↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR

孤児院育ちと冷遇されてきた洗濯婦ですが、黒虎の王様が十八年探し続けた「死んだはずの番」だったようです

掲載日:2026/10/14

 十八歳の誕生日は、いつもと同じ灰色の朝から始まった。


 もっとも、それが本当に私の生まれた日なのかは、誰にも分からない。


 十八年前の春、川辺のアシの茂みで泣いていた赤子を、孤児院のベルタ院長が拾った。その日を「誕生日」と決めてくれただけだ。


 名前もそう。拾った日が聖アンナの祝日だったから、アンナ。


(……分かりやすくて、いい名前だと思う)


 自分で自分にそう言い聞かせるのは、もう癖のようなものだった。




 下町の外れにある共同洗濯場は、朝から湯気と石鹸のにおいで満ちている。


 孤児院を出られるのは十六歳から。私は二年前に院を出て、この洗濯場で住み込みで働いていた。宿屋や商家から預かったシーツを、大きなたらいで踏み洗いして、絞って、干して、取り込んで、畳む。その繰り返しだ。


「アンナ! いつまで寝てるんだい。水汲みがまだ終わってないよ」


 洗濯場を仕切るドーラさんの怒鳴り声が、屋根裏まで響いてくる。


 まだ夜明け前だ。ほかの洗濯婦たちが来る前に、井戸から水を汲んで、十個のたらいを全部満たしておく。それが私の、一日の最初の仕事だった。


「すみません、すぐに」


 急いで階段を下りると、ドーラさんは腕を組んで私を見下ろした。


「まったく、孤児院の子はこれだから。雇ってやった恩も忘れて、のんびりされちゃ困るんだよ」


「……はい」


 言い返したことは、一度もない。


 この町で、孤児院育ちの娘を雇ってくれる店はほとんどない。親のいない子は手癖が悪い、身元が分からない、何かあっても責任を取る家族がいない――どこへ行っても、同じことを言われた。


 ドーラさんが私を雇ったのは、ほかの洗濯婦の半分のお給金で、倍の仕事をさせられるからだ。それは分かっている。


 それでも、ここを追い出されたら、私には行くところがない。


(……辞めるわけには、いかない)


 水を汲み終えるころには、空が白み始めていた。


 桶を運ぶたびに、体の芯がぼうっと火照る。冷たい井戸水に手を浸しても、熱が引かない。風邪だろうか。でも喉も痛くないし、咳も出ない。


 やがて、ほかの洗濯婦たちがやってきた。


「アンナ、宿屋の分のシーツ、あんたがやっといて。あたしは商家の肌着をやるから」


「あ、それならあたしのも。腰が痛くてさ」


 一番重くて、一番汚れのひどいシーツの山が、次々と私のたらいの横に積まれていく。


 ドーラさんは見ているのに、何も言わない。いつものことだ。


 私は黙って、たらいの中のシーツを踏みつけた。


 孤児が熱くらいで仕事を休んだら、次の日には代わりの子が雇われている。この町では、それが当たり前だった。


 今日が私の誕生日だということを、ここで知っている人は誰もいない。知っていたとしても、きっと誰も気にしない。


 異変に気づいたのは、昼過ぎ、洗濯場の隅でひとり、硬い黒パンをかじっていたときだった。


 袖をまくった左の手首の内側に、見覚えのない痣がある。


 黒くて細い、三本の筋。まるで獣の爪で引っかかれたような形をしている。けれど痛くもないし、腫れてもいない。肌の下から、墨を流したように浮かび上がっているのだ。


(……何、これ)


 指でこすっても、消えない。


 昨日の夜まで、こんなものはなかったはずだ。


 怖くなって、私は袖を下ろした。


 熱と、痣。どちらも悪い病気の兆しだったらどうしよう。医者にかかるお金なんてない。


 それに、もし病気だと知られたら、ドーラさんはその日のうちに私を追い出すだろう。病気の娘をそばに置いておくような人ではない。孤児院にはもう、小さな子たちがいっぱいいるから、帰ることもできない。


(大丈夫。寝れば治る。今までだって、ずっとそうだった)


 物心ついたころから、私は「いつか誰かが迎えに来てくれる」という夢を見ないようにしていた。


 孤児院には、そういう夢を見る子がたくさんいた。本当はお姫様なのだとか、お父さんは騎士で今は遠い戦場にいるのだとか。そして、誰も迎えに来ないまま大きくなって、少しずつ口数が減っていく。


