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徳川海洋圏の地政学と「南山」の政治経済史 棄民から生まれた「双頭の帝国」の構造分析  作者: しげぞう
第五章 教育の爆発と産業革命への助走 - 嘉永の転換点に向けて
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第二節 嘉永の産業革命

 南山文理大学の櫻井です。 前章に引き続き、第五章第二節の講義を行いましょう。

 教育によって「知恵」をつけ、南山によって「資本」を蓄え、食肉によって「体力」をつけた日本という国家有機体が、次に何をするか。それは必然的に、筋肉(生産力)の爆発的な増強 -すなわち産業革命です。嘉永年間(1848-1854)。このわずか7年足らずの期間に、日本列島は「まげを結った近世」から「煤煙にむせぶ近代」へと、暴力的なまでの変態メタモルフォーゼを遂げたのです。


 また、嘉永年間で特筆する事として米国との和親条約締結があげられます。東洋の古くて新しい産業国家が、太平洋の対岸からやってきたもう一つの若き産業国家と、煤煙と油の臭いの中で力強く握手を交わした、極めてマニッシュ(男性的)で、かつ計算高い「ビジネス商談」の記録なのです。



第二節 嘉永の産業革命


オランダ王の贈り物と、制御不能の「種火」


 19世紀中葉、欧州大陸が「諸国民の春」という名のロマンティックで、かつ流血を伴う政治的動乱に揺れていた頃、極東の海洋国家・日本においては、政治闘争よりも遥かに即物的で、かつ不可逆的な地殻変動が発生していた。 後世の歴史家が嘉永産業革命(The Kaei Industrial Revolution)と呼称することになるこの現象は、単なる西洋技術の模倣ではない。それは、長年にわたる南洋(台湾・南山諸島・入安島)経営によって蓄積された、国家予算の数倍にも及ぶ膨大な過剰流動性資本と、徳川幕府による封建的平和パクス・トクガワが醸成した、世界最高水準の識字・教育水準が、ある一点で臨界に達し、化学反応(爆発)を起こした結果であった。


 その「点火プラグ」となったのは、1844年(天保15年)にオランダ国王ウィレム2世が将軍への親書と共に献上した、最新鋭の蒸気機関の実働モデルと、リチャード・ロバーツ式自動紡績機の青写真であった。


 オランダ王にすれば、これは「親愛なる友人への、近代文明への穏やかな招待状」のつもりだったろう。しかし、幕府天文方や佐賀藩、水戸藩の技術官僚(テクノクラート)たちにとって、それはプロメテウスの火を盗むための「無料のカンニングペーパー」でしかなかった。 彼らは、基礎科学力を総動員してこれを瞬く間に(リバース)解析(エンジニアリング)し、そこからわずか10年という、欧州人が「東洋の魔術」と呼んで恐れる短期間で、日本列島の風景を一変させたのである。


 しかし、この嘉永の産業革命は、日本を一様に幸福な未来へ運んだわけではない。 産業化という名の列車は、地政学的条件と資源供給ルートの違いにより、太平洋側(東国)と瀬戸内側(西国)で、全く異なる線路を暴走し始めた。 この二つの線路は、並行して走ることはあっても、決して交わることはなかった。そしてその分岐点こそが、後の1868年の内戦と、国家分裂の遠因となったのである。



1. 「オオサカ・マンチェスター化」現象と、西国の焦燥


 まず、西を見てみよう。 大阪・堺・神戸から広島・下関・博多・長崎へと至る「西国・瀬戸内軽工業地帯(Continental-Mercantile Complex)」である。

 ここは、伝統的な清国・朝鮮・東南アジアとの交易ルートを背景に発展した、アジア市場への窓口だ。 彼らが選択したのは、綿織物、製糸、食品加工といった「軽工業」と「加工貿易」の道であった。


 1848年以降、大阪の空を覆った黒煙、いわゆる「オオサカ・スモーク」は、1,200本もの煙突が吐き出す石炭の息吹であった。 薩摩の島津斉彬や、大阪の豪商・鴻池善右衛門らが合弁で設立した「浪華なにわ合同紡績」などの巨大工場群では、数万錘のスピンドルが昼夜を問わず唸りを上げ、そこで生産された「日本綿(Japon Cotton)」は、圧倒的な価格競争力でアジア市場を席巻した。


