16.バイパー
スタート・フィッニシュラインを過ぎると、アクセルを全開に
した。そしてシケインを派手にリヤタイヤを鳴かせながら、四輪
スライドでクリアする。体中に鳥肌が立ち、マシンを操る喜びを
感じる。連続コーナーをほぼ全開に近いスピードで走行し、フェ
ンダーミラーでチラッと後ろを見た。NSXが妙な動きをした。
おれは変だなと思いながらも、視線を元に戻した。そして、第二
ヘアピンにが見えてきた時、【奴】が現れた。
後ろに威圧感を感じ、再びフェンダーミラーを覗こうとした瞬
間、ブルーカラーのマシンが横に現れた。それはいきなり現れた
といった感じだった。だが、抜こうとはせずおれにぴったりと寄
り添うようにしてシケインが目の前に迫った。
おれはイン側、【奴】はアウト側だ。このままの状態ではマシ
ンをスライドさせることは危険だ。無理にやろうとすれば二台と
もクラッシュだ。ここは無理せずコースアウトするしかない。
おれはアクセルをオフにし、ブレーキングしようとした。その
時だ。こともあろうに【奴】はマシンをおれの方に寄せてきた。
「どういうつもりだ!」おれは思わず叫んだ。
叫んでも【奴】は寄ってくる。ステアリングで【奴】を避けよ
うとした。だが、避けても同じだった。【奴】は吸い付いて離れ
ないように、幅寄せしてくる。ブレーキングしてスピードを落と
しても【奴】もそれに合わせているようだ。
タイヤが砂地を噛む振動がステアリングに伝わる。このままで
はタイヤバリアに正面から突っ込んでしまう。イチかバチかだ。
クラッシュ覚悟でマシンをスライドさせるしかない。おれはブレ
ーキングをして、ステアリングを右に切った。
マシンが【奴】の方へ向いた。マシンはすでに半分はコース外
の砂地だ。クラッシュする!とおれは思った。が、音はしなかっ
た。【奴】はクラッシュする瞬間、スッと遠ざかり、走り去った。
おれのマシンはというと、コントロールを失いスピンしてタイ
ヤバリアの数十メートル前で止まった。タイヤが砂地にめり込ん
だため、幸いだった。
マシンが止まってもおれはただ呆然としていた。背中にひどく
汗をかき、胸の鼓動が止まらなかった。恐怖心と怒りが頭の中を
かけ巡っていた。フロントガラスを激しく叩く音がした。兄貴だ
った。おれはヨロヨロとマシンから降りた。
「大丈夫か」
兄貴は真剣な顔でおれに近づいて言った。
「クソッ!わざとやりやがったな!」
「たしかに・・・あれは、おまえをコースアウトさせようとして
いた」
おれは砂地に座り込み、ヘルメットを怒りにまかせてを脱ぎ捨
てた。砂がマシンのフロントガラスにへばり付いていた。ふいに
甲高いエキゾースト・ノートが近づいてきた。先輩のNSXだ。
「テル!大丈夫かぁ」
先輩は大きい声を出しながら、駆け寄ってきた。
「やられちゃいましたよ」
おれは自嘲するように、笑いながら言った。
「どこのどいつだ。こんな危険なことをする奴は。実はなホーム
ストレートを走行していた時に、おれの後ろについてきてんだ。
見る見るうちに、迫ってきて最後にはピッタリとくっつきやがっ
た。振り切ろうと思ったんだが、あっさりと抜かれちまった。し
かしこんなことをするとは思ってもみなかった」
「ああ、それでおれがミラーを見た時、先輩のマシンが変だった
んだ」
おれも先輩もいきなりの出来事にとまどっていた。だが、兄貴
は土手で一部始終を見ていた。おれと先輩は兄貴から第二シケイ
ンでの顛末を聞いた。相手のマシンはクライスラーのバイパーと
いうことだった。
おれはそれを聞いて、びっくりした。バイパーといえばモンス
ターマシンで、八リッターで最高出力四百五十六馬力だ。これは
あくまでノーマルの数字。それに加えて、車重は一・五トン近く
あり、ドライブするには相当の勇気がいる。
それをサーキットで走らせようとすれば並のテクニックでは太
刀打ちできるものではない。どうりで、後ろに威圧感を感じたわ
けだ。そんなマシンに乗る奴がこのクラブにいるのだから驚きだ。
「よし。とりあえずパドックに戻って、どこのどいつか確認しよ
うぜ。もっとも、もう逃げてるかもな。あそこまでやったんだか
ら」
