彼は、彼女との手紙のやりとりで、アリューシャの欠落を知っているひとりでもある。
「そうだ。オルフェルノで起こした問題を、公にはできぬ。だが、自分の恋路を望むあまり、公女という立場も顧みず、人の思いも汲まず、人を傷つけようとしたならば、罰を受けるが当然だろう。恋敗れた姫は修道院に入ることを望んだ。国民はそれで納得しよう」
アリューシャへの罰は、公式なる『白の結婚』。
聖職者は女性と交わることを禁忌としている。
『白の結婚』という名の形式上の結婚は、事実婚ではなく、姫を下賜する名誉を与えるという行為でしかない。まさに、勲章授与の意味合いに近い。公女は名誉を明らかにするためだけの道具として嫁ぐこととなる。
ポートデイルは38歳になる年相応に落ち着いた男であった。仁義に厚く、厳格な性格であり、カテリーナを姉のように慕っていたから、アリューシャに傾倒する恐れはない。
名ばかりの名誉に真実を隠し、この国のため、彼は監守として、アリューシャの伴侶となる役割を引き受けたのだ。
「修道院にただ入らせるだけでは、あれは、同じことを繰り返すだけでなく、周りを狂わせる。ならば、公女としての地位を降嫁によって剥奪し、女としての幸せも、一生得られないように奪い取ろう。これで、あの娘がほかの男を誑かし、子でもなそうものなら、ポートデイルの判断で処断することも問題がなくなる。聖職者は殊のほか厳粛で潔癖だからな、あの娘には甘くはないだろう」
修道院に入るだけならば、公女として戻ることも可能だろう、だが。
地位も、贅も、愛も、子を持ち母親となる女性の喜びすら、父は奪うというのか。
罪を犯したとは言え、実の娘に対して全く温情のないその判断に、クラウスは絶句する。
「父上は、……それほどまでに、アリューシャを憎んでいたのですか…?」
レオニートは、何処か疲れたような様子で、遠くを見つめた。
ふっと、笑みを漏らしたその顔は、名君と名を馳せるフメラシュ公のものではなく、愛するものを奪われたひとりの男の顔だった。
「憎いな」
憎悪を口にするのに、その目は悲哀と悔恨とが絡み合って、複雑な色を湛えていた。
当然だ。己の娘に向かう感情が、単純なはずがない。
だが、アリューシャは、何も変わらない。
高みから見下ろすその瞳は無邪気で、傲慢で…そして残酷だ。
何をどう諭そうとも、彼女は彼女の物語の主人公。脇役の言葉など届くはずもない。
それは、やるせない無力感を感じさせ、愛しさと裏腹に、酷く胸をざわつかせる。
憎しみだけでは片付かない。
レオニートの中にある愛おしい娘との思い出は、苦いものばかりでなはい。
きっとそれは、ルシウスもクラウスの中にあるものと同じものだ。
「カテリーナと儂の娘であるから、可愛いと思うことも否定はせん。…愛おしいよ。だが、儂にとって最も大切な伴侶をあれは奪った。許すことなど、生涯出来ないだろう」
憎くても実の子。愛情と、憎悪が胸を裂き、処分することは出来なかった。
だからこそ、王宮の奥に閉じ込めて、出来るだけ彼女を見ないようにしていたのだ。
大切だったからではない。むしろ、忌避したからこその行動だった。
とろけるような蜂蜜色の瞳も、あの明るい金色の髪も皆、カテリーナを思わせるのに。
その心根だけが、まるで違う。
さりげなく自分を助けてくれ続けた妻。
「お前がいなくなってしまったせいで、今では社交界も慣れたものだ。私が社交界を苦手といっても、誰も信じはすまい」
フメラシュは、カテリーナと二人、一生懸命守ってきた大切な国だ。
その国を省みもせず、カテリーナを殺した時から何も変わっていない娘を、レオニートはこれ以上、許すことが出来なかった。
彼女を遠ざけ、変わるように諭すことも、躾けることをしなかったのも、レオニート自身だ。その上で、全く無関係の国を巻き込んだことは愚かで、身勝手で、余りにも他力本願な行動であったと自覚している。
それでも。
賢き王と尊ばれ、誠実だと誉れに思われていたとしても。
彼とて父親である前に、公である前に、ひとりの男にしか過ぎなかった。
やるせない憎しみの前では、愚かと知りつつその感情を優先するしかなかったのだ。
国を襲う嵐はもうすぐそこにやってきている。
上手くやり過ごさなければ、息子たちに託すことも出来なくなるだろう。
ルシウスとクラウスが生まれたのは、レオニートが40半ばに差し掛かった頃のことだ。公妃の年齢もあり、公爵夫妻に子が望めないと思っていた周囲の思惑は、彼らの誕生で大きく狂うことになる。
政権を望む野望。
掴みかけていたそれを諦めるほど、彼らの欲はささやかなものではなかった。公爵が必死に守ってきた平和は、皮肉なことに、貴族たちの貪欲な欲望を成長させる温床となってしまっていたのだ。
彼らはその子供たちを使って、帳尻を合わせようと考えた。
甘い誘惑で堕落させ、作ろうとしているのは扱いやすい傀儡公子、公女。
賢君と言われようとも、全ての人間を完璧に制御することはできない。
レオニートの政務を手助けする臣下には精鋭が揃っている。誠実な人間も多い。
彼らは子供たちを助けてくれるだろう。それでも。
