常盤ひまりは都知事選に干渉する(1)
じりじりと照りつける太陽は朝から夕方まで大活躍だった。おかげで日本列島は今シーズンの最高気温を記録した地点で溢れ、ここ川崎もその例外じゃない。ヘトヘトの体で駅まで歩く間は、とにかく冷房の利いた電車に乗ることだけを考えて足取りは早くなる。そのせいで、僕は見落としてはいけないものを見落としてしまった。
「ちょっと、お兄さん」
お兄さんと呼ばれそうな人は周りにも歩いている。だけど、驚いて振り返ったのは僕だけだった。声があまりにも特徴的すぎる。500mLのペットボトルだけを手に持った常盤ひまりが陸橋の端で佇んでいた。
「あれ、どうしてここに?」
「酷い顔だねえ。立派な労働者の顔だ」
そんなことを普通の声量で言うものだから僕は慌てる。幸い、周りの耳には入らなかったらしい。
「僕の質問に答えてよ」
「ちょっと近くに用事があってね。もしかしたらお兄さんが通るかと思って待ってたんだ」
「すごい汗だよ」
「小一時間立ち呆けだった。返事をしてくれなかったせいだ」
僕はそう言われて鞄の奥からスマホを引っ張り出す。画面には常盤ひまりからのメッセージと着信が数件表示されていた。いつもあまり鳴らないものだから、そんな頻繁に確認しないのだ。
「とにかく電車に」
「そうだね」
僕は周囲を気にして歩き出す。常盤ひまりが毎朝、小島新田で通勤者を眺めていたのはもう数か月前になる。それでもこの顔を覚えている誰かがいるかもしれず、それが同期や先輩だった場合、正直面倒くさい。
川崎まで行くと、常盤ひまりの一存で決められた居酒屋に入る。常盤ひまりは同じ店に行こうとしない。新しい店を開拓したいからか、それともこれまでの店がお気に召さなかったのか。僕はただその後ろについていく。
「乾杯」
とりあえずビールを飲む。明日も仕事だから軽くと言ったけど伝わったかは怪しい。ここまでの道中、常盤ひまりは用件について話そうとしなかった。その代わり、大学の試験が拍子抜けするほど簡単だったという雑談を延々と聞かされた。
「ところで明日が何の日か分かってる?」
一呼吸置いた常盤ひまりが、突然面倒くさい彼女のようなことを言い始める。実際、面倒くさい人間なので不思議ということはない。
「明日?ただの木曜日だけど」
「ニュースは見ないの?」
「朝のニュースくらいは」
「明日は東京都知事選の公示日だよ」
「都知事選?」
何を言い出すかと期待していたらこれだ。なんとも絶妙なチョイスだと思った。確かにそんなニュースを見た記憶がある。なんでも候補者数が過去最多になるらしい。
「私はあの選挙に干渉してみたいんだ」
僕は思わずビールを吹き出してしまった。そして周囲に目を這わせる。何か危険な言葉が聞こえた。常盤ひまりは飄々としているが、今回ばかりは強く警戒する。
「なんて?」
「選挙に干渉」
「分かった。言わなくていい。意味が分からない」
この世を良くしたいというのが常盤ひまりの信念だ。そんな彼女が不正選挙を起こそうとしているなどとは考えたくない。しかし、相手は常盤ひまりの好奇心である。不本意ながら違法行為を思いついてしまったという可能性もある。そんなことを真剣に考えていると、唐揚げを頬張る常盤ひまりが眉をひそめた。
「変なこと考えてるでしょ」
「それはどっちだか。選挙はまずくない?」
「大丈夫。公職選挙法に違反するつもりはないよ」
当たり前だ。だけど、常盤ひまりの口からはっきりそう聞けて安堵する。ならば、どういう意図で選挙に干渉などと言ったのか。そんな僕の疑問を汲み取って常盤ひまりは説明を始めた。
「みんな思ってるんじゃないかな。都知事選なんて自分には関係ない。一票を投じたところで1100万の人波にさらわれるだけ。意味なんてないって」
「まあ、そう思う人はいるだろうね」
「だからそんなことないって証明したいんだ」
「ほんと何する気?」
いちいち話すことが意味深すぎる。民主主義から逸脱した方法で当選者を選ぼうとしているのなら大騒ぎだ。だけど、常盤ひまりはそんなことしないと言った。何を企んでいるのか全く見当がつかない。思考が読めないというのは恐怖に値する。
「今回の選挙は都合がいい。なにしろ泡沫候補が山のようにいるからね。彼らの得票率をどうにかして押し上げられないかと考えてる」