 私は最初から、そういう夢を持たなかった。


 川辺に捨てられていた赤子を、わざわざ探しに来る人なんていない。


 そう思っていたほうが、ずっと楽だった。


 それでも、まったく寂しくなかったわけではない。


 孤児院では、誕生日の子に院長先生が小さな焼き菓子を一つくれる決まりがあった。私は毎年それを半分に割って、年下の子に分けていた。一人で全部食べると、なぜか胸のあたりがすうすうしたからだ。


「アンナは欲がないのねえ」


 院長先生はそう言って笑ったけれど、本当は違った。


 ただ、誰かと分け合いたかっただけだ。私の誕生日を、私以外の誰かにも覚えていてほしかっただけだ。


(……今年は、分ける相手もいないけど)


 黒パンの最後のひとかけらを、口に押し込む。


「アンナ! 休憩はとっくに終わりだよ!」


 ドーラさんの声に、私は慌てて立ち上がった。


 午後の仕事が、山ほど待っている。




 その夜、熱はさらに上がった。


 洗濯場の屋根裏にある狭い寝床で、私は薄い毛布にくるまって震えていた。体は熱いのに、寒い。手首の痣が、どくん、どくんと脈打っている気がする。


 うつらうつらしながら、夢を見た。


 大きな黒い影が、私を覗き込んでいる夢だ。


 怖くはなかった。影は、ひどく悲しそうな金色の目をしていた。


(……泣いてるの?)


 手を伸ばそうとしたところで、遠くで鈴の音が鳴った気がして、目が覚めた。


 窓の外は、まだ真っ暗だった。




(イグナーツ視点)


 ――鈴が、鳴った。


 そう思った瞬間、イグナーツ・ザルヴァーンは寝台から跳ね起きていた。


 胸元に下げた銀の鈴を握る。鳴ってなどいない。十八年間、一度も鳴らなかった鈴だ。


 それでも、確かに聞こえた。


 そして、それ以上に――


「……っ」


 息を吸い込んだ瞬間、膝から崩れ落ちそうになった。


 気配がある。


 十八年前、腕の中で眠っていた小さな命の気配。乳と陽だまりのような、甘くやわらかな香り。十八年間、糸のように細く、今にも途切れそうなほど微かにしか感じ取れなかったものが、今ははっきりと、西の方角から流れ込んでくる。


「陛下! いかがなさいました」


 物音に気づいた侍従長のマティアスが、燭台を手に飛び込んできた。雪豹族らしい灰白の髪が、寝癖で跳ねている。


「マティアス。馬を」


「は?」


「馬を出せ。西だ。――エリシアが、いる」


 老いた侍従長の手から、燭台が落ちかけた。




 十八年前。


 イグナーツはまだ十四歳の王子だった。


 王宮医師ヘルマン・ブランシュは、獣人国ザルヴァーンでは珍しい人間の医師だった。腕がよく、父王の信頼も厚かった。その妻が女の子を産んだと聞いて、イグナーツは父王の名代として祝いの品を届けに行った。