 この影響は凄まじく、英国ランカシャー地方の綿製品は上海市場から駆逐され、1852年にはマンチェスター商工会議所が「極東の悪魔的な安値攻勢(Dumping from the Far East)」に対して英政府に悲鳴のような陳情書を送っている。また、安価な日本綿の流入は清国の家内制手工業を破壊し、太平天国の乱の経済的背景の一つになったとさえ言われている。


 しかし、この繁栄の裏で、西国の雄藩(薩摩・長州・肥前・土佐)は、深い焦燥感に苛まれていた。 彼らは独自の密貿易ルートで資本を蓄積し、反射炉を建設して軍事技術への転用を急いだが、決定的な何かが欠けていた。 それは「重工業の骨格」となる、圧倒的な資源供給量である。 筑豊や三池の炭田は確かに存在したが、東国が独占する南山からの資源供給ラインに比べれば、それは小川と大河ほどの差があった。 西国諸藩にとって、幕府が独占する南山航路と、東国で起きている異次元の重工業化は、自らの経済的存立を脅かす「巨大な怪物」の成長と映った。彼らが稼ぎ出した利益は「キャッシュ」だったが、東国が積み上げていたのは「パワー」だったからである。



2. 鉄と石炭の結合 — 環太平洋の「海獣リヴァイアサン


 一方、東を見よ。そこには、全く異質の文明が誕生していた。 江戸・横浜・横須賀から、水戸・日立、さらには仙台・石巻・釜石・宮古・八戸へと至る「東国・環太平洋工業地帯(Oceanic-Industrial Complex)」である。

 このラインは、単なる工業地帯ではない。南山植民地という巨大な「外付け臓器」と直結した、一つの生命維持装置であった。


 この地帯の心臓を動かしていたのは、二種類の「黒い血」の結合である。 一つは、国内の常磐炭田や釜石鉱山から掘り出される資源。そしてもう一つは、南山列島のワイカト炭田や、入安島から運ばれる、高カロリーで灰分の少ない最高級の瀝青炭と、無尽蔵の鉄鉱石である。 1848年以降、これらの資源は、南山物産の子会社である「南山郵船」の大型蒸気船によって、ベルトコンベアのように東国の港へ陸揚げされた。


 新潟藩の新潟造船所や、仙台藩の石巻製鉄所では、南山産のコークスを用いた巨大な高炉が、灼熱の銑鉄を吐き出し続けた。 ここで生産されたのは、鍋釜の類ではない。 蒸気船の装甲板、アームストロング砲を超える射程を持つ會津式施条砲の砲身、そして列島を縦断する鉄道のための重軌条レールである。 1860年代初頭の統計によれば、東国地帯の鉄鋼生産量は年間15万トンに達しており、これは当時のフランス一国の生産量に匹敵する規模であった。


 さらに特筆すべきは、この重工業化が「面」として広がっていた点である。 巨大な港湾部で粗鋼や大型部材が作られる一方、内陸部の諸藩――會津、庄内、山形、米沢、二本松、盛岡、高岡など――には、それらを加工するための精密機器や部品製造産業が誘致された。 例えば、會津藩の城下町には、スイスの時計職人を招聘して作られた「日新館精機」があり、ここでは蒸気機関の調速機ガバナーや、鉄道車両のベアリングといった高度な部品が生産されていた。米沢藩では、南山産の羊毛とゴムを用いたパッキング材や絶縁体の工場が稼働し、盛岡藩では南部鉄器の伝統技術を応用したエンジンブロックの鋳造が行われていた。


 この「東国サプライチェーン」は、幕府直轄領と親藩・譜代諸藩による、事実上の「国家社会主義的コングロマリット」によって運営されていた。 ここでは、藩境という封建的な壁は、鉄道と電信、そして共通の産業規格である「南山規格」によって事実上無効化されていた。 彼らにとっての「海」とは、鎖国の壁ではなく、南山という身内へ続く「青い国道」であった。その富の源泉は、海外交易の利鞘ではなく、自らが投資し、自らが育てた植民地と同志藩への「再投資の循環」にあったのである。


 この東国の姿は、西国から見れば、理解不能で、かつ恐怖すべき「キメラ(合成獣)」であったろう。 武士が算盤とノギスを持って工場を走り回り、農民が鉄道に乗って南山へ出稼ぎに行き、港には見たこともない巨大な黒い船が、石炭とゴムを山のように吐き出していく。 それはもはや「日本」という枠組みを超えた、環太平洋規模の産業要塞であった。



