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徳川海洋圏の地政学と「南山」の政治経済史 棄民から生まれた「双頭の帝国」の構造分析  作者: しげぞう
第三章 「アジア唯一の列強」という自画像 - 17世紀後半から19世紀における外交と経済
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第二節 南山社会の成熟と人口爆発

 南山文理大学の櫻井です。 前節では、日本がいかにして世界地図の上で「列強」という名の椅子をふんぞり返って確保したかをお話ししました。しかし、外交条約や貿易黒字といったものは、あくまで国家の「履歴書」のようなものです。 国家の実体、その「肉体」を構成するのは、いつの時代も、汗をかき、飯を食い、そして子供を作る「人民」の群れです。


 第三章第二節では、江戸時代中盤以降に発生した「人口の爆発」と、そのエネルギーが南山というフロンティアへ噴出したダイナミズムについて語りましょう。それは「江戸の泰平」の裏側で進行していた、極めて喧騒に満ちた「民族大移動」の記録です。



第二節 南山社会の成熟と人口爆発


 人口統計学は、歴史学の中で最も退屈な分野だと思われがちです。しかし、数字の羅列をじっと見つめれば、そこには人間の欲望と生存本能が織りなすドラマが見えてきます。


 18世紀、西欧諸国が農業革命によって人口を急増させていた頃、日本列島でも全く同じ現象が起きていました。 徳川幕府による大規模な治水工事(利根川東遷事業の完遂など)や、諸藩による新田開発、さらに金肥(干鰯など)の流通による農業生産性の向上は、日本を「マルサスの罠」の縁へと追い込みました。 食料が増えれば、人は増える。増えれば、また食料が足りなくなる。 通常であれば、ここで飢饉や間引き(残酷な産児制限)が起こり、人口は調整局面に入ります。同時期の欧州一部地域における人口停滞はまさにこれでした。しかし、我々の歴史には「排出口(アウトレット)」がありました。南山です。



1. 「南へ行けば、食いっぱぐれなし」— 18世紀のゴールドラッシュならぬランドラッシュ


 1700年頃、南山地域の発展は、既に台湾島の台北と同規模に達していました。


 そして1750年(寛延3年)、衝撃的なマイルストーンが達成されます。南山諸島および入安における日系移民人口が、ついに50万人を突破したのです。 これは当時の金沢藩や名古屋藩の領民数を遥かに凌駕し、幕府の海外拠点としては、もはや拠点と呼ぶには大きすぎる別国の様相を呈していました。


 なぜ、これほどの人が海を渡ったのか? 幕府による「南山開拓援助令」の手厚さもさることながら、最大の要因は「夢」です。 日本の農村では、長男が家督と田畑を継ぎ、次男・三男は部屋住みとして飼い殺されるか、都市へ出て日雇い仕事に就くしかありませんでした。


 武家社会も同様、いや、もっと深刻なポスト不足に喘いでいました。 そんな彼らにとって、「南山へ行けば、開墾した土地は永代お前のものになる。5年間は年貢もなし」というプロパガンダは、現代における「シリコンバレーで起業」などよりも遥かに切実で、強烈な誘引力を持ちました。



2. 冥海から明望へ — 巨大都市の改名劇


 この膨張するエネルギーの核となったのが、南山奉行所が置かれた首都機能都市です。 当初、この地は入植者たちによって「冥海望めいかいぼう」と呼ばれていました。 


 「くらい海の彼方の希望」という意味か、あるいは「死(冥界)」と隣り合わせの覚悟を示したのか。いずれにせよ発展する都市には不吉な名前です。 1765年、第8代南山奉行・大岡忠光(名奉行・大岡忠相の親族にあたります)は、この陰気な名前を嫌い、音はそのままに字を改めさせました。


