常盤ひまりは行列を憎む(2)
「やっぱり今日もだ。見て。酷いでしょ」
なんのことだ。僕は朝から活動しているストリートミュージシャンの歌声を聞きながら観察する。普通はなんでもないことも、常盤ひまりの目に同じように映るとは限らない。そうして思い当たるものを見つけた。
「あの行列?」
「酷いよね」
常盤ひまりはなんだか怪訝そうにしている。何が見えているのかといえば、JR川崎駅の改札口に向かうエスカレーターが大行列を引き起こしていた。それだけならば、雑踏のせいだと言えたかもしれない。問題は上りと下りそれぞれ二基のエスカレーターの左側だけに人が並んで、右側は綺麗に空いていることだった。
「なにはともあれ、まずは乗ってみよう」
常盤ひまりの提案で上りエスカレーターの列に並ぶ。途中から人が割り込んでくることもあって、エスカレーターに辿り着くまでに時間がかかる。そのまま流れに沿って左側に立った。俯瞰していた時と同じように右側はずっと空いている。後ろから歩いてくる人もいない。そのまま駅のコンコースに出た。
「ちょっと並ぶけど、僕はあまり気にならなかった」
僕の感想は嘘偽りなくこの通りだった。あえて口に出したのは常盤ひまりを牽制するためだ。もちろん、他人の意見など気にも留めないのが常盤ひまりだということは分かっている。
「原因は単純。歩く人のために空けてある」
「間違いない」
「でも、誰も歩いてない。おかしいと思わない?」
「確かに」
確かに不思議だった。僕が関西に住んでいた頃、立ち止まるのが左側か右側かという違いはあったけど、歩いて通行する人の流れもそれなりにあった。だからこそ、こうした暗黙のルールができたわけだけど、目の前の光景はそれと違っている。つまるところ、片側を空けている意味が何もない。
「私はあのエスカレーターの流れを二列にしたいんだ」
そんなことだろうと思った。正直なところ、僕はこの光景を見ても何も思わない。並んでいた時間はさほど長くなかったし、階段も併設されているので急ぎたいならそっちを使えばいい。しかし、常盤ひまりの目は燃えていた。
「管理者に言ってみる?」
「もうした。その結果がこれ」
仕事が早い。恐らく管理者側は面倒くさいクレーマーだと思ったことだろう。実際その通りだ。自分の思い通りにならなかった結果、常盤ひまりは僕を巻き込んで別の作戦を考えている。
「声かけでアナウンスしようと思ってる」
「でも、スピーカーでも流れてた」
「立ち止まって乗るようにしか言ってない」
エスカレーターに乗っている最中、スピーカーからはそれなりの音量でマナー良く乗りましょうという旨のアナウンスがずっと流れていた。立ち止まって乗ることは前提に、手すりに掴まりましょうとも言っていた。だけど、常盤ひまりの言う通り、二列で乗りましょうとは流れていなかった。注意書きのポスターには二列で乗っている絵が描かれていたため、それ自体が間違った乗り方というわけではない。
「じゃあ僕はあっちで見てるよ」
「お兄さんはサクラになって」
「サクラ?」
「私が呼びかける。お兄さんが率先して二列で乗る。そうすれば後ろの人も同じように流れる」
嫌だとは言えなかった。昨日、解決したいことを見つけたと言われた時、内心ワクワクした。また先日のように事件の解決に参加できる。そう期待したからだ。だから思っていたことと違っていても、ここまでついて来た以上は責任を取らないといけない。
「こちらからは二列になってお乗りください」
常盤ひまりはエスカレーターの乗り口付近に立ち構えると、似合わない敬語で列に並ぶ人たちに呼びかける。僕は列の最後尾に並んだ。常盤ひまりの呼びかけに応じる人は今のところいない。大抵はスマホを触って下を向いている人ばかりで、イヤホンをしている人にはもはや聞こえていないだろう。僕はそんな常盤ひまりの目の前まで来ると、一歩右にずれてスーツを着た中年の隣に並ぶ。そのままコンコースへと運ばれた。
降りると振り返ってみる。結果は芳しくなかった。常盤ひまりはずっと呼びかけ続けている。けれど、僕に続いて二列で乗る人はいなかった。わざわざ行動に移す意味があるかどうかはさておき、常盤ひまりの主張自体はそこまで変じゃない。二列に並んだ方が輸送効率が高くなることは小学生でも分かる。
ただ、大衆はそんな原理原則では動かない。僕は常盤ひまりの唯一の協力者として、下りも二列になるように乗り、再び上りエスカレーターの列に並ぶ。そんなことを繰り返しても、効果はまるで出なかった。
「ちょっと休憩しよう。もう声が出ない」
まさかこんなことを小一時間も続けるとは思わなかった。通過する人は全て違っているため、変な目で見られたとしても不審者とまでは思われない。それが問題で、全ての人が新規なため、声掛けの効果はほとんどなかった。一方、常盤ひまりの声はガラガラになっている。
「作戦を変えた方がいいかもね」
「そうだね。とりあえずこっち」