3. 列島を覆う硫黄の臭気と「カロリー資本主義」


 1850年代初頭、日本列島、とりわけ東国の太平洋沿岸部を訪れた旅人は、ある共通の嗅覚的体験を日記に記している。「腐った卵と焦げた土の混じり合った、鼻をつく刺激臭」


 すなわち、石炭燃焼に伴う亜硫酸ガスの臭気である。 かつて「瑞穂の国」と呼ばれたこの島国は、嘉永年間において、文字通り「火の国」へと変貌していた。


 産業革命の本質は、エネルギー源の転換にある。再生可能だがエネルギー密度の低い「木質バイオマス(薪・炭)」から、地下に眠る太陽エネルギーの缶詰である「化石燃料(石炭)」への移行だ。 この転換において、徳川日本は世界でも稀有な幸運 、あるいは地質学的な贔屓を享受していた。


 当時、産業界で「黒いダイヤ」と呼ばれ、金銀以上に渇望された石炭。 その供給において、東国・幕府サイドは圧倒的な「ロイヤル・フラッシュ」の手札を握っていた。まず、国内の常磐炭田である。1848年に幕府直轄の「常磐炭礦御用所」が設立されて以来、最新の蒸気ポンプを用いた排水システムにより深部採掘が可能となり、出炭量は1845年の年間2万トンから、1855年には20万トンへと爆発的に増大した。


 しかし、真の切り札は海の向こうにあった。 南山領域、特に北嶺島のワイカト炭田、および英領豪州東岸のニューカッスル炭田から運ばれる、低灰分・高カロリーの最高級瀝青炭である。 この「南山炭」は、燃焼効率が良く、ボイラーを傷めず、何より煙が比較的少ない(あくまで当時の基準だが)ため、軍艦や高速商船の燃料として垂涎の的となった。


 幕府は、この南山炭を独占的に輸入し、江戸湾の品川、横須賀、そして東北の釜石、宮古といった重要港湾に築かれた巨大な貯炭所(バンカー)に山積みにした。 当時の浮世絵師・歌川国芳が描いた『東都品川蒸気車往来之図』には、黒い山脈のように積み上げられた石炭の山と、それを蟻のように運び出す蒸気クレーンの群れが、毒々しくも力強い筆致で描かれている。 西国諸藩が筑豊の質の悪い粉炭を団子にして反射炉にくべている間に、東国のボイラーは、南山産の極上炭を惜しげもなく燃やし、世界最高水準の熱効率で鉄を溶かし、タービンを回していたのである。 これはもはや資源の差ではない。カロリーの格差であった。



4. 時間の支配 - 「不定時法」と「定時法」・距離の壁の喪失


  エネルギー革命は物理的な動力だけでなく、日本人の精神構造、特に「時間意識」という生活概念と感覚を根本から書き換えた。 嘉永以前の日本人は、日の出と日の入りを基準に一刻の長さが季節ごとに伸縮する「不定時法」の世界に生きていた。これは農業社会には適していたが、産業社会においては致命的なバグである。「夜明けと共に集まり、日が暮れたら解散」では、24時間稼働の高炉や、分刻みで運行する鉄道ダイヤは維持できないからだ。


 1852年、幕府は「嘉永改暦令」を発布。太陽暦の導入と同時に、1日を等間隔の24時間に分割する「定時法」の採用を宣言した。 これは、数千年来の日本の生活リズムに対するクーデターであった。 江戸城の太鼓が廃止され、代わりに丸の内の時計塔(イギリス製の大型機械時計)が、正午に蒸気サイレンを鳴らすようになった。「明け六つ」という優雅な言葉は死滅し、「午前6時」というデジタルな(当時はアナログ時計だが)概念が支配者となった。


 この変化を強制した最大の要因は、1854年に仮営業を開始した鉄道である。 品川〜横浜間を疾走する蒸気機関車「雷神号」は、自然の摂理ではなく、ボイラーの圧力と時刻表ダイヤグラムに従って動く。乗り遅れた者は、次の列車まで待たねばならない。 「お天道様は待ってくれても、蒸気車は待ってくれねえ」 これが、嘉永の庶民が学んだ最初の近代哲学であった。


  武士たちは、腰の大小と懐中時計(スイス製ムーブメントを会津でリバースエンジニア(丸パクリ)リングした「会津時計」)を帯に差すことを誇りとし、時間を自然の流れから管理し、切り売りし、消費する資源へと変質させた。 この時間意識の変革こそが、日本人が欧米列強の産業システムにスムーズに接続できた最大の要因であり、同時に現代まで続く時間に追われる国民性の呪いの始まりでもあった。


