常盤ひまりは行列を憎む(1)
金曜日の夜、祝勝会と称して川崎駅から数分歩いたところの焼肉屋に呼び出された。実のところ、常盤ひまりにとって川崎は思い入れのある土地なんかじゃなかった。捕まえるべき北山がこの地で働いていて、そこで僕と出会っただけ。それにもかかわらず、今日もわざわざ都心からこうして来てくれている。あれだけ怖がっていたはずの僕だったけど、そんな行動一つで常盤ひまりに対する心証を良くしていた。
「それでね、やっぱり傘を振り回すのは危ないと思うんだ。小さい傘だったとしてもね」
「そうかもね」
今日の常盤ひまりはかなり酔っている。ビール片手に熱く語る彼女の傍ら、僕はうんうんと機械仕掛けの人形のように頷いて、おしぼりを開いたり丸めたりする。興味のない話をもう二時間も延々と聞かされている。喋るのをやめたかと思えば、おもむろにビール二つと牛タンを注文する。まだ食べるのか。
「まあ、誹謗中傷は良くないね。替え歌とか、閉店の時によく流れてるあの曲でお別れをするのもあまりいい趣味じゃない」
また話し始める。どうしてこの話題になったんだっけ。僕は会話を振り返って思い出そうとする。最初は確かに祝勝会という名目で乾杯をした。それから常盤ひまりに好き勝手しゃべらせていたところ、話題がころころと変わって今はこんな話をしている。
「タオルを振り回すのはどうなの?」
「私はあれを顔面に受けたことがあるんだけど、あまり痛くはなかった。だから他の二つよりは構わないと思っているよ」
「物を振り回すのはやめましょうって小学校の先生は言ってたけど」
「物を振り回して金メダルを貰った人だっているんだよ。室伏っていうんだけどね」
なんと適当なロジックだ。どうやら常盤ひまりはオレンジのタオルだけ贔屓目で見ている。そういえば免許証に書かれていた住所は文京区だった。お膝元で暮らしていたのなら、仕方がないのかもしれない。
「ところで、常盤さんはビールしか飲まないんだね」
「ひまりと呼ぶよう言ったはずだけど」
「分かったよ」
「ビールは飲むものであって、背中に担ぐものじゃない。バイトをしてそう思ったんだよ」
また訳の分からないことを言い出した。常盤ひまりには悪い癖がある。他人が自分と同じ知識あるいは前提を持っていると思っていて、そのていで話をすることだ。ただ、今回ばかりは話の流れでなんとなく分かったので文句は言わない。
「だから決めたんだ。少なくとも背中に担いだ以上のビールは飲もうってね」
「ひまりは変わってるね」
「よく言われる。そのせいで母はあまり私と話したがらなかった。でも、父はそんな私が好きだと言ってくれる」
「僕は聞いてる分には楽しい。色んなことを知ることができる」
「ありがとう」
僕のお世辞に常盤ひまりの口角が少し上がる。この時はきっと、アルコールの力でミステリアスという名の仮面が剥がれかけていたんだろう。僕も常盤ひまりと意思疎通できていることが少し嬉しかった。それから小一時間、常盤ひまりは肉を食べ続けて、最後はビビンバで締めた。
「こんな状態じゃ電車に乗れそうにない。お兄さんの家、行ってもいいよね」
「え、また?」
「粗相はしない。約束する」
今日は割り勘にして店を出ると、常盤ひまりは唐突にそんなことを言い出す。このまま一人にするのは確かに危ない。そう思えるほど足取りがおぼついていなかった。どうしてこんなになるまで飲ませたのか。そう聞かれれば答えに窮するが、こんな可能性を予期できていなかったわけじゃない。結局、この世を少し良くした仲間のために要求を受け入れる。下心は二桁パーセントあったと思う。
「すまない。でも、明日もこっちで用事があるからちょうどいい」
「用事?」
「解決したいことを見つけてしまった。良ければお兄さんにも来てほしい。駄目かな?」
どうしてこんな時に限ってしおらしい振る舞いをするのか。こんなことを他の誰かにもしているのではないかと思うと、おじさん心で心配してしまう。何より、常盤ひまりの父親がかわいそうだった。
