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徳川海洋圏の地政学と「南山」の政治経済史 棄民から生まれた「双頭の帝国」の構造分析  作者: しげぞう
第二章 徳川のパクス・マリティマ(海洋の平和) - 17世紀における通商国家の制度設計
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第一節 封建国家の皮を被った重商主義

 第一章では、秀吉の死という「幸運な事故」がいかにして南山への扉をこじ開けたかをお話ししました。しかし、扉が開いたとしても、そこを通るルールがなければ、国家は単なる無法地帯のスポンサーに成り下がります。


 第二章では、徳川という極めて官僚的、かつ計算高い一族がいかにしてこの混沌とした海洋進出をシステム化し、武士の魂である刀をそろばん(それも複式簿記対応の)に持ち替えさせたのかを検証します。 彼らが目指したのは、冒険活劇的な南洋開発ではなく、国家による徹底的な「貿易独占」という、巨大な商社のごとき振る舞いでした。



第一節 封建国家の皮を被った重商主義


 1603年、徳川家康が征夷大将軍に任じられ江戸に幕府を開いた時、多くの歴史家はこれを「中世の終わり・近世の始まり」と定義します。しかし、経済史の観点、特に環太平洋経済圏の視座から見れば、これは「日本会社(Japan Inc.)」の創業と言うべきでしょう。


 家康、そしてその跡を継いだ秀忠、家光といった初期の将軍たちは、極めて冷徹なリアリストでした。彼らは、前政権が南洋 -アユタヤ、ジャカルタ、そして新天地である南山 -に築いた利権が、黄金の卵を産むガチョウであることを正確に理解していました。 当時の世界情勢を見渡せば、欧州では30年戦争(1618-1648)が勃発し、神の名の下に互いの喉笛を食いちぎる地獄絵図が展開されていました。一方、アジアの海ではオランダ東インド会社(VOC)とポルトガル、スペインが覇権を争っていた。


 この状況下で、徳川幕府が選択したのは一時的に主流になりかけた海禁策ではなく、武装中立による利益誘導でした。


 幕府の基本戦略は、国内においては新田開発や治水工事による徹底した農業生産力の向上を進める一方、対外的には南蛮貿易および東南アジア諸国との貿易拡大を国是とすることでした。 これは一見、矛盾する政策に見えます。


 「農本主義」と「重商主義」の同居。しかし、これこそが徳川のシステムの妙味です。国内の民は土地に縛り付けて米を作らせ、あぶれた余剰人口と野心的な商人は海へ送り出して銀と輸入品を稼がせる。この「二重構造」こそが、250年に及ぶ繁栄のエンジンとなったのです。


 そのシステムの完成形と言えるのが、1635年(寛永12年)に発布された一連の通商条令、いわゆる「寛永通商基本令」です。この年、幕府は貿易を「直轄貿易港」に集約しました。長崎、博多、堺、そして江戸の喉元である下田。 これらの港には「南蛮奉行」という新たなポストが設置されました。彼らは単なる徴税人ではありません。国際法、為替、そして商品相場に精通したテクノクラート集団です。特筆すべきは、1635年の条令で画定された「銀交換比率の固定」と「関税制度の整備」です。


 当時、日本は世界有数の銀産出・輸出国でした。ボリビアのポトシ銀山と並び、世界の銀供給の4分の1を握っていたとも言われます。 自由市場に任せれば、日本の銀は海外へ流出し続け、国内経済はデフレに陥る。そこで幕府は、国家権力によって銀と輸入品(生糸、砂糖、武具原料など)の交換レート(交易条件)を強制的に固定しました。「日本の銀が欲しければ、このレートで取引せよ。嫌なら帰れ」 この強気な姿勢が可能だったのは、当時の明(中国)が銀を渇望し、オランダもまたアジア域内貿易の決済通貨として日本銀を必要としていたからです。日本側は売り手独占(セラーズ・モノポリー)の立場を最大限に利用しました。


 また、幕府はキリスト教の布教を厳しく制限し、武装した外国人集団の滞在を不許可としましたが、これは宗教的なアレルギーというよりは、安全保障上のコスト計算の結果です。


「宣教師は来るな、商人は来い。大砲は置いていけ、帳簿を持ってこい」


 これが徳川のメッセージでした。この政策により、ポルトガルやスペインのカトリック勢力は布教の旗を降ろさざるを得ず、純粋な経済プレイヤーとして振る舞うことを強要されました。あるいは、宗教色が薄く、実利に聡いオランダやイギリス(後に一時撤退しますが)が優遇される土壌が整ったのです。


 結果として、17世紀中盤の日本は、東アジア最大の貿易ハブとして機能することになります。 長崎にはオランダ船が、博多には中国船や東南アジアのジャンク船が、そして下田や堺には、南山や豪州から砂糖やゴム、香木を満載した巨大な朱印船(後に和製ガレオンへと進化します)が次々と入港しました。 1640年の統計によれば、博多港の年間取扱量は、銀換算で約8,000貫(約30トン)を超え、これは当時のオランダ東インド会社の全アジア貿易額の2割に相当すると推計されています。


 武士たちは、刀を差したまま、港の倉庫で積荷目録(マニフェスト)をチェックし、中国商人と筆談で価格交渉を行うようになりました。 「武士は食わねど高楊枝」? いえいえ、この時代の武士は「南洋の砂糖で甘い菓子を食い、明の絹を着て、オランダの眼鏡をかける」のが粋とされたのです。





<櫻井教授の歴史の裏読み>

「『鎖国』しなかったのではない。『管理』したかっただけだ」


 よく「もし海禁策をとって鎖国していれば、日本は分裂することなく、もっと大きく発展してた」という議論があるが、我々の歴史を見ればそれが半分正解で半分間違いであることがわかる。 徳川幕府が1635年に行ったのは「自由貿易(フリー・トレード)」の開始ではない。「管理貿易(マネージド・トレード)」の徹底だ。


 彼らは貿易を止めたくなかったのではなく、貿易の利益が、倒幕の資金源になりうる西国の外様大名(特に薩摩や長州)に流れるのを防ぎたかったのだ。だからこそ、貿易港を直轄地(天領)に限定し、奉行を置いて監視した。


 「お前たちも貿易していいぞ。ただし、俺の庭(直轄港)を通せ。そしてテラ銭(関税)を払え」


 これが徳川のやり方だ。 結果として、このシステムは幕府に莫大な関税収入をもたらし、その資金が後の大規模な国内インフラ投資や、皮肉にも南山入植地への「棄民」援助資金へと還流していくことになる。


 徳川の平和(パクス・トクガワ)は、農民の汗だけでなく、南洋を渡る船乗りたちのリスクテイクと、南蛮奉行たちの計算尺によって支えられていたのである。



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