距離の消滅と心理的革命 南山は「隣町」になった


 蒸気機関が生み出したもう一つの革命は、「距離の破壊」である。それまで江戸から南山諸島への航海は、帆船で風待ちを含めて2ヶ月から3ヶ月を要する「命がけの異界への旅」であった。


 しかし嘉永年間に就航した幕府直轄・南山郵船の大型外輪船(2,500トン級)は、安定した石炭ボイラーの力で、この航路をわずか2週間(順調ならば10日!)に短縮した。


 当時、陸路で江戸-大坂の移動は2週間ほど必要で、江戸・関東・東北から南山までと、京・大坂までの時間的距離はほぼ等しいものとなった。江戸から薩摩までが、同じく陸路2ヶ月ほどの時間が必要なることに比べると、その差は大きい。


 この物理的な時間短縮は、人々の脳内地図を劇的に書き換えた。かつて「地の果て」であった南山や豪州は、親戚が住み、季節ごとの特産品(羊毛の冬着や、缶詰の牛肉、南洋の果物)が届く、日常の延長線上の土地として認識されるようになったのだ。


 江戸の日本橋には「南山物産所」が立ち並び、庶民は夕餉(ゆうげ)の卓で、入安島産の砂糖を使った煮物を食べながら、新聞(『嘉永新聞』や『南洋日報』)で明望の天気予報や羊毛相場を読む。「英領豪州? ああパースか、叔父さんが行ってるよ。来月の蒸気船で帰ってくるらしい」 そんな会話が、長屋の井戸端で交わされるようになったのである。


 この心理的障壁の消滅もしくは減衰こそが、後の1869年に発生する南山大脱出(グレート・エクソダス)において、1年間で80万人もの人間が、家財道具と先祖の位牌を抱えて躊躇なく海を渡る決断を下せた最大の要因である。 彼らにとって、南山への移住は未知への冒険や亡命ではなく、少し遠い場所への大掛かりな引越しあるいは転勤の感覚に近かったのだ。 産業革命によって培われた巨大な輸送能力(トン数)と、海への親和性(メンタリティ)は、そのまま国家の「引越し業者」としての能力へと転化されたのである。



5. 太平洋の「ガソリンスタンド」としての地政学


 最後に、このエネルギー革命が世界に与えた影響について触れておかねばならない。 嘉永の日本が確立した「日本本土〜南山ライン」の石炭供給網は、当時の世界覇権国である大英帝国、そして新興国アメリカにとって、無視できない戦略的価値を持っていた。


 1853年、クリミア戦争が勃発すると、英国海軍はロシア極東艦隊を封じ込めるため、太平洋に艦隊を展開させた。しかし、当時の蒸気船は燃費が悪く、頻繁な石炭補給が必要である。 英国は当初、自領のシンガポールや香港、あるいはオーストラリア(シドニー)からの補給を考えていたが、それだけでは北太平洋での作戦行動には遠すぎる。


 そこで彼らが頼ったのが、徳川日本の貯炭所であった。幕府は中立を宣言しつつも、人道的補給という名目で、英国艦隊に南山産の上質炭を相場の3倍の価格で売りつけた。当時の英国提督スターリングは、本国への報告書でこう嘆きつつも感謝している。

「日本の石炭は高い。悪魔のように高い。だが、彼らの港に行けば、必ず山のような石炭と水、そして修理ドックが用意されている。おかげで我々は、カムチャツカのロシア軍を冬の間も監視し続けることができた」


 また、米国の捕鯨船団にとっても、日本の開港場は死活的に重要であった。 かつては「薪水給与令」に頼って細々と補給を受けていた彼らは、日米通商条約締結後、堂々と横浜や函館、そして南山のラバウルに入港し、鯨油を売って石炭と食料を仕入れるようになった。


 これにより米国の捕鯨産業は黄金期を迎え、その背後にある米国資本は日本市場へと深く食い込んでいくことになる。 同時に、この時期に大量に流入した欧米の船員たちが持ち込んだ文化 、パン食、洋服、そしてキリスト教的価値観(あるいは単なる荒くれ者の気質)は、港町を中心に日本社会のハイブリッド化を加速させた。


