15.レース活動
一旦サーキットを出ると、ちょうど兄貴とおやっさんが話をし
ていた。おれは慌てて二人の所へ走って行った。
「おう、テル。今日はばかに早く来たもんだな」
おやっさんは、しわだらけの笑顔をおれに向けた。
「今日は実家から来たもんで。それに少しでも長く走りたいし」
「それは光から聞いた。三回忌やったそうやな。昨日はいろいろ
と考えたろうが、コースに出たらそれは忘れろよ。事故るもとだ
からな」
おやっさんは佳奈のことは知っていながら、深くおれに言おう
としない。
「わかってる。ちゃんとそれは切り替えているから。ところで兄
貴。今日は見ていくのか?」
「ああ。ここは久しぶりだから。なんかいいな、ここに来ると昔
を思い出すよ。あ、そうだ。さっき家に電話したら剛の奴、えら
く恐縮してたらしいぞ。昼頃来るそうだ」
「そう無理せんでもいいのに・・・」
兄貴も昔、ここで走っていたので感慨深いようだ。そうこう話
していると、マシンのエンジン音が聞こえ始めた。
「あんまり話していると、早く来た意味がないぞ。テル、パドッ
クへ行くぞ。マシンはいつでも走れる準備になっとる」
おれはおやっさんに尻を叩かれるようにして、パドックへ急い
だ。途中、馴染みのメンバーと会ったが、すでにレシング・スー
ツ姿だった。おれはパドックに入ると、擦り切れたマルボーロ・
カラーのレーシング・スーツに手早く着替え、ヘルメットを持っ
た。
へルメットは最近買ったばかりで、まだ光沢があった。コース
に出ると、けっこう反射する。パドックは、メンバーの在籍年数
によって場所が決められている。おれはこのクラブに入って長く
なっていたので、いい場所を確保していた。
おやっさんがパドックのシャッターを勢いよく開けた。サーキ
ット独特の香りがパドック内に入りこんできた。おれは着替え終
わると、ヘルメットを小脇に抱え、ピット・ロードへ出た。そこ
には、色鮮やかな一台のマシーンがおれを待っていた。
スバル・インプレッサ・WRX・タイプR・STiバージョン。
二リッターでノーマルでは最高出力二百八十馬力を発生する。
だが、目の前にあるマシンは考えられるパーツを全て武装し、
千二百四十キロの車重を八百九十二キロまで絞り込んである。
したがって最高出力も三百八十九馬力まで引き上げられている。
またマシン・カラーがソニック・ブルーで、これはラリーで大
活躍しているインプレッサ・ラリーエディションと同じものだ。
だから、このマシンを初めて見た人には間違われるのだ。
おれはマシンに近づき、ドアに手をかけた。その時、ふいに声
がした。
「よう、テル。今日も来たな」
先輩の声だった。マシン・カラーと同じようなレーシング・ス
ーツ姿で、手あげながらこっちに歩いて来ていた。
「おはようございます。今日は一番乗りだったんですね。スタン
ドから見てましたよ」
「そうか。じゃ、祥子と会ったろ?」
「ええ。そうそう!聞きましたよ、祥子さんから。おめでとうご
ざいますで、いいんですよね?」
「あいつ!もう喋りやがって。まあ、テルには今日言おうと思っ
ていたけどな」
「佳奈も喜んでますよ」
「会ってきたんだな、佳奈ちゃんに。もう二年か・・・。よし。
じゃ佳奈ちゃんに報告するためにも、今日はおまえと一緒にラン
デブー走行といくか。そりゃそうと、なんか生きのいいやつが今
日は来ているらしいぜ。それも女性だそうだ」
「へぇー。うちのクラブもとうとう女性を走らせるようになった
んですか」
「なんでも、オーナーの口聞きらしい。どうせ、金持ちのお嬢さ
んってとこじゃないか」
その女性がとんでもない奴だと、数分後に思い知らされるとは
おれも先輩も考えもしないのだが。
「あ、そろそろ走るか。テルが先に行け。どうせ一周目は慣らし
だろうから。おれは後ろからついて行く」
おれは先輩の言葉に頷くと、マシンの方へ近づいた。おやっさ
んがマシンのフロント・ガラスを丁寧に拭いていた。いつもの風
景だった。ただ、兄貴の姿が見えなかった。
「あれっ、兄貴は?」
おれはおやっさんに尋ねた。
「第二ヘアピンだ」
「なるほどね。兄貴も昔の血が騒ぎ出しか」
第二ヘアピンというのは、このサーキットの中でも非常に難易
度が高いコーナーで、ここには土手があり、ここから見下ろすと
よくマシンが見える。ドライバーのテクニックの善し悪しがよく
わかるので、レース好きはここによく陣取る。兄貴も昔はかなり、
ここでは腕をならしていたので、そこのところはよくわかってい
