第二節 フロンティアとしての「棄民」政策
第二節 フロンティアとしての「棄民」政策
歴史の教科書において、17世紀初頭の南山入植は「勇気ある開拓者たちの叙事詩」として描かれるのが常です。しかし、当時の行政文書や大名たちの書簡を丹念に読み解けば、そこに浮かび上がるのは「厄介払い」という極めて散文的、かつ陰惨な動機なのです。
1615年、大阪夏の陣によって豊臣家が滅亡し、元和偃武-すなわち「平和」が訪れました。これは逆説的に言えば、全国で数万、いや十数万規模の「失業した戦闘員(浪人)」が発生したことを意味します。彼らは食い詰め、不満を抱き、辻斬りや強盗へと堕ちる予備軍でした。徳川幕府にとって、彼らは国内に置いておくにはあまりに危険な「可燃性廃棄物」であったのです。
そこで幕府が打ち出したのが、「南洋渡航奨励策」です。聞こえはいいですが、実態は「片道切符の追放」に近かったと言えます。1618年(元和4年)、幕府は西国大名に対し、領内の「主君を持たぬ武芸者」および「定住せぬ無宿人」の調査を命じ、彼らを長崎や堺に集め、御朱印船の船底に詰め込んで南洋へ送り出しました。行き先は、主に入安島の北岸や、南山の北端(北嶺島)に築かれたばかりの粗末な砦でした。
当時の入安島は、現代の我々が知る宇宙開発の拠点ではありません。マラリアと熱病が蔓延し、首狩りの風習を持つ先住民がジャングルに潜む、文字通りの「緑の地獄」です。初期の入植者、というよりは流刑囚に近い彼らの生存率は、最初の3年で5割を切ったという記録も残っています(南洋初期渡航者名簿及び物故帳:1622年、平戸オランダ商館文書)。しかし、幕府にとって彼らの生死は二の次でした。重要なのは、彼らが「日本国内にいなくなった」という事実なのです。
この「棄民」政策が劇的な転換を迎えるのは、1637年の島原の乱の前後です。当初、幕府はこの反乱を武力で鎮圧し、幕府の威信と禁教を確実化させようとしたとされます。しかし、南山という「出口」を持っていた幕閣は異なる解決策を図りました。幕府軍総大将・松平信綱は、原城に立て籠もる一揆勢に対し、殲滅ではなく「南洋への集団移住」を提示したのです。
「信仰を捨てぬなら、日本には置けぬ。だが、海の向こうの南山ならば、切支丹だろうが題目狂いだろうが、誰も気にしない」
結果として、約2万人のキリスト教徒と農民が、武装解除と引き換えに延べ数百隻の輸送船団に乗せられ、南山諸島の中でも気候が温暖な南山(北嶺島と推定される)や豪州西南部に送られました。彼らはそこで、信仰の自由と引き換えに、荒野を切り拓く過酷な労働に従事しました。皮肉なことに、プロテスタントの国であるオランダは、この「カトリック教徒の追放」を物流面で喜んで支援しました。運賃さえ払われれば、彼らにとって荷物が人間であろうと胡椒であろうと同じことだったからです。
1650年代に入ると、この「棄民」たちが予想外の成果を上げ始めます。まず、入安島の高温多湿な気候を利用したサトウキビのプランテーション栽培が軌道に乗りました。さらに特筆すべきは、現地植物(ガタパーチャやそれに類するゴム質の樹液を産する植物)の発見と、その商業利用の開始です。当時、欧州では防水布や初期の産業用パッキング材としての需要が芽生えつつあり、日本の商人はこれを「南洋の固油」として独占的に扱い始めました。
また、南山諸島に入植した旧キリスト教徒たちは、持ち前の勤勉さと団結力で、大規模な放牧と小麦と陸稲栽培に成功します。彼らが生産する食料と、入安島の砂糖・ゴムは、マニラ・ガレオンルートを通じてスペイン領アメリカへ、あるいはインド洋を経て欧州へと輸出され、幕府に莫大な税収をもたらすようになりました。このころから多くの信徒の間にキリスト教の棄教と仏教・神道回帰が自然発生的に発生しています。
ここで幕府の態度は「ゴミ捨て場」から「ドル箱」へと180度転換します。1662年(寛文2年)、幕府は「南山開拓援助令」を発布。それまでの厄介払いから、農家の次男・三男や、職にあぶれた職人を対象とした計画的な植民へと舵を切りました。移住者には、渡航費の幕府負担、現地での農具・種籾の支給、そして何より「5年間の免税と、開墾した土地の永代所有権」が約束されました。
この政策は、江戸中期における日本の人口爆発に対する安全弁として機能することになります。18世紀初頭には、年間5千人〜1万人規模の日本人が海を渡るシステムが確立されていました。
この日本の領域拡大に対し、欧州列強も無視を決め込むことはできなくなりました。1642年、オランダの探検家アベル・タスマンは、南方の新大陸探索の航海に出ましたが、彼が発見したのは「未知の大陸」ではなく、海岸線に翻る「三つ葉葵(幕府・親藩)」や「彦根橘(彦根藩/井伊家)」の旗印と、不愛想な日本人侍が守る港でした。タスマンの日誌にはこう記されています。
「この広大な南の大地の良港は、すでにあの狡猾な異教徒たちによって占拠されている。彼らは我々に水と食料を高値で売りつけ、入港税まで要求した」
この既成事実は、後の1787年の英日間のジョン・ハンター条約による勢力圏確定とする大まかな合意)への布石となります。
日本勢力圏:東経135度以東の南山諸島(英名ニュージーランド)・入安島(英名ニューギニア)・接続部の諸島群
英国勢力圏:以西の豪州大陸全域
約250年におよぶ幕府主導の移民政策は、結果として、日本という国を「列島に閉じこもる農耕民族」から、「太平洋を内海とする海洋帝国」へと変質させました。その原動力が、高潔なフロンティア精神などではなく、「社会の余剰人員を外へ掃き出す」という冷徹な政治判断であったことは、記憶に留めておくべきでしょう。
<櫻井教授の歴史の裏読み>
「『南山』は、徳川日本の『下水道』であり『金庫』であった」
都市計画において下水道が不可欠なように、国家運営においても「不純物」を排出するシステムは不可欠だ。徳川幕府にとっての南山は、当初はまさにそれだった。
キリシタン、浪人、食い詰め者、そして異端の思想家たち。彼らは処刑される代わりに南へ送られた。 「死にたくなければ、南で働け」 この究極の生存バイアスがかかった集団が、弱いわけがない。彼らは生き残るために必死で開発し、現地の自然と戦い、やがて富を生み出した。 そして幕府は、一度捨てたはずの彼らから、ちゃっかりと税を吸い上げるシステムを構築した。
「棄民」と呼びながら、その実、彼らを「在外資産」としてバランスシートに計上したのだ。 南山共和国の建国の父祖たちが、現代においても江戸大坂に対して複雑な感情 -郷愁と軽蔑が入り混じったアンビバレントな感情 -を抱く理由は、このあたりの歴史的経緯にある。我々の先祖は、冒険に出たのではなく、追い出されたのだから。