兄貴の話を聞いて、先輩もようやく落ち着いてきたようだ。お
れはというと、だんだんと怒りが増してきていた。
とりあえず、パドックに戻ることしたので、おれのマシンを三
人で押し、コース上に出した。よく、無傷で済んだものだとおれ
は不幸中の幸いだと胸をなでおろした。
パドックへ戻ると、おやっさんが心配顔で駆け寄ってきた。
「どうした!えらい早いご帰還だな。なんだ、この砂は?テル、
ミスったな」
おやっさんはフロントガラスに付いた砂を見て言った。
「違うよ。テルのミスじゃないよ。しかけられたんだ。これはや
りすぎた。事務局に行ってどういう奴がこんなことをしたのか確
かめてくる」
先輩はそう言うと、慌ててパドックを出て行った。事務局とい
うのはサーキットの外にあって、おもにメンバーの管理や、イベ
ントなどを企画している。もちろん苦情などがあれば、それも受
け付ける。
「何があったんだ?」
おやっさんから聞かれると、事の次第を簡単に話した。話し終
えると、幾分か落ち着いてきた。
「それにしてもバイパーが走ってるとは驚いたよ。もしクラッシ
ュしてたら命がなかったかもな。ハハハ・・・」
「縁起でもないこと言うな。ところでそのバイパーはあれじゃない
のか」
おやっさんの指差す方向に、小さくブルーカラーのマシンが見
えた。ピットロードから入って、最初のパドックにそのマシンは
停まっていた。パドックの位置から見ると、入ったばかりのメン
バーらしい。それにしてもあれだけのことをしていながら、堂々
といるのは、あきれる。おれはそのマシンをじっと睨みつけてい
た。
「テル。短気は起こすな。すべては事務局から話を聞いた後だ」
おやっさんはおれが相手のパドックに怒鳴り込むんじゃないか
と思っているようだ。もちろん多少その気はあった。だが、別の
方法を思いついた。
「おやっさん。マシンの砂を落としておいてくれ」
「また走るのか?」
「ああ。【奴】が走りだしたらな」
「それはやめろ!今度こそほんとにクラッシュするぞ」
「大丈夫だよ。別に仕返しするつもりじゃない。【奴】の後ろに
ついて行くだけだ。どれだけのテクニックがあるか見てやる。バ
イパーをどれだけ操れるかを」
「それならいいが・・・だが、決して無理するなよ」
「わかってるって」
おやっさんはまだ何か言いたそうだったが、パドックの中に入
って行った。
整備場に行けば、ちゃんとした洗車施設があったが、そんなこ
とをしていると【奴】が走りだしてしまうので、応急的に水で洗
い落とした。
おれは【奴】が走り出すのを待った。なかなか動きだす気配が
なかった。そろそろ時間は午前十時を過ぎようとしていた。サー
キットにはマシンが数台走っていた。そろそろコースが賑わい始
める時間だ。先輩はなかなか戻ってこなかった。やりやっている
のか、責任者がいないのかわからないが、クラブのリーダーとし
ては言っておきたいのだろう。
「テル。おまえはマシンに乗ってろ。おれが走り出したら合図す
るから」
おやっさんはニヤリとして言った。おれは無言で頷くと、ヘル
メットを被り、マシンに乗り込んだ。じっと腕を組み、イメージ
トレーニングを始めた。この時ばかりは佳奈のことはどこかに消
し飛んでいた。コース上を走るマシンのエキゾースト・ノートが
遠くに聞こえる。目を閉じていると、聴覚が敏感になってくるの
がわかる。
「テル!スタンバイしろ!走り出すぞ」
おやっさんの声がはっきりと聞こえた。おれは目を開け、右手
をステアリングに置き、左手でギアを握った。セルを回す。エン
ジンが始動する。〝奴〟がここを駆け抜けた瞬間がスタートだ。
「来るぞ!」
再びおやっさんの声が響く。おれはエンジンの回転数をいつも
よりも押さえ気味にした。別に意味はない。しいて言えば、気持
ちを落ち着かせるためだ。
次の瞬間、バイパーのテールが視界に入ってきた。おれはクラ
ッチを離した。リヤがホイルスピンして悲鳴をあげた。落ち着い
ているつもりで、回転数を控えめにしていたが、バイパーのテー
ルが見えた瞬間、思わずアクセルを踏み込んでしまった。そのた
めに回転数がレードゾーン近くまで上がってしまい、ホイルスピ
ンしてしまったのだ。