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常盤ひまりは都知事選に干渉する(2)

 常盤ひまりから連絡があったのは、公示日を迎えて最初の土曜日だった。京急蒲田駅に集合とだけ言われて、僕は一張羅を着込んで向かう。まさか人前で演説をしろとは言ってこないだろう。あくまで念の為だ。

 「やけに気合いが入ってるみたいだね」

 「ひまりは、なにその恰好」

 「週末だから私も気合を入れてきちゃった」

 常盤ひまりの今日のコーデは奇抜という他なかった。紅白のストライプでデザインされたジャケットとパンツを身に纏い、背中には何やら大きな荷物を背負っている。被っているつば付きの帽子も、鯉党に勝るとも劣らない赤だ。すでに多くの視線を集めている。

 「行こっか」

 「どこに」

 「蒲田は商店街がいくつかある。そこで活動するんだよ」

 まさかその格好で?と言いかけて、その無意味さの前に膝を屈する。常盤ひまりは羞恥心を欠落させているのかもしれない。僕は気持ち一歩遅れてついていく。

 「あはは、私たちが演説なんてしたら捕まっちゃうよ」

 「そうなんだ。全然想像がつかなくて」

 僕がこんな格好をしていた理由を伝えると、常盤ひまりは笑う。そんなにおかしいことだろうかと思ったけど、あどけない姿を見せてもらったので我慢する。

 西口から駅を出ると接続デッキを抜けて商店街に入る。今日は厚い雲が空を覆っていて日差しはない。それでも梅雨特有の湿った空気のせいで、ほんの少し歩いただけで汗がじっとりと肌に浮いてきた。常盤ひまりは短い髪を後頭部で一つ結びにしていて、隙間から時折見えるうなじが艶めかしく濡れている。

 「かばんには何が入ってるの?」

 「これから使う小道具だよ」

 これもまた心配だ。常盤ひまりの悪いところは、自分の考えをはっきり伝えないこと。僕がもっと強く聞けばいいだけかもしれない。だけど風貌に圧倒されて、さらに変人の連れというだけで向けられる視線を気にしているとそんな余裕も消え失せてしまう。

 「ここ」

 常盤ひまりが立ち止まったのは、『あすと』という名の商店街のほぼ中央、年季の入った花屋の前だった。鞄を下ろしていそいそと準備を始めると、店の中から人の良さそうなおばあさんが出てくる。

 「ひまりちゃん、おはよう」

 「おはようございます。今日もお願いします」

 面識があるのか挨拶が交わされ、おばあさんはすぐに店の奥に引っ込んでいく。常盤ひまりがかばんから取り出したのはカラフルなジャグリング用クラブとボールだった。もはや何から聞けばいいのか分からなくなる。

 「知り合い?」

 「うん、場所を貸してもらってる」

 「それはジャグリング?」

 「正確にはトスジャグリングだね。私、上手いよ」

 すごい自信だ。でも、常盤ひまりならそれくらいできて然るべきだと思ってしまう。そのための衣装だったのかと納得しそうになって、そうじゃないだろうと首を振る。

 「お兄さんはできる?」

 「三つのお手玉もできない」

 「だと思った」

 即答される。失礼じゃないか、とは思わない。ジャグリングは僕の中でステータスとなり得ない。だけど、そうなると気になるのは僕の役回りだった。

 「これが政治活動になるの?」

 「まあ見ててよ。土曜日だからたくさん人、集まるんじゃないかな」

 「自分で客寄せパンダになるってこと?」

 「あまり大きな声で言ってはいけない。あくまでこの場は私の大道芸を街の皆様に見てもらう場なんだ」

 「分かった」

 常盤ひまりがそう言うのだからそうなのだろう。僕は全幅の信頼を置くことになっているので、ただ頷く。常盤ひまりは三本のクラブを手に持つと真剣な顔つきになった。

 「お兄さんはアシスタントね。私がボールとかクラブって言うからそれを渡してくれたらいい」

 「てっきりまたサクラをしろって言われるのかと思った」

 「今日は相棒だね」

 「え、うん」

 急にそんなことを言われると困る。僕が反応に困っていると、常盤ひまりはジャケットの裾を引っ張って身なりを整える。そして、僕とアイコンタクトを取ってから大きな声を出した。

 「蒲田の皆さん!私は大道芸人のひまりといいます!どうか少しの時間でも、私のパフォーマンスを見ていってください!」

 もともと格好で人目を集めていた。それでいてこの声量なので、嫌でも多くの人が反応する。その視線を待ってから常盤ひまりはジャグリングを始めた。はじめは三本のクラブを宙に放り投げる。きっと一つ一つに技名があるのだろう。投げる高さを変えたりクラブの回転数を変えたり、次々と技を決めていく。

