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常盤ひまりは社畜を見つめる(3)

 店を出ると、常盤ひまりは大きく伸びをする。そして、食べかけの料理が入った袋を僕に押し付けてきた。

 「じゃあ、お兄さんの家に行こっか」

 「なんで」

 「内緒話できるバーも知ってるんだけど、お兄さん落ち着かないかなって。お兄さんの家近いし、そっちの方が話しやすいんじゃない?」

 「君みたいなの、怖くて部屋に上げるわけないだろ」

 「まあまあ、そんなこと言わないでさ」

 常盤ひまりは僕の肩をポンポンと叩くと、千鳥足で歩き始める。僕はしばらく無言でついていく。駅から離れていくと喧噪な雰囲気は薄れていく。そろそろまずいと思ったタイミングで声を掛けた。

 「どこ向かってる」

 「お兄さんの家だって」

 「ほんと、何考えてるの」

 「歩きながら話してみる?」

 駆け引きでもしているつもりなのか。とはいえ、歩いている間に話が終われば好都合。僕は早速問いかけた。

 「仮に僕の勤める会社に犯罪者がいたとして、どうして君が関わろうとするの」

 「世の中のためだよ」

 「えらく壮大なことを言うんだな」

 「地域安全活動って知ってる?犯罪抑止のためには、その地域の住民の協力も必要不可欠なんだ。政府広報にも書いてある」

 「僕には、まるで警察の捜査のように聞こえたけど」

 「探偵だと思えばいいよ」

 「探偵業だって許可がいるだろ」

 僕が反論すると、常盤ひまりはクスクスと笑う。何がおかしいのかと思ったが、嬉しそうな顔をしていた。

 「やっぱりお兄さんに声を掛けてよかった」

 「どういうこと?」

 「そうだね。じゃあこう考えてみて。犯罪に巻き込まれて子供を亡くした親が、逃走中の犯人の情報提供を求めて駅前でビラ配りを行う。本質はそれと同じじゃないかな。私も男の情報を求めてお兄さんに声を掛けた。今のところはそれだけだよね」

 「先に警察に相談するのが筋でしょ」

 「したよ。でも、警察官が来た時にはもう逃げてしまってた。その後にあったのは無意味な押し問答だったんだ」

 「どういうこと?」

 「そいつはね、深夜の都内で違法薬物を売ってるんだよ。質が悪いことに、ただのブローカーじゃない。私の見立てでは、君の会社の研究資金で買った試薬を使って、自分で合成してるんじゃないかと思ってる」

 「まさか」

 信じられなかった。確かに、多くの違法薬物は広く構造が知られていて、その合成方法も一般的な情報源から手に入る。そうだとしても合成のハードルは極めて高い。原料となる化学物質は規制されていて、会社では管理が徹底されている。大学から試薬を盗むという事件が最近起きたばかりだが、それとはわけが違う。

 「売ってるところを見たのか」

 「うん」

 「それだけでどうして、その男が自前で作ってるって分かる?」

 「売ってる量が少ない。あれでただのブローカーなら儲けよりリスクが高すぎる。だから自分で薬物を調達してる気がする。調べてみたら君と同じ会社に勤めてることが分かったし」

 「得意のストーカーでか」

 「尾行ね」

 鼻高々に言った常盤ひまりは一つのマンションの前で立ち止まる。僕の住むマンションだった。ここまで来て、もう追い返せない。一緒にエレベーターに乗って5階に到着すると、常盤ひまりは当たり前のように僕の部屋の前で待機する。まさか盗聴器でも仕掛けてるんじゃないだろうかと気になったが、常盤ひまりは否定した。

 「掃除した方がいいよ」

 「一人暮らしの特権だから」

 常盤ひまりは文句を言った後、手当たり次第に扉を開けていって洗面台で手を洗う。その後、勝手に冷蔵庫を開けて缶ビールを見つけ出すと、テイクアウトした料理と一緒に楽しみ始めた。

 どうして連れてきてしまったのか。そう言われれば、自分でもよく分からない。下心が全くなかったかと言われれば答えに窮するが、正直なところよくて数パーセントだろう。それよりも諦めの方が大きかった。家の場所はとっくに知られていたし、僕が強く拒絶できないことを常盤ひまりも分かっていた。僕は机を挟んだ向かいに座って話を続ける。

 「どうして僕なの」

 「同じ会社の人だから」

 「その答えで満足すると思う?」

 「それに新人だからだよ」

 「新人だったら何なんだよ」

 常盤ひまりはもう缶ビールを空けてしまう。二本目を勝手に持ってきて、カシュっという音が響く。その一連の動作を待っている間に、僕もだし巻き玉子を一切れ口に運ぶ。

 「社内に協力者がいるかもしれない。新人ならその心配がない」

 「新人は他にもいる」

 「あとは直感かな。私、人を見る目だけはあるんだよね。お兄さんなら協力してくれると思った。だから声を掛けた」

 「もし断ったら」

 「そんなことしないでしょ」

 常盤ひまりの期待に満ちた瞳に晒される。どういうわけか目を離せなかった。女性から積極的にお願いをされたことがない僕がチョロいだけかもしれない。しばらくの沈黙は自分の負けを飲み込むための時間に使った。