人間は楽な方へ、楽しい方へ流されやすいことも理解できるから自分の子が彼らの忠誠に見合うだけの人物に成長するかなど、レオニートにもわからなかった。
頭ごなしに、理想を押し付けたところで、反発を招くだけ。
欲望が渦巻く王宮の中での生活を余儀なくされる我が子を見守り、そして、この国を託せるだけの人間に育ってくれるようにと、彼は自分の在り方をみせてきたのだ。
根が素直な双子の公子たちは、周囲の者たちの協力もあり、まだ欠点も抱えているものの公爵が望んだ誠実な人間に育ってくれている。
…少々痛い目を見なければ、わからなかったようだが、反省することができるならば、変わることもできるはずだ。
完璧でなくてもいいのだ。人の上に立つのならば、思いやりのある人間であってほしい。
だが、公女は反発するどころか、母親でさえ躊躇いなく排除した。時に公爵を慕って、アリューシャの教育を引き受けた者たちは、アリューシャの取り巻きとも言える人間に徹底的に邪魔をされ、何かしらの事故や事件に巻き込まれることさえあった。心ある人間を失いたくなくて、レオニートは彼女の更生を諦めた。王宮の奥に秘めておけば、深窓の姫は慈悲深い優しい娘の皮を被り満足していたから。
だが、年を重ね子供は娘となり、欲望は膨らんでいく。
公爵は己の中の焦燥を自覚していた。
子供たちに、この国を託すためにやるべきことは多く、そして。
…時間はそれほど残ってはいない。
この国を取り巻く環境は昔から厳しい。レオニートという老獪な策士が居なくなれば、周辺国は挙って動き始めることだろう。
国内の貴族たちは、エランデシルの加護とレオニートの安定した統治に、平和を享受して久しい。平和呆けした彼らにこの国を委ねれば、この国が消えるのは時間の問題。
だから、卑怯とわかっていて、他者にアリューシャを処分させようとした。
オルフェルノは、二度とフメラシュの意を汲むことはないだろう。「二度目はない」というのは、脅しではない。それでも、レオニートの望む結果は得られた。
「カフェリナに始まった混乱が、奴隷開放という道筋をつけやすくしてくれた。今であれば、時流もある。市民からの不満も少ない状況でことを進められるだろう。国内の地盤を安定させれば、他国からの干渉は受けにくくなる。今までに締結した同盟や条約、積み重ねてきた努力と培ってきた外交能力で、我が国は支えてゆける」
今が、どの国にとっても転換期なのだ。
多くのものが変わってゆく。
(ようやく、カテリーナの夢が叶う)
「幸せになる権利も、自由に生きる権利も奴隷にはないなんて。そんなのはおかしいわ。辛い生活でも、自分で選んだことならば耐えられるかもしれない。けれど、それが強制ならば、頑張る気など起きないのも当然ですわ」
以前、妻はよく、真摯な瞳でそう訴えていた。
それでも、奴隷が浸透した国にとって、この問題は覆すのが難しい問題だった。
自分たちよりも地位の低いものがいることに対する安心感。愚かと、一言で切って捨てられない、どうしようもなく人間らしい負の感情。平民の中にも根強く残るその感情が、レオニートの奴隷廃止への制定を足踏みさせていた。そして、現実的には開放した奴隷たちにどのような生きる道を提供するのか。働くところがなければ、食ってはいけぬ。だが、奴隷と蔑まれていた彼らが、簡単に職を獲得できるはずもない。大量の困窮する民が出ることになる。彼らを国庫で支え続ければ国は長い時間を掛けることなく、傾くだろう。
だから、奴隷たちも、今までのように受身ではいられない。
自由の対価として、己で考えて自分の責任で選択をせねばならないのだ。
今までよりも、誰もが難しい選択を迫られるだろう。
それでも、先に進むしかないのだ。
奴隷を抱え暴動を起こされるが、奴隷を開放し国を混乱させるか。
どうしたって良くない未来ならば、少しでもマシな方を選ぶ。
「もう少しだけ踏ん張らなければな、支えてくれよ。カテリーナ」
フメラシュの公爵は、玉座の後ろを振り返る。
天蓋に隠された肖像画には、彼の手腕を影で支え続けた金髪の女性が蜂蜜色の瞳を和やかに細め、柔らかな微笑みを浮かべて描かれている。
カテリーナはレオニートにとって、半身のようなものだった。
唯一無二の愛する存在。
大恋愛ではなかった。よくある政略結婚だ。それでも、静かにゆっくりと、結びつきは確かなものとなり、二人は互いを愛するようになった。
長く子の居なかった二人は支え合いながら、単純ではない道のりを越えてきたのだ。
いつしか彼女はレオニートの羽となり、彼は難局を飛ぶように越えることができた。
その代わりのない大切な存在をもぎ取られ、失墜する心を支えたのは…
彼女の残した存在。
息子たちであり、二人で守り続けた、この国だった。
レオニートは翼をもがれ、もう空を飛ぶことは出来ないだろう。
だが、堅実に歩み続ける。
二人で歩み続けていくはずだった道を、一人で。
その先に、笑顔で待っていてくれる妻を信じて。
題名が示すのは、フメラシュ公であり、アリューシャでもあります。
レオニートにとっての翼は妻ですが、アリューシャにとっては特権でした。