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大陸の小国フメラシュ公国の勃興は、かつて、大国エランデシル王国の王弟が臣籍降下し、公爵となった折に国王から領土を分け与えられた事に始まる。一領地でしかなかった為に、数ある国々の中でも国土は狭い。けれど、その領地は肥沃な大地と温暖な気候、豊富な資源に助けられ、エランデシルの後ろ盾と堅実な政策で独立を守り続けていた。
だが、エランデシルの隆盛に影が差し始めると、フメラシュは己の力で自国を守らねばならなくなる。不安が国を包み始めた頃、新たに若き君主がその座に就いた。
それがレオニート・マクシム・フメラシュ、現フメラシュ公である。彼は即位より数十年の間、国内を安定させるとともに、言葉を巧みに操り、話し合いで侵略の危機を回避し続けている。
小国に長きに渡る安寧をもたらす賢き為政者。
誠実ながらも老獪な小国の君主はその鉄壁の外交によって、周囲の国に一目置かれる存在となっていた。
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玉座の間。
人払いされた広間で、親子は国主とオルフェルノ王国に遣わされた正使として対面を果たしていた。重苦しい沈黙が、その場を支配する。
クラウスが話し始めるのを、父は静かに待ち続けているようだった。
彼は意を決して、国主レオニートを仰ぎ見た。
玉座に座るのは60を過ぎた初老の紳士であった。見事だった金髪は艶を無くし一部鈍色に色が抜けている。けれども金灰色の瞳の輝きは衰えることなく、その眼光は鋭く、人格が滲み出る誠実な眼差しは、心を覗かれているような落ち着きのなさを感じてしまうほどに深い。彫りの深い顔立ちに、高い鼻。引き締まった体格に背筋の伸びた佇まいが年齢を感じさせず、姿だけを見ればまだ40代でも通りそうな若々しさと、覇気を保っていた。
だが、歳を重ねた人間にしか出すことのできない、荒々しさの無い、巨木宛らのどっしりとした重厚感、その威厳に実の父親であろうとも背筋が伸びる。正面から見返すことが出来ずに、クラウスは俯きがちに話し始めた。
「…事の顛末は、事前に送った書簡の通りでございます。友好のためとオルフェルノに向かったはずが、この事態。謝罪の言葉もありません」
「アリューシャのことは、真か?」
フメラシュの深窓の姫、アリューシャ。父である彼が、末子である娘のことを心配するのは当然だろう。報告は信じてもらえるだろうか。不安が胸を過る。
慈愛に満ちた可憐で優しい無邪気なお姫様。
彼女を形容するとしたら、誰もが同じようにそう言うはずだ。
クラウスとて今まではそうだと信じていたのだから。
なればこそ、彼が父親に送った文書には信じてもらえないような事柄ばかり。
だが、現実に騎士と侍女がオルフェルノで捕縛され、一緒に連行されてきている。
妹はオルフェルノで、将軍の婚約者を殺害しようと目論んだのだ。
唇を噛み首肯すると、クラウスは言うべき言葉を絞り出した。
「…真実です。ここに戻るまでに、侍女たちも数名、心を壊しております。アリューシャは、まるで、……毒花のようだ」
納得できないままに帰国の準備を進められ、彼女にとっては不満だらけの帰国となった。
それでなくとも機嫌が悪い上に、今まででは有り得ない腫れ物に触るかのような扱いに、優越感の上に成り立っていた彼女の慈愛は刃こぼれし、アリューシャの本性は、帰国の最中であっさりとさらけ出されることになる。
慈しみ深い優しい女性の仮面は罅割れて欠け、楚々として微笑むその口元の、その下にある歪んだ嘲笑を隠しきれない。使用人たちは、敬愛していた公女の変化に戸惑い、彼女に対する愛情も、尊敬も、憧憬もどこかに迷子にしてしまった。アリューシャの優越感を満たす、降り注いでいた賞賛の言葉は誰の口からも届けられることはない。