 こうして嘉永の日本は、単なる「極東の工場」にとどまらず、太平洋という巨大な機械を動かすためのエネルギーの供給ハブとしての地位を確立した。 西国諸藩が、国内の政治闘争や尊王攘夷論という名の「コップの中の嵐」に熱中している間に、東国・幕府サイドは、世界のエネルギー血管の中にカテーテルをねじ込み、そこから滴り落ちる富と情報を貪欲に啜っていたのである。


 1867年の破局は、もはや思想の違いなどではない。「世界を見ている者」と「日本しか見ていない者」の、視界の解像度の違いが引き起こした必然的な分離手術であったと言えよう。



6. ペリーのミッション

「未知との遭遇」ではなく「既知との握手」


 さて、この急速に膨張する「極東のボイラー」を、太平洋の対岸たる米国はどう見ていたのでしょうか。


 1852年、ミラード・フィルモア大統領がマシュー・ペリー提督に与えた訓令は、「対等に契約を結べ」でした。当時の米国国務省の認識はこうです。


「日本徳川政権は、17世紀よりオランダ・英国と対等に渡り合い、南半球に巨大な植民地(南山)を有する地域覇権国家(Regional Hegemon)である。彼らはすでに産業革命の只中にあり、その通商圏は閉鎖的どころか、極めて攻撃的に拡大している」


 米国が必要としたのは、未開の国への啓蒙ではなく、太平洋航路における確実な「石炭と水の補給所(Gas Station)」であり、南山経済圏への「アクセス権」でした。 したがって、ペリーの任務は、最初から対等な「日米和親条約(Treaty of Peace and Amity)」の締結交渉であり、そのための切り札として、最新鋭の蒸気フリゲート艦隊による「デモンストレーション(威圧ではなく、技術力のプレゼンテーション)」が計画されたのです。


 1853年(嘉永6年)7月。 浦賀沖に現れたペリー艦隊(サスケハナ号など4隻)を待っていたのは、水平線の向こうから、もうもうたる黒煙を吐きながら出迎えに現れた幕府海軍および薩摩・佐賀藩の連合蒸気艦隊、計8隻でした。


 その旗艦、幕府水軍(後の海軍)御用船・外輪蒸気フリゲート「甲子丸きのえまる」(排水量1,950トン、全鉄製船体)は、美しさという点ではサスケハナ号に劣りました。リベットは無骨に露出し塗装も粗雑でした。しかし、その舷側に並ぶアームストロングコピーと正確な隊列運動は、ペリー提督に事前情報の正しさを痛感させるに十分でした。

ペリーの航海日誌には、冷静かつ実務的な記述が残されています。


「東洋の神秘は、もはや詩の中にしか存在しない。目の前にいるのは、我々と同様に石炭を燃やし、鋼鉄を鍛える近代国家の軍隊である。彼らのボイラー技術は我々より一世代古いが、それを補って余りある運用能力と、不気味なほどの自信に満ちている」


 この時、江戸湾で行われたのは「砲艦外交」ではなく、事実上の「日米合同観艦式」でした。 双方の士官は互いの艦を訪問し、ウィスキーと日本酒を酌み交わし、エンジンのピストン運動についてマニアックな議論を戦わせました。


 幕府側は、米国の持つ精密工作機械や電信技術を欲しがり、米国側は、南山産ワイカトの良質な瀝青炭の供給保証を欲しがりました。利害は完全に一致していたのです。



 翌1854年、神奈川で締結された日米通商・石炭相互融通協定は、歴史上稀に見る「ウィン・ウィン」の内容でした。


 第一条: 日米両国ハ、永世ノ平和ト親睦ヲ約ス。


 第五条(石炭条項): 日本国ハ、米国船舶ニ対シ、日本本土オヨビ南山領域(北嶺・南山・入安・ソノ周辺諸島部)ノ諸港ニオイテ、適正ナル相場ニテ石炭・水・食料ヲ供給スベシ。


 第十条(技術条項): 米国ハ、日本国ガ求ムル工作機械、鉄道機材、ソノ他ノ文明ノ利器ノ輸出ヲ妨ゲズ、マタ技術者ノ派遣ニ協力スベシ。


 これにより、日本は「不平等条約の泥沼」を回避しただけでなく、米国の技術を正規のルートで導入するパイプラインを確保しました。 一方の米国も、太平洋横断航路(サンフランシスコ〜明望〜上海)の兵站を確立し、アジア貿易への足掛かりを築きました。