 ただ、それだけのつもりだった。


 揺りかごを覗き込んだ瞬間、世界がひっくり返った。


 小さな、小さな人間の赤子。握りしめた拳は、イグナーツの親指ほどの大きさもない。それなのに、その赤子から漂う香りを吸い込んだ途端、体中の血が叫んだのだ。


 ――これだ。これが、俺の番だ、と。


 黒虎族の雄は、生涯にただ一人の番を持つ。出会えば分かると言い伝えられていたが、まさか十四歳で、しかも生まれたばかりの人間の赤子だとは思わなかった。


 その日のうちに、イグナーツの左の手首には、黒い三本の筋が浮かび上がった。番を見つけた黒虎の雄に現れる、番の印だった。


 ブランシュ夫妻は腰を抜かすほど驚き、父王は大笑いした。


「よかったではないか。お前が大人になるまで、この子も大きくなる。急ぐことはない」


 イグナーツは真っ赤になりながら、ブランシュ夫妻に頼み込んで、赤子の名前を付けさせてもらった。


 エリシア。古い言葉で「祝福」という意味だ。


 そして、王家に伝わる対の銀の鈴の片方を、赤子の小さな足首に結んだ。もう片方は、自分の首に下げた。


「大きくなったら、迎えに来る。……待っていてくれ」


 ちりん、と赤子の足首で鈴が鳴った。返事をしてくれたようで、嬉しかった。


 その三月後、エリシアは攫われた。


 乳母が目を離したわずかな間の出来事だった。必死の捜索の末、国境の川の岸辺で見つかったのは、血に染まった産着だけだった。


 川に落ちたのだ、と誰もが言った。獣に襲われたのだ、とも。


 ブランシュ夫人は泣き崩れ、ヘルマンは一晩で髪が白くなった。


 だが、イグナーツだけは認めなかった。


 番が死ねば、黒虎の雄には分かる。魂の半分をもぎ取られるような痛みが走るのだと、言い伝えにある。


 その痛みは、来なかった。


 代わりに、エリシアの気配は霧のように薄くなり、どこにいるのか分からなくなった。それでも、消えはしなかった。手首の印も、消えなかった。


「生きている。エリシアは、生きている」


 十四歳の王子がそう言い張っても、大人たちは痛ましそうな目を向けるだけだった。


 やがて父王が崩御し、イグナーツは二十歳で王位を継いだ。


 毎年、エリシアが攫われた日が近づくと、国を挙げて「番の喪の儀」を執り行うよう、重臣たちが進言してきた。王家の番を正式に弔い、いずれ新たな王妃を迎えるべきだ、と。


 王子だったころも、王となってからも、イグナーツはそのすべてを退けた。


「死んでいない者の葬式など、出す理由がない」


 冷徹な黒虎王。番を失って心を凍らせた王。人々はそう噂した。


 構わなかった。


 どれだけ噂されようと、イグナーツは毎年、人間の国々に密かに人をやり、川下の村や町を探させた。自らも、公務の合間に何度も国境を越えた。


 見つからなかった。気配があまりに薄すぎて、どこにいるのか辿れなかったのだ。


 それが今、こんなにもはっきりと、呼んでいる。


 寝間着のまま厩舎へ向かおうとする王の背に、マティアスが慌てて外套を投げかけた。


「陛下、せめてお召し替えを! 護衛は、国境の通行許可は――」


「後から来い」


「お待ちください、陛下! 陛下ーっ!」


 黒い外套が夜の闇に溶けるのを、侍従長は頭を抱えて見送った。


 十八年、待った。


 もう一刻たりとも、待てなかった。


 夜通し馬を走らせ、明け方に国境の関所へたどり着いた。


 人間の国の兵士たちは、闇の中から現れた巨大な黒虎の獣人に槍を向けた。だがイグナーツが外套の留め金に刻まれた王家の紋を見せると、彼らは顔色を変えて道を開けた。


 乗りつぶしかけた馬を関所で替え、また走る。


 気配は、川に沿って下流へと続いていた。十八年前、血まみれの産着が見つかったあの川だ。


(川に落ちたのではなかった。……流されて、ここまで来ていたのか)


 日が昇っても、空は明るくならなかった。重い雲が垂れこめ、やがて冷たい雨が降り出した。


 外套が水を吸って重くなる。指先の感覚がなくなる。それでもイグナーツは手綱を緩めなかった。


 近づくほどに、香りが強くなる。


 ただ、その香りの奥に、かすかな熱っぽさが混じっていることに気づいて、胸がざわついた。


(熱を出しているのか。……誰か、そばについていてくれる者はいるのか)


 十八年間、何度も考えた。


 寒い思いをしていないか。腹を空かせていないか。泣いているときに、抱きしめてくれる腕はあるのか。


 答えは、もうすぐ分かる。


 イグナーツは馬の腹を蹴った。




 翌日は、朝から冷たい雨だった。


 熱は少しも下がらなかった。それでも私は、ふらつく足で洗濯場に出た。雨の日は、乾かないシーツを屋根の下に吊るし直す仕事がある。人手はいくらあっても足りない。


「アンナ、何をふらふらしてるんだい。手を止めてる暇なんてないよ」


「すみません、ドーラさん……」


 そう答えたときだった。


 洗濯場の外の通りが、急にざわついた。


 馬のいななき。誰かの悲鳴。水たまりを蹴立てる、重い足音。


「な、なんだい、あれ……」


 ドーラさんが、口をぽかんと開けて門のほうを見ている。


 私も、そちらを見た。


 雨の中に、男の人が立っていた。


 見上げるほど大きな人だった。黒い外套はずぶ濡れで、裾は泥にまみれている。濡れた黒髪の間から覗く耳は、人間のものではない。丸く、黒く、獣の耳だった。外套の裾からは、黒と金の縞の太い尾が垂れている。


