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「カテリーナは最後までアリューシャを責めなかった」
彼女がルシウスへ残した言葉は、ただ、ただ、心配ばかり。妻として夫を、公妃として国民を、そして母として娘と息子を。
そして、先に逝くことを詫びながら、カテリーナが密かにルシウスに託したのは、部屋にある茶葉の処分だった。
「誤って誰かが飲むことを危惧したんだろう。調べた結果、その一つに毒が含まれていた。…アリューシャが送ったものだ。カテリーナも薄々は気がついていたが、信じたくなかったんだ。自分の娘を愛していたから」
手付かずの茶葉が、カテリーナの不安と疑念を知らせていた。調子を崩すようになったのは、娘からの贈り物を口にするようになってからだったから。しかし、カテリーナの警戒も、調理場までは届かなかった。
毒に精通する侍女が、ほかの侍女達に毒見の指南をしていたとは、知らなかったのだ。
隙をみて彼女は毒見の終わったあとの食事に毒を混ぜていたのだろう。
「何故…、何故そこまで分かっていて、その時にアリューシャを処断しなかったのですかっ!」
血を吐くような思いだった。胸が切り裂かれるように痛む。
「あの娘が、天性の役者だからだ。なりきっているわけだから、役者ですらないかもしれないが。お前とて、今だからこそ儂の言葉を聞く気になっただろうが、オルフェルノに行く前にこの話を聞いていたとしたならばどうだ?…信じたか?何故、あの優しい妹が、母を殺すのかと思わないか?母の骸に泣すがるあの子を、疑うことができたか?」
クラウスはぐらぐらと揺れる頭で父親の言葉を懸命に整理する。
母を殺していた?そんな、あの優しい子が?
否、彼女はそんな優しい娘ではなかった。どれほどにも自己中心的な世界で生きている。
であるならば、あり得るのか。
今でさえ揺れ動く心情に、父の選択が正しいと知る。
「……信じることは、なかったでしょう。それどころか、父上に不信感を持ったかもしれません」
証拠を提示されたとしても、疑っただろう。何故優しいあの子を陥れるのかと、フメラシュ公にとって子供たちさえ政治の道具として、邪魔となれば排除されるのかと。
父親がそんな人ではないと知っているはずなのに、アリューシャの明るい笑顔が、甘えた声がクラウスの客観的な判断を鈍らせる。この国にいたあの子は、政治には疎いが、純真無垢で優しい自慢の妹だった。誰もが天真爛漫な彼女を愛し、使用人たちもこぞって仕えたいと望んだ。そこに綻びは、ない。
「家族の中でさえ、信じ合えず心が分たれる。ならば当然、王宮内は分断されるだろう。
アリューシャの慈しむ心を信じる周りの者たちは誠実であればあるほど、あれを守るために、懸命になる。狭まった視野では国の行く末など思案できるはずもない。儂を殺すことさえ躊躇わん。そうなれば、国は揺らぎ、他国の介入を許すことになる。その被害を一身にかぶるのは国民だぞ?故に沈黙を守った。儂もルシウスも、だ」
人格者の娘らしく、表面上優しく可憐な姫は、社交的で人々に愛される無垢な娘だ。その彼女を排除しようとすれば、国主であるはずのフメラシュ公こそ、猜疑の念を抱かれる。純真で慈しみ深き姫を守る。そこには正義を見出すことができる。どこか陶酔するその状況に酔わされて、彼女を取り巻く人間は正確に周りを見ることができない。軽はずみな行動であったと気がついたときには国は傾き、取り返しのつかないことになっているだろう。
…事実、今回のオルフェルノでの愚行。彼女の本性がここまで暴かれていなければ、クラウスも、他の騎士たちも皆、公女を庇い、結果、二国間の関係は最悪のものになっていたに違いない。
「何も知らなかったのは…私だけだったのですね。…では、今回の縁談を承知したのは、何故ですか?」
父は積極的に進めようとはしなかった。だが、やめるようにも言わなかった。
「オルフェルノの王族との結婚であれば、反対もした。だが、相手が冬狼将軍であったからな。あの男ならば、アリューシャに利点は見出すまい。要領の良い男だ、どうせ上手く断り送り返してくると思っていた。さすれば、アリューシャも己の望みが必ず叶うとは限らないと知ることになる。逆に、公女という血統があの男の立場を強化すると判断され、婚約がなったとしても、あの娘の本性などすぐに見破るだろう。オルフェルノの害になると思えば、あの娘が周りを誑かす前に、彼は容赦なくアリューシャを処分したはずだ。禍根を残すことなく、綺麗にな。数年のうちには病死の連絡が来たであろうよ。離縁では意味がないからな」
ごくりと喉を鳴らし、クラウスは掠れた声で確認する。
「…つまり、アリューシャの生殺与奪の権利を将軍に与えるおつもりだったと…」
「そういうことだ。誤算は、あの男に大切な女性がいた事。相手の女性には本当に申し訳のないことをしたと思っている」
いたとわかっていたならば、最初からこの縁談を許しはしなかった。
平民を人とも思わぬアリューシャがどんな言葉を投げかけたのかなど、先ほどの言葉からして聞かずともわかる。