常盤ひまりはあごに手を当てて、何か考えながらエスカレーターに向かう。そのまま二人で右側に並んで立った。考えている間も行動するというのがいかにも常盤ひまりらしい。ずっと立ちっぱなしの僕の足は悲鳴を上げている。そんな文句もなかなか常盤ひまりの背中には掛けられない。
そうしてまたしばらくエスカレーターの往復をしていた時だった。上りエスカレーターに僕から乗って、二段下に常盤ひまりが続く。そんなフォーメーションで立っていると、ヨレヨレのTシャツに黒いバックを肩にかけた中年の男性が右側に入ってきた。とうとう賛同者が現れたかと思ったがそうではない。エスカレーターの上を歩いて、あっという間に常盤ひまりに追いついた。
「おら、どけ」
開口一番がそれだった。もともと右側が空けられていたのは、ここが歩く人専用レーンだと暗黙の了解となっていたからだ。マナー違反だとしてもそんな人がいるのは仕方ないことで、問題を起こさないためにも邪魔になっていた僕は歩こうとする。その手を常盤ひまりが握った。
「エスカレーターを歩くのはマナー違反です」
はっきりと指摘する常盤ひまり。その言葉に中年の男は片耳だけにつけていたイヤホンを取った。手に持っている新聞と照らし合わせて競馬でも聞いていたのだろう。続く怒号では、僕の場所まで男の唾が飛んできた。
エスカレーターを降りた僕らは早速、その男に連行されて罵声を浴びせられる。原則としてこちらに非は何もない。そんな状況で常盤ひまりが引き下がるはずもなく、両者は言い合いを続けた。僕が謝罪して引き下がらせようとしても、常盤ひまりはその場に根を張ってびくともしない。
そうこうしている内に警察官が二人やって来た。人を見た目で判断してはいけない。そんな小学校の道徳で教わることはさておき、客観的に中年の男がお叱りを受けるだろうと思っていた。しかし、警察官は二人とも常盤ひまりの顔を見て眉をひそめた。
「また君?今日は何したの」
「え、知り合い?」
僕は思わず声を出してしまう。しかし、常盤ひまりの同行者と知った警察官の僕に対する態度は、善良な市民に向けるべきそれとは違っている。常盤ひまりはまだ中年の男と言い争っている。僕は困り果てて、その後の光景をただ見ていることしかできなかった。
警察官は中年の男と常盤ひまりを引き離し、それぞれから事情を聞いた。常盤ひまりには明確な正しさが後ろ盾としてあり、冷静な口調から反省の言葉は出てこない。最終的に、中年の男の方が怒りを鎮めて、この場は収まった。
「君、小島新田の方でも問題起こしてたでしょ。もう駄目だよ」
「ありがとうございます」
「彼は大学の知り合い?」
「川崎の知り合いです」
常盤ひまりの紹介で僕が矢面に立たされる。警察官は小さくため息をついた。
「年上ならこの子の暴走を止めてあげないと。いつこうした小さなトラブルが取り返しのつかないことに発展するか分からないよ」
なぜか怒られた。そんな時になって理不尽さに腹立たしさを感じたが、それが言葉になる前に警察官は気だるそうに立ち去っていく。常盤ひまりは面倒な連中がいなくなったと言わんばかりに笑顔を見せた。
「いつもあんな感じなんだよ。私のことを良く思ってないんだ」
「いや」
「さあ、続きをしよう」
常盤ひまりは何事もなかったかのようにエスカレーターに向かおうとする。僕は咄嗟にその腕を引いた。
「なに?」
「作戦を練り直そう」
僕はエスカレーターに向かって伸びる長い行列を見てそう呟く。常盤ひまりは不満そうな顔をした。
「行動しないと変わらないんだよ」
「だったら行動した結果にも目を向けないといけない。ひまりはこの数時間で何も成果を出せなかった。それを謙虚に受け止めるべきだと思う」
「なにそれ、警察が来て怖気づいた?」
常盤ひまりは腰に手を当てて鼻を鳴らす。僕は常盤ひまりほど頭は良くない。瞬発的に考えを生み出すことはできないし、直感が鋭いというわけでもない。だけど、長く大学で研究してきたことで一つだけ人より優れていることがあると思っている。僕は息を整えて常盤ひまりに言った。
「簡単に言えば、ひまりは失敗したんだよ」
「失敗?」
「成果を出せなかった。僕から見ればそれは負けだ」
僕が唯一得意としていること。それは引き際を見極めることだ。研究とは、たくさんのアイデアの中から成功に持ち込めるものを有限の時間の中で見つける作業。見込みがない場合、すんなりと身を引かなければドツボにはまる。今回の結末はそれに近かった。
常盤ひまりは僕の強い言葉を受けて顎に手を当てる。そして一つ頷いた。
「そっか。私の負けか。だったら考え直さないとね」
常盤ひまりは聞き分けが悪いわけではなかった。僕は一安心して、何も変わらなかった世の中を堪能する。常盤ひまりにもできないことはある。それを知れただけでも今日は有意義だった。常盤ひまりは決して諦めない。この問題もいつかは解決してしまうだろうと心の中では期待していた。