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多恵さん 旅に出る Ⅷ  作者: 福富小雪
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多恵さん 旅に出る Ⅸ

 久々の伊豆の旅から戻って暫く経った。幽霊さん達は未だ、伊豆や熱海、東京、ここいら辺を行ったり来たりしていて何やら忙しそう。勿論祖父母も父の霊もあの世に帰る気配なしだ。それ処か「生きてる時に、なーんもこんげん楽しか思いばせんやった友達ばあの世から連れて来て、一緒に楽しみたか」なんて祖母は言ってる。まあそれは祖母の好きにしてくれ。

それより六色沼を通る度に杉山君の子分達に「ねえ、画伯、未だ俺達、杉山さん達とテニスの仕合出来ないのでしょうか?」とせっつかれるのがちと煩い。今日もスケッチにと来てみれば、わんさか子分に取り囲まれる。仕方ないので杉山君を呼び出すことにしよう。

「はい、河原崎画伯、お呼びでしょうか?」

「何か不満そうね、今呼んでは不都合な事でもあるの?」

「いえいえ飛んでもありません。河原崎さんのお呼びとあれば、そりゃあ喜んで馳せ参じます。ましておじいさまのスパルタレッスンの特訓の途中であれば、尚更です」

「あらあ、又テニスの特訓なの?」

「ええ、ここの連中と試合をやらなければいけないと言いましたら、そりゃ面白そうだとおしゃって、是非とも勝たなくてはならないと、それから我等男は日々練習練習に明け暮れています」

「まあ、では父もなの?」

「ハハ、ご安心あれい、御父上はおばあさまを除く若手女性3名と花岡恵さんの子供真澄ちゃんを連れて、東北の、ええっと何だっけかな、俺達幽霊には関係のないような名の・・・じょ、じょう、浄土が浜に行って、そこの観光船を乗り回しに行ってらっしゃいます」

「そう、やっぱりね。で、おばあちゃんは?」

「おばあさまは・・・あの世に1度行って来るとおっしゃって、はい、今はご不在です」

「ふーん、なんだか友達のことを気にかけていたから、友達を探しに行ったんでしょうね」

「はい、そうだと思います。で、今日はどんな御用ですか?」

「あ、そうそう、ここに来る度に、あなたの子分たちが試合は未だか、試合は未だかと煩いのよ。おじいちゃんを良いとこ見切りを付けさせて、1度、対抗試合をしてみたら?」

「はあ、見切りを付けさせるねえ・・・俺には出来そうもないな」

「分かった、じゃあ、あなたが子分の中から強そうな奴を何人か選んで、おじいちゃんのチームに試合を申し込むのよ。それなら否応なしに見切りつけさせられるわ」

うん?今消えたはずの冷気がモクモクと又沸き上がる。

「そうですよ、杉山さん、ここは思い切って仕合しましょうよ。俺たち、アレから毎日、日中はルールを知るため試合を見学し、夜は寝ないで、ヘヘヘ幽霊ですからこれは当たり前か、兎も角一生懸命稽古に励みました。どんどん上達する奴もいますが、全然上達しない者もいます。でも心は一つ、杉山さんとテニスがしたい、杉山さんと一緒に楽しみたいと言う思いです」

「うん、お前たちを長い事放り出して悪かったよ。解った、みんなで画伯のおじいさまの所に行こう。そして、みんなでテニスの仕合をしよう」

今度は歓声があがる。

「では、河原崎さん、こう言う事になりましたので、皆を引き連れておじい様のいるグランド迄行ってきます。成果?それはさっぱり分かりませんが、みんなで楽しんで来ます」

杉山君とその子分たちは多恵さんの元から消えて行った。

やれやれ、これで暫くは心置きなくここに来れるってわけだ。

で待てよ、確か石森氏が蕎麦屋をここに開くと言ってなかったっけ。

「はいはいそうですよ、ここに蕎麦屋を開くんですよ。でもあいつ等行ってしまいやがった。それにあの調子だったら暫く帰ってこないな、如何しよう?」

「だったら祖父がいるとか云うグランドの傍でやったら。幽霊さんなんだから移動は簡単なんでしょう?」

「ヘヘヘ、さすが幽霊の世界に詳しいですな。ではそうしましょうか、では、画伯さん暫しさいなら」

彼も消えて行った。

幽霊さんがきれいさっぱり出払った六色沼、何となく何時もより、清らかに見えるのは気のせいか、まあこれで落ち着いて六色沼をスケッチ出来るわと、多恵さんスケッチ道具を取り出しスケッチに取り掛かる。

