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徳川海洋圏の地政学と「南山」の政治経済史 棄民から生まれた「双頭の帝国」の構造分析  作者: しげぞう
第五章 教育の爆発と産業革命への助走 - 嘉永の転換点に向けて
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第一節 藩校の大学化と公教育の底上げ

 南山文理大学の櫻井です。 前章までで、日本列島がいかにして「胃袋(食糧)」と「住処インフラ」、そして「概念ソフトウェア」を近代化させてきたかをお話ししました。しかし、ハードウェアとOSが揃っても、それを操作する「オペレーター」が未熟であれば、システムは稼働しません。


 第五章では、世界史的にも類を見ない速度で進行した日本の「知の大衆化」と、それが引き起こした必然的な帰結――すなわち嘉永の産業革命への導火線がいかにして敷設されたかについて講義しましょう。 教育とは、統治者にとっては「従順な羊」を育てるための牧歌的な営みであるはずですが、我が国の歴史においてそれは、羊たちに「牧場の柵の壊し方」と「自律型自動織機の設計図」を教える結果となりました。なんと皮肉で、そして痛快な誤算でしょうか。




第一節 藩校の大学化と公教育の底上げ


 19世紀初頭のロンドンを訪れた日本の旅行者が、現地の下層労働者の識字率の低さに驚愕し、日記に「彼らは文字の代わりに拳で語り合う」と記した話は有名です。一方、同時代の江戸を訪れた英国海軍の士官は、鮮魚売りの棒手振りが、売り声の合間に貸本屋から借りた『通俗三国志』や『南山漂流記』を読み耽る姿を見て、「この国は、魚の数より文字の数の方が多いのではないか」と報告書に書き残しています。この「知の偏在」ならぬ「知の偏在なき蔓延」こそが、後の産業革命のボイラーを焚く燃料となりました。



1. 昌平坂から「カレッジ」へ — 象牙の塔の実学化

 日本の公教育の頂点にあったのは、1660年(万治3年)に幕府が直轄とした昌平坂学問所です。 当初、ここは朱子学という「幕府公認の道徳OS」をインストールする場でしたが、18世紀に入ると様相が一変します。南山経営や対外貿易の複雑化に伴い、統治に求められるスキルが「徳」から「数」へとシフトしたからです。


 1790年の「寛政異学の禁」は「実学以外は象牙の塔(昌平坂)に閉じ込めろ」という意味を持ちました。 幕府は、昌平坂を頂点としつつ、全国の有力藩校に対し、より実践的なカリキュラムの導入を奨励しました。


 ここで特筆すべきは、私の故郷である会津藩の日新館(1798年設立)、米沢藩の興譲館、長州藩の明倫館、佐賀藩の弘道館といった有力藩校の変貌です。 これらは、もはや「藩校(Han School)」という牧歌的な名称で呼ぶべき施設ではありません。18世紀末には、事実上の総合大学(Imperial Colleges)へと進化していました。


 例えば、会津の日新館には、儒学を教える「文学校」に加え、数学・天文学・測量術を教える「数理寮」、医学と本草学を講じる「医寮」、そして西洋兵学と造兵・造機技術を研究する「機巧寮(Engineering College)」が併設されていました。 1805年の講義目録(シラバス)を見ると、上級課程の生徒たちは、『論語』の素読を終えたその足で、ニュートン力学を応用した弾道計算の演習や、南山産ゴムを用いたパッキングの耐圧実験を行っていました。


「ならぬことはならぬものです」という会津の頑固な道徳律は、こと科学技術に関しては「わからぬことはわかるまでやるものです」という執念深い探究心へと変換されていたのです。



2. 身分制の溶解 — 教室の中のメリトクラシー


 これらの「大学化」した藩校がもたらした最大の社会的インパクトは、身分制度の液状化です。 複雑怪奇な複式簿記や、対数表を用いた計算は、家柄が良いだけの上級武士の子弟には荷が重すぎました。一方で、下級武士や、場合によっては庄屋・豪商の息子たちの中に、驚くべき才能を示す者が現れます。


