27.決断
店に入ると、軽快な音楽がおれを迎えてくれた。相変わらずこ
の店は賑わっている。ビールと音楽と笑い声。そんな言葉がよく
似合う店だ。すでに剛はカウンターに座って、飲んでいた。剛は
おれを見つけると片手を挙げてぎこちなく笑った。
「えらく早かったな」
おれはカウンターの席に座りながら言った。
「ああ。天神でブラブラしてたから。そのまま来た。料理はいつ
ものを頼んでたからな。何飲む?」
「ウーロン茶」
「相変わらず飲んでないんだな」
「レースが終わるまでは絶対に飲まない」
「本気みたいだな。だけど、どうしてそこまであの女に固執する
んだ?」
「別に由樹に固執しているわけじゃない。そりゃ目的は由樹に勝
つことだが・・・レースがきっかけになればいいと思ってる」
「きっかけ?」
「佳奈だよ。佳奈のことは忘れることはできない。だけど今のま
まではいけない。それは分かっている。だから何かきっかけがほ
しいんだ」
「テルにしては進歩したな」
剛はそう言うとビールのおかわりをした。おれはカウンターの
上に並べられた料理を食べながらウーロン茶を飲んだ。
「これ知ってるか?」
剛はCDをおれに見せた。
【ザ・コンプリートレコーディング/ロバート・ジョンソン】
それがCDのタイトルだ。相当古い写真がジャケットに使われ
ている。男がギターを抱えて笑いかけていた。
ずいぶんと古めかしいジャケットだな」
「そりゃそうさ。1930年代のミュージシャンだからな。いやブル
ースマンだ」
「じゃ知らないはずだ」
「ロバート・ジョンソンは伝説だ。悪魔に魂を売って、超人的な
歌とギター・テクニックを手に入れたと言われている。まあ、こ
れは伝説や与太話だろうが。しかしその場所が、ミシシッピ州ク
ラークスデールに位置する国道61号線と49号線が交わる十字路だ
と言われている。だからジョンソンは、クロスロードって曲を作
っている。でも実際曲を聴くと、そんな感じがするよ。音は悪い
んだが、歌い方が真に迫ってくる。今のおれにはピッタリだなと
思って、試聴して買っちまった」
そこまで話すと、剛は黙りこくってしまった。
「それが今日呼んだ話か?」
おれは剛に尋ねた。
「いや。テル、知ってたんだろう、美保のこと?」
「すまん・・・」
「別に謝らなくてもいいさ」
「いや、おれが謝るのはもうひとつ理由がある」
「美保から聞いたよ」
剛は静かにビールを飲んだ。料理には一切手をつけずビールだ
けを飲んでいる。店の中は週末を楽しむ笑い声が響いていたが、
おれたちのカウンターだけは静寂があった。
「怒らないのか・・・」
「それが怒れないんだな。不思議に思うだろ?むしろ感謝してい
るぐらいだ」
「感謝?」
「美保は誰かに頼りたかった。あいつ自身、分からなくなってし
まったんだ。だからテルにすべてを話したんだ。美保はてっきり
テルから怒られると思ってたらしい。けど、言ったらしいな。自
分で決めたことならそれでいいんじゃないかって」
「ああ。おれは美保にこれまでいろいろ言った。そのうえでの結
論なら反対する理由はない」
「おれはそれを聞いて思った。テルも変わりつつあるなって」
「何で?」
「まえのおまえなら反対したろうな。おれと美保の仲を取り持と
うと必死になったと思う」
「・・・」
「おれはこう思う。おまえがおれと美保のことを心配していたの
は佳奈の影から逃れられなかったからだ。佳奈は美保のことを心
配していた。だから自分のことを棚にあげて、おれと美保のこと
を心配していたんじゃないかって」
「そこまで・・・そこまで考えたことはなかった」
「自分自身じゃ分らないもんさ」
「で、美保にはいつ言われたんだ?」
「五日前」
「じゃ一番つらい時期だな」
「美保から言われたよ。自分はミュージシャンの奥さんにはなれ
ないって。その言葉がおれに決心させた」
「別れることを?」
「正確に言うと美保と別れて自分らしく生きることをだ」
「自分らしく生きる・・・」
「実はな、おれアメリカへ行こうと思ってるんだ。アメリカで勝
負したいんだ」
「アメリカ!」
