18.仕事
駅のホームに、すっかり春の気配が漂っていた。列車待ちの人
たちも、重いコートを脱ぎ捨て、ジャケットやスーツ姿が目立つ
ようなっていた。特に女性の服装がだんだんシックなものからカ
ラフルになるのは、心を軽くさせるものがあった。
おれは久しぶりに、通勤で電車待ちをしていた。つい、先週ま
では取引先に直行というのが多かったので、家から車で直行とい
うのが常だった。車で行くのは便利だが、周りの景色をあまり見
ることがないので季節感というものをあまり感じない。その点、
電車通勤は車窓の風景を見られるし、女性の服装は目を楽しませ
てくれる。
やがて電車がホームに滑り込んで入って来た。電車に乗ると、
おれは窓際に立った。どうも電車に乗ると、窓際に立つ癖がある。
季節は春なのだが、頭の中には昨日のサーキットでの出来事が頭
にあった。
由樹の言葉が頭に残り、情けなさとくやしさが入り混じってい
た。それにしても美保はどうして、由樹と一緒に帰ってしまった
のか。あれでは剛の立場がない。怒るのも当然だ。
昨日、車で帰っている時、美保から携帯に連絡あったが、剛は
でなかった。さすがに美保には我慢強い剛も、堪忍袋の緒が切れ
たようだ。おれはその様子を見て、剛と美保はもうだめかもしれ
ないと思った。
ふたりともお互いに好きではあるのだけれど、踏み込めないで
いる。美保は剛に決して本音を言おうとしないし、剛は剛で強く
言おうとしない。だから、だんだん表面上のつきあいのようにな
ってきている。
恋愛というものは、少しのすれ違いがだんだんと溝を広げてい
く。そういう危機を克服して、未来というものが見えてくるのだ
が、それが埋められないと苦い思い出のひとつになってしまう。
結局は、ふたりに溝ができて始めたきっかけは佳奈のことだっ
たのだろう。そこまで考えて、おれは人ごとではないなと苦笑し
た。
電車から降り、会社に向かうにつれておれは仕事のことに頭を
切り換えた。事務所に「おはようございます」と言って入ると、
森田さんとアヤが楽しそうに話していた。
さてと思い、今日の仕事の段取りを考えているとアヤの明るい
声がした。
「高橋先輩。おはようございます。改めて、今日からよろしくお
願いします」
アヤは深々と頭を下げた。
「え、あ、おはよう。こちらこそよろしく」
「ところで、高橋先輩。今日のご予定は?」
「その高橋先輩っていうのも調子狂うな」
「いいじゃないですか。先輩なんだから」
おれとアヤのやりとりを聞いて、向こうで森田さんが笑いを堪
えている。
「今日は古川計装に電話して、契約の取り交わしの日取りを聞い
て工務部と打ち合わせになるな。それで午前中終わって、後は久
しぶりにデスクワークだ」
「じゃ、午後からいるんですね。わからないところがあったら、
聞きますから、教えて下さい」
「きみの教育係はお京さんだよ」
「わかっています。でもテルさんじゃなくて、高橋先輩の方が取
引先を回ってるから、詳しそうだし」
「もうその先輩ってのをやめてくれ。テルと言われたほうがしっ
くる。でもな、営業に関してはお京さんの方が絶対くわしいぞ。
何せ営業一課の生き字引だからな」
「いいんですか。そんなこと言って」
「本人の前では禁句だ。あ、やべえ。その本人が来た」
お京さんを初め、部課長たちがぞろぞろと出勤して来た。何故
かうちの会社は八時四十分頃にみんな揃ったようにして出勤して
来るのだ。九時が始まりだから、遅い出勤と言ってもいい。
「おはよう」
部課長連中が出勤してく来ると、ようやく仕事の始まりといっ
た感じだ。九時からは十分ほど朝礼がある。月曜は全員が揃って
いるので、改めてアヤの紹介があった。アヤは元気のいい声で挨
拶し、拍手で迎えられた。ほんとうに明るい子だ。
