片恋い 2
それは、たわいもない日常のこと。
ルシウスとクラウスは、同じ部屋で執務をしていた。
クラウスの仕事はルシウスの補佐である。傍に控えていてもおかしくはないが、本来であれば執務室は別々であって然るべきある。
実際、以前は別室だった。
だが、往き来をする手間が惜しいとか面倒くさいとか、そんな話になって、暫くすると同じ部屋で執務をするようになった。
兄弟仲が悪ければ上手くいかないだろうが、双子なだけあって、空気のようなお互いの存在が邪魔になることはない。
従者も下がり、執務室には、いつものように二人だけ。
違うことといえば、疲労困憊のルシウスが机に懐いていることくらいだろうか。
手元の書類に目を通し署名を終えると手を止めて、クラウスは顔を上げた。
つい、口元には、誤魔化しきれない笑みが漏れる。
20を越えたあたりから、結婚を匂わされることが多くなってきた。父は相手を与えられるのが嫌ならば自分で探せと言って急かしては来ないが、周囲はそうはいかない。
せっつかされる様に、夜会に参加した日の翌朝は、大抵兄はこの状態だ。
社交の場が得意ではないルシウスは、ぐったりと明らかな疲労を滲ませて、執務机に倒れ込んでいる。
それでも、片手に書類をもって、ぷるぷる手を震わせながらそれを読んでいるあたり、真面目な兄だと思う。
だが仕事の効率は悪そうだと、クラウスは助言することにした。
「倒れ込むか諦めて仕事するか、どっちかにしたらどうだい?」
「ほっとけ」
クラウスの呆れを隠さない声に、不貞腐れたような声が返る。
後継者であるルシウスには蠅が集るように(失礼)女性が押し寄せていたから、確かに疲れるかもしれない。しかし、数人とダンスをした後、何気なくその場から逃げ出していたくせに何をそこまで疲れているんだと思わないでもない。
なぜ逃げ出したことを知っているのかといえば、いつも兄を逃がしているのはクラウス自身だからである。
クラウス自身は人と話すのが嫌いではないから、社交場はそれほど苦ではない。
だが、兄は違うのだろう。
「そんなに女性が苦手?」
「人間が苦手だ。…そうは言っていられないと分かってはいるが…人ごみにいると酔う」
「それは…慣れるしかないね。そういうところ、丸ごと理解してくれる女性がお嫁さんに来てくれるといいんだけどな」
「俺は後でいい。お前が、先に結婚しろ」
「うーん、俺かぁ…。どうだろう。なかなかこの人って思う女性は現れないな」
ペンを置き、椅子にもたれかかると、目を閉じて昨日を思い出す。
煌びやかな社交の場には、華やかな女性たちが美しく着飾って、ひらひらと蝶のように、舞っていた。その場にいた誰も、自分の隣にいることにしっくりこない。
求める何かが、見つからないような焦燥感と、落胆の気持ち。
まるで、クラウスの気持ちを読むように、のっそりと顔を上げたルシウスが言った。
「お前の好みは可愛らしい女性だからな。夜会では好みの女性には会えないんだろう。社交界に出る前の令嬢の情報でも集めるか?」
兄の言葉にクラウスは顔を顰めた。
「……ルシウス…、お前まで、俺を幼女趣味だと勘違いしいるんじゃないだろうな?ついでに言えば、アリューシャも俺の好みじゃないぞ?確かに可愛いけど、あくまで妹としてだから」
どちらかといえば、アリューシャを可愛がるのは確かにクラウスのほうだ。だからか、時折、幼い娘たちを紹介してくる貴族たちに、幼女趣味と思われるのも不本意ながらそろそろ慣れた。
だが、兄にまで誤解されるのは遠慮したい。
渋い顔をしたクラウスに、ルシウスは首をかしげて、目を瞬かせた。
「幼女とまでは言ってない。だが、化粧の濃い妖艶な女性など興味ないだろう?」
「……」
確かに、全く惹かれない自分を自覚して、沈黙する。
机に肘を付き、その拳に顎を乗せて、小さくルシウスが笑った。
「優しく穏やかな可愛らしい女性がお前の好みだ。ちゃんと覚えておけよ。探す時に困らないように」
兄らしい優しい声。
同じ日の、ほとんど同じ時間に生まれているのに、彼はやはり兄なのだ。
人見知りで、社交的なところがないのは、相手の中身を一人ずつ丁寧に見つめてしまうからなのかもしれない。
ここでは、こんなに情けない姿を晒しているのに、公のところに出れば、ルシウスは次期公爵として、若くても人に軽んじられたりしないだけのしなやかな強さと輝きを放つ。
父に劣らぬ立派な国主になると信じられる存在。
なのに、強いばかりではいられないこの人を。
兄弟として誇らしく、クラウスは支えたいと願うのだ。
「ありがとう。ちゃんと覚えておくよ」
……そんな会話をしたのはそれほど昔のことではない。
けれど遠くを見てしまうのは、実際に恋などをしてしまったからだ。
「本当に、気分が悪いわけじゃなくて…本当に少しだけ考え事がしたかっただけなんだ。護衛も何も言わず出てきて、少々無警戒とも思ったけれどね」
きょろきょろと護衛を探している少女にそう言うと、納得したのか、柔らかな表情で彼女が頷いた。
「誰にだって、一人になりたいこともありますよね。…ただ、出来れば、護衛の方々には一言声をかけてあげて欲しいです」
「ああ、確かにね。迷惑をかけてしまった」
