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常盤ひまりは社畜を見つめる(1)

 川崎のミステリアスガールこと、常盤ひまりとの出会いは偶然なんかじゃなかった。今でこそ、懐かしいと思えるようになったけど、あの時の僕はまだ、社会の表層しか知らない常識人だったから、恐怖と困惑の連続だったことをよく覚えている。でも、そのおかげで大切なことを学んだ。常盤ひまりのような人間を一度知ってしまうと、自分の矮小な常識なんて何の役にも立たないんだって。

 川崎のミステリアスガールという愛称は僕の命名だ。特に深い意味はない。川崎で出会ったミステリアスなガールだから、川崎のミステリアスガールなのだ。これ以上の表現はできそうになく、もっと適したニックネームがあるなら教えて欲しい。といっても僕の持論では、常盤ひまりを真に理解することは何かしらの自然法則によって不可能とされているはずなので、あまり考えることはおすすめしない。

 こんなことを聞かされれば、きっと多くの人が一体どんな人物なんだと興味を持つことだろう。少しハードルを上げすぎたかもしれない。だけど、僕が体験したことを知れば、皆も同じ感想を持ってくれると信じてる。だからまず、僕と常盤ひまりが出会った経緯について話をしたいと思う。

 僕はその年、川崎に引っ越してきたばかりだった。関西の大学でなんとなく大学院を卒業した後、就職の都合で心機一転知らない土地にやって来た。川崎の海沿いは知っての通り工場地帯で、勤め先はその中の一つだ。

 川崎の中心から工場地帯までは色んな行き方があるけど、大抵はバスか電車になる。バスは頻繁に遅れると聞いていたから、僕は電車を使っていた。京急川崎駅から大師線というのに乗って、大体10分くらいで終着駅の小島新田に到着する。職場はそこからさらに何分か歩いた先だった。

 常盤ひまりと初めて出会ったのは、そんな出勤途中での道すがらだった。この道は多くの会社員が殺伐とした雰囲気で歩いていて、工場特有の変な匂いも相まって荒んでいる。その一角の空き地で女の子が一人、青のキャンプチェアに座って社畜の群れをぼんやりと眺めていた。

 時期は、確か五月の半ばだったと思う。その時は日光浴でもしているんだろうとしか思わなかった。これから価値を見出せない仕事に行くというのに、他人を気にしている余裕なんてない。見た目は大学生くらいだったし、自分も学部生の頃はよく暇していたからそんな奴がいてもおかしくないと思ってた。

 でもそれから一週間、常盤ひまりは毎日そこに座っていた。とある日は雨が降っていた。海沿いだからか、この辺りは雨が降ると大抵風が強く吹く。傘をさしていても足がずぶ濡れになって、その不快感に耐えながら通勤していると、紺のレインコートを着た常盤ひまりが、強風にあおられながらいつものキャンプチェアの上から僕たちを見ていた。

 なんだこいつは。さすがに意味が分からなくて、目の前を通るときに横目で観察してみる。顔が濡れても気にする様子はなく、キャンプチェア以外に荷物を持っているようにも見えない。大人びた雰囲気と童顔というミスマッチが余計に不気味さを醸し出している。常盤ひまりと視線が重なる。僕は歩調を速めてその場から離れた。

 夕方に見たことは一度もない。朝だけ座っていないといけない用事があるのか、もしくは頭のおかしい女の子なのか。僕は日ごとに後者なんじゃないかと思うようになっていた。

 そんなことがさらに二週間ほど続いたある日の木曜日。この日は曇りだった気がする。常盤ひまりはいつもの場所にいなかった。

 こんなのおかしいじゃないか。そう思って目だけを動かして探してみてもいない。他の通勤者も同じことを思っただろう。社畜を見物する嫌な趣味の女がいなくなったと安堵した人もいたかもしれない。でも僕はその日、ずっともやもやが晴れなかった。

 その日の夕方、退社した僕は駅までの途中、無意識に常盤ひまりを探して立ち止まっていた。いつも座っている空き地は近くにある金属加工会社の駐車場らしい。そうなると、会社の関係者なのだろうか。そうでないと不法侵入ということになるし、何週間もその会社がほったらかしにするはずがない。