 「お兄さん、クラブ」

 「うん」

 指示があってクラブを一本手に取る。柄の方を差し出すように構えると、常盤ひまりは適したタイミングでそれを手に取って四本を回し始める。どこかで拍手が起こる。素人目に上手い。

 「四本からが本番なんですよ。技が色々と増えてきます」

 「お姉ちゃんすごーい」

 最前列にまだ小学校にも通っていないであろう子供が数人集まってくる。選挙権を持っている肝心の母親たちは少し後ろで井戸端会議をしている。子供としてはつまらない買い物中に面白いものを見つけたという心境だろう。常盤ひまりはそんな子供に問いかける。

 「何が見たい?」

 「すごいやつ」

 「いいよ。任せて」

 常盤ひまりは一度宙に浮かせていたクラブを手に収める。その一本を僕に渡して、代わりにボールを一つ手に取った。

 「クラブとボールを混ぜてもできるんだよ」

 常盤ひまりはクラブを最初に回して、次にボールを加える。クラブには柄とそうでない方という区別があるけど、ボールにはそれがない。だから案外簡単なんじゃないかとも思ってしまったけれど、横でじっくり観察しているとそうでもないことが分かった。

 クラブとボールでは投げ方が違う。それをコントロールするというのは到底できそうになかった。僕はピアノを弾くときも両手で違った動きをさせられなかった。常盤ひまりは器用に、限界を感じさせることなくやり遂げる。

 常盤ひまりの技に釘付けになっていた間にも、立ち止まる人の数は増えていく。前に空き箱でも設置しておけば、いくらか入ったかもしれない。この時にはもう、僕の頭に当初の目的は残っていなかった。けれど、この大道芸人は違う。十分ほどが経って人だかりが一番大きくなったと思われるところで、常盤ひまりはパフォーマンスを終了させた。

 「ありがとうございます」

 汗を拭って深々と頭を下げた常盤ひまりに大きな拍手が送られる。ここからが本番だった。

 「常盤ひまりって言います。普段は上野公園で練習してます。あと、余談ですけど、知り合いの岡野という男が今回の都知事選に立候補しています。彼は真面目でありながら大胆な男で、改革をするにはもってこいの人材だと思っています。もしお時間があれば一度ポスターをご覧になってください。どうかよろしくお願いします」

 本題の政治活動はたったこれだけ。常盤ひまりはもう一度頭を下げると道具の片づけを始めた。

 「お疲れ様」

 「どう?上手だったでしょ。でもあれ以上は投げてられないんだ」

 「すごい汗。何か飲み物を買ってくるよ」

 「うん。ありがとう」

 僕はすぐ近くのコンビニに走る。その間もずっともやもやが残っていた。こんなことで選挙結果が変わるのだろうか。あの一言だけでは、次の瞬間には名前を忘れてしまった人も多いだろう。何より、常盤ひまりの考えた計画では生ぬるいような気がした。

 「お茶で良かった?」

 「うん。こっちも準備できた。それじゃ行こう」

 常盤ひまりはペットボトルを受け取ると、花屋のおばあさんに一言挨拶をしてからJR蒲田駅の方向へ歩き始める。僕が浮かない顔でついていっていると、常盤ひまりがふっと息を吐いた。

 「地道な活動なんだよ。本来はね」

 「え?」

 「お兄さんは川崎の人だから違うけどさ、私たちはただの有権者。演説はできないし、のぼりも立てられない。チラシも枚数が決まっていたりして、簡単に手を出せない。できることの中で一番効率が良さそうだったのがこの方法だったんだ。それに、私は岡野の政治思想に共感してるわけじゃない。あくまでも結果を変えられるかということだけに興味がある」

 「でもあれで集められたのは五十人もいなかった。せめてこの様子をSNSで出してみるとか」

 僕から一つ提案してみる。常盤ひまりからこの話を聞かされた後、選挙について少し調べてみた。一般人でもネットを使って選挙活動を行うことが許されている。けれど、常盤ひまりはかぶりを振る。

 「SNSは不特定多数に伝わってしまう。最初にも言ったけど、これは大田区の中だけの活動にとどめないと意味がないんだよ。それに私は、こうした活動が本質なんだと思ってる。きっと政治のような大切なことって、大抵の人が無駄だと思うことの繰り返しで成り立ってるんだ」