 獣人だ。


 この国では、獣人を見かけることはほとんどない。国境の向こうの獣人国とは、ずっと距離を置いた付き合いをしていると聞いている。


 男の人は、肩で大きく息をしていた。何日も眠っていないような、ひどい顔色だった。


 それなのに、その金色の目だけが、燃えるように光っていた。


 その目が、まっすぐに私を捉えた。


(……あ)


 知っている。


 あの目を、私は知っている。


 昨夜、夢の中で、悲しそうに私を覗き込んでいた――あの金色の目だ。


 男の人が、一歩、踏み出した。


 洗濯場の女たちが、悲鳴を上げて後ずさる。ドーラさんが、私の背中をどんと押しやった。


「アンナ、あんた何をやらかしたんだい! うちは関係ないからね!」


 男の人は、ドーラさんには目もくれなかった。


 ただ、私だけを見ていた。


 そして、雨でぬかるんだ地面に――迷いもなく、膝をついた。


「……やっと、見つけた」


 かすれた、低い声だった。


 雨音にかき消されそうなほど小さいのに、なぜか耳の奥まで、はっきりと届いた。


「十八年、遅くなった。……迎えに来た、エリシア」


 しんと、洗濯場が静まり返った。


 エリシア。


 誰のことだろう。


 私はぼんやりと思った。熱のせいで、頭がうまく回らない。


「あ、あの……」


 声が震えた。


「人違い、だと思います。私はアンナです。孤児院で育った、ただの洗濯婦で……エリシアなんて人は、知りません」


 男の人の目が、ほんの少しだけ揺れた。


 それでも、首を横に振った。


「人違いではない。十八年、お前の気配を探してきた。間違えるはずがない」


「で、でも……」


「左の手首を、見せてくれないか」


 どきりとした。


 思わず、袖の上から手首を押さえる。


 誰にも言っていない。ドーラさんにも、誰にも見せていない。昨日浮かび上がったばかりの、黒い三本の筋。


「……どうして」


「番の印だ」


 男の人は、自分の左の袖をまくり上げた。


 太く逞しい手首の内側に、まったく同じ形の、三本の黒い筋が刻まれていた。


「十八年前、お前に出会った日に、俺の手首に浮かんだものだ。お前の側には、封じられていて現れなかった。……ずっと、片側だけだった」


 私は震える手で、自分の袖をまくった。


 雨に濡れた白い手首に、同じ三本の筋。


 洗濯場の女たちが、息をのむ音がした。


(……嘘。そんなの、嘘だ)


 だって私は、川辺に捨てられていた赤子なのだ。


 誰にも探されなかった。誰にも望まれなかった。だから捨てられたのだと、ずっとそう思って生きてきた。


 それなのに、今さら。


 十八年も経ってから、探していたなんて。


「信じられません」


 気づけば、そう口にしていた。


「あなたが誰なのかも分からないのに。私が、そんな……誰かに探してもらえるような人間のはずが、ありません」


 男の人の顔が、苦しそうに歪んだ。


 怒らせただろうか。私は身をすくめた。


 でも、男の人は怒らなかった。ただ、首に下げていた何かを、外套の中から引き出した。


 小さな、銀の鈴だった。


 黒い虎の紋様が刻まれた、古い鈴。


「お前が攫われたとき、足首にこれと対になる鈴を結んでいた。……もう、どこにあるかも分からないが」


 その鈴を見た瞬間。


 私の後ろで、誰かが「ああ」と声を上げた。


 振り返ると、そこに、傘を差したベルタ院長が立っていた。


「院長先生……!?」


「市場で、アンナが熱を出しているらしいと聞いて、薬を届けに来たのだけれど……」


 院長先生は、雨の中に膝をつく大きな獣人と、その手の中の鈴を見つめていた。


 皺の刻まれた手が、震えながら、自分の胸元を探る。


「まさか、と思ったわ。……いつか誰かが迎えに来たときのためにと、ずっと持っていたの」


 院長先生が取り出したのは、色あせた布の小袋だった。


 その口をほどいて、手のひらに転がしたもの。


 黒い虎の紋様が刻まれた、小さな銀の鈴。


「十八年前、あなたを拾ったとき、足首に結ばれていたものよ、アンナ。……売ればいくらかになると言う人もいたけれど、どうしても売れなかった。これは、あなたを想う誰かが結んだものだと思ったから」


