25.決意
雨音が窓を叩いていた。時折吹く横殴りの風が雨音を大きくし
ていた。梅雨前線が九州北部に停滞していて、雨続きの日が続い
ていた。だが、天気予報では、日曜は初夏のような天気になると
言っていた。
おれ個人としては大変助かっている。日曜はサーキットで練習
走行だから、思いっきり走れる。だから日曜は雨が降らないこと
を願っていた。もっとも四WDは雨には強いので有利なことは有
利だ。だが、カラッと晴れたサーキットでやりたかった。
おれはいつものように晩飯を食べ終えて、目を閉じてイメージ
トレーニングをしていた。日曜しか練習走行はできないので、平
日は毎日のようにサーキットで走っているイメージを頭の中に思
い浮かべていた。
各ヘアピンをどこまでのスピードでクリアするか、そしていか
に立ち上がりを早くするかが課題だ。だが、このイメージトレー
ニングも三十分がいいところだ。あまりやりすぎると、今度は逆
に分からなくなってくる。
おれは適当なところでイメージトレーニングを切り上げて目を
開いた。それから風呂に入り、くつろいでいたらいきなりチャイ
ムが鳴った。剛の奴かなと思ったが、剛なら前もって電話して
くるはずだ。
「どちらさまですかぁ」
「私・・・」
久しぶりの美保の声だった。美保とは佳奈の墓参り以来、会っ
ていない。おれはドアチェーンを外し、ドアを開けた。美保を見
て驚いた。何と雨でずぶ濡れだった。
「どうしたんだよ!そんなに濡れて!」
おれが言うと美保は雨で濡れた顔を拭おうともせず、弱々しく
笑った。
「とにかく上がれよ。風邪ひいっちまうぞ」
「いい?」
「用があるから来たんだろ」
美保が上がると、おれはバスタオルを手渡した。
「ありがと」
「シャワー浴びろ。服は・・・佳奈のがあるから」
美保は素直に頷き、バスタオルで髪の毛を拭きながらバスルー
ムへ入った。
おれは美保がシャワーを浴びている間に佳奈の服を引っぱり出
して、バスルーム前のかごに入れた。
「着替えここに置いとくからな」
おれはバスルームのドア越しに、声を掛けた。
「うん。ありがとう」
美保がシャワーを浴びている間、考えていた。美保のことでな
くてアヤのことだ。アヤをサーキットで見て以来、おれはアヤの
ことを注意深く見ていたが、別に変わった様子はなかった。いつ
もの明るいアヤだった。
仮にアヤがオーナーと男と女の関係であったにしても、おれに
は何も言えなかった。プライベートで何をしようが、アヤの勝手
だ。だが、祥子さんが帰りの車の中で言った言葉が妙に引っかか
っていた。
『オーナーは妻子がありながら、いつも若い娘を連れているの。
それもあまりいい噂はなくて、捨てられた娘は数え切れないとい
うことよ』
やはり金の力か・・・それとも年輩の魅力なのか。いずれにし
ろ二十代の男にはない魅力があるんだろうな。おれはぼんやりと
何も映っていないテレビを見ながら考えていた。
「ねぇったら!」
美保のことでおれは我に返った。
「何?」
おれは美保を見てギョッとした。と言うよりも目のやり場に困
った。美保はバスタオルを体に巻き付けていただけだった。バス
タオルの下からはスラリとした脚が伸びていた。
「おい!服置いてただろう」
「うん。分かってる。ねえ、テルのシャツ貸してくれない?」
「なんでだよ」
「いいから、いいからさ」
「わけ分からん奴だなぁ」
おれはそう言いながらも、クローゼットから色あせたピンクの
シャツを美保に差し出した
「ありがと」
美保はそう言うと、またバスルームへ姿を消した。その後ろ姿
を見ながらおれは思った。確かにいい女だ。あれじゃ、剛がまい
るのも無理はない。いや、たいがいの男だったらコロッといくだ
ろう。美保は十分ぐらいしてバスルームから出てきた。おれのシ
ャツ一枚しか来ていなかった。
「どう?色っぽい?」
美保はいたずらっぽい顔して言った。おれはその姿を見て、今
度は唸ってしまった。
「フフフ・・・一度こんな格好して見たかったんだ。汗が引くま
でこのままの格好でいらせてね」
そう言うと、美保はおれの正面に座った。おれは美保を思わず
まじまじと見た。このままでは理性が負けてしまいそうだ。
「いくらおれが安全パイだからといって、その格好はあんまりだ」
「安全パイなんて・・・思ってないよ」
「・・・」
どうしたんだ、美保の奴。おれに迫っているのか?