 18世紀中盤以降、多くの藩校で「聴講生制度」や「特待生制度」が導入されました。 教室の中では、上座に座るのは家老の息子ではなく、積分方程式を最初に解いた足軽の次男でした。 長岡藩などは特に急進的で、1830年代には(その後多くの東国諸藩が追随した)才能ある領民を藩費で長崎や明望へ留学させる「海外伝習生制度」を確立しています。これにより、日本の支配階級は、血統貴族から「技術官僚(テクノクラート)」へと、静かに、しかし確実に変質していきました。



3. 寺子屋ネットワークと「国民」の創成


 エリート教育だけでなく、底辺の広がりも異常でした。 庶民の教育機関である寺子屋は、18世紀末には日本列島の津々浦々、漁村の果てまで浸透していました。1840年代の統計的推計によれば、成人男性の識字率は都市部で85%以上、全国平均でも70%近くに達しており、これは同時代のロンドン(約65%)やパリ(約60%)を凌駕し、世界最高水準でした。


 なぜ、農民が字を覚える必要があったのか? それは、南山経済圏への組み込みが動機です。 肥料(干鰯や油粕)は金で買うものであり、その相場は変動します。収穫した作物は規格化され、商品として出荷されます。また、村から南山へ出稼ぎに行った若者からの手紙を読み、送金為替を受け取る必要もありました。 読み書きそろばんは、教養ではなく「生存スキル」だったのです。


 また、19世紀に入ると、公教育の実験が始まります。 備前岡山藩の閑谷学校(庶民のための学校)をモデルケースとして、幕府は天領(幕府直轄地)における郷校(Goko)や民校(Minko)の設立を支援しました。 ここでは、読み書きに加え、初等的な地理学や「国体」の概念が教えられました。「お前たちはただの百姓ではない。日の本という、南山を含む巨大な経済圏の構成員である」 そのようなナショナル・アイデンティティの刷り込みが、黒板とチョーク(白墨)を通じて行われていったのです。



4. 翻訳文化の氾濫と「知の高速道路」


 この教育爆発を支えたのが、世界でも稀な「翻訳システム」です。 オランダ語、英語、フランス語の専門書は、明望や各貿易港で入手されるやいなや、専門の翻訳官(蛮書和解御用)によって日本語に翻訳され、木版印刷によって安価に大量出版されました。


 ファラデーの『電磁気学的実験研究』がロンドンで出版されてから、その抄訳が『電気窮理新書』として江戸の本屋に並ぶまで、わずか3年のタイムラグしかありませんでした。 この「知の高速道路」が存在したからこそ、後の嘉永年間に蒸気機関や紡績機が導入された際、現場の職人たちは「魔法」ではなく「理屈」としてそれを理解し、即座に模倣・改良することができたのです。






<櫻井教授の歴史の裏読み>

「教育という名の『時限爆弾』」


 幕府や諸藩が教育に熱を入れたのは、当初は「有能な役人」や「真面目な納税者」を作るためだった。


「民は由らしむべし、知らしむべからず(従わせればよい、知恵をつけるな)」という論語の言葉を、彼らは都合よく解釈し、「知恵をつけて、より効率的に従わせよう」と考えたのだ。


 しかし、教育とは不可逆的な化学反応である。一度「知る」喜びと、論理的に「考える」術を知った民衆は、もはや盲目的には従わない。彼らは教科書で物理法則を学び、その応用として「社会の力学」をも分析し始めた。


「なぜ、何も生産しない上級武士が威張っているのか?」

「なぜ、我々の作った富が不合理な税として吸い上げられるのか?」


 幕府は、自らの手で支配体制を脅かす「理屈っぽい国民」を大量生産してしまったのである。 嘉永の産業革命は、蒸気機関のピストンだけでなく、この膨れ上がった「知的圧力」が爆発することで推進されたのだ。 彼らが配ったのは、農具ではなく、知識という名の「装填された銃」だったのである。



最後までお付き合いいただき感謝します。

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