「アリューシャに、もう誰からも、何も奪わせるつもりはなかった」
父の言葉は真実なのだろう。だが、それでも、どうしてか。
アリューシャのことになると、父はどこか無責任で、他人任せだ。
ぐう、とクラウスは声を殺すことができずに呻いた。
「冬狼将軍にそれを知られれば、この国はただでは済みますまい」
初めから利用するともりでいたなどと。それでなくても、相当の怒りようだったのだ。
だが、涼しいほどの眼差しで、父は言ってのけた。
そこに動揺など、微塵もない。
「オルフェルノの王も将軍も若くして一国を守っているわけではない。儂の思惑など、読まれておるよ。二度目はないと、あちらからも釘を刺された。分かっていて、今回は口を噤むと言ってきているのだ。クラウス、ルシウスお前たちの将来性をあの国は買ったらしい。ならば、誠実に向き合うだけだ。それに足る信頼は既にあの国から与えられているのだからな。」
「危険だと思わなかったのですか?それこそ我が国の危機になり得た話ではないですか!」
オルフェルノが事を公にしたら、父の手腕をもってしても、この国の不利は拭えない。
確かに将軍に婚約者がいなければ、そして、その婚約者が平民でなかったならば、アリューシャは悲嘆に暮れるだけで、ここまで醜悪な姿を晒すことはなかっただろう。フメラシュもこれほど微妙な立場に追い込まれることもなかったはずだ。父にとっても全てを予想していた訳ではないとわかっている。それでも、妹のこの本性を知っていて何故と、どうしても思わずにはいられない。
オルフェルノの対応がこれほど寛大なものでなければ、この国は窮地に立っていたかもしれないのだ。
「オルフェルノだったからこそ、だな。あの国は他国を侵略しない。そして、国民を大切にする。それが、他国民であっても。でなければ、わざわざ他国の人身売買の市場まで介入してこないだろう。奴隷開放での献策など特にそうだ。あの国には無用の施策なのだから」
「…確かにそうですが…」
「非難を覚悟で、こちらの思惑にあの国を付き合わせた。彼の国であれば国民を巻き込む判断はしないと踏んで、な。…聡明なあの2人はそれに気が付いたからこそ、怒りはすれども、表立ってこちらを責めないのだろうよ」
愚かな公女以外、フメラシュに罅がないのであれば、態々その亀裂を大きくして器を壊す必要はないと、オルフェルノは判断した。
アリューシャはカフェリナの貴族たちと同じだ。国を腐らせる。だが、慈愛に満ちた姫と信じられている彼女の罪を周囲に信じさせ、排除することは難しかった。人の心ほど容易に図れないものはない。真実の姿がさらけ出され、彼らの信頼をアリューシャ自らが壊したからこそ、彼女を罰しても、公爵に対する不信の芽が芽吹くことはなくなったのだ。
この対応も妥当とされるはずだ。
大貴族たちも、沈みかけた泥船のような彼女に救いの手は伸ばさないだろう。
考えればわかることがわからずに、己の欲を優先しカフェリナは滅びた。同じような貴族はこの国にもごまんといる。彼らは愚かだ。安全な箱庭の中で遊ぶことしかできぬ癖に、欲どおしい。彼らにとってアリューシャはとても都合の良い娘であり、レオニートにとっては、この不穏な情勢でフメラシュの防壁にいつ穴を開ける爆弾となるかわからない、とても不安な存在だった。
本来であれば国内でなんとかすべきであったのはわかっている。それでも、宮殿の奥で守られた娘は自身を素晴らしい姫と思い込み、それを完璧に演じていたのだ。周囲の者たちが、時折溢れる我儘さえも愛らしいと感じでしまうほどに。レオニートは全てを知っていたからこそ、アリューシャのオルフェルノ行きを許可した。彼女を信奉する分厚い守りから引き離し、特別扱いが当たり前の王宮の中から外へ出すことで彼女の仮面が剥がれ落ちることを期待して。
思惑通り、否、思惑以上に、アリューシャはままならない現実に本性をさらけ出し、その信用を失った。
「…国が分かたれる危機は回避された。だからこそ、どんなことがあろうとも、この国を戦乱にも暴動にも巻き込ませてはならない。ルシウス、クラウス、国を守れ。この地に生きる全ての者を守る為政者となれ。それが、オルフェルノへの返礼となる」
『償いを望むのであれば、戦争のない平穏を、どうか守ってください。彼女は戦争で家族を失った。彼女が望むのは人々が安穏と暮らせる平和です』
ヴィルヘルムの言葉が、レオニートの声に重なる。
肩に背負わされたその重み。
民の立場で国を見る将軍と、父。守るものが多くなればなるほどその選択は重く、とても難しい。それを自ら背負う覚悟が、クラウスに足りていなかったものの正体だ。
「どんな娘だった?冬の化身のような男が選んだ娘は」
唐突に、レオニートが尋ねた。
「私は…会わせてはもらえませんでした。ただ、オルソの話では…幸せを願いたくなるような、野に咲く花のような娘であったと」
憂いを帯びた金灰色の瞳が、閉じられる。
「…そうか。そんな娘の幸せを、奪うところだったのだな…儂は」
ポツリと漏れた言葉に、初めて後悔が滲んだ。