「それにしても久しぶりだな」
「うん。元気だった?」
「ああ。公私ともに忙しい」
「由樹ちゃんと勝負するんだってね」
「あの小生意気な鼻っらをへし折ってやろうと思ってな」
「由樹ちゃんも似たようなこと言ってた」
「あの娘と会っているのか?」
「最後に会ったのは一ヶ月ぐらい前かな。最近はそれどころじゃ
なくて」
美保はそう言うと、大きなため息をついて顔を上に向けた。お
れは美保の態度に何かあったなと思った。美保は雨の中をずぶ濡
れになって来るような女ではない。たとえおれの所でもだ。何か
重要なことをおれに話に来たのではないかという気がした。
「何か・・・あったんだろ?」
「テル・・・鋭い」
「何となくわかる」
「もうテルの家にも来られなくなるかもしれない。結婚しようと
思うの・・・」
美保はそう言うと、バッグの中から小さなケースを出した。そ
れが指輪であることは明白だった。それも単なる指輪ではないこ
とも。おれはその包みを妙に冷静に見ていた。
「相手は四十代の実業家。テルが嫌いなタイプの男。やり手でビ
ジネスが好きなの」
「ふーん。やはり愛情より経済力か」
「私、やっぱりだめなの」
「何が?」
「ひとりの男性だけじゃ満足できない。愛する人と結婚しても、
他の男性に目がいくの。それは浮気とかじゃなくて、ただ楽しい
時間を過ごしたいだけなの」
「・・・」
「でもそういうことを分かってくれる男性は少ない。もしも私が
剛と一緒になったら・・・・・」
「あいつなら我慢するかもしれない。美保が他の男と会っている
ことを見て見ぬふりするよ。剛はそんな面がある」
「だから一緒になっちゃいけないの。我慢はしてほしくない。認
めてしてほしい。別に浮気をしているわけではないんだから」
「都合のいい理屈だな。そういう理屈は世間一般の男には通用し
ないぜ。それに間違いが起きないという保証はない。で、その男
は承認してくれたのか?」
「うん。それでもいいって言ってくれた。むこうも仕事柄、外出
が多いし、女性と会う機会があるらしいの。だからじっと家でじ
っと待っていてくれる女は気が重いって言っていたわ」
「似たもの同士ってことか。それが結婚って言えるかどうかは疑
問だな。おれには理解できそうもない」
「そうかもしれない。私は夫という男性と男友達がいないと生き
ていけないの」
「そうか・・・でも美保のいうことも一理あるな。剛は女に関し
ては一途な方だ。美保は複数の男とつきあえるタイプ。そんなふ
たりが一緒になってもうまくいかないだろうな。結局は別れてし
まう。それもたぶんお互いに心に傷を受けてな。それなら今恋人
のままで別れてしまった方がいい。剛は傷つくかもしれないが、
いずれ失恋という思い出に変えられる。離婚と失恋じゃ同じ別れ
でも、ずいぶんと違う」
おれは美保の言葉に素直に感じたままを言った。美保は驚いた
ような顔をしていた。
「テル。少し変わった。前ここに来た時は剛と私を必死で仲直り
させようとしていたのに」
「そうだったかな。由樹のせいかもな。彼女から人殺し呼ばわり
され、初めて気づいた気がした。佳奈は死んだということを彼女
から教えられた。そして生きていくうえでどうしようもできない
ことがあるんだってな。言ってみれば、おれと由樹は同じ苦しみ
を背負っていたんだ。だからおれが悟ったことを由樹にも教えて
やらなければと思った。それがおれにはレースに出て彼女に勝つ
ことなのさ」
「しばらく会わないうちにテルもいろいろ考えていたのね」
「いや、頭じゃ考えなかった。心のままに行動しようと思った」
「心のままに?」
「美保。おまえ頭で考えて言葉を発するか?」
「・・・」
「そんな人間はいないと思う。よく言葉じゃうまくいえないんだ
けどとか言うのは心のままに言おうとしているから、うまく言え