7. クリミア戦争のバタフライエフェクト

「死の商人」への第一歩


 そして、歴史の神は、この新興産業国家にさらなる贈り物を用意していました。 1853年から1856年にかけて勃発したクリミア戦争です。


 欧州列強(英・仏・露・土)がクリミア半島で泥仕合を演じている間、アジア市場における欧州製品の供給は激減しました。 この巨大な「需給ギャップ」を埋めたのが、嘉永の産業革命でフル稼働していた日本の工場群です。 大阪の綿布、南山の砂糖と缶詰(初期の保存食)、そして幕府工廠製の小銃までもが、中立国の旗を掲げた商船(多くは南山船籍)によって、戦場やアジア各地へ輸出されました。


「敵味方、どちらが勝っても日本の商人が儲かる」 この戦争特需によって蓄積された莫大な資本が、さらなる設備投資へと回され、日本の産業革命を不可逆的なものへと押し上げました。


 特に、セヴァストポリの要塞戦で凍える連合軍兵士を救ったのは、大阪で作られた厚手の綿毛布と、南山から運ばれた「乾燥肉ジャーキー」でした。 ロンドンのシティでは、「日本の商人は、戦場の血を金貨に変える錬金術を知っている」と囁かれましたが、これは日本経済にとって決定的な「初期資本の蓄積」をもたらしました。 この戦争特需で肥え太った東國諸藩と御用商人達の資本が、後の幕末の投資の原資となり、最終的には大脱出の資金となっていった訳ですので歴史というものは奥が深いです。



8. 鉄道と電信 — 列島の神経系


 金があれば、インフラが作れます。 1854年、ペリーから贈呈された模型機関車を見た幕府のテクノクラートたちは、「模型で遊んでいる暇はない」と即座に実物の建設に着手しました。 1859年には、品川〜横浜間で仮営業が開始され、残念ながら中止されましたが、1865年には大阪〜神戸間でも着工されました。 使用されたレールは、当初こそ輸入でしたが、1860年には横須賀製鉄所で国産レールの圧延に成功しています。


 また、電信網の整備も急ピッチで進みました。 1854年には江戸城と横浜の奉行所が電信線で結ばれ、南山の明望との間にも、入安島経由の海底ケーブル敷設構想(実現は1865年)が持ち上がりました。 情報の伝達速度が「飛脚の足」から「電子の速度」に変わったことで、日本という国家の意思決定サイクルは劇的に加速し、中央集権化(幕府の権力強化)を物理的に可能にしました。



9. 影の側面 — 公害と格差の発生


 しかし、光が強ければ影も濃くなります。 大阪や品川の空は煤煙で汚れ、呼吸器疾患(当時は「肺腐れ」と呼ばれました)が急増しました。隅田川や淀川の水は工場排水で変色し、魚が浮きました。 また、急速な工業化は貧富の差を拡大させました。工場主がレンガ造りの洋館でワインを飲む一方で、職を失った農民や低賃金の労働者は、都市のスラム(貧民窟)に吹き溜まりました。


 1855年には、大阪の紡績工場で、賃上げと労働環境改善を求める日本初の「同盟罷業ストライキ」が発生しています。当時はまだ労働組合法などありませんから、これは事実上の「一揆」として処理され、指導者は南山(それも僻地)への流刑となりましたが、資本主義という怪物が産み落とした「階級闘争」の産声でした。






<櫻井教授の歴史の裏読み>

「ペリーは『給油カード』を作りに来たのだ」


 当時の米国にとって、日本は清国の様な「眠れる獅子」どころか「機嫌の悪いガソリンスタンドの店主」のような存在だった。


 南山という巨大な炭鉱を裏庭に持ち、東南アジアの物流を握る徳川マフィア。彼らを怒らせて太平洋の補給線を断たれることは、米国の捕鯨産業と対中貿易にとって悪夢でしかない。 だからペリーは、礼服を着て、手土産(最新のライフルや蒸気機関車)を持って、「お近づきの印に」とやってきたのだ。


 いつの世にもいる政府批判をしたいだけの奴が詠んだんだろう「泰平の眠りを覚ます上喜撰(蒸気船)」なんて狂歌だが実態がわかっちゃいない。


 「おい、起きろ。商売の時間だ。お互いに儲けようじゃないか」 ペリーが鳴らしたのは目覚まし時計ではなく、レジスターの音だった。


 そして日本側も、布団の中で刀を磨きながら、実はその音を待ちわびていたのである。






最後までお付き合いいただき感謝します。

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