殊勝に答えれば、少女は困ったように眉尻を落とした。
「…ええと、…迷惑とかではなくて。皆さん殿下のことを好きだと思うんです。とても慕われているのは見ていればわかりますから。だから、きっと、とっても心配しているんじゃないかなぁって」
「あ…」
確かに、彼らは迷惑だと思わないはずだ。そして、きっと、彼女の言うとおり、心配をしているだろう。
それに気がつかなかったことが情けない。
反面、自分のことを心配してくれている人がいるということを思い出したら、心のどこかが楽になった。
心の中に点った灯りが見えてでもいるかのように、少女が笑う。
「ふふ、やっぱり。心配してくれる人たちなんですね?スヴェライエの騎士の方々もとっても優秀で、真面目な方ばっかりです。だから、もし、一人になりたいなら、護衛の方たちに伝えてもらえれば、きっと、一緒に殿下の安全な場所を作ってくれると思うんです」
「ああ、オルフェルノの騎士は勇猛果敢で有名だしね」
「フメラシュでも、有名なんですか?」
「もちろんだとも。大国スナヴァールの侵攻を2度も撃退した騎士たちだよ。どの国であっても噂をしている。特に将軍に憧れる騎士は多い」
そう言うと、少女はふわんと頬を紅潮させ、とても嬉しそうに微笑んだ。
花が咲くような明るいそれに、落ち着いてきた心臓がまた忙しなく踊る。
「将軍様も騎士の方々もとっても強くて、優しいんです。ふふ、とっても嬉しいです。ありがとうございます」
ぺこりと頭を下げて、彼女がまるで自分のことのように喜ぶから、クラウスはそれがとても羨ましくなった。ふと、思って尋ねる。
「フメラシュのことは、何か知っているかい?」
「殿下のお国のこと…ですか?」
顔を上げて首を傾げる娘にクラウスは頷いた。
「うん、他国にどんな風に自分の国が話されているのか、興味がある」
「……私の意見なんかで、いいんですか?」
「うん、貴女の意見が聞きたいんだ」
少女は少しだけ考え込むと、ぽつぽつと話し始めた。
「フメラシュはここ数十年戦争がなく、平和な国だって聞いています。兵士の命を散らすことなく、武力ではない言葉の力で戦い続けるフメラシュ公は、とっても素晴らしい名君なのだと思います。戦禍に大切な人を奪われることなく、大地も荒らされることがない国。…とても、羨ましいです」
はっとして、息を呑む。
オルフェルノはここ10年の間に2度の侵攻を受けている。英雄譚よりも、平和こそ、彼女たちには貴重なのかもしれない。
平和の大切さは、それを失ったことのある人間の方がよほどに深く理解している。
クラウスは自国がどれほど恵まれた国なのかを改めて実感し、静かに微笑んだ。
フメラシュの魅力を伝えたい。
そして、クラウスの気づけないフメラシュの良さを教えて欲しい。
彼の中に欲が生まれた。
何百年とかけて改良された果樹の並ぶ荘園。
綺麗に整地され、緑の広がる農地。
暖かい風に、花びらの舞う豊穣を約束されたようなう美しい土地。
「オルフェルノに比べると、気候も温暖で、過ごしやすい。植物も多彩なんだよ」
極彩色の植物、宝石のような果実の話を聞かせれば、少女は目をきらきらと輝かせる。
「ふわ…、とても綺麗そうですね…見てみたいなぁ…」
「おいでよ。いつでも歓迎する」
興味津々な様子が本当に植物が好きだと知らせるから、本気で誘いを掛けていた。
(もしかして、本当に、連れて帰れないだろうか)
誘惑の雫が、胸の奥に波紋を起こして広がった。
よくよく考えて、良い案では思う。
王宮に務めるくらいだ、身元はしっかりしているだろう。
こちらとしては、侍女ひとりくらい、連れ帰るのに何の問題もない。
問題があるとすれば、オルフェルノ側からの許可だが、国の友好のため交換という形だったら、それほど難しいことではないはずだ。
クラウスは静かに微笑んだ。
彼女は、きょとん、とした顔をして…それから、くすぐったそうに笑った。
「社交辞令でも、そう言って頂けるのは嬉しいです」
その顔は、全く本気にはしていない。
それはそうだろう。初対面で、欲しいと思われているとはきっと誰だって思わない。
だからクラウスは、それを鷹揚に受け止めた。
本気だよと、重ねて言うには、思いつきで話しすぎたから。
もっと、たくさん話そう。
フメラシュに興味を持ってもらえるように。
そして、クラウス自身を好きになってもらえるように。
その間に、いろいろと準備をして。
帰るときには、一緒にフメラシュに来てもらえるように。
魅力的な誘い文句を考えよう。
とても楽しい計画に、彼は胸を高鳴らせていた。
……思えば、妹を止められず罪を犯させたのは、初めての恋に浮き足立って、自分の感情を優先してしまったクラウスの責任なのかもしれない。
危機感が足りなかったのは、妹を信じていたというのも事実だが、クラウスにとっての関心事がそちらになかったからというのが、実際のところだったのだろう。
だから、オルソの忠言も聞き流してしまった。
結果、親交のためにやって来たはずが、フメラシュの恥を晒して終わる羽目になった。
正使として何の責任も果たせず、逃げるようにこの国を去ることになったのが悔しい。
その原因はアリューシャだけではなく、自分にもあったのだ。




