第32話
天幕の中は、静止していた。
誰もが何かを言おうとして、声にならなかった。
押さえつけていた傭兵の手が、僕の背から離れ、少しばかり体が自由となった。
視線を上に向けると、剣があった。
振り抜かれた姿勢のまま、静止していた。
その剣を握っているのは、アーシャだろう。
鏡、というか剣越しに見えた姿は彼女だけだった。
いつ来たのか、わからなかった。
気づいた時には、もうそこにいた。
その時、天幕の入り口の布が大きく開かれた。
「何があった!」
飛び込んできたのは、ハリー・ベックマンだった。
彼の後ろからも、数人の傭兵が続く。
ハリーの目が、床に倒れたウィレムの体とその横に転がる首を捉えた。
その表情が、一瞬で青ざめた。
「なっ!…何ということを…!」
けど、すぐに彼は剣を抜いて周りの傭兵に叫んだ。
「包囲しろ! 絶対にこの女を取り逃がすな!」
号令一下、傭兵たちがアーシャを取り巻く。
剣を抜き、槍を構え、じりじりと間合いを詰める。
でも、囲まれているはずのアーシャは全く動じていなかった。
彼女は天幕の入り口に背を向ける姿勢のまま、今も僕に被さる傭兵に、未だ彼の上司の血を滴らせる切先をゆっくりと向けた。
「選べ」
目の前に赤く濡れた銀色の刃が突きつけられた傭兵の息を飲む音が聞こえた。
「去るか、死ぬか」
彼はヒイと悲鳴をあげて慌てて飛び退いた。
周囲の仲間の方へと下がると、また剣を構えたけど。
僕はやっと自由になって、その場に手をついた。
這うようにして向きを変えると、彼女はもう入り口の方へと向き直っていた。
またもゆっくりと剣を動かす。
そして刃を返し、素早く振るう。
すると、刃に残っていたウィレムの血が、ピッと床に払われた。
そして剣を自分の正面で縦に構えて、口を開いた。
「我、フィオナ・ゾーディは、ここに宣告する」
その声は、静かだった。
怒鳴らず、そして叫ばず。
静かな声。
でも、天幕の隅まで届くような声だった。
ただ、これは僕の知る「アーシャ」の声ではなかった。
「太祖カンギウスより継ぎし家名。そして我が父フィリオより授かりし名において」
フィリオ。
その名前を、僕はついさっき聞いた。
それが、父。お父さん。
「我欲に依て軍紀を乱し、私情のままに法を弄する専横者、ウィレム・セバスティアンを、ここに処したものである」
言い終えると、天幕の中にまた静寂が戻った。
天幕の入り口をハリーが塞いでいる。
その左右と後ろに、傭兵が並んでいた。
「…一つ聞かせろ、アーシャ・ライル」
ハリーが言った。
彼も声を荒げない。
でも、色々と押さえつけてる声だった。
「お前の名前はなんだ。アーシャ・ライルか、それともフィオナとやらなのか」
「私はフィオナ・ゾーディであり、今はアーシャ・ライルである。以前は、フィネガンという名を用いた事もある。二つある名が三つに増えてはならぬ道理はあるまい」
フィネガン。
その名前は、知っていた。
父さんに昔、戦争の話をしてもらった事があった。
北の国との戦いで活躍していた皇子様の話を。
「馬鹿な事を言うな!フィネガン皇子は、三年前にユストゥス総督閣下とクエンティン宰相閣下に告発され、テオドリック皇弟殿下の命によって罷免された!そして護送の途中に事故死したと記録にある!」
告発。罷免。事故死。
僕が聞いていた物語の、続きの話。
「その皇子は死んだ!そして皇帝、ソキウス一世陛下の子は一人だ!つまり、お前の言う「フィオナ・ゾーディ」などという人物は、この世に存在しない!恐れ多くも皇族の名を騙るのであればもう少し調べ物をすべきだったな不敬者め!貴様は何者だ!」
ハリーの言葉が終わった。
アーシャは少しの間、黙っていた。
そして、
「なかなかに弁は立つな、傭兵」
と、言った。
「⋯それだけか?」
「他に、何が?」
「⋯皇子は死んだと言っている」
「だが、私は此処に、そしてお前の眼前に、ある」
「⋯フィネガン殿下は「皇子」だ。女ではない」
「死者が生きているのだ。それに比せば理解はし易かろう。百の文よりも、我が存在こそが真である」
「⋯何が真だ」
「私が「フィオナ・ゾーディ」である事。これこそが、真であると言っている」
めちゃくちゃな事を言っていると思う。
でも、彼女の声は自分の言ってる事に一切疑問を抱いていない、自分を確信している声に聞こえた。
「…証拠を見せろ」
その言葉に、アーシャは短く鼻で笑った。
「控えよ。下郎」
天幕の温度が、一段下がった気がした。
「私は私の血に依って我が身が皇統にある事を主張している」
「なっ?!」
「臣がこれを否認せんとする無礼、此度においては不問としよう。急な話だ。当惑するのも無理はない」
アーシャは一歩、前に出た。
「だが、私が偽であるとするならば、これを証明する責務は貴様らにこそある。それをせずして尚、王の身に疑を呈さば、それは不敬、となる」
ハリーが黙った。
「無論」
アーシャの剣が、少し持ち上げられた。
「主の仇討ちを望むならば、相手となろう。今、ここで」
そしてまた、天幕の中は静寂で満ちた。
傭兵たちが、互いに視線を交わした。
ハリーは動かなかった。
ただ固まっている様子ではなかった。
そして彼はアーシャを睨みつけながらも、怒りを覚えている様子でもなかった。
何かを、計算していた。
しばらくして、ハリーは剣を鞘に収めた。
「全員、引け」
「隊長?」
「引けと言った!総督府へ撤退し、この反乱を閣下に報告する!急げ!」
傭兵たちが後退し始めた。
一人ずつ、天幕の外へ出ていく。
ハリーが最後に残った。
アーシャと、ハリーの視線が交差した。
言葉はなかった。
ハリーは一度だけ、床に転がるウィレムの遺体に目をやった。
それから、天幕を出ていった。
そしてやっぱり静寂が残った。
床には、ウィレム・セバスティアンがあった。
篝火の音だけが、外から聞こえていた。
アーシャが、ゆっくりと息を吐いた。
そして、視線は天幕の入り口に向けたまま、後ろにいる僕に向かって言った。
「すまない」
たった一言だった。
でも僕は、その言葉に込められた何かの重さを、うまく測る事ができなかった。