 院長先生の手のひらの鈴と、男の人の手の鈴。


 二つは、まるで鏡に映したように、同じ形をしていた。


 その瞬間だった。


 ちりん――


 風もないのに、二つの鈴が、同時に鳴った。


 澄んだ音が雨音を切り裂いて、洗濯場いっぱいに響き渡る。


「……っ!?」


 左の手首が、焼けるように熱くなった。


 体の奥で、何かがぱきん、と割れる音がした。


 ずっと胸のあたりにかぶさっていた、重たい膜のようなものが、ばらばらに剥がれ落ちていく。息が、急に楽になった。熱が、すうっと引いていく。


 そして――


 男の人の香りが、した。


 雨と、土と、夜の森のような匂い。それから、それよりずっと奥にある、懐かしくて、あたたかくて、泣きたくなるような匂い。


 知っている。


 この匂いを、私は知っている。


 ずっと昔、まだ目もよく見えなかったころ。大きな手が、私をそっと抱き上げてくれた。小さな声で、何度も何度も、名前を呼んでくれた。


 ――エリシア。


「あ……」


 涙が、勝手にあふれた。


 理由なんて分からない。覚えているはずがない。それなのに、体が覚えていた。


 男の人も、目を見開いていた。


 金色の目が、みるみるうちに潤んでいく。


「封じが、解けた……」


 震える声で、男の人はつぶやいた。


「お前の気配が、全部……ここにある。十八年ぶりに……」


 雨の中、膝をついたまま、男の人は両腕を広げた。


 でも、私に触れようとはしなかった。


 ただ、そこで待っていた。


「怖がらせたなら、すまない。無理に連れていくつもりはない。……ただ」


 大きな体が、小さく震えていた。


「ただ、一度だけでいい。……触れても、いいだろうか」


 十八年。


 この人は、十八年、私を探していた。


 誰もが死んだと言った私を、一度も諦めずに。


 私は、ぬかるみに足を取られながら、一歩、前に出た。


 もう一歩。


 そして、その大きな手に、自分の手を重ねた。


 次の瞬間、私は雨に濡れた黒い外套の中に、すっぽりと包み込まれていた。


「エリシア……エリシア……!」


 苦しいほどの力で抱きしめられる。濡れた外套は冷たいのに、その腕の中は、驚くほど温かかった。


 耳元で、何度も、何度も名前を呼ばれる。


 低い声が、ひどく震えていた。


 この人は、泣いているのだと思った。


「……生きていて、くれた」


 その一言で、私の中で何かが決壊した。


 気づけば私は、子どものように声を上げて泣いていた。


 誰にも迎えに来てもらえないと思っていた。そんな夢を見てはいけないと、ずっと自分に言い聞かせてきた。


 でも、本当は。


 本当はずっと、誰かに見つけてほしかった。


「……遅く、なりすぎです」


 泣きじゃくりながら、私はつぶやいた。


「ああ。すまない。本当に、すまなかった」


「十八年も、なんて……」


「ああ」


「待ってなんか……いませんでしたよ、私」


「知っている。それでいい。俺が待っていた」


 大きな手が、濡れた私の髪を、壊れ物を扱うように撫でた。


「お前の分まで、俺が待っていた。だから、もういい」


 雨は、まだ降り続いていた。


 院長先生は、鈴を握りしめたまま、静かに涙を拭っていた。ドーラさんは、真っ青な顔で口をぱくぱくさせている。


 遠くから、泥を跳ね上げる何頭もの馬の足音が近づいてくる。


「へ、陛下ぁ……っ! ようやく、追いつき……!」


 ずぶ濡れの灰白の髪の老人が、馬からずり落ちるように降りてきた。そして、この光景を見て、その場で固まった。


 それから、両手で顔を覆って、天を仰いだ。


「……ああ、神よ。十八年。十八年ですぞ……」


 陛下。


 その呼び名に、私はようやく気づいた。


「……陛下?」


 腕の中から見上げると、私を抱きしめたままの男の人が、少しばつが悪そうに目を逸らした。


「名乗るのを、忘れていた。……イグナーツ・ザルヴァーン。ザルヴァーンの王だ」


(お、王様……!?)