 「明望めいぼう」。明るい希望。 単純ですが、効果的なブランディングです。


 この明望市は、18世紀中盤には人口約5万人を擁する貿易・開拓都市へと成長しました。 都市計画は、江戸の町割りをベースにしつつも、独自に進化しました。 中心部には石造りや煉瓦造りの官庁街が整備され、メインストリートには荷馬車がすれ違える広幅員の道路が敷かれました。


 街路樹として植えられたのは、桜や松ではなく、ユーカリやジャカランダでした。港には日本本土からの南向船(北前船の南洋仕様の大型船)、清からのジャンク船、オランダのフリュート船、そしてスペインのガレオン船がひしめき合い、日本語、福建語、オランダ語、スペイン語、そして現地アボリジニの言葉が飛び交う、世界でも類を見ないコスモポリタンな空間が形成されました。



3. 1850年の到達点 — 150万人の新日本人と「太平洋の胃袋」


 嘉永3年(1850年)


 後にマシュー・ペリー提督率いる米国艦隊が浦賀に寄港し、日米間の通商条約が事務的に調印される数年前のことです。南山領域における日系および同化民の人口は、ついに150万人の大台を突破していました。これは当時の江戸の人口(約100万人)を凌駕し、ロンドンやパリといった欧州の帝都に次ぐ規模の人口圏が、南半球の海上に突如として出現していたことを意味します。


 この時期の南山の領域について、地理的な再確認をしておきましょう。 中核となるのは、豪州大陸の北東、珊瑚海に浮かぶ長大な南山列島です。ここは英国領オーストラリア大陸とは異なる独自の地質学的運命を辿った島々で、その北端は赤道に近いメラネシア海域に達しています。


 主島たる北嶺島と南山島は北端部は亜熱帯気候であるが大部分は西岸海洋性気候であり、台風はまれにあるが農業に最適な温暖な環境。赤道域に近い入安島や吉宗諸島(ビスマルク諸島)は高山地帯を除き熱帯雨林気候。さらに1840年代の「南洋友好同化令」によって経済的・政治的に統合されたトンガ、フィジー、そしてメラネシア諸島全域が加わります。


  これら広大な「多島海帝国」を支えていたのは、「第一次産品の大量生産」「新大陸との交易」そして「本土への輸出と本土からの投資」という、極めて強固かつ貪欲な「三本のトリプル・ピラー」でした。


第一の矢:緯度を跨ぐ「モノカルチャーの複合体」


  南山経済の最大の強みは、赤道から温帯までを縦断するその地理的優位性にあります。 北端の入安島やソロモン諸島では、高温多湿な気候を利用したサトウキビとガタパーチャ(ゴム)のプランテーションが、蒸気機関による製糖・精製工場、天然ゴムの加硫工場などの稼働により、前近代的な農業から「装置産業」へと進化していました。


  一方、南下して北嶺島や南山島に至れば、そこは隣接する乾燥した英国領豪州とは異なり、適度な降雨と肥沃な火山灰土壌に恵まれた穀倉地帯です。ここでは米と小麦の大規模耕作と、広大な丘陵地帯でのメリノ種羊毛の生産が行われていました。また北嶺には巨大な無煙炭と鉄・銅の鉱山が発見・採掘され、主として輸送量の削減のため、一時加工場が続々と建設されていました。


 1860年の統計によれば、明望港から積み出された羊毛は年間1万2,000トン。これは英国ヨークシャーの織物市場において「ナショナル・ウール(豪州産)」と「ナンザン・ウール(日系産)」がシェアを二分する激戦を引き起こし、リバプールの相場師たちを「極東の羊飼いたち(Shepherds of the Far East)」と震え上がらせました。 白(砂糖・羊毛)、黒(ゴム・石炭)、そして黄金(小麦)。この三色は、南山の国旗の色よりも雄弁にその国力を物語っていました。


第二の矢:カリフォルニア・ゴールドラッシュと「太平洋の兵站基地」


 そして、歴史の神が南山に微笑みます。1848年、太平洋の対岸、カリフォルニアでの金鉱発見です。 ゴールドラッシュに沸くサンフランシスコは、爆発的な人口流入により深刻なインフレと食糧不足に喘いでいました。米国東海岸からの補給は、ロッキー山脈を越えるかマゼラン海峡を回るという絶望的な長旅です。


