表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/12

第一節 輸入される「知」と「概念」

 南山文理大学の櫻井です。 さて、前章までは「人」と「モノ」の移動について語ってきましたが、第四章ではそれらよりも遥かに危険で、検疫にかからず、一度感染すると治療不可能なウイルス――すなわち「思想」と「知識」の伝播について講義しましょう。


 19世紀の日本列島と南山は、すでに「翻訳」という名のフィルターを通じ、欧州の知の最前線と血管を繋いでいました。 ただ、その血管を流れていたのは、必ずしも栄養たっぷりの酸素だけではありませんでした。体制を腐らせる「毒」もまた、大量に流れ込んでいたのです。



第一節 輸入される「知」と「概念」


 17世紀後半から19世紀にかけての日本列島を極めて透過性の高い「翻訳の膜」が覆っていました。 南蛮奉行所による検閲は確かに存在しましたが、それは情報の遮断ではなく、情報の「独占と選別」、そして何より「課税」を目的としていました。


1. 「タイムラグ・ゼロ」の衝撃 — ロンドン・明望・江戸のトライアングル


 情報の伝達速度において、我々はアジアの他の地域に比べ、決定的な優位性を持っていました。通常、オランダ船がバタヴィア経由で長崎に情報を運ぶには、季節風待ちを含めて1年から2年を要します。しかし、南山あるいは豪州を経由する英国・米国・フランス船のルートは、よりダイレクトで頻繁でした。例えば、1776年の米国独立宣言。この文書が南山の明望市で翻訳され、『亜米利加州独立檄文』として出版されたのは1777年の春。そして江戸の書店に並んだのは同年の秋です。 欧州で起きた革命や新発見が、わずか1年以内のタイムラグで、日本語という「コード」に変換され、日本の知識階層にインストールされていたのです。


 このスピード感は当時の知識人たちを熱狂させ、同時に幕閣を恐怖させました。1789年のフランス革命の報が届いた際、老中・松平定信は「巴里(パリ)の市民、王を虜にす」という報告書を読み、震える手で即座に南山への渡航制限強化(渡航選抜制)を打ち出しましたが、すでに情報は商人の手紙や船乗りの噂話として、下町にまで浸透していました。



2. 翻訳という名の「概念創造」 — 言葉が世界を書き換える


 西洋の事物が流入する際、最も障壁となったのは言語です。しかし、日本の知識人たちは、漢字という表意文字をレゴブロックのように組み合わせ、驚異的な速度で新概念を定着させていきました。


 杉田玄白らが『解体新書』を翻訳したのは有名な話ですが、南山の明望学派と呼ばれる学者たちは、より実用的かつ社会科学的な分野での翻訳を推進しました。「Society」を「社会」「Right」を「権利」「Economy」を「経済」(経世済民からの転用)「Republic」を「共和国」と訳出したのは、18世紀末の明望の在野学者・高野長英とそのグループであるとされています。


 言葉が生まれるということは、概念が実体化するということです。 それまで「お上(Authority)」と「下々(Subjects)」しか存在しなかった日本人の精神世界に、「市民(Citizen)」や「契約(Contract)」という概念が入り込んだ瞬間、封建制度の基本フレームはバグを起こし始めました。 幕府は慌ててこれらの言葉の使用を公文書で禁じましたが、商取引の契約書や、南山帰りの人間が書く手紙の中で、これらの新語はイナゴの大群のように増殖していきました。



3. 「危険思想」のベストセラー化— 幕府のちゃっかりした税収源


 ホッブズの『リヴァイアサン』、ロックの『統治二論』、ルソーの『社会契約論』。 これらは当然、幕府によって「禁書」あるいは「要注意図書」に指定されました。しかし、ここで徳川官僚の狡猾さ(あるいは実利主義)が発揮されます。 彼らはこれらの本を完全に焚書にするのではなく、「南蛮学術特認書」というカテゴリーに分類し、購入に際して高額な「学術冥加金(事実上の贅沢税)」を課したのです。


