23.セッティング
エキゾース・ノートの甲高い叫びが響いていた。オイルとエン
ジンの焼け付くような匂いが充満している。ここは整備工場だ。
おれは五月の連休を利用して、おやっさんの整備工場に来てい
た。
目的はマシンのパワーアップとセッティングだ。結局おれは二
週間程前にレイクランド・グランブリにエントリーした。アヤの
言葉が決心させたようなものだ。
おれがエントリーしなかったら、由樹はおれをずっと恨み続け
るだろう。それは悲しいことだ。人を恨むというのは自分を否定
的な人間にすることだ。だが、エントリーすれば由樹は目を覚ま
すかもしれない。まあ、おれが由樹に勝てばの話だが。
それとおれ自身も佳奈の影から離れることができるかもしれな
いと思ったからだ。
「よし!。完了だ」
おやっさんのでかい声が響いた。どうしてもこういう整備工場
にいると、声が大きくなる。先ほどからマシンのアクセルを踏み
ながらの作業なので仕方がない。
「これで馬力は十三馬力ほどアップしたはずだ」
「ついに限界までチューンしたわけか」
おれとおやっさんは油まみれの作業服姿でマシンを見下ろした。
マシンの回りには工具類が散らばっている。インプレッサはコ
ーナーリングは得意としているが、ストレートになるとどうして
も限界がある。
そこで、コーナリングからストレートの立ち上がりの加速性能
を向上し、一気にストレートエンドまでもっていかなければなら
ない。そうなると馬力をあげるしかない。だが、インプレッサは
相当のチューンはしていた。やるとすればひとつ。ターボのイン
タークーラーしかない。
ターボというのは馬力をアップさせるにはもってこいだが、高
温になってしまうという弱点がある。ターボは空気を取り込んで、
それを混合気に変え、パワーアップしようとするもの。
だがこの空気が高温になってしまい、空気密度が低下する。そ
こでここで使われるのがインタークーラーだ。高温になった空気
を冷却するものだ。
だが、インタークーラーをつければ加速は良くなるが、低回転
のレスポンスが悪くなる。だがら、テクニカルコースにはあまり
向かない。だがバイパーに勝つには、ストレートの加速性も重視
しなければならない。仮にコーナーで競り勝っても、ストレート
で抜かれればどうしようもない。したがって、コーナーリングも
スピードをある程度持続して、クリアすることが条件になる。
「テル。これから走り込まんといかんぞ」
「うん。特にコーナーのスピードがいままでと違うから、それに
よってサスを固めていかないと」
「そうだな。五月中にエンジンとサスをマッチングさせて、後二
ヶ月でタイムをだすことだな。さあ、後かたづけだ」
おやっさんに言われ、おれは工具類を工具箱に直し始めた。マ
シンをガレージに入れて、おれはひとりでマシンを見ていた。外
見は以前と変わらないが、中身はとてつもない化け物だ。もう賽
は投げられた。やるしかない。
外へ出ると、夕日が空を染めていた。それを見ながら、今年は
暑い夏になりそうだと思った。
連休二日目は実家に帰り、のんびりと過ごした。今年は五月の
五連休はサーキットと実家で半々過ごそうと思っていた。そうい
うわけで三日目の朝、おれは再びサーキットへ車を飛ばしていた。
裏道ばかりを走っていたので、車は連休中であるにもかかわら
ず、渋滞していなかった。ただ、気がかりなのは雨が今にも降り
出しそうな気配だったことだ。どうも五月の連休というのは真ん
中の日というのが雨が降るようになっているらしい。
福岡の五月の連休といえば、どんたくだ。どんたくは二日間行
われるが、この二日間のどちらかが雨だ。雨でも人はどんたくに
集ってくる。いったいどこからこれだけの人が湧き出てくるのか
というほど人が多い。人に酔うというのはこのことだ。おれもそ
のひとりなので、とても行く気になれない。それならサーキット
で走っていたほうがどれだけ爽快か知れない。
サーキットに着くと案の定、雨粒が顔に落ちてきた。おれは午
前中の走行をレインタイヤで走った。マシンの加速は確かによく
なっていた。特に立ち上がりから一気に加速する体感は素晴らし
い。
数字上は十三馬力のアップだが、実際走ってみるとそれ以上だ。
ただ残念なのは馬力がアップしても最高速は以前と変わらない
ことだ。これはエンジンの中域回転を重視したチューニングだか
らだ。
簡単に言えば最高速にもっていく加速性能がよくなっていると
いうことだ。だからコーナリングのスピードは飛躍的に向上して
いる。だが、雨ということもあって、コーナーで何度もスピンし
そうになった。
雨はだんだんと激しさを増していた。フロントガラスの視界が
悪くなりつつあった。今日は走りながら、サスを固めていこうと
思っていたのだが、どうもそれはできそうもない。
やがて、雨が本降りとなってきた。コース上も水煙が上がり始
めていた。これ以上の走行は危険だと思い、おれはマシンをスロ
ーダウンして、ゆっくりとピットに向けた。
ピットにマシンを着けて、ドアを開けると頭の上にひとつの傘
があった。傘を差しているのはワンピース姿の祥子さんだった。
おれはびっくりしながらも、祥子さんの傘に入れてもらい、パ
ドックへ入った。
「雨本降りなっちゃったわね」
祥子さんはいつもの笑顔をおれに振りまいた。
「ええ。でもびっくりした。祥子さんがいるなんて。今日は先輩
も来てないし、ひとりで来たんですか?でも妊娠中なのに、大丈
夫なんですか?」
「友達に送ってきてもらったから。それに今は安定期だからね。
実は、今日来たのは監視役」
「監視役?」
「うん。テル君が夏のレースに出るって聞いて、練習ぶりを見に
来たの。なーんてね。嘘よ。ほんとはね、彼の伝言を伝えに来た
の」
「先輩の?」
「すいません。突然パドックに来てしまって」
祥子さんは、おやっさんにペコリと頭を下げて言った。
「なーに。祥子ちゃんなら大歓迎だよ。こんなオイル臭い場所で
よかったらいつでも来ておくれ」
そういえば祥子さんがひとりで来るなんて初めてのことだっだ。