 熱は引いたはずなのに、もう一度、めまいがした。


 相手が王様だと分かった途端、誰よりも早く動いたのはドーラさんだった。


「お、王様でございましたか! まあまあ、こんな雨の中を……。アンナはうちで、それはもう大事に面倒を見てまいりまして……」


 さっきまでの怒鳴り声が嘘のような、猫なで声だった。


 イグナーツ様は、ゆっくりとドーラさんに目を向けた。


 ただそれだけで、ドーラさんの声がぴたりと止まった。


「大事に、か」


 低い声だった。怒鳴ってもいないのに、洗濯場の空気が凍りつく。


 イグナーツ様は、私の手をそっと持ち上げた。あかぎれだらけで、ひび割れて、ところどころ血のにじんだ指先。


「この手を見れば、この娘がここでどう扱われてきたかは分かる。……熱のある娘を、雨の中で働かせていたこともな」


「そ、それは……」


「マティアス」


「はっ」


「この洗濯場の取引先を調べておけ。俺の番を酷使した店と、今後も取引を続けたい商家があるかどうか、訊いて回るといい」


 ドーラさんが、その場にへなへなと座り込んだ。


 ほかの洗濯婦たちも、目を逸らして縮こまっている。


 少しだけ、胸がすっとした。そう思ってしまった自分に驚いて、私はイグナーツ様の外套の陰で小さくなった。




 それから五日後。私は、獣人国ザルヴァーンの王宮にいた。


 町を発つ前に、院長先生には、泣きながら別れを告げた。院長先生は「いつでも手紙をちょうだい」と言って、私の手首に、あの銀の鈴を結び直してくれた。


 熱が引いたばかりの私を気遣って、イグナーツ様は馬車をゆっくり、ゆっくりと走らせた。ゆっくりすぎて、侍従長のマティアス様が「陛下、このままでは王都に着く前に冬が来ます」とため息をついていた。


 ゆっくりなのは、馬車だけではなかった。


 宿に着けば、イグナーツ様は私を抱き上げて部屋まで運ぼうとする。自分で歩けますと言っても、「病み上がりだ」の一点張りだった。


 食事のときは、私の皿にばかり料理を取り分ける。少しでも手が止まると、「口に合わないか」「別のものを作らせるか」と真剣な顔で訊いてくる。


「あの、もうお腹いっぱいで……」


「そうか。では、これだけ」


 差し出されたのは、蜂蜜をたっぷりかけた焼きりんごだった。


 どうして私の好物を知っているのだろうと首を傾げていたら、マティアス様がこっそり教えてくれた。


「孤児院の院長先生に、陛下が直々にお訊ねになったのですよ。エリシア様のお好きなもの、苦手なもの、寒がりかどうか、寝るときは横向きか仰向けか……」


「ね、寝るときの向きまで……!?」


「ええ。院長先生は最後には笑って、『そんなにお知りになりたければ、ご本人にお訊きなさいませ』とおっしゃっていました」


 思わず振り返ると、イグナーツ様は気まずそうに窓の外を見ていた。黒と金の尾だけが、落ち着きなく揺れている。


 この人は本当に、王様なのだろうか。


 そう思ったら、なんだかおかしくて、少しだけ笑ってしまった。


 道中、イグナーツ様はすべてを話してくれた。


 十八年前のこと。私の名前のこと。本当の両親のこと。


 そして、私を攫った人のこと。


 犯人は、イグナーツ様の叔父、先王の弟オルグレン公だった。人間の娘が王の番となり、いずれ王妃になることを、どうしても許せなかったのだという。自分の娘を王妃に据えるつもりだったらしい。


 オルグレン公は私を攫い、気配封じの呪いをかけて、国境の向こうの川辺に置き去りにした。血まみれの産着は、獣の血で偽装したものだった。


 気配封じは、術者の命を削る代わりに、十八年のあいだ対象の気配を完全に覆い隠す禁術だった。人の子が大人になるまでの歳月――それだけ隠しておけば、王もとうに諦めて別の王妃を迎えているだろう、と考えたのだそうだ。


「……諦めなかったんですね」


「諦める理由がなかった」


 イグナーツ様は、当然のように言った。


 封じが解けた瞬間、禁術の反動はすべて術者に返った。オルグレン公は王都の屋敷で倒れ、駆けつけた医師の前でうわごとのように罪を口走ったという。今は爵位も領地も取り上げられ、北の塔に幽閉されているそうだ。