 そこに現れた救世主こそが、明望港やラバウル港から出撃した南山商船団でした。 偏西風と海流を熟知した彼らは、小麦、塩漬け牛肉、砂糖、そして入安島の工場で作られた頑丈なゴム底の作業靴、北嶺島で作られたツルハシやスコップを満載し、サンフランシスコ湾へ殺到しました。 当時の米国の新聞『アルタ・カリフォルニア』紙はこう書き立てています。


「ヤンキーが泥にまみれて掘り出した砂金は、そのままナショナル・バンクではなく、日本の商人のポケットへ消えていく。彼らは我々にパンと肉とツルハシを与え、代わりに我々の未来ゴールドを持ち去るのだ」


 1850年代初頭の時点で、日米間に正式な国交はありませんでしたが、現場レベルでは、すでに南山と米国西海岸は「太平洋の食堂と金庫」という、切っても切れぬ経済圏(エコシステム)を形成していたのです。


 1853年にマシュー・ペリー提督が来航した際、彼が持参した条約草案は外交文書というよりは「既存の商慣行の追認書」であり、すでに太平洋上で行き交っていた何百隻もの商船に対し、後追いでハンコを押すだけの事務手続きに過ぎなかったのです。


第三の矢:本土からの「怒涛の投資マネー」


 しかし、南山を真に加速させたのは、日本本土からの過剰流動性資金、いわゆる「ジャパン・マネー」の還流です。 1840年代、天保の改革を経て、あるいは改革の網をかいくぐって経済発展を遂げた「東国(関東・東北)」の諸藩は、有り余る藩営利益の投下先を求めていました。 水戸藩の「彰考館開発基金」や仙台藩の「奥州南洋講」、そして幕府自身の特別会計である「南山拓殖債」。これらに加え、鴻池・三井・住友といった上方・江戸の大両替商(メガバンク)がシンジケート団を組んで、南山の鉄道や港湾インフラに巨額の融資を行いました。 さらに特筆すべきは、京都や奈良の大寺社までもが、「祠堂金(しどうきん)」という名の巨額の宗教資金を、密かに南山のゴム農園や鉱山へ投資していたことです。「仏の慈悲も、年利8%の配当には勝てぬ」といったところでしょうか。


 この「内地-南山」間の巨大な資本還流ポンプこそが、後の嘉永の産業革命において、日本が外債(外国からの借金)に頼らずに、自国資本のみで重工業化を成し遂げられたカラクリなのです。



4. 社会構造の変容 — 「南山気質」の誕生と血の融和


 150万人という数字の中身を見れば、そこには本土とは全く異なる「新しい日本人」の姿が浮かび上がります。


人種の坩堝としての南山


 特筆すべきは、土着の人々との融合です。 17世紀の入植初期から、女性比率の低かった移民社会では、現地のメラネシア系(パプア人等)やポリネシア系(マオリ人、トンガ人等)住民との通婚が、生存戦略として、そして日常の風景として行われてきました。 1850年時点では、すでに日系3世、4世、あるいはそれ以上の混血世代が社会の中核を担っていました。彼ら彼女らは日本人の勤勉さと組織力、ポリネシア人の海洋適応能力、そしてメラネシア人の土地勘を併せ持つ、後に南山クレオールと呼ばれることになる ハイブリッドな新人類でした。


 明望の大通りを歩けば、髷を結いながらも彫りの深い顔立ちをした紳士や、着物を着崩し、肌に伝統的な入れ墨(タ・モコ)を施した港湾労働者が、東北や近畿訛りの日本語で談笑する姿が当たり前のように見られました。