 「危険な本を読みたければ読め。ただしその代償として幕府の金庫を潤せ」 この政策により、1800年代初頭には豪農や富裕町人の書斎に金箔押しの『民約論(社会契約論)』が、伊万里焼の壺と並んで飾られるという奇妙な光景が出現しました。彼らの多くは、内容を革命のバイブルとして読んだのではなく、「最新の西欧教養ファッション」として消費しました。しかし、その中の数パーセント -特に鬱屈した下級武士や聡明な村役人の息子たち -は、行間にある「革命の火種」を正確に読み取りました。1837年の大塩平八郎の乱において、彼が檄文の中に「天賦人権」という言葉を(誤用ながらも)引用したのは、その象徴的な事件です。



4. 科学と技術の実装 — リバースエンジニアリングの極致


 思想がじわじわと浸透する一方で、科学技術(特に軍事と産業)の導入は、諸藩によって貪欲かつ即物的に行われました。 安定した国内と、南山という広大な実験場を持つ日本は、欧州の科学革命の成果を「つまみ食い」しました。


造船・航海術: 18世紀中盤には、和船の構造的欠陥を補うため、竜骨(キール)を持つ和洋折衷型ガレオン(通称:南山船)が標準化されました。これにより太平洋の荒波を越える大量輸送が可能となり、物流コストが劇的に低下しました。


医学: 1790年代には、英国のエドワード・ジェンナーが開発した種痘法が、南山経由で輸入されました。幕府はこれを「南山種痘」として推奨し、東國では1810年代には寺社を介して領民への接種をほぼ義務化し、1830年代の接種率は武士階級のほぼ9割、衆民であっても都市生活者は8割以上、農民であっても半数以上となっていました。遅れて西國でも1830年代には種痘は広まりましたが、幕末まで接種率は、武士階級でこそ6割程度になりましたが、衆民の平均接種率は2割程度となっていました。


 更に1840年代には都市化の進展により、公衆衛生の概念が必須とされ、またこれが日をおかず農村部にも導入されていきました。これにより日本の乳幼児死亡率は劇的に低下し、前節で述べた人口爆発に拍車をかけました。


物理・化学: ニュートンの古典力学や、ラボアジエの化学は、19世紀初頭には「窮理学」「舎密学」として体系化され、諸藩の藩校における必修科目となりました。特に横須賀の幕府直轄領や仙台藩や佐賀藩や薩摩藩、そして南山の明望学校工科寮では、これらの理論を元に、反射炉の建設や蒸気機関の試作が、1830年ごろから行われていました。



5. 経済システムの変革 —「信用」の再定義


 そして、最も社会を変えた「知」は会計と金融の技術です。 イタリア・ルネサンス期に生まれた複式簿記は、17世紀後半にオランダ商館を通じて導入され、「大福帳」から「借方貸方帳」への移行を促しました。 これにより日本の商人は「今、手元にいくらあるか」ではなく「将来いくら儲かるか(または損するか)」を時間軸の中で把握できるようになりました。


 さらに、「株式会社(Joint-Stock Company)」の概念も1800年代には「合本組織」として定着し始めました。南山のインフラ開発のために1815年に設立された「南山拓殖合本会社」は、幕府と有力大名、そして豪商が出資し、その運用益を配当として分配する、日本初の本格的な株式会社でした。


 南山拓殖は1865年に、南山独立政府の母体でもある「南山開発株式会社」に拡大改組されています。


 南山拓殖の株券は、江戸や大阪、明望の取引所で活発に売買され、武士たちは禄米(給料)の変動リスクをヘッジするために、こぞって株を購入しました。「武士道とは死ぬことと見つけたり」と言ったのは『葉隠』ですが、19世紀の武士道は「武士道とは、損切りラインを見極めることと見つけたり」に変質していたのかもしれません。


 拓殖合本会社の設立とほぼ同時期の1816年には、その後の南山の運命を左右し、現在も形を変えて存在する「南山物産合本会社」が三井と幕府の出資で設立されました。こちらは南山拓殖とは逆に、株式は公開されず、幕府の「東インド会社」として、政権と一体不可分の存在として貿易・開発・運輸運送などを手がけるコングロマリッドとして成長し続けました。




最後までお付き合いいただき感謝します。

気に入っていただけたら、ページ下部よりブックマークとポイント評価をお願いします

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