ないんだ。要は感じたままに言っているからだよ」
「じゃ私が結婚しようとしているのも、心のままに行動してるっ
てこと?」
「たぶんな」
美保は髪をかきあげ、膝小僧を抱えた。おれは思わず美保のき
れいな脚に見て慌ててそらした。そんなおれに気づきもせず言っ
た。
「テルは反対しないんだね。剛と別れて、他の男と結婚するのを」
「美保が決めたことだ。おれが反対しても答えは同じだ。ところ
で剛には言ったのか?」
美保は弱々しく頭を横に振った。
「なぜ?」
「できればこのまま会わずに別れようかと・・・」
「女はいつもそれだ。男に態度で示そうとする。男はな、傷つい
てもちゃんと言ってほしいんだ。男は女ほど頭が良くない」
「・・・」
「剛と何年つきあってきたんだよ。剛が惚れているのはおまえ自
身がよく分っているだろう」
「うん。分かった・・・うまく言えるかどうかわからないけど、
ちゃんと言う・・・」
美保は顔を髪の毛で隠すように膝小僧を抱きかかえた。雨音だ
けが耳についた。
「ビールでも飲むか?」
「ううん。そろそろ帰らなくっちゃ」
「その格好でか?」
「佳奈の服貸してよ」
「ああ。いいよ」
佳奈の服を貸せば美保は帰ってしまう。これでもう二度と会え
ないのだろうか。そう思うと胸か少し痛んだ。おれはクローゼッ
トから、トレーナーとジーンズを出し、佳奈に渡した。
「着替えてくる」
美保はそう言うと、立ち上った。立ち上がるとバスルームの方
へ行きかけたが、ふいに足を止めた。
「テル。最後にひとつ質問していい?」
「ああ」
「私のことを友達以上に見たことはなかった?」
「ないな・・・今までは」
「今までは?」
「美保・・・泊まってけよ」
「テル・・・いいの?」
「最後なんだろ?もう会えないんだろ?」
おれはどうかしている。美保とはもう会えないという寂しさが
こんな言葉になったのかもしれない。
「テル・・・」
美保はトレーナーとジーンズを自分の足下に落とすと、おれの
方へ静かに近寄り、体を預けた。それがスローモーションのよう
に感じた。
「私・・・そんなに好きでもない人と結婚しようとしている。人
を愛することより、安定した楽しい生活を手に入れようとしてい
る。それが正しい選択なのかどうか私にはわからない・・・」
そう言うと美保は泣き始めた。
「美保。正しいか正しくないかなんて言うな。そういうことは結
果でしかない。美保がそう決めたのなら、自分を信じるしかない
んだよ」
数分後、おれと美保はひとつのベッドの中にいた。ついに最後
の一線を越えてしまった。なぜこんなことになったのか分からな
い。ただ、美保は人の温もりを求めていたのかもしれない。そし
ておれは寂しいという気持ちがこんな形になってしまった。
「妙なことになっちまったな」
「そうね。でも私は良かった。あのまま帰っていたら、気持ちの
整理がつかなかった」
「だが、おれは剛に顔向けできない」
「これって剛を裏切ったことになるのかしら?」
「分からない・・・ただ感情を抑えきれなかった」
「さっき言った、心のままに行動したってことよ。でも佳奈は悲
しんでいるだろうな」
「そうだろうな。佳奈は美保のことを一番心配していたから。で
もまわりがどう言おうと、最後は自分で決めることなんだよ、こ
ういうことは」
「これが自然な形なのかもしれない、私にとっては」
「だいぶ落ち着いてきたようだな」
「うん。テルのおかげだよ」
美保はそう言うと、おれの胸に顔をうずめた。おれは美保の髪
の毛をゆっくり触りながら、ぼんやりと天井を見つめていた。
『佳奈。ごめんな。おれは剛と美保の力になってやることはでき
なかった。おまけに今はこんなことしてる・・・』
おれは目を閉じ、佳奈の怒った顔を思い出そうとしたが、なぜか
微笑んだ顔しか思い浮かばなかった。