た。
おれはヘルメットを被り、ドアを開け、マシンに乗り込んだ。
レカロ製のシートに体を預け、ペダルの位置を確認するマシン
の内部は、殺風景だ。
ドライバーシート以外のものは一切排除され、徹底した軽量化
がなされている。だが、内部とは反対に外見は車高を目一杯落と
し、ウイング・スポイラーが目を引く。さらにトレッドもワイド
化されている。これはダウンフォース(風圧を利用することによ
りマシンを地面に押し付けること)を効果的に得るためだ。
ステアリングに手を添え、ピットロードの先の本コースに視線
を向ける。視線の先には全長四千九百四十キロメートルのロード
が広がっている。NSXのエキゾースト・ノートが耳に入ってき
た。どうやら先輩はスタンバイができたようだ。おれはおやっさ
んに目で合図し、クラッチを踏み込み、セルを回した。
重低音のエキゾースト・ノートが背中を通して伝わる。ギアを
一速に入れ、アクセルをゆっくりと踏み込み、エンジン回転数を
じわじわとあげていく。そして五千から六千あたりにきた時おれ
はクラッチを離した。マシンがすっと前に出る。ピットロードな
ので、あまりスピードあげずに進む。本コースが見えてきたので
おれは一気に加速する。
一コーナーに五速全開で飛び込む。この加速感がたまらない。
一コーナーを過ぎると、最初の難関のヘアピンが見えてくる。
ここから一気に五速から二速にシフト・チェンジ。リヤタイヤの
悲鳴が聞こえ、ステアリングを右に切る。
コーナーの出口少し前で、再び加速する。連続コーナーが見え
てきた。コーナーと言っても、ここは比較的ゆるやかだ。だが、
路面がかなりバンピーなので要注意だ。
レースともなるとこの地点が第一のパッシング・ポイントにな
る。おれはタイヤに気を使いながら、ここをクリアする。NSX
は一定の距離をおいて追走してきている。
続いて、第二の難関のタイトなヘアピン。最初のヘアピンより
さらに難易度が高く、オーバーランする危険性がある。兄貴が見
ている土手というのはここだ。
そんな兄貴の姿には目もくれず。おれはシフトチェンジとブレ
ーキングを繰り返す。ブレーキを踏みながら、ステアリングを切
ると車が横滑りしそうになる。その瞬間一気にアクセルを踏む。
そうするとマシンは立ち直る。これが四輪スライドだ。
このマシンはリヤが自然と出るようにサスを固めてある。だか
らコーナーでブレーキングすると、オーバーステア(マシンがイン
側に思った以上に曲がりすぎること)になりやすい。だからマシン
がスライドできるのだ。もっともブレーキをかけすぎると、即ス
ピンしてしまう。
それから短いストレートを走り、連続コーナー。ここはブレー
キングを上手に使いクリアする。ここの連続コーナーの緑が美し
く、湖を横目に見える。ここをクリアすると、トンネル前のヘア
ピン。
ここも四輪スライドで切り抜け、トンネルに入る。トンネル内
はストレート。だが、油断は禁物だ。トンネルを抜けるとすぐコ
ーナーが迫ってくるからだ。このコーナーでクラッシュするマシ
ンが結構多い。
トンネル内で加速しすぎて慌ててブレーキングするからだろう。
やはりトンネルというのはドライバーに錯覚を感じさせる何か
があるのだろうか。ここをクリアすると、再びトンネル。ここの
トンネルは右に大きくカーブしている。ここではアクセル・オン、
オフを繰り返しながら走行する。
トンネルを抜け、コーナーをひとつクリアすると、名物の橋が
ある。この橋を走行する時、ほとんどのマシンが最高速に達する。
ふたつのトンネルを走行した後なので、視界がやけに広く感じら
れる。
最高速を持続したまま走ると、またトンネルだ。ここがまたド
ライバー泣かせだ。ここのトンネルのちょうど半ばがコーナーに
なっている。ここはドリフト・テクニックが試されるのだ。トン
ネル前でスピードがでているので、ライン取りをはずさないよう
にアウト・イン・アウトでクリアする。
だいたい百七十キロ前後が目安だ。トンネルを無事クリアする
と、やっと最終シケインだ。タイヤを縁石に少し乗り上げるよう
にしてクリアするのが鉄則だ。コース横に立っているダンロップ
の看板を目印にして、ブレーキングとシフトダウンして、確実に
減速する。二速で車速は九十キロぐらいだ。そして、最終コーナ
ーを迎え、ホームストレートだ。
ホームストレートを駆け抜けると、後ろからNSXがパッシング
していた。先輩からのそろそろ飛ばすぞという合図だ。もちろん望
むところだ。