1.商談
時計の針が規則正しく音を刻んでいた。その音がやけに大きく感
じられる。窓からは、柔らかい陽射しがさし込んできていて、すっ
かり春になったことを感じさせていた。
だが、今はそんな季節感などを感じている時ではなかった。
ここは取引先の古川計装の応接室であり、今は商談の真っ最中だ。
目の前の担当部長は、おれの作成してきた書類を真剣に読み続け
ている。
その書類は全部で二十枚あって、一枚は見積書だ。あとの十九枚
は説明書だ。見積書の担当者欄には高橋光輝とある。これはおれの
名前だ。おれの勤めている会社は、水道施設の制御盤を作っている。
そして、おれは営業三年目だ。三年目の今年、ようやく営業らしい
仕事をさせてもらうようになった。その仕事が今商談しているもの
だ。
ところがこれがとんでもないものだった。
まず金額が桁外れに大きく、上司の言うところによると会社創設
以来のものだそうだ。それと商談先の担当部長が一筋縄ではいかな
い人で、ふつうは見積書を見せて口頭で説明し契約となる。ところ
が口頭では納得する人ではなく、ちゃんと理論だてて文章にして書
類の形にしなくてはならない。何度もやり直しを要求された。
おれは心臓の鼓動を感じながら、目の前の部長の返事を待った。
今日、再びやり直しを要求されるようなことがあれば、上司にま
かせるしかない。できるなら、それは極力避けたかった。自分の力
でやりたかった。この商談は四ヵ月かかっているのだから。
ガラスのテーブルに置かれているお茶もすっかり冷えきってしま
っていた。部長は最後の一枚を読み終えると、静かにテーブルの上
に置いた。
そして、冷えきったお茶をひとくち飲むと、おれのほうを見て言
った。
「少し待っててくれないか」
「はい」
おれが言うと、部長は席を立っていった。
『ひょっとすると・・・これはうまくいくかもしれない・・・』
おれは少し甘い期待をして、慌てて打ち消した。
いずれにせよ、今日で決まる。自分が一人前の営業として認めら
れるかどうかが。
四ヵ月間、おれはこの仕事にかかりきりだった。会社にいる時間
よりも、ここにいる時間のほうが多かったように思える。
一週間のうち半分は、ここに家から直行していた。会社にいる時
は、見積書の練直しだった。とにかく胃の痛くなるような四ヵ月だ
った。
そんなことを考えていると、ドアが静かに開き、部長が難しそう
な顔をして入ってきた。おれはますます緊張感を高めた。
そしておれと向かいあって座ると、以外な言葉を言った。
「いやぁ、まずはご苦労だった。私の無理難題を聞いてくれて」
「え?」
おれは次の言葉がでなかった。
「ここまで丁寧な仕事をやってくれると、嬉しいよ。まあ、君には
いろいろと苦言を言ったが、それも客先に満足してもらいたい一心
だったものでね」
「いえ、とんでもありません。これが仕事ですから」
「その仕事をどこまで誠実にやれるかってことだよ。まあ、前置き
はこれぐらいにして、結論を言おう。君のところに決めるよ。社長
の決済はもらってないが、八割方は私にまかされてるから、心配は
ないよ」
「ほ、本当ですか!あ、ありがとうございます」
おれはまたも、心臓の鼓動が高くなった。いや、心臓が飛び出そ
うだっだ。
「実はな、他からの見積りと比べて見たんだが、ほぼ同じ金額だっ
た。決め手は君の誠意だ。私が何度やり直しをさせても、きちんと
約束の日までに持って来てくれた。私はその誠意に感心したよ。営
業という仕事は口先や金額だけじゃないんだよ。信用だよ。お互い
に信用がなければ、どんなに口がうまくてもつとまらない。君の粘
り勝ちだよ」
「ぶ、部長からそんなお褒め言葉を頂いたのは初めてのような気が
します」
「ハハハ・・・そうだろうな。きついことばかり言ったからな」
そう言うと部長は目の前に置いてあるお茶を飲んだ。
そして部長からお茶を飲むように促されたので、おれもお茶を飲ん
だ。冷えきったお茶だったが、たまらなくうまかった。やっと営業と
して、ひとつの仕事をとったという充実感があった。
「では本契約の時には、ご連絡頂ければすぐ参上致します」
「いや、今度はこっちから伺わせてもらうよ。今まで散々無理を言っ
たからな。高橋君、君は睡眠不足なんだろう?今日は早く帰ってゆっ
くり寝ることだな。いや、それよりも祝杯かな。ハハハ・・・」
部長の心づかいが嬉しかった。営業という仕事の喜びというのが初
めてわかった気がした。その後三十分ほど世間話をして、おれは古川
計装を後にした。
途中会社に電話したら、上司の益満課長はよくやったの連発だった。