白い部屋で・3
沙耶が再び目を開けると、そこにはまだ青年がいた。ベッドの脇に座り、静かにこちらを見下ろしている。
「……まだ、いたの?」
「話をきいてくれるか?」
穏やかに低く響く青年の声に、沙耶は弱く頷いた。もう、逆らう気力もなかった。意識が波のように揺らめいて、時々遠ざかりそうになる。それでも彼の声を聞いていたい。そう強く願う自分自身に、この間際になって気づく。
「僕の世界に君は存在してるんだ」
僕の世界? それはこの世界とは違うの?
問いかける力は残っていない。ただ物言いたげに彼を見つめる。
「僕はね、僕の世界を君で埋め尽くしたんだ」
彼は少女の返事を待たずに、話を続けた。
「君の体が失われても、僕の世界の君は残る。あの世界の隅から隅まで、すべてが君なんだ。僕はそこで生きる。そうすれば君を失わずに済む」
意味が分からなかった。目の前の青年は前から不思議なところはあったが、こんな突拍子もないことを言われたのは初めてだ。
「春の頃、君が作る僕の世界はとても輝いていた。色とりどりの花が咲き乱れて、作物は大いに実って」
幸せな世界だった。温かく、優しい太陽に包まれて。
「でも、あの日から、僕の世界には色が無くなった」
「……あの日?」
「君が僕に、もう来るなといったあの日さ」
それを言ったのは、お医者様からもってあと1ヶ月だと告げられた日だ。沙耶の未来が失われた日。
「何かが起こったんだって、すぐ分かった。君の心が色あせてしまう何かが。でも、君を信じたかった。いつか必ず色を取り戻してくれるって。大切なものを見失ったりしないって。だってあの日、たった一人だけ色を失わなかったのは……」
ノゾム。――望。
彼は希望を映しだす少年だった。その彼の瞳の色だけが残った。他の何もかもの色が失われたのに。その意味は―――
「だから、君の希望は消えてない。心は死んではいないって分かったんだ」
「き、ぼう」
「……だから僕は、賭けてみたんだ。この世界にはずっと昔から色がない、最初から何も素敵なことなどなかった。そう思い込むほど頑なな君の心を取り戻すことを。色を取り戻すには、魔女に、……君の心に願うことだって。そうノゾムに言って」
青年の眼に、大粒の涙が浮かぶ。ゆっくりと流れてくるそれは、少女の頬に落ちて、さらに耳元まで流れていく。
「君に、……生きてほしいと願うのは、残酷なことなんだと分かっている」
嗚咽交じりの海人の声は、沙耶の胸を苦しいほど軋ませる。
「だったら僕も死んでしまいたい。これから先、暗闇の中で生きるなんて辛すぎる。だけど、死ねない。僕は君を失ってからも、生きていかなきゃならないんだ」
「かい……と」
「頼む。俺の世界に、……色を戻してくれ」
「海人」
「せめて、心だけは死なないでくれ」
少女は涙を流す青年を見つめた。死んでいく自分だけが辛いのだと、ずっとそう思っていた。けれど、本当はそうじゃない。失う人だって辛いのだ。
まだ出来ることがある。それはなんて素晴らしいことなんだろう。与えられるよりも与える方が人を活かす。沙耶の中に生まれた力が、瞳に生気を取り戻させる。
この人を救うことが最後にやれることだ。
――目の前の暗闇が晴れていくような気がした。
「……聞い、て」
「沙耶」
「私、あなたに会えてよかった」
あなたは短い私の生涯を彩ってくれた人。
もし私が死んで、あなたが暗闇のまま生きるとしたら、それはとても悲しくて、辛いことだ。私が死んでからも、あなたの世界に居場所があるなら。せめてあなたを助けれるなら。私は生まれてきて良かったと、きっと心から思える。
「金、……木犀」
「え?」
「……いい匂いよ」
甘い花の香りが、辺りを包む。白い病室に、明るい日差しが差し込んだ。
「沙耶……?」
海人が窓の外から彼女へ視線を戻したとき、沙耶は安らかな顔で目を閉じていた。
「ありがとう」
その声がどこから響いたのだろう。窓の外か、心の内か。海人には分からなかった。それでも届いた。確実に。




