第二節 「南山」の発見と幻の朝鮮出兵
前節では、銭の音に敏感な商人たちが、国家の鎖などものともせずに海を渡った様をお話ししました。しかし、歴史という巨大な船を動かすには、商人の「欲望」だけでは足りません。そこには常に、武人の「狂気」とも言える野心、そして国家という冷徹なシステムによる「事後承認」が必要なのです。
第二節では、我が国の運命を決定づけた「1589年」と「1598年」という特異点、そして「朝鮮」ではなく「南山」が選ばれた、あの歴史の分岐点における舞台裏を、もう少し詳細に少々意地悪な視点で解剖していきましょう。
第二節 「南山」の発見と幻の朝鮮出兵
歴史家として言わせてもらえば、1589年と1598年いう年は、世界史の教科書においてもっと太字で強調されるべき年です。フランス革命やアメリカ独立宣言などよりも、よほど「世界」の形を変えたのですから。
1589年、豊臣政権の派遣した軍船―これはまだ後のような洗練されたガレオンではなく、安宅船の構造を外洋向けに無理やり強化した、極めて無骨で危険な代物でしたが入安島の南側を西進し、ついに豪州大陸と南山諸島をその視界に捉えました。
ここで特筆すべきは、当時の日本人たちの「厚かましさ」です。 彼らは、コロンブスのように神に祈ることも、マゼランのように世界一周というロマンに殉じることもしませんでした。彼らはただ、目の前に広がるとてつもなく巨大な陸塊と島々を見て、こう考えたのです。「ここはまだ誰の台帳にも載っていない。ならば、我々のものだ」と。
豊臣政権は直ちに、当時「太陽の沈まぬ国」として世界を二分していたイスパニア(スペイン)と、新興海洋国家オランダに対し、南山諸島の領有を通告しました。
トルデシリャス条約? 教皇子午線? 極東の武士たちにとって、ローマ教皇が引いた線など、畳の縁ほどの意味も持ちません。この「通告」は、外交文書というよりは、一種の「果たし状」に近いものでした。「文句があるならかかってこい、ただしここは遠いぞ」という、地理的優位性を盾にした恫喝です。これが、後の海洋国家としての強烈な自負心の源流となりました。
しかし、領有宣言だけでは土地は国になりません。土地を国にするのは「人」と「金」です。そして皮肉なことに、そのリソースを用意したのは、一人の独裁者の死でした。
1598年、太閤・豊臣秀吉が急逝します。 これにより、彼が晩年に執着した大陸への軍事侵攻、いわゆる「朝鮮征伐」は、実行寸前、あるいは最終段階で完全に中止となりました。世に言う「幻の朝鮮出兵」です。
ここで、当時の政権中枢(五大老・五奉行といった面々)は、青ざめたに違いありません。彼らの手元には、戦争のために全国から徴発した莫大な軍資金、建造された数百隻の輸送船、そして何より、殺気立った数十万の将兵が残されていたからです。 戦争が中止になったからといって、「はい、解散」で済む話ではありません。アドレナリンと野心を煮えたぎらせた武装集団を、そのまま国内に解き放てばどうなるか。国内は瞬く間に戦国乱世に逆戻りです。彼らにとって、失業した兵士ほど危険な可燃物はありません。
そこで採用されたのが、歴史上稀に見る大規模な「プロジェクトのすり替え」でした。 「北(朝鮮)」へ向かうはずだったベクトルを、そのままグルリと「南(南洋)」へ向けたのです。
「朝鮮の石ころを奪い合うより、南の楽園で土地持ちになろうではないか」 そんなプロパガンダがどれほど行われたかは定かではありませんが、1598年頃から開始された豪州大陸北岸、南山島、北嶺島、及び入安島東端への拠点建設は、凄まじいスピードで進みました。 なにしろ、投入されたのは「戦争をするつもりで準備万端だった軍隊」です。土木工事、治安維持、補給網の構築―彼らはその道のプロフェッショナルでした。本来ならば朝鮮半島の城塞攻撃に使われるはずだった資材で港が築かれ、兵糧として備蓄されていた米が、南洋の初期入植者の胃袋を満たしました。
入安島の熱帯雨林や、豪州の乾燥した大地に初めて鍬を入れたのは、農民ではなく、槍を捨てた足軽や、主家を失った侍たちでした。彼らが築いた「開発拠点」は、平和的な入植地というよりは、敵なき敵地に築かれた前線基地の様相を呈していました。
こうして、16世紀末のわずか数年の間に、日本人の活動領域は爆発的に拡大しました。 それは高邁な理想によるものではなく、「戦争準備という公共事業の在庫処分」として始まったのです。しかし、動機はどうあれ、結果としてそこには「国家」の種が蒔かれました。
後の南山共和国の繁栄は、秀吉の死と、行き場を失った暴力装置の再利用の上に成り立っているのです。
<櫻井教授の歴史の裏読み>
「最大の公共事業は、戦争ではなく『平和の維持』だった」
当時の為政者たちが最も恐れたのは、外敵ではなく、仕事にあぶれた「味方」だった。 秀吉の遺産である膨大な軍事力は、国内に留め置けば内乱の火種となり、朝鮮へ向ければ不毛な消耗戦となっただろう。 南洋への転用は、まさに一石三鳥の妙手だった。
第一に、厄介な荒くれ者たちを物理的に遠ざけることができる(事実上の厄介払い)
第二に、新たな領土という果実を得られる。
第三に、これが最も重要だが、国内の不満分子を「フロンティア」という夢に酔わせることで、中央集権化への抵抗を削ぐことができたのだ。
1598年の南進開始は、冒険の始まりであると同時に、豊臣政権による「リストラ策」の開始でもあったと言えるだろう。 南山の土台には、日本列島から吐き出された「熱」が埋まっているのだ。




