32.コースアウト
午後三時。レイクランド・サーキット。スターティング・グリ
ッド上にはすでにマシンが勢揃いしていた。上位を占めているの
は名だたるマシンばかりだ。
GTR、RX7、スープラなど国産のトップクラスのチューニ
ング・マシーンが名を連ねている。中でも注目を浴びているのは
やはりバイパーだ。アメリカを代表するマシンが走るので、今日
はスピードバトルになるだろうと予想されている。
おれはスターティング・グリッドでマシンに乗って、由樹の乗
るバイパーを見ていた。以前と同じようにブルーのカラーリング
にホワイトのストライブは変わっていない。
だが、パワーは以前よりも増しているだろう。各マシンの横に
はチームスタッフが立っている。おれの横にはアヤが立っていた。
剛はまだパドックに戻ってきていなかった。おれはバイパーか
らアヤに視線を移し、手招きした。すでにヘルメットを被ってい
るので、顔を近づけないと声が聞こえない。
「剛はまだ戻ってきてないか?」
「はい。実は私と食事から一緒に帰って来る時、知り合いの人を
見つけたらしくて、小走りでその人の方へ行っていたみたいです。
きれいな女の方でした」
「そうか」
たぶん、美保だなと思った。
『剛もつらいだろう。だが、こういう別れの時は女は強い。男は
過去のことを引きずってしまう。逆に女は、先を見据えている。
女が現実的といわれる所以だ。まあ、俺も佳奈のことをいつまで
も思ってるから、一緒か』
「ここからスタートするんですね」
アヤの言葉で、我に返った。そうだ、今はレースに集中しなく
ては。
「うん?ああそうだ。どうだ、アヤちゃん。サーキットに自分の
足で立った気分は?」
「緊張してます。テルさんはどうですか?」
「おれも緊張しているよ。どう走ろうかってね」
「でも前を見るとカーブに吸い込まれそうですね」
「カーブ?ああ、第一コーナーのことか。たぶんすべてのドライ
バーはその一コーナーにどのラインで飛び込むか考えているだろ
う」
「飛び込む!それって怖くないのかなぁ」
「怖いさ。だけど遠慮したらその時点でレースは負けだ」
アナウンスが流れた。ドライバー以外はサーキットから立ち退
くように促している。アヤはヘルメット越しにおれを見て言った。
「いよいよですね。テルさん、がんばって」
おれはアヤの声に無言で頷いた。コース上から小走りに人が立
ち去っていく。おれはクラッチを切りキーを回す。マシンが目を
覚ました。コース上の各マシンのエキゾーストノートがサーキッ
トに響き渡る。
そしてマーシャルカーがコースに入ってきた。フォーメーショ
ンラップが始まった。フォーメーションは決勝の前に一周だけ走
るもので、主にタイヤをコースに慣れさせるために行われる。ま
た最後のコースチェックにもなる。もちろん追い越しは禁止だ。
おれはマシンをゆっくりと発進させた。ステアリングを左右に
回しながら、タイヤのグリップ感を確かめる。目の前をバイパー
が走っている。バイパーも車体を左右に振っている。おれはバイ
パーの後ろを走りながら、各コーナーをチェックする。
やはり追い越せるのは第二コーナー。それもチャンスは一回。
ファイナル・ラップだけ。もちろんファイナル・ラップまで残っ
ていればの話だが。最終コーナーが見えてきた。一時間後、この
最終コーナーをどういう形で見ることができるだろうか。
バイパーとバトルしながらか、それともクラッシュして見るこ
とができないのかといろいろな思いが頭の中をよぎった。ステア
リングを右に切り、メインスタンド前に向かう。スタンドの歓声
が聞こえてくる。歓声が聞こえてくるのは今だけだ。レースが始
まればそんな余裕などない。
マシンをスターティンググリッドの二番目につける。マーシャ
