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第二節 牛鍋と煉瓦の風景


第二節 牛鍋と煉瓦の風景


 文化の浸透圧というものは、高きから低きへ流れるとは限りません。「美味きもの」「便利なるもの」へと流れるのが物理法則です。 18世紀から19世紀にかけての日本列島の風景を変えたのは、高邁な思想書よりも、むしろ一枚のステーキと一個の煉瓦でした。



1. 禁忌を喰らう   「薬喰い」から「国民食」へ


 仏教伝来以来、日本において獣肉食は長らく穢れ(タブー)とされてきました。しかし、このタブーを打ち破ったのは、黒船の圧力ではなく、南山からもたらされた「旨味」でした。


 1650年代、長崎や博多の「南蛮屋台」で提供され始めた鶏肉料理いわゆるカシワは、瞬く間に庶民の味覚を征服しました。そして決定打となったのが、1750年代の南山帰りの船乗りや商人たちが持ち込んだ習慣です。彼らは南山(豪州)の広大な牧場で、安い牛肉や羊肉を飽きるほど食べていました。彼らが帰国後、江戸や大阪で「体力をつける薬」と称して堂々と肉屋を開いたのが、日本の「肉食革命」の始まりです。


 1820年代(文政年間)の『江戸買物独案内』には、すでに「牛鍋・猪鍋」を看板にする店が神田や日本橋を中心に20軒以上掲載されています。 中でも、1798年創業の「伊勢熊いせくま」は、南山産の冷凍牛肉(冬場に氷詰めで輸送)と、入安島産の胡椒を効かせた味噌仕立ての「紅葉鍋もみじなべ」を提供し、江戸っ子の行列を作りました。

 当時の川柳にこうあります。


「仏より 現世の牛を 拝み食い」


 宗教的戒律よりも食欲が勝る。これが日本人のリアリズムです。1840年代には、牛肉の消費量は年間推定2,000トンを超え、南山からの輸入肉だけでなく、国内(近江や丹波)での肉牛肥育産業が成立する規模になっていました。



2. 木と紙の都市からの脱却 「燃えない江戸」への挑戦


 食卓が変われば、住居も変わります。 「火事と喧嘩は江戸の華」と(うそぶ)いていたのは17世紀までの話。資本の蓄積が進んだ18世紀の商人や幕府にとって、火事は単なる「資産の焼却」であり、許容できない経済損失でした。


 1700年代初頭から、日本橋の豪商や大名屋敷の一部で、防火対策として「土蔵造り」の壁面に平瓦や煉瓦を張り付ける工法が流行し始めました。これはまだ装飾的な意味合いが強かったのですが、19世紀に入ると様相が一変します。 英国産業革命の影響を受けた「南山様式(Nanzan Style)」の逆輸入です。


 南山の中心都市・明望(旧・冥海望)は、サイクロンやシロアリ対策として、1780年代から本格的な煉瓦・石造建築へと移行していました。このノウハウが耐火建築を求める日本の官庁や産業界に移植されたのです。 1830年代には、諸藩の藩校や工場、そして勘定奉行所の文書庫などが、次々と赤煉瓦の「洋風」建築に建て替えられていきました。



3. 1855年 安政の大地震 — 建築史の特異点


 しかし、この「煉瓦化」の波に冷や水を浴びせたのが、1855年(安政2年)11月11日、午後10時頃に発生した安政江戸地震(マグニチュード6.9〜7.0と推定)です。 直下型の激震は、江戸府内の家屋をなぎ倒しました。ここで露呈したのは、輸入されたばかりの「組積造(煉瓦造)」の脆弱性です。 見よう見まねで積まれた煉瓦壁は崩落し、多くの圧死者を出しました。一方で、伝統的な木造建築は、柔構造によって揺れを逃がし、倒壊を免れたものも多かったのです。


 通常の歴史なら、ここで「やはり日本には木造が一番」と揺り戻しが起きるところです。 しかし、当時の日本には、すでに南山経由で「ポルトランドセメント」(1824年英国特許)の製造技術と鉄材の量産技術がありました。 幕府の作事方は、この震災を奇貨として、世界でも類を見ないハイブリッド建築を生み出しました。


4. 「安政耐震基準」と鉄筋コンクリートの萌芽


 震災の翌年、1856年に幕府が出した復興令(安政建替令)には、驚くべき条項が含まれています。


「公儀ノ建物、及ビ三階建以上ノ大店ハ、其ノ基礎ヲ『人造石コンクリート』トシ、壁体ニハ鉄ノ芯、或イハ竹ノ筋ヲ入レ、煉瓦ト木骨ヲ結合スベシ」


 これは、事実上の「鉄筋(竹筋)コンクリート・煉瓦混構造」の推奨です。 特に、鉄が高価だったため代用された「竹筋ちっきん」は、入安産の硬質な竹を用いることで予想以上の強度を発揮しました。 江戸の街は再建されましたが、それは以前の「木と紙の街」ではありませんでした。 メインストリートである広小路は南山・明望の都市計画図を参考に拡幅され、その両脇には、一階部分がコンクリートと石、二階以上が煉瓦や木骨煉瓦造りの、堅牢な「防火帯建築群」が立ち並びました。


 また、ガラス窓の普及も特筆すべきです。 震災で多くのガラスが割れ、その被害が甚大だったことから、より強度の高い板ガラスの製造が江戸川の工場で急ピッチで進められました。 1860年代の江戸の浮世絵(写真技術もすでに普及していましたが)を見ると、日本橋から京橋にかけての通りは、ガス灯に照らされた煉瓦造りのアーケードが続き、ショーウィンドウにはガラスが嵌め込まれ、その奥で人々が牛鍋をつつく――という、欧州の大都市と同様の光景が広がっています。




  

<櫻井教授の歴史の裏読み>

「災害は文明の加速装置である(ただし金があれば)」


 安政の大地震は、初期の耐火建築と広幅員道路が整備されていたにも関わらず約4,000人の命を奪った悲劇だった。 しかし、形而史学的に見れば、この震災こそが江戸を「中世の巨大集落」から「近代都市」へと強制アップデートさせたスイッチだった。


 崩れた煉瓦を見て、日本人は煉瓦を捨てるのではなく、「崩れない積み方」と「セメントという接着剤」を発明(あるいは魔改造)した。「転んでもただでは起きない」というのが商人の性分だが、この時代の日本人は「転んだついでに、地面をコンクリートで舗装して起き上がった」ようなものだ。 もしこの震災がなければ江戸府の街並みはもっと長く、燃えやすい木造密集地のままだったかもしれない。


 お江戸の人々が今日、地震のたびにビルの中で優雅にコーヒーを飲んでいられるのは、安政の瓦礫の下で、先人たちが「木か、石か」という二元論を超えて「混ぜればいいじゃないか」というプラグマティズムに到達したおかげである。




最後までお付き合いいただき感謝します。

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