 いい気味だ、とまでは思えなかった。ただ、少しだけ胸のつかえが下りた気がした。




 王宮に着くと、門の前で二人の人が待っていた。


 白髪の、痩せた男の人。そして、その腕にすがるようにして立つ、栗色の髪の女の人。


 女の人の顔を見た瞬間、私は息をのんだ。


 ――私と、同じ顔だった。


 正確には、二十年くらい歳を取った、私の顔。同じ栗色の髪。同じ、少し下がった目尻。


「エリシア……」


 女の人の唇が、震えながら私の名前を呼んだ。


 何か言わなきゃ、と思った。はじめまして、だろうか。それとも、ただいま、だろうか。


 でも、言葉を探しているうちに、女の人は駆け寄ってきて、私を抱きしめていた。


 イグナーツ様とは違う、細くて、柔らかい腕。


「ごめんなさい……ごめんなさい、守ってあげられなくて……っ」


「お母、さん……?」


 口にした瞬間、その言葉はびっくりするほど自然に、私の喉からこぼれ落ちた。


 母は声を上げて泣き、父は私と母をまとめて抱きしめて、何も言わずに肩を震わせていた。


 イグナーツ様は少し離れたところで、黙ってそれを見守っていた。


 その夜、私は両親と一緒に、遅くまで話をした。


 十八年分の話は、一晩ではとても終わらなかった。父は、髪が白くなった理由を私に言いたがらなかった。母は、私が一歳になるはずだった日から、毎年、誕生日の焼き菓子を焼き続けていたと教えてくれた。