おれは思わず剛の顔を見た。剛は真剣な顔だった。つらい気持
ちは分かるが、それにしてもアメリカだとは・・・
「そんな驚いた顔するなよ。前から思ってたことだ。一年前ぐら
いかな、ある人から声をかけられたんだ。その人は世界に通用す
る日本人だけのバンドを作りたいという構想をもっていた。その
構想とはこういうことだ。まず半年間合宿してオリジナルの曲を
作り、バンドを完全なものにする。そして次の半年間サーキット
・ライブを行う」
「サーキット・ライブ?」
「簡単に言うと、アメリカを縦断し、ライブハウスで日に五回ラ
イブを行う。そして次の日は移動日。またライブ。それの繰り返
し。いわゆる演奏漬けだ。」
「かなりきつそうだな。でも、なぜアメリカなんだ?日本じゃダ
メなのか?」
「ほんとうに音楽を追究しようと思ったら、日本は願い下げだ。
日本の音楽は真似事でしかない。そもそもポピュラーミュージッ
クというのはリズム・アンド・ブルースが基盤になっている。日
本のヒット曲というのは、このリズムアンドブルースから、いつ
までたっても抜けきれない。ただ詞をそれに合わせてるだけだ。
だがアメリカは違う。いろいろな音楽を受け入れている。アジア
やヨーロッパの音楽というものを吸収して、オリジナリティがあ
る。そういう土壌があるのがアメリカだ」
「剛が音楽に関してそこまでポリシーをもっているとは思わなか
った」
「まあな。音楽に長年携わっててるといろいろ見えてくるんだ。
それと・・・」
「まだ何かあるのか?」
「日本にいると・・・美保のことを思い出してまいそうなんだよ」
「・・・」
剛はカウンター越しのポスターをにらみつけるように見ていた。
目が潤みそうになるのを必死に我慢しているように見えた。
「ちょっと、しんみりしっちまったな。このジョンソンの歌はこ
ういう気持ちの時に聞いたら最高だ。挫折ばかり歌っているから、
逆にやるしかないと自分を励ませるんだ」
剛が無理しているのが分かった。だが、おれにはその気持ちが
痛いほど理解できる。おれがレースに夢中になっているのも、佳
奈のことを考えたくないから・・・何かをやっていればそれに集
中できるからだ。
「アメリカか・・・いいかもしれない。寂しくなるけどな」
「返事は八月中にすることになっている。その前にテルに言っと
きたくてな。それにレースも見ておきたいし」
「剛。おれは今度のレース、すべてを注ぎ込むよ。自分自身が感
動できるようなレースをする」
「どうしたんだよ、急に?」
「いや、おまえの話を聞いてたらおれも負けられないと思ったん
だよ」
おれと剛はそこで互いに笑い合った。そしてビールとウーロン
茶で乾杯しようとした、その時だった。
「どうしてなの!私はそれでもいいと前から言ってるでしょ!」
女の甲高い声が聞こえた。その声でにぎやかだった店内の話し
声が静まり返った。おれはどこかで聞いた声だなと思った。
「そんな大きい声で。だからいつまでもこんな関係じゃいけない
んだよ」
男の声はあきらかにイライラしている。どうやら別れ話らしい。
「おい、あの娘はおまえの会社の・・・」
剛はその別れ話しているカップルをチラッと見ると、おれに言
った。おれはまさかと思って、思わずそのカップルを見た。
ちょうど斜め角度で女の横顔が見えた。間違いない、アヤだ。
そして男の顔がはっきり見えた。おれの予感は当たっていた。
オーナーの顔がそこにあった。
「見なかったことにしておこう。プライベートなことだし・・・」
「人を好きになるって、けっこう大変だな」
剛は、ひとりごとのように言った。
ふたりはさらに言い合っていたが、さすがに居づらくなったよ
うで、やがて席を立って、店を出て行った。
剛もおれもそれからは話があまり続かず、数分後に店を引き上
げた。剛とは店の前で別れ、まっすぐ家に帰ることにした。おれ
は電車の中でアヤの声が再び頭に蘇った。
〝どうしてなの!私はそれでもいいと前から言ってるでしょ!〟
あんな声、一度も聞いたことがなかった。おれは後味が悪い気
分になって、目を閉じた。それにしても今週はいろいろなことが
ありすぎたと思った。