「僕はあんまり危ないことに首を突っ込みたくない」
「心配いらない。ちょっとしたことだよ」
「常盤さんのちょっとは信用ならない」
「まただ。常盤さんじゃなく、私のことは、ヴォエ」
すごい音がした。何事かと隣に目をやると、常盤ひまりが街路樹の根元に盛大に吐いていた。その後ろ姿だけ見ればいかにも大学生だ。だけど、隣にいるのがアラサーのおっさんだということを忘れないでほしい。うずくまる常盤ひまりの背中をぎこちなくさすって介抱する。そうしていると、夜の街を巡回していた警察官に職務質問された。
常盤ひまりはどうやら、お酒で記憶を失ったり人格が極端に変わったりすることはないらしい。苦しそうにしながらも、落ち着いた声で僕にかけられた疑いを晴らしてくれる。その後、なんとか僕の家に辿り着いた常盤ひまりはマットの上で寝てしまった。水を飲むように再三言ったものの、その時にはもう夢の中に落ちていて、僕はそのあられもない姿を冷たい目で見る。普通にゲロ臭い。僕は部屋の端で丸まって眠った。
次の日、僕が目を覚ますと常盤ひまりはいなかった。帰ったのかと思ったけれど、シャワーを浴びてドライヤーをしているときに玄関が開く。手にはコンビニ袋があった。
「前に来たときも思ったんだけど、冷蔵庫は空気を冷やすものじゃないよ」
「ちゃんと入ってる」
「ビールだけね」
常盤ひまりは机の上に買ってきた物を並べていく。僕が寝ている間に勝手にシャワーを使った形跡があった。その後、冷蔵庫の中に失望して一人で買い出しに行ったのだろう。常盤ひまりからは同じ匂いがしている。
「この家は電気ケトルもないみたいだね」
「お湯が欲しいならフライパンで沸かして」
「ずぼらだねえ」
常盤ひまりはしじみ汁を手にキッチンに移動して、言われた通りに湯を沸かす。誰かが自分の部屋にいるというのは、なんとも不思議な光景だ。昨日は口から生まれてきたんじゃないかと思うくらいにお喋りだったが、朝食を食べ始めた常盤ひまりはずっとスマホを触っていた。
「それじゃ、行こうか」
歯磨きまで終えて準備万端となった常盤ひまりが元気よく立ち上がる。ちなみに歯ブラシはストックを勝手に開けられた。メイクはしなくていいらしい。僕はマットの上に座ったまま、そんな常盤ひまりを見上げる。
「どこに?」
「昨日言った」
「聞いてないけど」
「あれ?」
常盤ひまりは思案顔をして、すぐにそうだったと手を叩く。しかし、それでいて手招きをして外出を提案してくる。
「時間が惜しい。歩きながら説明するよ」
「まだ一緒に行くって言ってない。説明が先」
「危ないことはない。保証する」
だったら先に説明をすればいいだけだ。それでも、常盤ひまりの頭にそんな手順はない。短髪をくいっと揺らされると重い腰が自然と浮いた。
常盤ひまりはポーチ一つ、僕はスマホと定期入れだけをズボンのポケットに突っ込んで家を出る。昨日、あんな大惨事になっていたにもかかわらず、それを引きずっている様子はない。これが若さなのかと感心していると、常盤ひまりが口を開いた。
「この前、京急川崎とJR川崎の駅の間を歩いたんだ。そうしたら、なんだいあれは」
「あれ?」
「他でもよく見る光景だけど、あそこは酷い。あれをなんとかしたいと思った」
「だからあれって?」
「エスカレーターだよ」
エスカレーター?何を言ってるんだ。僕の知らない摩訶不思議なエスカレーターがあるのかと思ったが、そういうわけじゃないだろう。次に思いついたのは盗撮だった。エスカレーターでは盗撮が頻繁に発生しているという。だけど、仮にそのエスカレーターで特異的に犯罪が発生しているなら、警察が黙っていない。
頑なに詳細を言わないのは何か理由があるからなのか。そんなことを思って、でも聞いたら負けのような気がして自分で考え続ける。ただ、常識的な答えを思いつく前に川崎駅についてしまった。そのまま連れていかれたのはアゼリアの入り口の向かい、中央東口にあるエスカレーターだった。