14.サーキット
翌朝、おれはおふくろに体を揺すられて目を覚ました。久しぶ
りに実家で寝たからか、自分でもよく寝たなという感じがした。
それにしても、おふくろから起こされたのは何年ぶりだろうか。
階段を降りると、味噌汁の香りが漂っていた。柱時計を見ると、
六時過ぎだった。あらかじめ、七時には出発すると言っていたの
で、朝飯の用意をしてくれたのだろう。親とはありがたい。
顔を洗って歯を磨いて、食卓に着くと兄貴も義理姉さんもすで
に朝食を終えていた。
「あれっ、剛は?」
おれは、義理姉さんに尋ねた。
「まだ、夢ん中」
義理姉さんはテーブルに茶碗を置いて、笑いながら言った。
「まあ、あれだけ飲みゃ起きれんだろ」
兄貴は新聞から目を離さずに言った。
「だからあんまり飲むなって、あれほど言ったのに・・・運転の
ほうは大丈夫かなぁ。熊本まで一時間はあるし・・・」
「心配するな。おれが送って行ってやるから」
「えっ。兄貴が!でも畑のほうがあるだろう」
「今日は休む。たまにはおまえの走るとこも見てみたいからな」
兄貴はおれのびっくりした顔を笑いながら見て言った。
「そりゃ助かるけど。ほんとにいいのか?」
「まかせとっけって」
結局、おれは兄貴に車でサーキットまで送ってもらうことにな
った。朝食をすませ、七時頃家を出た。
天気は今日も晴れていた。日差しはまだ柔らかかったが、午後
からは気温がけっこう上がりそうだった。
兄貴が仕事で使っている軽トラックに乗り、国道を熊本方面に
向った。車の流れはスムーズだった。兄貴はサーキットの場所を
知っていた。なぜなら、おれを最初にサーキットに連れて行って
くれた兄貴だったからだ。
山鹿に入り、車は左折した。どうやら近道するらしかった。お
れはその左折したところまでは覚えていたのだが、それから先は、
不覚にも寝てしまった。目が覚めたのは、サーキットの入口だっ
た。
おれはバッグを持って車から降りた。寝ぼけ眼で、サーキット
の前に立ち、上を見上げた。少し消えかかった看板が目に飛び込
んできた。
レイクランド・スピード・サーキット。その名の通り、湖と森
に囲まれているテクニカル・サーキットだ。サーキットの中に人
工の湖がある。湖というより、池に近いが。もちろん公認のサー
キットではない。
車好きの金持ちのオーナーがどこにもないサーキットを作りた
いと思って作ったらしかった。
したがってここはメンバー・オンリーで、一般には勝手に走る
ことはできない。大学入学と同時におれはメンバーになり、それ
から約九年間走りに来ている。よくもまあ、飽きないものだと兄
貴から感心されている。
サーキットの入口はふたつある。メンバー専用と観客用だ。走
るにはまだ時間的に早いので、観客席用の入口に向かった。この
時間だったら、走りに来たメンバーが観客席で雑談しているだろ
う。
だが、観客席にはメンバーはおらず、女性がただひとりサーキ
ットを見ていた。すでにもうコースを走っているマシンがあった。
甲高いエキゾースト・ノートがサーキット内に響いていた。
観客席に座っている、ただひとりの女性はその走ってるマシン
をじっと見ている。
その後姿になつかしさを憶え、おれはその女性に近づいた。
「もう先輩走ってんのかぁ」
おれはサーキットを見ながら、誰ともなしに言った。
「あら、テル君!久しぶり」
「お久しぶりです、祥子さん。どうしたんですか?祥子さんがサー
キットに来るなんて」
そう言うと、おれは祥子さんの隣の席に腰を下ろした。
「うん。どうしても来なくてはいけないわけができちゃたの」
「それは・・・どういう?」
「父親が好きなことを教えておきたくて」
「父親・・・?えっ、ということは!」
「そうなの。とうとうできちゃった」
祥子さんはおれに幸せそうな笑顔を見せながら言った。祥子さ
んは先輩の彼女で、以前はよくサーキットに来ていたが、一度先
輩が事故って以来、来なくなっていた。おれ自身も、先輩にはい
ろいろと世話になっている。最初このクラブに入会した頃、ここ
のサーキットの攻略のしかたとか、ドライビング・テクニックを
教わった。だから、祥子さんとも必然的に仲がよかった。
コースからタイヤの悲鳴が聞こえ、フェニックス・ブルーのマ
シンが最終コーナーを立ち上がってきた。NSX・タイプS。
三.二リッターで最高出力三百五十馬力。それが先輩の誇るマシ
ンだ。
ノーマルでは二百八十馬力だが、徹底した軽量化とコンピュー
ター・ユニットの見直しなどで、ファイン・チューンされている。
だが、ミッドシップであるこのマシンをサーキットで走らせる
には相当のテクニックが必要とされる。
それを先輩はコーナーではドリフトさせるのだから、驚かされ
る。ドリフトというより、マシンをねじ伏せている感じがする。
「相変わらず、派手な走りするなぁ。でも、子供ができたのなら
先輩もここにはあまり来られなくなるな」
「それは言っていたわ。彼はクラブを切り盛りしてきたから、後
はテルにまかせようかって」
「冗談じゃないですよ。おれなんかそんな器じゃないですから。
でもいいな。子供か。おれの場合は相手がいなくなってわかった
からな、ハハハ・・・」
「あ・・・ごめん。いやなこと思い出させて。」
「気にしないでください。佳奈が亡くなったのは事実なんだし」
「そういえば昨日が三回忌じゃ・・・」
「ええ。昨日、墓参りに行ってきました」
「じゃ、今日は実家から来たのかぁ。だからこんなに早くここに
来れたんだ。どう、佳奈ちゃんのこと少しは吹っ切れた?」
「はいって言えればいいんですけどね。なかなか簡単には・・・」
「そうよね。この世で一番好きな人がいなくなったんだから。私
も彼がいなくなったら、どうしていいかわからなくなるだろうな」
祥子さんは佳奈のことを妹のように可愛がっていた。サーキッ
トでは先輩とおれは走っていたので、女は女同士ということで次
第に仲が良くなっっていったようだ。だから、佳奈の死を聞いた
時は人目もはばからず、大声で泣いていた。
「さあーてと、着替えに行くとするか!」
おれは祥子さんに笑いながら言うと、時計を見た。針は午前九
時少し前だった。日差しがコースの路面に降り注ぎ始めていた。
この時間になると、ようやくコースの全景が見えてくる。ここ
は前半こそ、森と湖の中を走る感じだが、後半はトンネルと、ど
うやって作ったのか不思議だが、橋がある。まったく、よくこん
なサーキットを作れたもんだ。
観客席もだんだんと人が入ってきたようだった。そろそろ、お
やっさんがマシンを持って来る時間と思い、おれは立ち上がった。
「じゃ祥子さん、そろそろ走りに行ってきます。ここでゆっくり
見てて下さい」
「うん。ここでじっくり見てるわ。でも、あんまり無理しちゃだ
めよ」
おれは祥子さんに頭を下げると、観客席を後にした。