31.タイムアタック
シャワーを浴び終わり、パドックへ戻るとサーキット全体がざ
わついていた。いよいよ予選のタイムアタック。これを目当てに
レースを観戦しに来た者も多い。なぜならタイムアタックは各ド
ライバーが少しでもスタートする位置を前にしたいがために、限
界ぎりぎりの走りをする。見てる者にとってはたまらないだろう。
タイムアタックで走れるのは五周。この五周のうちのベストラ
ップでスターティング・グリットが決まる。予選は十一時から。
一台ずつ、スタート・フィニッシュラインから出走する。
昨年度優勝したドライバーは最初。そして初参加のドライバー
が後からということになっている。したがって後から走ったほう
が有利だ。おれは昨年五位だったので五番目だ。
レイクランド・サーキットの標準タイムは一分五十四秒前後。
ファーステスト・ラップは一分四十秒だ。おれのベスト・ラップ
は一分四十二秒五一。これはサーキット公認ではなく、インター
クーラー装着後の練習タイム。
アナウンスが流れ始めた。スタンドから拍手が沸き起こる。お
れは再び臨戦態勢に入った。パドックでじっと出番を待つ。スタ
ートラインにはすでにNSXがエキゾースト・ノートを響かせて
いる。
先輩のマシンだ。スタンドが一瞬静かになる。次の瞬間、鋭い
エンジン音がサーキットに響きわたる。今度はスタンドからざわ
めきが起こる。
おれは先輩がスタートしたのを確認すると、目を閉じイメージ
トレーニングを始めた。タイムアタックは基本のラインを外さな
いこと。できるだけグリップ走行に徹すること。このふたつがタ
イムをあげる基本だ。頭の中でおれは周回を重ねた。イメージト
レーニングをやると徐々に気持ちが落ち着いてくる。
「テル。そろそろ時間だ」
おやっさんの声がおれを現実に引き戻す。おれは無言で頷くと、
ヘルメットを被りマシンに乗り込み、エンジンをかける。剛とア
ヤの視線を感じる。先ほどからふたりはおれに話しかけようとし
なかった。いや、話しかけにくかったのだろう。
窓を叩く音がした。サーキット・スタッフだった。おれは窓を
開けた。スタッフが顔を近づけて言った。
「時間です。スタートラインへ行って下さい」
おれは手を挙げてわかったというしぐさをした。
マシンをゆっくりとスタートさせ、ピットロードを出てメイン
スタンド前を走り、フロントローのラインにつく。アクセルを吹
かし、七千回転まで回す。すでに心は第一コーナーだ。
おれはスタート・シグナルを睨みつけるように見た。シグナル
がグリーンに変わった。スタートだ。
クラッチをつないだ。マシンは一気に前へ出る。好スタートだ。
一コーナーに飛び込むように入る。問題の二コーナー。グリッ
プ走行でクリア。おれは自分のドライビングに酔っていた。各コ
ーナーでのシフトチェンジの小気味よさ。コーナーの立ち上がり
のアクセルのレスポンス。マシンが自分の体の一部になったよう
にコントロールできる。やはりエンジンとサスのマッチングが絶
妙だった。
おれは無我夢中でサーキットを五周した。パドックへ戻ると、
剛が大声をあげていた。
「やったぜ!今のところトップだ」
「トップ・・・まさか!」
おれはヘルメットを脱ぐと、剛の言葉を疑った。
「テル、ほんとうだ。タイムは一分四十一秒前後だろう」
「四十一秒台。先輩を抜いたのか……」
驚いていると、公式タイムがアナウンスされた。
「ただいまのタイム、一分四十一秒五八。一分四十一秒五八です。
現在のところトップ」
「やったぁ!テルさん、トップですよ」
アヤが飛び上がって喜び、おれに抱きついてきた。
「おいおい。まだ五台しか走ってないんだから」
「そ、それもそうですね。そうそう。油断は禁物、禁物」
アヤは今度真顔になった。なんだか自分のことのように言って
いる。そんなアヤがおかしく、可愛く思えた。
「いや、テル。ひょっとすればポールとれるかもしれんぞ。後の
マシンの公式タイムは四十五秒台だ。まあレースは何が起こるか
わからんがな」
「ポール・ポジションか。問題はパイパーだな」
由樹は今頃おれのタイムをどういう気持ちで聞いてのだろうと
思った。
サーキットに一時の休息が流れていた。予選も終わり、今はち
ょうど昼飯時だ。剛とアヤは食事に行っていた。おやっさんは昼
飯も食べないで、ガレージでマシンのチェックをしていた。もう
これ以上いじる必要はないのだが、メカニックとしては落ち着か
ないのだろう。
おれはパドックで扇風機の風にあたっていた。結局ポールはと
れなかった。予想以上にバイパーは速かった。一分四十秒四五。
とてつもないタイムだ。
いくらバイパーがストレートでは速くてもここはコーナーが多
