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常盤ひまりは社畜を見つめる(2)

 「あ、お兄さん」

 常盤ひまりは出入り口近くのカウンターに座っていた。手元には飲みかけのビールと、食べかけのだし巻き。僕は何秒か入り口で佇んでから中に入る。

 「生でいい?」

 「君、お酒飲んでいい年齢?」

 膝を振るわせながら聞くようなことじゃない。でも、これが僕の取り柄だと思っている。常盤ひまりは着ていたカーディガンのポケットから免許証を取り出した。

 「店員にも聞かれたよ。でも今年で21だから。ね、生でいいでしょ?」

 「うん」

 「おじさん、生一つ」

 はいよ、という掛け声の後、僕は隣の席に腰掛ける。免許証の写真は確かに常盤ひまりで、名前にも常盤ひまりと書いてあった。住所は東京都文京区まで読み取れた。ある程度個人が特定できる状態になって、ようやくちょっとした安心感が生まれる。

 「ほっとした顔してる」

 「一体何の用?」

 生ビールが提供される。すると、常盤ひまりはグラスを差し出した。

 「乾杯」

 がちゃんと音が鳴って常盤ひまりは残っていたビールを飲み干す。僕は少しだけ口をつけて居心地の悪さを我慢する。常盤ひまりは生ビールをおかわりした。

 「食べたいの注文して」

 「いや、僕は」

 「私が出すからさ」

 そんなことを言っているのではない。僕がメニュー表を手に取らないでいると、常盤ひまりが適当に注文していく。状況についていけない。

 「はぐらかさないで。一体何の用があって僕を呼んだんですか?」

 「昨日、言った通りだよ」

 「じゃあそのこと、説明してください」

 「こんなところで話せるわけないじゃん」

 常盤ひまりは周囲を見渡し、そうでしょうと納得させてくる。確かにその通りだ。常盤ひまりのせいで弊社の悪評が広まるかも知れず、それは僕にとってリスクになる。そして、常盤ひまりがそんな心配をしていたということが少し腹立たしい。

 「じゃあどうしてここに?」

 「こういう所じゃないと来てくれないと思ったから」

 常盤ひまりは何でもお見通しといった様子だ。その通りだけど腑に落ちない。

 「じゃあ別のこと、聞いていいですか?」

 「なんだろ」

 「僕の名前、どうやって知ったんですか」

 「変なこと聞くんだね。調べたからだよ」

 「だからどうやって」

 「通勤定期。お兄さん、タッチする時、裸のカード当ててるでしょ。それを見たんだよ」

 「ああ」

 言われてみれば、定期券には僕の名前がカタカナで印字されている。それならば苗字を正しく読めたことも納得できる。だけど、一体いつ見たというのか。そんな疑問にもすぐに回答してくれた。

 「あの空き地に私がいなかった日、あったでしょ」

 「え、うん」

 「あの日、家からお兄さんをずっとつけてたんだよ。改札を通る時も後ろにいたんだけど、気付かなかったみたいだねえ」

 なんなんだ、こいつは。いちいち人に悪寒を感じさせることに長けた奴だ。当の本人はまた料理を注文していく。

 「どうしてあんなところに毎日座ってたの?」

 「協力者を探すためだよ」

 「あんな目立つ方法で?」

 「人から向けられる視線の中で、忌避の眼差しが一番情報を含んでる。知ってた?」

 「それで僕を選んだ?」

 「他にもいるかもしれないよ?」

 イライラする。そんな感情のおかげで恐怖は体の奥に引っ込んでいく。場を支配されたくなくて、常盤ひまりの素性を明かしにかかる。

 「常盤さんは今何してるの。21ってことは大学生?」

 「まあね。ほら」

 今度は学生証を見せてくれる。そこにも免許証と同じように顔写真と本名があって、左上にはデカデカと東京大学と書かれていた。こうでなければ困ると思っていたくらいだ。きっと頭が良すぎて、ネジがほとんど外れてしまっているのだろう。

 「大学行かなくていいの」

 「朝はこっちに来て、その後行ってる」

 「何かの単位に必要な活動だったり?」

 「そんな講座があったら面白いのにねえ」

 常盤ひまりはヘラヘラと答えてチキン南蛮を頬張る。僕は苛立って語気を強めた。

 「なんなんだよ。ストーカーまがいなことをして、それでも自分が正しいって言えるの」

 「なに、お兄さん。全然飲んでないじゃん」

 「誤魔化すな!」

 あまりに大きな声が出て、周りの客がこちらを見る。それでも、常盤ひまりの表情は何一つ変わらなかった。人に迷惑をかけているという感覚がないのか。いくら賢かろうが、社会のルールを守れないようでは人間として幼い。常盤ひまりはビールのグラスを置いた。

 「お兄さんじゃないと駄目だったからだよ」

 「他にいないって認めるんだな」

 「そうだね」

 「理由は?」

 「それは後で話そう」

 「いい加減に」

 もう一度声を張り上げようとしたところで、常盤ひまりの人差し指が僕の口に当てられる。

 「大きな声を出すのは店に迷惑だ。私に喚きたいならもう少し待ってよ。受け止めるからさ」

 この野郎。そんな言葉が出かかって何とか飲み込む。僕はこれまで温厚な人間として知られてきた。嫌なことがあってもそれが怒りに変わることはほとんどなかった。そのはずが、こんな若い女の子にこぶしを握り締め、久しぶりにこめかみに力が入る。

 「じゃあ、どうしてこんなことしようと思ったの」

 「もちろん、許せないからだよ」

 「その誰かに何かされたの?」

 「この世を乱した」

 「へ?」

 僕の小さな脳みそでは到底思いつかないような、壮大な言葉が出てくる。常盤ひまりはゲソにマヨネーズを付けて豪快に噛み千切る。詳細を聞いても、またここでは話せないと言われるだけだろう。僕は当たり障りのない質問を考える。

 「そういうのは警察の仕事だろ」

 「ふふ。そうだね」

 「そうだねじゃなくて」

 「せっかちだなあ。分かったよ。そんなに気になるなら一旦ここを出よう。おじさん、おあいそ。あとこれ、テイクアウトの袋ちょうだい」

 「ちょっと」

 常盤ひまりは一方的に決めてしまうと、ビールを豪快に飲み干し、店員から受け取ったプラスチック容器に食べ残しを詰めていく。まだほとんど手を付けていない僕のビールを見て、目で合図を送ってくる。僕はいやいやそれを飲み干した。

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