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白い世界で・2

 少女が次に目を覚ました時、青年がベッドサイドに座っていた。


「来なくていいって、言ったでしょ」


「また来るって、言っただろう」


 少女の不機嫌な声もお構いなしで、青年は答える。弱々しく振り上げられた少女の手を青年はさっと掴んだ。


「スケッチブックは、当たったら痛いよ」


 行動を読まれたことが悔しくて、少女は顔を伏せる。


「もう、描かないの?」


 彼にだけは言われたくなかった言葉が、胸に突き刺さる。俯いたまま少女は唇をかみ締める。描けるなら。夢を見れるなら、あなたを拒絶したりはしないのに。どうして気づいてくれないの。


「離してよ。……もう、描けないのよ」


「え?」


「手が動かないの。指が震えて描けないのよ」


「沙耶」


「だから、もう来ないで!」



 大きな声を出すだけで呼吸が乱れる。上半身に汗が噴き出してきて息が荒れる、呼吸が苦しい。青年が気遣うように伸ばした手を、少女は必死に叩いた。


「……優しくしないで」


「沙耶」


「呼ばないで」


 お願いだから、これ以上惨めにさせないで。未来がない。あなたと一緒に描いた世界も、もう紡ぐことができない。少女の目から涙が零れ落ちる。


「……あなたに、こんなに弱った自分を見られたくなかった」


「沙耶」


 三度目に名前を呼ばれた瞬間、涙はこらえきれず頬を伝った。


「……帰ってよ」


 もう楽しいことなんて起こらない。いつか治ると思えばこそつらい治療にも立ち向かえた。希望があったから。いつかを夢見ることが出来たから。なのに、がんばった挙句の結果は3ヶ月の余命宣告。これ以上どうしろというのだ。


「帰って」


 もう、嬉しいことも楽しいこともいらない。死んでいくんだもの。だから、あなたも要らない。


 少女の絶望は大きい。青年は何度か彼女に手を伸ばそうとして触れることが出来ないまま拳を作った。沈黙が、場を支配して彼女に味方した。ついに彼のほうが立ち上がると、何度も振り返りながらも部屋を出て行った。



 窓からは風が吹いていた。金木犀の優しい香りが、病室内に入ってくる。


 どこに木があるんだろう、この窓から見えたらいいのに。かわいいオレンジの小さな花。大好きだったのに。


 沙耶はベッドに横たわりながらオレンジ色の木を探す。けれど見つけることは出来ずに眼を閉じる。強い薬に替わったからか頭がうまく回らない。何もしたくない。考えたくない。


 沙耶は手を伸ばして、空中に絵を描いた。何を書いているのかは自分でも考えていない。ただ、思うがままに指を動かす。

 

 こうして指を動かして、スケッチブックの上に世界を作った。それだけで、とても楽しかった。とても幸せだった。


 ゆらゆら。頭の中が揺れているようだ。


 楽しかった、悲しい。何が? 

 分からない。私は何をしたいんだろう。

 いや、考えても仕方ない。したくてももう、何もできない。


 嫌だ。仕方ない。会いたい。違う。


 頭の中はぐるりぐるりと色んな気持ちが回っている。渦を巻いているみたいに次々と違う気持ちが現れ出て、考えをまとめることも出来ない。


「さよなら」


 目を閉じて眠ろうとした。だけど、ベッドに落とそうとした手を、急に誰かに掴まれた。


「嫌だ」


「……どうして? いつの間に?」


 そこには、青年がいた。瞳に涙を溜めてじっと沙耶を見ている。どうして泣いているの? 泣かないで。涙なんて、無くなればいいのに。


 そう。そう願ったから涙は消えたんだよ。


「さよならなんか、したくない」


 沙耶の頬に涙が落ちて、唇に温かい感触が触れた。もう、振り払う力もなかった。


「もう、何もないの」


 だから泣かないで。私のことは忘れて。楽しいことも涙も考える力も、もうない。もう全部消えてしまった。


「君に、生きてほしいと願うのは、酷なことなのか?」


 青年の呟きに、沙耶は静かに頷いた。


 力が抜ける。また、眠りに落ちる。怖い。再び目が開かなかったら、どうしよう。


「……海人」


 意識が途切れる寸前、沙耶は青年の名前を呼んだ。とても愛しいと思っていた人の名前。


 無くしたと思っていた涙が、一粒目尻から落ちる。消したはずなのに、と思った。






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