どこか怯えたような彼女たちに向かって、アリューシャは苛立ちを言葉に代えて、可憐な笑顔で残酷なほど優しげに囁いた。
振りまかれるのは、遠まわしな侮蔑と猜疑の種。
「貴女って気が利かなかったのね。知らなくて、恥ずかしいわ。欠けているのは人の思いやる思考?…それとも知性かしら?見目も中身も醜いと、彼女たちが笑っていたけれど。そんなことはないって、私は信じたのに…いいわ、下がりなさい」
共に働く使用人たちは、悪意の欠片も無いような公女に無邪気に貶められ、彼女の言葉に互いに互いが蔑まれていると思い込み、段々誰を信しればいいのかわからなくなっていく。そして、人間不信に耐え切れず、心とともに身体への変調をきたすようになっていった。
使用人と公女の信頼は失われ、彼女の望む、従順で心酔するような眼差しは既にない。
フメラシュに帰ったからといって、以前の通りであるはずなかったのだ。
一度壊れた絆で、どれだけ優しく慈愛に満ちた姫を演じたところで、今更、信頼など取り戻せはしない。
「アリューシャの内面に気づけず、私はあの子の行動を黙認してしまいました。…可愛らしい恋心を伝えるだけだと思っていたのです。……誠実で、心の優しい妹であると信じていたから…っ」
オルフェルノでは出来なかった言い訳を、彼はした。
父の前で甘えていたのかもしれない。
仕方がない。知らなかったのだからと。
騙されていたクラウスを擁護する言葉すらあるのではないかと、心の底で期待していたのかもしれない。…その甘さは、見事に打ち砕かれた。
「盲目的な信頼は信頼ではない。唯の怠慢だ、クラウス。重ねて、将軍に婚約者がいると知りながら、アリューシャの行動を止めなかったならば、そなたも同罪。その行為で、相手の女性が悲しむと気がつかなかったお前の身勝手さに、あの将軍が謝罪などさせるわけがなかろう」
「…!」
フメラシュ公としての厳しい眼差しが、クラウスを貫く。
「己の欠点を知れ、クラウス。お前もまた、自分のその地位が特別だと思っている愚か者。そもそも、国民は王族や公族だからと、頭を垂れるのではない。国を守り、繁栄させ、平らかな世を維持するからこそ、信頼と尊敬を預けるのだ。行動に対する対価として、我らは特権を得ているに過ぎない。…それが、伝わらなかったか」
深甚なる憂慮を浮かべるこの国の主は、口先だけでなく事実行動でそれを体現してきた。
クラウスは色を無くした硬い表情で首を振った。
誰よりも傍で、誠実に国民と、国と向かい合う父親を見てきたのだ。
その期待に答えられず、自分の愚かさに今まで気づけずにいた己の不甲斐なさに、言葉もない。きつく唇を結び、今まさに悔恨の渦の中にいるクラウスに、レオニートは静かに続けた。
「お前の周りを取り巻いている連中は、優しかっただろう?反省を促すこともなく、全てを肯定してくれたはずだ。彼らは、取り入ったふりをしてお前を、我欲を優先させる能無しにしたいのだ。ルシウスを廃し、お前を国主に据えれば自分に都合よくこの国が動かせられると思っている強欲な者たちだからな。誰かの駒になりたくなければ、目を養え。心を強くして、自分の行動を相手がどう感じるのか考え、人を思いやれ。誰を信じて、誰を警戒すべきか、ちゃんと見極められるようになりなさい。そして、誰かを思うことができたなら、この国を守る強さも自然と形作られる」
切実な感情を抱いたその目には、厳しい中にもクラウス自身を案じる光があった。
「お前に外交の一部を預けたのは、交渉技術を学ばせるためばかりではない。安穏と守られた環境では決して実感できない、相手の狡猾さを認識させるためだ」
どれほど他国が強欲であるか、支配した国に残酷であるか。隙を見せたら襲われる。計算高い相手を今のように簡単に信じれば、笑顔で裏切られる。