肌の色より、腕の色を見ろ


 南山社会において、人種差別(レイシズム)は単なる「悪徳」ではなく、「致命的な非効率」として忌避されました。社会的・感情的なタブーとして、差別発言は最も恥ずべき行為とされたのです。 入安島のジャングルでゴムの樹液を集め、珊瑚海で鯨を追い、北嶺の大地で羊を追う過酷なフロンティアにおいて、血統書など何の役にも立ちません。必要なのは「使える奴か、そうでないか」だけです。


  1850年代の明望市評議会の議事録には、旧庄内藩の貧農の末裔と、フィジーの首長の血を引く議員が、砂糖の輸出関税について激論を交わし、最後には互いの健闘を称えて肩を組んで酒場へ消える様子が記されています。本土から来たばかりの若い武士が、自らの家柄を鼻にかけて現地系の労働者を侮蔑するような発言をすれば、その日の夜には港の酒場で「教育」され、二度と口を利けなくなるか、あるいは真の「南山人」として生まれ変わるかの二択を迫られました。


食と肉体の変容


 環境は肉体をも変えました。有り余る牛肉と羊肉、そして豊富な乳製品の恩恵により、南山生まれの成人男性の平均身長は、当時の本土日本人より約5センチから8センチ高く、骨格も丸太のように頑健でした。


 彼らの主食は米に加え大量の肉と小麦でした。当時から明望の名物料理となっていた「南山焼き(ナンザン・グリル)」は、分厚い牛肉や羊肉を醤油と香辛料(胡椒や唐辛子)のタレに漬け込んで炭火で焼いたもので、その野性的な香りは、質素な玄米菜食を中心とする本土からの来訪者を卒倒させるに十分でした。


南山気質スピリットの醸成


 こうして生まれたのが、後に「南山気質」と呼ばれる独自のメンタリティです。 それは、形式や家柄を重んじる本土の「武家社会」への反発と、実力主義メリトクラシーへの極端な傾倒です。


「内地(日本本土)の奴らは、畳のへりを踏んだかどうかで男を決める。俺たちは、サメを何匹仕留めたかで男を決める」 この粗野だが強靭な精神性が、南山を単なる植民地から、やがて本国に対して「対等、あるいはそれ以上」の政治的発言権を持つ政治的実体へと押し上げていくことになります。


 英国領豪州の総督が、明望を非公式訪問した際の手記には、驚きと共にこう記されています。


「ここの住民は、私の知る日本人とは違う。彼らは私の目を真っ直ぐに見つめ、握手を求め、そして私の船のボイラーの出力と石炭の燃費について対等な議論を挑んできた。彼らは東洋人でありながら、精神においては我々アングロサクソンの、いや、それ以上に貪欲な開拓者(パイオニア)のようだ」


 1850年の南山は、日本という巨大な樹木の枝ではなく、すでに自らの根で太平洋の養分を吸い上げる、別種の巨木へと成長していたのです。






<櫻井教授の歴史の裏読み>

「南山は、徳川ジャパンの『巨大なガス抜き弁』だった」


 もし南山がなかったら? 18世紀から19世紀にかけての日本は、過剰人口による飢饉と、行き場を失った知識人(洋学者や国学者)による革命運動で、凄惨な内戦状態に陥っていただろう。徳川幕府が260年もの長きにわたり政権を維持できた最大の理由は、体制に不満を持つ分子や、食い詰めた余剰人員を南山という「フロンティア」へ排出し続けたことにある。


「国が悪い、政治が悪いと愚痴を言う暇があったら、南へ行け。あそこには土地も自由もあるぞ」 幕府はこのキラーフレーズ一つで、国内の不満を「希望」に変換し、遠く海の外へ放出したのだ。 結果として、南山には「体制に従順でない、バイタリティ溢れる厄介者たち」が濃縮されることになった。


 後の南山共和国が、日本本国に対して独立独歩の気風を持つに至った遺伝子は、この時期に確実に醸成されていたのである。 我々は、幕府に「捨てられた」者たちの子孫ではない。幕府が「抱えきれなかった」者たちの子孫なのだ。



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