 夕暮れの道を遠くまで眺めても老人が一人いるだけ。僕はどうでもいいじゃないかとため息をついた。あの子の考えを知ったところで僕の生活は何も変わらない。今日は金曜だし特に疲れている。早く帰ろう。再び歩き始めた時だった。

 「お兄さん」

 背後から声が掛かる。知らない女の声で、振り返るとそこには常盤ひまりが立っていた。肩までの髪を風に靡かせ、後ろで手を組んで可愛らしく笑っている。一応、周りに誰かいないか確認する。残念なことに僕に話しかけている。

 「な、なに?」

 「お兄さんの名前、大和直樹で合ってるよね?」

 全身に鳥肌が立つ。単に名前を知っていたからじゃない。名前の読み方を間違えなかったことが問題だった。僕の苗字は大和と書いて「おおやまと」と読む。ほとんどの場合は「やまと」となるはずで、初対面の人が僕の苗字を正しく呼んでくれたことはない。でも、常盤ひまりは知っていた。

 「君は?」

 「常盤ひまり。昨日までここに座ってたの気付いてた?」

 「うん」

 もともと会話は上手くないし、緊張しているので声が掠れる。常盤ひまりはそんな僕を笑った。

 「なんで名前知ってるのって顔だ」

 図星だ。そう思ってから、この状況なら普通そう考えるだろと考え直す。走って逃げようかとも思ったけど、その前に常盤ひまりの口が開いた。

 「実はさ、お兄さんが勤めてる会社に犯罪者がいるんだ。そいつを捕まえるの、手伝ってくれない?」

 なんだこいつ。同じ感想しか出てこないのは僕が悪い訳じゃない。その言葉の後に警察手帳でも見せられるのかと思ったが、待っていても何も起こらない。どうやらただ頭がおかしいだけらしい。思わず笑いそうになったが、そんな軽率な行動で因縁を付けられても困る。

 「忙しいから」

 「あー、いいんだ。そんなこと言って。後悔しても知らないよ?」

 「脅すつもり?」

 「脅してるんじゃないよ。一緒に世の中を良くしようって言ってるだけ」

 「そういうの興味ないんで」

 僕は言い終える前に歩き始める。ついて来たら警察に電話しようと思っていた。けれど、駅で電車を待つ間、常盤ひまりは姿を見せなかった。

 次の日、僕は恐る恐る出勤する。すると案の定、常盤ひまりは定位置に座っていた。僕はその空き地からできるだけ離れて歩く。これだけ人がいれば変なことはしてこない。そんな予想は簡単に裏切られた。

 「おはよう。お兄さん」

 僕を見つけるなり、常盤ひまりが駆け寄ってくる。その瞬間、この場の全ての視線が集まったような気がした。恥ずかしいというより、やばいことになったと感じる。恐らく、ここにいる全員がこの異常者を知っている。そんな奴の知り合いにされそうになっている。

 「ちょっと、何して」

 「嫌だったら今日の夜、ここに来て」

 耳元で囁かれて、紙切れを手に握らされる。その後すぐ、常盤ひまりはキャンプチェアに戻った。心臓が跳ねたまま落ち着かない。そこから会社までのことはよく覚えていない。

 帰りは違う道を使い、一駅分歩いてから電車に乗った。仕事は捗らなかった。ただ、社内の方が安全だったはずで、外を歩いていると気が気でなくなる。心配とは裏腹に、常盤ひまりは現れなかった。

 握らされた紙には一軒の居酒屋の名前が書いてあった。グーグルで調べてみると、川崎駅近くの大衆居酒屋だと分かって首を傾げる。あんな人間の考えることである。人気のないところに連れ出されるものと勝手に思っていた。

 いずれにせよ、僕に決定権はない。無視をすれば後が怖いが、だからといって警察に助けを求めるとしてなんと言えばいいのか。常盤ひまりという名前は偽名かもしれず、面識のない若い女に付き纏われてるとこんなおっさんが騒いでも、誰も真剣に取り合ってくれないだろう。

 18時過ぎ、指定の居酒屋に顔を出したのは、そういった事情を総合的に考慮した結果だった。

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