「食べてくれる人もいないのにね。陛下が毎年、一緒に食べてくださったのよ」


「……陛下が?」


「ええ。『エリシアの分は、俺が預かっておく』って。毎年、一番大きいのを持っていかれたわ」


 母は泣き笑いの顔で言った。


 私は、何と答えればいいのか分からなかった。


 胸の奥が、きゅうっと苦しくなった。


 夜更けに案内された部屋で、私はまた言葉を失った。


 王宮の奥、イグナーツ様の私室にほど近い、日当たりのいい部屋だった。窓辺には白い花が飾られ、寝台には柔らかそうな羽毛の掛け布がかかっている。


 けれど、驚いたのはそこではなかった。


 部屋の隅の棚に、小さな靴がずらりと並んでいたのだ。


 赤ちゃんが履くような、手のひらほどの布靴。よちよち歩きの子が履く革靴。少し大きくなった女の子の、リボンのついた靴。その隣には、もう少し大きな靴。


 十八足。


 一年に一足ずつ、少しずつ大きくなっていく靴が、きちんと並べられていた。


「……これは」


 案内してくれた侍女が、目を潤ませながら教えてくれた。


「陛下が毎年、エリシア様のお誕生日に、そのお年に合う靴を一足ずつお求めになっていたのです。いつお戻りになってもいいように、と」


 私は、一番大きな靴を手に取った。


 栗色の革の、きれいな靴だった。履いてみると、少しだけ大きかった。


 十八年分の「おかえり」が、そこにあった。


 その夜、私は柔らかすぎる寝台の上で、なかなか眠れなかった。




 翌朝。


 私は王宮の庭園で、イグナーツ様と二人きりになった。


 朝露に濡れた薔薇の間を歩きながら、私はずっと考えていたことを口にした。


「あの、陛下」


「イグナーツでいい」


「……イグナーツ様。私、自分が王妃になれるなんて、とても思えないんです」


 イグナーツ様の足が、止まった。


「字は院長先生に教わりましたけど、難しい本は読めません。礼儀作法も知りません。手は荒れていて、指先はあかぎれだらけで……ずっと、洗濯をして暮らしてきたんです」


 私は自分の手を見下ろした。


 ひび割れた指先。洗剤で白くふやけた爪。お姫様の手とは、ほど遠い。


「番だと言われても、私には実感がありません。あなたが十八年待っていてくださったことは、本当に、嬉しいです。でも、それに見合うものを、私は何も返せない」


 イグナーツ様は、しばらく黙っていた。


 それから私の前に回り込んで、そっと私の荒れた手を取った。


 そして――その指先に、口づけた。


「っ……!?」


「これは、十八年、ひとりで生きてきた手だ」


 金色の目が、まっすぐに私を見下ろしていた。


「誰にも頼らず、誰にも甘えず、毎日働いて、自分の力で生きてきた手だ。……俺は、この手を誇りに思う。見合わないなどと、二度と言うな」


「イグナーツ様……」


「それに、王妃になれと言うつもりはない」


 え、と私は顔を上げた。


「選ぶのは、お前だ。王宮に残るのも、ブランシュ家の娘として暮らすのも、人間の国に戻るのも、お前が決めていい。……番だからといって、お前を縛るつもりはない」


 イグナーツ様は、ほんの少しだけ、寂しそうに笑った。


「俺は十八年、待った。あと何年でも待てる」


 その笑顔を見て、私は思った。


 この人は、本気でそう言っている。私がどんな答えを出しても、きっと受け入れてくれる。


 十八年前、私の足首に鈴を結んで「待っていてくれ」と言った少年は、結局、一度も私を待たせなかった。


 待っていたのは、ずっと、この人のほうだった。


「……あと何年でも、ですか?」


「ああ」


「本当に?」


「本当だ」


 私は少しだけ意地悪な気持ちになって、首を傾げた。


「じゃあ、私が十年後に返事をすると言ったら?」


「待つ」


 即答だった。


「――ただし、その十年、毎日お前に会いに行く。花を贈り、菓子を贈り、お前が寒くないよう、腹を空かせないよう、毎日気にかける。手のあかぎれには毎晩薬を塗る。俺以外の雄が近づいたら追い払う。……それでもよければ、待つ」


「それ、待っているって言いますか……?」


 思わず笑ってしまった。


 いつの間にか近くに控えていたマティアス様が、遠い目をして「言いませんな」とつぶやいた。


 イグナーツ様は、尾を不機嫌そうに一度、ぱしんと振った。


 私は笑いながら、そっとイグナーツ様の手を握り返した。


「……十年も、待たせません」


 イグナーツ様の耳が、ぴくりと動いた。


「まだ、王妃になる自信はありません。番だという実感も、正直、よく分かりません。でも……」


 手首の黒い三本の筋が、ほんのりと温かかった。


「十八年も私を探してくれた人のこと、もっと知りたいです。だから――ここに、いさせてください」


 イグナーツ様は、何も言わなかった。


 ただ、ゆっくりと身を屈めて、私の額に自分の額をこつんと押し当てた。


 黒と金の縞の大きな尾が、私の腰に、遠慮がちに巻きついた。


 ちりん、と。


 イグナーツ様の胸元と、私の手首の銀の鈴が、同時に小さく鳴った。




(イグナーツ視点)


 その夜。


 イグナーツは執務室の窓辺で、ひとり、庭を見下ろしていた。


 手の中には、小さな焼き菓子がある。エリシアが帰ってきた祝いにと、ブランシュ夫人が焼いてくれたものだ。


 十八年間、毎年、一番大きいものを預かってきた。エリシアの分だ、と言って。


 本当は、食べるたびに胸が裂けそうだった。それでも、受け取らずにはいられなかった。受け取らなければ、エリシアがこの世にいないことを認めてしまう気がしたから。


 今年の焼き菓子は、食べずに包んだ。


 明日、エリシアと半分に分けよう。


 十八年分には足りないが、これからは毎年、二人で分ければいい。


 目を閉じると、雨の洗濯場が浮かぶ。


 ぬかるみに足を取られながら、それでも一歩ずつ近づいてきた細い体。ひび割れた小さな手が、自分の手に重なった瞬間。


 あのとき、本当は怖かった。


 拒まれるかもしれないと思った。十八年もの間、見つけてやれなかった男など、恨まれて当然だと思っていた。


 それなのに、エリシアは「遅くなりすぎです」と泣きながら、それでも自分の腕の中にいてくれた。


 庭園で、十年も待たせないと言ってくれた。


 あの子は、ひとりきりの十八年を、誰も恨まずに生きてきたのだ。あの洗濯場で、あれほど冷たく扱われながらも。孤児院の院長は、別れ際にこう言っていた。あの子は誕生日の焼き菓子さえ、いつも半分にして年下の子に分けてやる子だった、と。


(……ならば、これからは)


 これからは、あの子が分ける番ではない。


 あの子が今まで人に分けてきた分を、全部、倍にして返してやればいい。焼き菓子も、花も、靴も、言葉も。足りなければ、国ごとでも構わない。


 そう言ったら、きっとエリシアは困った顔で笑うだろう。マティアスは頭を抱えるだろう。


 それでいい、とイグナーツは思った。


「陛下。まだ起きておられたのですか」


 扉の外から、マティアスの声がした。


「エリシア様のお部屋の前を、もう五往復なさったと衛兵から報告が来ております。……おやすみになってください」


「……眠れるわけがないだろう」


「でしょうな」


 老いた侍従長は、扉の向こうで、ふっと笑ったようだった。


「十八年、お疲れさまでございました、陛下」


 イグナーツは答えなかった。


 ただ、胸元の銀の鈴を、そっと握った。


 ちりん、と、小さな音がした。


 ――今度は、ちゃんと返事がある。


(完)

これにて完結となります。お読みいただきありがとうございました!

ページ下部の【☆☆☆☆☆】から評価をいただけると、とても励みになります!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。