 常盤ひまりはタオルで首元の汗を拭いてお茶を飲む。まるで部活動帰りの高校生のようだ。あの頃は僕も楽しかった。県大会なんて夢のまた夢でそれを自分でも受け入れていた。だけど、毎日の練習には価値があるような気がしていた。

 常盤ひまりを見ていると、社会がいかに結果主義で、いつか手に入れたはずの学びを生かし切れていないことに気付かされる。

 「次はJR蒲田駅西口の商店街が舞台だ。でも、私の腕が回復するまでもう少し時間がかかるから、ゆっくり歩こう」

 「うん」

 僕は歩調を落とす。駅のコンコースを通り抜けて西口に向かうと、ロータリーの前では人だかりができていた。紫色のタスキを肩にかけた有力候補者が熱弁している。昔は自己弁護のために努力者を白い目で見ることもあった。だけど、常盤ひまりの言葉を聞いて以来、そんな感覚とは無縁になった気がする。

 常盤ひまりの選挙活動はその後も順調に進んだ。たいていは蒲田駅周辺で、時には大森や田園調布の駅前に繰り出して、ジャグリングやパントマイムで人を集め、岡野という男の名前を刷り込んだ。何か問題が起きる可能性を心配していたけど、常盤ひまりの大道芸は特に子供に喜ばれて受け入れられていた。後半戦では常連客になった小学生にジャグリングを教えていたくらいだ。

 こうしてついに選挙日を迎えた。この日は一切の政治活動が禁止されているので、20時まで各々の時間を過ごし、それから僕の家に集合して開票速報を見た。20時になった瞬間、当選者の名前が大々的に画面に表示される。統計学というものは素晴らしい。投票箱を開けずとも、当選者が誰だか分かるのだ。

 ただし、僕たちが欲している情報はこれではない。インターネット上の情報も追いながら、大田区で全ての票が確定する瞬間を待つ。それは日付が変わった頃だった。

 「これは良い結果なんじゃないかな」

 ほろよいの常盤ひまりが開票所別の結果を見比べてそう呟く。岡野の選挙結果は、大田区を含めて箸にも棒にも掛からぬものだった。票のほとんどは上位陣が支配しており、多くの泡沫候補は数百票を獲得できれば御の字、二桁どころか一桁票しか集められなかった者もたくさんいた。岡野も他の開票所ではそんな燦燦たるありさまだった。

 ただし、常盤ひまりが活動を続けた大田区だけは違う。特異的に1047票が投じられており、流し見をしているだけでも違いは歴然だった。上位10名に惜しくも届かなかったが、明らかに他の泡沫候補とは格が違う。常盤ひまりは全ての結果を舐めるように見てまわって最後に顔をほころばせる。どうやら満足のいく結果だったようだ。

 「この差が統計学的に有意な差なのか検定する必要があるね。でも、この結果じゃそれをするまでもなさそうだ」

 「これが見たかったの?」

 「うん。仮に岡野が私のような人間をあと22人集めることができていれば、23区ではいずれもこの程度の票を獲得したはず。そうなれば上の下くらいには食い込むことができただろうし、どこかのメディアも取り上げざるを得なかったと思う。そうなれば次の選挙にかなり有利に働く」

 「これも選挙に干渉したおかげってことか」

 「間違いなくそう。足繫く通うことの大切さが分かった。とても満足してるよ」

 これを知ってどうしようというのだろうか。今の常盤ひまりならば都議選や区議選だったら当選者を出せるかもしれないなどと言いかねない。まさか将来自分が立候補しようとしているんじゃないか。そうなれば演説も解禁となって、その効果に興味を持つ可能性も十分にある。

 変な考えが頭の中にどんどんと湧いてくる。常盤ひまりは僕の顔を覗き込んでクスクスと笑った。

 「私はもうこれで満足かな。選挙はたくさんの人の考えが集まって初めて良い結果が生まれる。私だけが張り切って、その結果が反映されたとしてもこの世は良くならないよ」

 「そっか」

 その自覚はあったのか。もちろんそんなことは口にしないで、一人心の中で安堵する。常盤ひまりが本気になれば、今回の都議選で一躍有名になった候補者と同程度には化けるだろうと簡単に想像できてしまう。女性で物腰が柔らかいため、もっと人気が出るかもしれない。その応援隊長になってくれと言われれば僕は断れない。いや、その時はもっと有能な誰かがそばにつくだろう。

 後日、選挙の詳細な解析結果がPDFで送られてきた。何が書いてあるのかほとんど分からなかった僕は、スクロールしていって最後のページに辿り着く。結論は、たった一人の活動が大きな結果を生むこともあるという単純で当たり前なものだった。

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