ルカーはすでにピットロードに姿を消した。おれは第一コーナー
を睨み付けた。とにかく早くインをつきたい。今頭の中にはそれ
しかない。
シグナルはまだレッドのまま。おれはエンジン回転数を七千あ
たりを維持していた。これがホイルスピンしないぎりぎりの回転
数だ。耳には各マシンの甲高いエキゾーストノートが響く。まだ
レッドだ。
おれは早くグリーンに変わってくれと思った。心臓の鼓動が速
くなる。時間が一瞬止まったような気がした。次の瞬間、シグナ
ルがグリーンに変わった。おれはアクセルを踏み込んだ、だが、
マシンはいつもように前には進まず、リヤタイヤの悲鳴が聞こえ
た。
『しまった!ホイルスピンだ』
アクセルを一瞬早く踏み込み過ぎたのだ。イージーミスだ。各
マシンが次々と横を通り過ぎて行く。おれは頭の中が真っ白にな
り、早くマシンを立て直そうと気ばかりがあせった。気持ちが落
ち着いたのは第五コーナーのヘアピンをクリアした時だ。
ふとルームミラーを見る。後続のマシンがまだ何台か見える。
どやら最後尾ではなさそうだ。二番グリッドで最後尾に落ちた
のではたまったものではない。
おれは第三ヘアピンをクリアする。そして最初のトンネルに入
る。ようやくマシンの挙動をコントロールできるようになった。
その時だ、後ろに威圧感を感じた。まさかと思いルームミラーを
見る。バイパーだ。バイパーがピッタリと後ろに張り付いている。
『なぜ、バイパーが!奴はトップだったはずだ!』
二番目のトンネルを通過し、名物の橋に入る。アクセルをグッ
と踏み込む。バイパーは抜こうとしない。なぜ抜かないのか。バ
イパーなら軽く抜けるはずだ。トンネル内のコーナーが見えてき
た。
ここで初めておれは四輪スライドでクリアする。そしてシケイ
ンもブレーキを効率よく使いながらクリアして、最終コーナーへ
向かう。最終コーナーを立ち上がっても、バイパーは抜かない。
ここでおれはようやくわかった。わざとだ。奴はわざと抜こう
としないのだ。おれをクラッシュさせるタイミングをうかがって。
これでは蛇に睨まれたカエルだ。メインスタンド前を通過し、
二周目に入った。
『どこだ。どこで抜くつもりだ!二コーナーか、五コーナーか?』
汗がどっと吹き出てくる感じだった。二コーナーをクリアする
時、思わずラインを外した。マシンの挙動が激しくなり、リヤタ
イヤも悲鳴をあげる。まだ抜かない。自分自身、かなりあせって
いるのがわかった。今は走行ラインさえも見えていない。
『落ち着け。落ち着くんだ。基本のラインさえ外さなければクラ
ッシュさせられることはない』
おれは自分自身に言い聞かせた。第二ヘアピンが見えてきた。
ここはアウト・イン・アウトだ・おれは縁石ぎりぎりのライン
にマシンを向けようとした。その時だ。奴が襲いかかってきた。
インから抜きにかかった。おれは奴のラインを防ごうした。だ
がすでに遅かった。おれは完全にアウト・イン・アウトのライン
を潰された。とっさにブレーキングする。
そこで奴はとんでもないことをした。マシンをおれに寄せてき
たのだ。奴にはラインなど必要ないのか。おれはステアリングで
奴を避けようとした。それでも寄せてくる。タイヤが縁石に乗り
上げる。ステアリングが震えだした。
『だめだ!コースアウトだ!』
急にガクンとステアリングが重くなった。砂地にフロント・タ
イヤがめり込んだ。完全にオーバースピードだった。マシンが横
滑りなるのがわかった。
必死でステアリングでマシンを立て直そうとしたが、コントロ
ールすることができない。タイヤバリアが見えてきた。頭の中に
クラッシュシーンが浮かんだ。だが、衝撃はなくマシンが静かに
なった。やっと停まったのだ。タイヤバリアぎりぎりの所でマシ
ンは停止した。