「どうやって?」
「もちろん選挙運動をするんだよ。それしかない。それで本当は50位になるはずだった人が40位になったとしたら?それは私のおかげだよね」
何を言ってるんだこいつは。久しぶりにそんな言葉が口から漏れそうになる。いや、言っている意味は分かる。目的も分かる。分からないのはそんな発想に至った理由だ。
「どうやって証明するの?選挙は一回きりだよ」
「よくぞ聞いてくれたね」
誰もが思うであろう疑問をぶつけると、常盤ひまりは意味ありげな顔をする。選挙は一回勝負なため、常盤ひまりが干渉した場合としなかった場合で比較できない。しかし、この顔を見るに何か考えがあるようだった。
「都知事選の開票は開票所ごとに行われてて、それぞれで各候補者の得票率が計算される。例えば23区はそれぞれの区ごとに開票所があるんだ。そこでだよ。私がどこかの区だけで、ある特定の候補者の応援をしたとする。その結果、その区での得票率が他の区のそれよりも上がったとしたら何が言えると思う?私が選挙結果に干渉できたということにならないかな」
「なるほど?」
ビールなんて飲まなければ良かった。そんな後悔をしながら頭を働かせる。なんとなく言っていることに矛盾はなさそうだ。だけど、色々と落とし穴が隠されていそうで怖い。もとより僕は選挙に詳しくない。
「で、どこで選挙運動するの?」
「大田区にしようと思ってる」
「大田区?大田区って蒲田があるところ?」
「大森と蒲田から名前を取ったんだからそうに決まってる」
「へえ、またひとつ賢くなっちゃった」
僕は常盤ひまりの冷たい言葉を適当にやり過ごす。蒲田は東京の中では比較的小規模な街だが、その代わりに個性的な飲食店が多い。先輩に連れていってもらったことが何度かある。
「で、なんで大田区なの?」
「川崎に近いからだよ。お兄さんが来やすいだろうと思って」
「僕に何させる気?」
「選挙運動だって言った」
「具体的には?」
もはやビールが喉を通らなくなる。それと同時に、出会った頃と同じ底知れぬ怖さを感じた。本当はそうあるべきではないと分かっている。だけど、選挙とは距離を置きたいと無意識に思ってしまうものだ。ただ、常盤ひまりにそんな正当性のない嫌悪感は通用しない。
「とある候補者への投票を呼び掛けてほしい」
「とある候補?」
「この男」
常盤ひまりがスマホを取り出す。操作して表示されたのは、人を見た目で判断するべきではないけれど、都知事には似合わない男のポスターだった。どうしてそう思ったのかと問われると難しい。素人が作ったようだからというのが一つの理由で、政策自体はまともそうなことが書かれている。名前は岡野。最近よく見かけるお遊びで出馬する候補者とはまた少し違うようだった。
「どうしてこれを?公示日は明日って言ってたのに」
「この人に連絡して見せてもらったんだ。あと、これから大田区で応援活動する許可も貰った」
「何も言われなかったの」
「構わないよだって。捕まらないようにとも」
常盤ひまりは笑っているが、冗談じゃない。捕まるというのは公職選挙法違反のことを言っているのだろう。そんな可能性をちらつかされて協力なんてしたくない。
「そんな顔しなくていいよ」
「こんな顔にもなるよ」
「私が言ったことだけしてくれればいい」
「それはつまり、ひまりに全幅の信頼を置けってこと?」
「うん、それでいいよ」
それ以外に何が、といったような顔をしてくれる。他人に身を委ねるというのは本当に恐ろしい行為だ。特にそれが常盤ひまりのような人間であればなおさらである。人の気も知らず常盤ひまりは返答を待っている。その目は有無を言わせない雰囲気を漂わせていた。
「分かったよ」
「ありがとう」
常盤ひまりはにっこりと笑ってグラスを傾ける。僕も現実逃避のためにビールを飲み干した。どうしてこうも僕は押しに弱いのだろうか。相手が常盤ひまりだからか。そんなことを考えて自分が嫌になってくる。
「お兄さんは仕事もあって忙しいだろうから、基本的には私が活動する。手伝ってほしい時に連絡してもいいかな」
「いいよ」
対立を生まない言葉だけはスルスルと出てくる。常盤ひまりはもう一度笑顔を見せてくれた。こうして話は強引に纏められ、その日はまだ酔いが回らないうちに解散した。