第一節 密貿易から国策へ
徳川海洋圏の地政学と「南山」の政治経済史
— 棄民から生まれた「双頭の帝国」の構造分析
(Geopolitics of the Tokugawa Maritime Sphere and the Political Economic History of "Nanzan": A Structural Analysis of the "Double-Headed Empire" Born from Social Exile)
著: 櫻井 重隆 (南山文理大学歴史学部 教授 / 形而史学博士 Ph.D.)
<プロフィール>
・南山共和国 首都 明望市在住
・1966年 南山共和国 新若松市生まれ
・南山文理大学 歴史学部 大学院博士課程後期満期退学
・HPL財団のGOO奨学金で米国ミスカトニック大学 歴史学部 形而史学科に留学
・H・ウェスト教授に師事し同大学から形而史学のPh.Dを授与
・2010年より南山文理大学教授
・高祖父の櫻井泰右衛門重忠が、大脱出で南山に移住した旧会津藩士
・高祖母は現地の南山クレオールの商家の娘
・曽祖母は露系ユダヤ人学者の娘
・典型的なニポロスラーボ
・皮肉屋の歴史学者・文明批評家・政治評論家・軍事評論家
・現在の南山政府で大統領の政治顧問
・共著を含め多数の著書あり
・専門誌・一般紙を問わぬ各種雑誌やwebメディアに多数の寄稿あり
歴史とは、勝者が描く物語であるという陳腐なクリシェではなく、
生存者が死者の山の上で踊りつづけるダンスのステップなのである。
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第一節 密貿易から国策へ
歴史の教科書というものは、往々にして因果関係をあまりにも美しく整理しすぎるきらいがあります。まるで、すべての出来事が誰かの遠大な計画によって成されたかのようです。しかし、実際の歴史、特に我が国の海洋進出の黎明期を紐解けば、そこにあるのは「国家百年の計」などという高尚なものではなく、飽くなき「銭への執着」と、行き場を失った暴力装置の「再利用」であったことがわかります。
時計の針を少し巻き戻してみましょう。14世紀、室町に足利の幕府があった頃のことです。 この時期から既に、日本列島と東南アジアを結ぶ海上の道は、実に騒々しいものでした。一般に「倭寇」として語られる彼らは、単なる海賊ではありません。彼らは武装した商人であり、リスクテイカーであり、そして国境という概念を軽々と飛び越える初期のグローバリストでした。
戦国乱世が極まる15世紀中盤になると、中央の統制などどこ吹く風とばかりに、堺や博多といった自治都市の「独立商人」たちが台頭します。彼らは国内の戦乱をよそに、あるいは戦乱が生む需要を背景に、その商圏を東南アジア全域へと拡大していきました。
この時期の彼らの活動は、公的な外交ルートを経ない「密貿易」が主体です。要するに、当時の日本は国家として鎖国していたわけではありませんが、外交音痴な武家政権を尻目に、民間セクターが勝手に経済圏を広げていたわけです。アナーキーですが、実に活気がありました。
この無秩序なエネルギーを「国家の枠組み」に回収しようとしたのが、天下人・豊臣秀吉という稀代の政治的怪物でした。 16世紀末、国内を平らげた豊臣政権は、それまで商人たちが勝手気ままに行っていた交易に「朱印状」というライセンスを発行し、管理下に置きました。これは海賊の国営化であり、同時に国家による身元保証でもありました。
また、この時期に急進を見せた国内人口の増加と、貨幣経済の拡大により、日本の海洋進出は爆発的な規模拡大を見せます。タイのアユタヤ、ジャワ島のスンダ・クラパ(現在のジャカルタ)、そして台湾。これら各地に形成された日本人町は、単なる居留地ではなく、役所と駐留軍と艦隊を持つ事実上の「国家権益の出先機関」として機能し始めたのです。
そして、運命の1589年が訪れます。 豊臣の軍船は、何を血迷ったか―いや、おそらくは確信犯的に―既存の航路を外れ、入安島を西進し、未踏の巨大陸塊である豪州大陸と、その北に点在する南山諸島へと到達しました
この時、豊臣政権が行った行動は極めて現代的かつ官僚的です。彼らは現地に旗を立てるだけでなく、当時世界を分割していたイスパニア(スペイン)とオランダに対し、こう通告したのです。「ここは我々の庭である」と。 国際法など未整備な時代ですが、この「既成事実の積み上げ」こそが、後の領有権主張の強力な根拠となります。当時の欧州列強からすれば、極東の島国から突然現れた武装集団が、自分たちの地図の空白地帯に墨を塗りたくったような衝撃だったことでしょう。
しかし、歴史の皮肉はここからです。 秀吉という男は、その晩年において朝鮮半島への野心、いわゆる「唐入り」に執着しました。もし彼が長生きし、その野望が泥沼の戦争として完遂されていれば、我々の南山共和国は存在しなかったかもしれません。だが、彼は亡くなりました。あまりにも呆気なく、そして絶妙なタイミングで。
1598年、秀吉の急逝により、朝鮮征伐は中止となります。ここで生じたのが、巨大な「余剰」でした。
戦争のために集められた莫大な資金、建造された大量の船舶、そして何より、戦うことしか能のない荒くれ者たち。彼らを国内に留め置けば、再び内乱の火種となることは明白でした。 そこで、この行き場を失ったエネルギーのベクトルは、北(朝鮮)から南(南洋)へと、劇的に、そして暴力的に転回されたのです。
朝鮮の土となるはずだった資金と人員の一部は、そのまま南山諸島と豪州北岸へ投下されました。1598年頃には、豪州大陸北岸、南山島、北嶺島、そして入安島の西端と東端に、次々と開発拠点が築かれていきます。
これこそが、我が国の「海洋国家」としての真のスタートラインでした。それは高潔な理想による建国ではありません。戦争という公共事業が中止になったための、いわば「大規模な配置転換」と「在庫処分」によって始まったのでした。
<櫻井教授の歴史の裏読み>
「秀吉の遺産は、朝鮮の怨嗟ではなく南洋の地図だった」
歴史を語るにおいて『IF』は禁物と言うが、形而史学の観点からは『IF』こそが本質を照らす鏡となる。 もし秀吉があと10年長生きしていれば、日本の若者たちは極寒の朝鮮半島で無為に死に絶え、国力は疲弊し、南洋への進出など夢物語で終わっていただろう。
秀吉の死は、徳川というリアリスト政権へのバトンタッチを可能にしただけでなく、日本人の血と金を「不毛な侵略」から「実利ある開拓」へと振り向ける決定的な転換点となった。 朝鮮征伐の失敗(というか未遂)によって余ったエネルギーが、そのまま南山建国の礎石となったのだ。
皮肉なことに、我々南山市民が今日享受している繁栄の種を蒔いたのは、太閤の野望そのものではなく、その挫折だったのである。 国家プロジェクトというものは、成功した時よりも、失敗して方向転換した時の方が、往々にして興味深い結果を生むものである。
最後までお付き合いいただき感謝します。
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