い。ということはコーナーリングのスピードも相当なものという
ことになる。ショックだった。予選でのおれの走りは今までの中
で最高の走りと思った。それを簡単に抜かれるとは・・・
「テル・・・」
パドックの裏で女性の声がした。おれはその声を聞いてまさか
と思った。思わず振り向くと、そのまさかが的中した。
「美保・・・何でおまえがここに・・・」
「びっくりした?」
「ああ。もう会えないかと思ってたから」
「テルの走る姿を覚えておこうと思って」
「ということは・・・もうすぐ結婚するんだな」
「結婚はまだだけど、来週日本を離れるわ」
「そうか」
「それとこれ。昼ご飯、まだなんでしょ?」
美保はバスケットを持っていた。そして中からサンドイッチを
取り出した。
「クーラーボックスに入れてたから大丈夫よ。レース前はサンド
イッチしか食べないって・・・剛が言っていたから」
「ありがとう。助かるよ。レースの時っていうのはあまり入らな
いから、これが一番いいんだ」
おれはサンドイッチを一切れ頬張った。
「美保。暑いだろう。こっへ来て扇風機でも当たれよ。あんまり
涼しくないだろうけど」
「うん。でも剛が来てるんじゃないの?」
「さっき昼飯食いに出たから、しばらく帰ってこないよ。あれか
ら剛とは会ってないのか?」
「うん」
「そうだな。別れるって決めたんだから、会わないのが当たり前
だな」
「テル。何か元気ないみたい」
「せっかく美保が見に来てくれたのに、今日のレース勝てないか
もしれない」
「テルらしくないわ」
「バイパーは速すぎる。予選のタイムも驚異的だ。四十秒台だぜ!
とても追いつけない。おれの頭の中ではあるシミュレーションが
できていたが、それがとんでもない甘い考えであるのがわかった
よ」
「テルはもう気持ちで負けてる」
「・・・」
「実は今日、私、由樹ちゃんの車でここに来たの。由樹ちゃんと車
で話していると、決意がひしひしと感じられた。今日は絶対勝つ
んだって」
「・・・」
「テルは私に言ったじゃない。私が剛以外の男と結婚しても平気
なのって言ったら、それはおまえが決めたことだからおれがとや
かく言うことじゃないって」
「ああ。たしかに言った」
「テルも自分でレースに出るって決めたんでしょ?」
「だからここにいる」
「だったら・・・タイムを引き離されようとも勝つ気持ちをなく
したらだめなんじゃないの?」
おれは美保からこんな言葉を受けるとは思いもよらなかった。
「テル。由樹ちゃんに弱点はないの?」
「弱点・・・」
あっと思った。あまりにもタイムのことばかり気にしすぎて、
おれはすっかり忘れていた。ある、ウィークポイントが!
予選ではそれは見えないが、決勝では大きく左右してくる。
燃費だ。燃料補給はレース中は何回でもやっていいことになっ
ているが、たびたびやれば、それだけ順位を落とす。バイパーは
桁外れに排気量がある。国産マシンよりも倍くらいの燃料を食う。
そこをつけばいいんだ。
「美保!」
おれは思わず美保の顔を見た。
「答えがでたようね」
美保はニッコリとした。
「弱点と言えるかどうかわからないが・・・ヒントにはなりそう
だ。それにしても、美保少し変わったんじゃないか?この前会っ
たときとは違うような気がする」
「テルのおかげよ。テルが自分で決めたんだろって言われて、私
もそうかと思ったの。もう決めたことなんだから、まっすぐ進む
しかないんだって」
おれは美保を見て、こいつもやっと自分というものを見つけた
んだなと思った。剛や佳奈のことを卒業できたのかもしれない。
今度はおれの番だ。
「テル。そろそろ行くわ。スタンドで由樹ちゃんとテルの走りを
見てるわ」
「ありがとう。美保に素晴らしいヒントをもらったよ」
おれは美保をパドックの裏まで送った。後ろ姿も自信にあふれ
ている気がした。パドックに戻り、ピットロードに出てみた。数
百メートル先にピットロードの出口が見える。
出口の先には第一コーナーがかすかに浮かんでいる。それを見
ながら、勝てる可能性が一パーセントに満たなくても、力一杯や
ろうと思った。そうすればおのずと見えてくるだろう。そう思う
と少し気が楽になった。
と、その時だ。懐かしい声が風のようにおれの体を吹き抜けた。
〝テル。思いは通じるよ〟
佳奈だ。佳奈の声だ。おれは思わず周りを見渡した。
錯覚かと思った。だが、たしかに佳奈の声だった。
ひょっとしたら佳奈もサーキットへ来ているのかもしれない。お
れに由樹のことを託しているのかもしれない。考えすぎかもしれ
ないが、そう感じぜすにはいられなかった。
そろそろ各パドックには人影がちらほら見えてきた。いよいよ
だと思い、おれは空を見上げた。空は目にしみるほど青かった。