 「何をしろっていうんだ」

 「難しいことは言わない。私はただ、その男が会社のどこの部署に所属してるのか知りたいだけ。私は門の中に入れないからね」

 「それだけ?」

 「たったそれだけ」

 常盤ひまりの要求は想像よりもあっさりとしていた。てっきりその男の仕事ぶりを調べてこいとか、接触して情報を聞き出してこいと言われるのかと思っていた。ハードルが下がったことで抵抗感が一気になくなっていく。

 「名前は?」

 「北山さとる。顔はこれ」

 常盤ひまりはそう言ってスマホの画面を見せてくる。それは隠し撮りされた写真だった。繁華街を歩いている姿や、駅で電車を待っている北山が色々な角度から撮影されていて、すぐに顔を覚えられる。それから年齢や居住地、毎朝の通勤時間など常盤ひまりが集めた情報が共有された。

 これだけの情報が集められるのに、所属部署が分からないというのが不思議でたまらない。それに、そんなことが分かったとしてどうするつもりなのかという疑問もあった。ただ、それらを全て飲み込んで、もう一度常盤ひまりの顔を見る。頷くしかなかった。

 「分かった。それだけでいいなら」

 「ありがとう。じゃ、連絡先の交換しとこっか。何か分かったらここにお願い」

 僕は常盤ひまりのスマホに映るQRコードを読み込む。アカウント名はローマ字の本名だった。プロフィール画像はどこかの田舎で撮られた風景写真である。

 「よしよし。全部が丸く収まったことだし、私は帰ろうかな」

 連絡先の交換が終わると、常盤ひまりは立ち上がって身支度を始める。最初から最後まで翻弄されっぱなしだった僕は、少し頬を紅くした常盤ひまりを玄関まで送る。何かもどかしさを感じるのは僕だけなのか。

 「そんな顔しなくていいよ。また飲みに行こう」

 「え、うん」

 「次は祝勝会だ」

 常盤ひまりは少し笑い、手を振りながら玄関を出ていった。なんだ、可愛いじゃないか。立ち呆ける僕は一瞬そう思って、すぐに自分がどんな顔をしていたのかと恥ずかしさで死にそうになる。机に戻ると、いつの間にか千円札が一枚だけ置かれていた。

 北山の所属を明らかにすることは造作もなかった。常盤ひまりに教えてもらったバスに乗り込むと、最後部の座席にその顔があった。会社の最寄りの停留所で下車し、通用門をくぐって歩行者用通路を数分歩くと、二階建ての古い建屋に吸い込まれていく。その入り口には部署の看板がしっかりと掲げられている。

 ただ、実はもっと簡単な方法で調べる方法がある。北山を見届けた僕は職場に向かい、自分の席につくとパソコンを起動する。メールアプリを開いて検索欄に北山さとると入力すると、一人のアカウントがヒットした。そこには答え合わせといわんばかりに北山の所属先が記載されていた。

 社内情報を常盤ひまりに教えて大丈夫だろうか。そんなことを数秒だけ考えて、昨日交換した連絡先で情報提供する。すると、すぐに既読がついて「ありがとう」とだけ返信があった。

 それからあっという間に二か月が過ぎた。僕は相変わらず面白みのない平穏無事な毎日を送っている。常盤ひまりは僕の前に現れなくなり、北山さとるは今日も食堂で見かけた。あれは一体何だったのか。やっぱり僕は常盤ひまりに騙されていただけだったのか。そんなことも考えなくなったある日のことだった。

 テレビをつけて出勤準備をしていたところ、一つのニュースに釘付けとなる。弊社の名前がなぜかテロップにあって、そこには43歳の社員を逮捕とあった。名前は北山さとる。容疑は麻薬及び向精神薬取締法違反だった。そのニュースはほんの20秒ほどで終わってしまう。僕は歯ブラシをくわえたまま、スマホで手当たり次第に調べた。

 社員による備品の横領が匿名で通報され、社内調査が行われていたと知ったのはそれから数日後のことだった。そんな背景を知った世間の弊社に対する印象は途端に悪くなる。仮に事件発覚が常盤ひまりに由来するならば、僕もこの結末に加担した一人ということになる。それは巡り巡って自分の首を絞めることになるかもしれない。けれど、そんなことよりも自分が微力ながら犯罪者の逮捕に貢献していたことを嬉しく感じていた。その日の夕方、常盤ひまりから「祝勝会をしよう」と連絡があった。

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