朝礼が終わり、古川計装に電話しようとした時、課長から言わ
れた。
「高橋君。今日の予定はどうなってる?」
おれは課長の席に行くと、アヤに言ったとおりの内容を伝えた。
「そうか。それで。その午後からの仕事は急ぐのか?」
「いえ。そういうわけではありませんが、ただ今までに古川計装
に出した書類の整理をしようと思いまして・・・」
「じゃ、今日でなくてもいいわけだな」
「はあ」
「それじゃ悪いが、午後から香田君を取引先に連れて行ってくれ
んか」
「えっ、今日ですか」
「そうだ。ん?何か取引先に連れて行くと、都合の悪いことでも
あるのか?」
「いえいえ。ただ初日からいきなりと思ったものですから」
「何事も最初が肝心だ。営業一課のアシスタントだからな。まず
は取引先を覚えるのが一番だ。それに他の者は今、商談真っ最中
だから手が空かんだろう」
「わかりました」
おれは意外な展開に戸惑いながら、席に戻った。アヤはお京さ
んに仕事を習っていたが、おれの顔を見るとニッコリした。
こいつ、課長から言われていたんだな。まったくここ数日、女
に翻弄されてるな。
「高橋。古川さんから一番に電話だ」
古賀主任のきびきびした声が響いた。おれは緊張した面持で、
受話器を取った。当然、電話口には部長の声がした。うれしい知
らせだった。おれはホッとしながら、電話を保留にすると、課長
に大きな声で言った。
「課長。古川さんが今日午前中に契約を交わしたいと、言われて
いますが」
「おっ。そうか、そうか。となると社長に午前中に出社してもら
わんとな」
「何時と言っておきましょうか?」
「いや、ちょっと電話を変わろう」
事務所内に課長の喜びの声が響いた。結局十時半頃に古川計装
の社長と部長が来ることになった。
契約書を交わすのだからそんなに時間もかからないだろうと思
っていたのだが、社長同士の話が盛り上がってしまい、昼食まで
摂ることになってしまった。やはり社長というのは、話好きが多
いらしい。
おれだけは途中で少しの間、抜け出し工務の谷課長に連絡を取
った。契約書を交わした以上、実際に機械を作る責任者と綿密な
話をしておかなくてはならない。だが谷課長だったらベテランな
ので、ある程度言えばわかってくれるはずだ。連絡はすぐに取れ、
午後一番で工程の打ち合わせをすることになった。
結局、古川計装が帰ったのは午後一時前だった。おれは見送り
が終わると、すぐに設計図と書類を持って工務部へ急いだ。久し
ぶりに、昼休みを取れると思ったら、これだもんな。まあ、大き
な仕事が取れたのだから、いいか。
工務部へ入ると、谷課長と健人が机で花札をやっていた。ここ
は前から暇さえあれば花札をやっている。とは言っても、お遊び
程度で、実際に賭け事をしているわけではない。だがら営業部と
は雰囲気が全然違う。
「また、花札やってんですかぁ。健人、おまえ工場に行かなくて
もいいのか?」
「いや、急に課長から呼び出し食らったんですよ」
健人は弁解するように言った。
「そうそう。テルが取ってきた仕事、こいつにも少しやらせよう
と思ってな。それでテルが来る間、花札やってたんだよ」
谷課長は花札をやりながら言った。こういう態度はこの人だか
らから絵になる。
「よし。それじゃ始めるか」
それから一時間、おれは谷課長に古川計装の意向を言い、工務
サイドの意見も聞きながら、話を進めた。最終的には今年いっぱ
いで機械を完成させ、年が明けてすぐに据え付け工事を行うこと
になった。
もっとも機械を据え付ける建物の工事が遅れれば、ずれ込むこ
とになるが。機械製作の担当責任者は谷課長で、補佐として健人
がすることになった。健人も、もう入社して三年になる。そろそ
ろ大きい仕事をしてもよい頃だろう。
