第31話
僕は剣を手にして、その場に立ちすくんでいた。
理解が全く追いつかない。
何をすればいいのか。
何を言われたのか。
頭の中が真っ白になっている。
「ほら、早くしないか。夜も明けてしまうぞ」
ウィレムの声が、遠くから聞こえるようだった。
処刑しろ。
賊を、ロウエルさんを、自分の手で殺せと、この男は言っている。
そんなことができるはずがない。
しかし、断れば。
断れば、自分が賊の仲間だということになる。それで終わりだ。ここで、何もかもが。
「どうした? 剣を握ったまま固まってしまって。まさか、使い方も分からぬほどに呆けたわけではあるまい?」
ウィレムの嘲笑が天幕の中に響く。
僕の目は、未だ手の中の剣だけを見つめている。
「お前が英雄ならば、やってみせろ。悪を裁くことこそ英雄の仕事であるぞ」
英雄。
その言葉は、今は僕の胸に突き刺さる。
自分は英雄になりたかった。
絵巻物のような、正義の味方に。
でも、今、目の前にあるのは正義などではなかった。
ただの、殺人だ。
「……できません」
僕の口から、かすかな声が漏れた。
「何?」
ウィレムの表情が、一瞬で溶ける。
「できません。人を…殺せません」
「ふうむ」
ウィレムはゆっくりとこちらに近づいた。
その目は、蛇が獲物をにらむように冷たい。
「できないのではなく、しない。であろう?」
「ち、違——」
「違うかどうか、それを判別するのは貴様では、ない」
ウィレムがゆっくりと僕にさらに近づく。
そして右手が、僕の手に重なった。
僕に握らせた剣の切先を、自分の方へゆっくりと向けさせる。
「おおっと?これは、よくない」
このまま少し力を前に入れるだけで切先が彼の腹に刺さる位置だ。
「お前の剣の切先は、今、私を向いているぞ?」
僕は慌てて手を離そうとした。
しかし、ウィレムの手がそれを許さない。
「これは何を意味するか、わかるか?」
その声は、優しい。しかし、その優しさが逆に恐ろしかった。
「…反逆だ」
ウィレムが突然、大声で叫んだ。
「反逆だ! 賊の内応者だ! 誰か!誰ぞおらぬか!来い!」
天幕の入り口が開き、数人の傭兵が飛び込んできた。彼らは一瞬で状況を理解し、僕を取り押さえる。
「な、何を…っ!」
抵抗しようとするが、大人の男たちの力には敵わない。地面に押さえつけられ、剣も取り上げられた。
「見たか? 見たな?この小童、賊の捕虜の処刑を命じたところ、なんと私の剣を奪い、あまつさえ私に刃を向けたのだ」
ウィレムの宣言に、傭兵たちは何の疑問も差し挟まない。
ただ、その言葉にうなずくだけだった。
「い、違う! 僕は…!」
「違わない。私はこの目ではっきりと見た」
ウィレムは優雅に衣服の埃を払い、僕を見下ろした。
その目には、既に勝利の色が浮かんでいる。
「全く。やはり野の獣は道理を知らぬ」
彼はゆっくりと、取り押さえられた僕の前を往復しながら語り始めた。
「この世には二種の人間がある。導く者と傅く者だ。お前たちのような者は、後者に過ぎない。しかし時折、二本の手と二本の脚があるという外観上の類似点でもって、両者を等しいと見るような輩が湧いて出る」
その言葉は、僕の心臓を冷たく凍らせた。
「無知は罪であるし、思い上がりも当然罪である。罪に罰を。逸脱には縄を。それこそが秩序というものだよ」
ウィレムは、僕が落とした彼の剣を拾い上げた。
その刃が、天幕内の灯りを反射してギラリと輝く。
「しかし安心しろ。これは躾だ。当たりどころが悪くなければ、まあ死にはすまい」
そしてそれを頭上へと振り上げる。
「だが?貴様が変に動けば、この刃がどこに当たるかは保証できん」
彼は一旦剣を下ろして、やはりゆっくりと僕に近づく。
「つまりだ、子僧。動くなよ? 」
普段はもっとベラベラと喋る癖に。
身動きは取れない。
背中にかかる力がさらに増す。
傭兵たちに押さえつけられたまま、僕はただ迫り来る刃を待つことしかできない。
彼の靴が僕の目の前まで来た。
「我、ウィレム・セバスティアンは此処に宣告する!」
その声は、天幕中に響き渡った。
「我らが皇帝ソキウス一世!フィリオ・ゾーディ陛下!そしてレギ・ペトラ総督ユストゥス・アルカンの名において!汝!アルフレッド・ファーンの背信を!」
剣が、振り下ろされようとしていた。
「我が!誅罰する!!」
僕は目を閉じた。
アーシャの顔が浮かぶ。
父の顔が浮かぶ。
トビアスさんの顔まで浮かぶ。
そして、ロウエルさんの、哀しげな目が。
来る。
衝撃が。
痛みが。
死が。
しかし、それは来なかった。
代わりに聞こえたのは、ダアンという床に響く強い音と、何かが空気を裂く鋭い音。
そして、どちゃり、という鈍い水音のようなものだった。
…何か。
いや、何が、起きた?
僕はおそるおそる目を開けた。
でも傭兵に押さえつけられている状況は変わってない以上、僕が見えるのは天幕の絨毯だけであるはずだった。
床に、ウィレムの首があった。
その隣の体が、ゆっくりと崩れ落ちる。
さらに横に、右腕と、まだ剣を握った手。
彼の幅の広い剣はこれ以上ない程に磨かれ、鏡のようになっていた。
そこには剣を振り抜いたままの、一つの影が映っていた。
銀の髪。
赤い瞳。
アーシャが、いた。