「オルフェルノとて誠実な国だが、狡猾なところもある。お前に全員連れ帰らせたのは、親切心などではない。直接手を下さなければ、見当違いの逆恨みを買うこともないからだ。そして、あの国の望むとおりに奴らを処分しても、我が国にはあの国への借りしか残らん。それを理由に、何かを求めてくるつもりはないだろうが、どこかの国と並び立てて選択をするとき、我らは必ずオルフェルノを優先しようとするはずだ。それだけでもあの国にとっては有益だろう?」
立場的なものでなく、心理的にオルフェルノは外交上の有利を得た訳だ。
「連れ帰るべきでは…なかったのでしょうか」
「それもまた、まずい。お前が予想した通り、向こうで処分となれば、事は大きくなっただろう。他国の者を処分するのだから、誤解の無いよう罪を詳らかにしたはずだからな。我が国は醜聞を晒すはめになった。選択権があるように見せかけて、どちらにせよ、我が国に選べたのは一択のみ」
駆け引きに長けた実にオルフェルノらしいやり方だ。
どれほど強い騎士団を持とうとも、力技に頼ることをしない。
自国の有利に進めながら、相手の妥協できる落としどころをきっちりと理解している辺り、流石としか言いようがない。
オルフェルノは怒りを露わにしながら、それでも、この国を非難することはなかった。かの国に後ろめたさを感じることはあっても、嫌悪感は浮かばない。
感情のまま彼方から非難されたのならば、此方に非があろうとも何処か蟠りは残ったはずだ。そうはならないよう、国同士の信頼を損なうことなく、上手く立ち回った将軍は、どれほどの忍耐を持って、荒れ狂う怒りを自分の胸の奥に抑え込んでいたのだろう。そんな彼の想いが簡単に変わるかも知れないなどと、どれほどに失礼なことを彼に言っていたのかと今更に気づき、クラウスは湧き上がる慙愧の念に胸が疼いた。
後悔はある。だが、後悔ばかりでは先に進むことはできない。
床を映していた視線を顔ごと上げた。そこには父の真摯な瞳があった。父は、叱りはすれど、落胆はしていなかった。クラウスが変われると信じてくれている。
「良い見本であろう?あの男は。あの男の強さは、守ると決めた強さだ」
冬狼将軍、その名前が物語る。オルフェルノを守る守護神。
「尊敬などと言ってないで、見習い、近づけ。最初は猿真似でも構わん。その信念が理解できればそれはもう、自分のものだ。あの男はお前に怒っているが、見限ってはおらん」
故にフメラシュの面子は守られ、国交は維持されたのだ。
「私になれるでしょうか…私はとても、愚かです」
「今が最低なのだ。それがわかったのならば、後は良くなるしかあるまい」
あっさりと言われた言葉に、クラウスは目から鱗の心地だった。
落ち込ませておいて、父は相変わらず引き上げるのも、とてもうまい。
自分が最低だと気がついたのだから、確かにこれ以上悪くなることもないだろうと、それは信頼だ。…良くしていこうと努力をすれば、多少はマシになるかも知れない。父の言う通り、初めは猿真似でもいいから。
情けない顔をして笑えば、レオニートはゆっくりと微笑んだ。
「ですが、正使として失敗をしてきたのは事実、その処罰は受ける覚悟です」
柔らかい父の面差しに、クラウスは甘える訳にはいかないと思った。
話を戻すと、彼の目が哀れむようなものに変わった。
「あれの本性に気が付けたのであれば、それで良い」
その言葉に。その、意味に。
クラウスは愕然として、瞠目した。
「父上は…、知っていらっしゃったというのですかっ?!アリューシャの…っ」
「欠陥を?もちろん、知っておったよ。…その話は後にしようか。ようやく来たようだからな」
あっさりとした父親の声に重なるようにして、重厚な入口の扉が開く音がした。
振り向けば、ルシウスに案内されてきたのか、アリューシャが目を潤ませて、父を見つめている。
この国を担う、公爵家の家族が全員、そこに集まった。