「健人。しっかり頼むぞ」
「はい。あまり課長に怒鳴られないようにがんばります」
健人はがそう言うと、谷課長が健人の頭を軽く叩いた。
「それじゃ、おれたちは工場に戻るぞ。そうそう、テル、今週末
空けとけ。久しぶりに飲み行こうぜ」
そう言うと、谷課長はおれの返事も聞かずに、さっさと立ち上
がった。谷課長の誘いだったら、断るわけにもいかない。
「テルさん。その時、あの約束果たして下さいね」
健人は谷課長が出て行ったのにもかかわらず、まだいた。
「約束?」
「いやだなぁ。アヤさんですよ」
「ああ。すっかり忘れてた」
「忘れてもらっちゃ困ります」
どうやら今度の飲み会にアヤを連れてきてほしいらしい。おれ
としては女抜きで飲みたいのだが。
「健人!いつまで油売ってる、行くぞ!」
谷課長の怒鳴り声が下から聞こえた。
「はいっ!すぐ行きます!」
健人は慌てふためいて出て行った。そんな健人の姿を見て、お
れは工務部にいた頃の自分を見ているようだった。よくこんな風
に怒鳴られたもんだ。
「高橋君。よかったわね、大きな仕事が取れて」
岡崎さんの声が耳に入り、おれはここに長居は無用だと思った。
岡崎さんは工務部の事務のパートだが、社長の親戚なので迂闊
なことは言えない。いい人なのだが、人の中傷をするのでこっち
が返答に困る。迂闊なことを言えば、それが周り回って自分に返
ってくるのだ。
「高橋君は工務にいたから、そんな大きい仕事が取れたのよ。機
械的なことも詳しいし。それに比べて古賀主任ときたら・・・」
案の定、始まったようだ。後の言葉はわかっていた。古賀主任
ときたら、営業は注文が取れればいいと思ってるんだから。そん
なことから始まり、現場のことは分かっていないと言うに決まっ
ているのだ。
おれは岡崎さんの愚痴にしばらく、曖昧な返事をしていたが、
このままでは長くなると思い、ここらで切り上げようと思った。
「あっ!そうだ。昼から市内回りだった。じゃ、岡崎さんそろそ
ろ仕事に行きます」
岡崎さんはまだ話し足りないようだったが、おれは無視して工
務部を後にした。営業課に戻ると、ほとんどの者が出かけていた。
いるのは古賀主任とお京さん、そしてアヤだけだった。古賀主任
は厳しい顔で、書類とにらめっこをしていた。
目の前の担当部長は、おれの作成してきた書類を真剣に読み続け
「テル。市内回るなら早く行った方がいいよ。月曜だから混むよ」
お京さんが言った。
「そうですね。あっ!月曜ならアポイントとっておくべきだった。
失敗したなぁ」
「それなら済んでるよ。たぶんそんなことだろうと思って、アヤ
に電話をさせといたよ」
「えっ、そうですか・・・」
おれは、またお京さんに借りを作ってしまったようだ。お京さ
んには借りはあっても、貸しはない。
「で、アヤちゃん。どこどこに電話したの?」
おれは、アヤにばつが悪そうに聞いた。
「はい。お京さんに高橋さんの行きそうな得意先をピックアップ
してもらいまして、そこに電話しました。五件ほどはアポイント
が取れました。これがそうです」
アヤはハキハキした口調で言うと、おれに一枚の紙を渡した。
紙には、得意先のアポイント時間が書いてあった。おれは頭の中
でだいたいの所要時間を考えた。夕方までには何とか帰ってこれ
そうだった。
「サンキュー。じゃ二時を過ぎてるから、すぐ行こうか」
「はい」
アヤはバッグを肩に掛けて、席から立ち上がった。
「よう、高橋。役得だな。可愛い娘とドライブでいいな。こっち
は値引き交渉で大変だよ」
古賀主任の皮肉っぽい言葉が聞こえた。まったく、いつも一言
多いんだよな、この人は。
「主任。妬かないの。ほら、テル。早く行きな」
お京さんが助け船を出してくれて、おれとアヤは事務所を後に
した。