もう夏だ。この頃の夏はやけに早々と真夏日がやって来て、その後を追うように猛暑日が居座ってくる。

でも六色沼はこの暑さと、コロナのせいで人気もなくとても静かでスケッチするのにはもってこいなのだ。それにオレンジ色のキツネのカミソリが青い水に映えてとても綺麗だ。

せっせと描く、一心不乱に描く。え、でも何かいるようだ。確か幽霊さん達は皆出払ったはずなのに。キョロキョロ探すと、居た居た女性の幽霊さんだ。年は50歳少し過ぎた位か?とても身ぎれいにしている。

多恵さんのいる所は丁度日陰になっているので、幽霊さん達にも苦にはならないのだろう。

「こんにちは、あなたにお会いするのは初めてですね?」多恵さんが声をかける。

「こ、こんにちは。わたし、わたしは何時もみんなの後ろから見ていたので、気が付かれなっかたと思います。ずっとあなたと話したいと思っていましたが、中々チャンスがなくてお話しする事が出来ませんでした。所が今日、みんなどこかに行ってしまったので、ようやくこうしてお話できるようになりとても嬉しいです」

「ええ、皆、テニスの仕合をしに出掛けたのですよ。まあ日中は日差しが強すぎて幽霊さん達はちょっと無理かも知れないけど、挨拶とか、ルールとかいろんな話し合いをするんじゃないかしら」

「そ、そうですか、テニスの仕合にねえ」

「あなたはやらないの?」

「とてもテニスをする気にはなりません・・・」

「何か悩んで、それから逃れるために自殺をしたの?」

「ええ,良く判りましたねえ、わたしが自殺したって」

「そりゃ幽霊になってると言う事は,この世に恨みを抱いて死んだか、ちょい悪な仕事をしてたとか、それでなければ自殺をしたか、この3つ内のどれかよ。あなたを見れば自殺しか思い浮かばないから」

「そうですか、死ねばこの心の闇から救われると思って自殺したんですが・・・全然駄目でした、謝りたい人にさえ会えないんですから。死んだら会えると思っていたんです、会って謝って許しを請えば,たとえ許しを得られなくても、この苦しみは半減するのですが」

「うーん、そうね、たいていの人はそう思うわよねえ。でもそうは上手く行かないのよ、相手は死んであの世とやらに行ってる、自殺した人はあの世には普通、門前払いなの」

「どうすればあの世に行けるんでしょうか?」

「生きてる時だったら善行を積んだりして、常にその人の事を思っていれば死んだ後、あの世でその人に受け入れられるでしょうが、自殺してしまったからには、幽霊として細々ながらも徳を積むしかないわ。それで何とか許されてあの世に行ける。もしかしてあなたが謝りたい人もあなたの事を思って、あの世であなたを待ってると思うわよ」

「ああ、あの子が、あの子が、こんなわたしを待っているとしたら、一日も早くわたしが行ってやらねばならないと言うのに」泣き叫ぶ女性。

「落ち着いて、ね、落ち着いて。泣いても何の解決にもならないわ。それよりあなたが自殺した理由を知りたいのだけど」

「自殺した理由?」

「そう、あなたが自殺した理由よ、それを話したら少しは楽になると思うけど」

「少しは楽にだって・・全然楽に何かならないわ、全然よ、本当に。わたしの心が少しは楽になる時は、あの子がわたしを許してくれる時よ」

「ええ、それは分かるわ。でも、その理由が分からなければわたしはどうすることも出来ないわ」

「そ、それはそうですね。ただ泣いてるだけじゃ誰も助けてくれない。でもとても辛い、話すのが辛いんです。もう一度、死にたくなるくらいに」

「でも勇気を出して。もう死んでるんだから、決して死にはしないわ・・・良いわ、じゃあ、誰に謝りたいか、それだけで今は十分だから話して」

「はい、それは・・・謝りたいのは・・謝りたいのは彩菜ちゃん、孫の彩菜ちゃんに御免なさい、さぞ痛かっただろうって謝りたいのです。こ、これで大丈夫でしょうか?」

「ええ、大丈夫ですよ。その彩菜ちゃんは亡くなった時、何歳だったの?」

「三歳でした、たった三歳で死なせてしまったんです」

「あ、もう泣かないで頂だい。あと少し待ってて、天国だって行ける人を呼び出しますからね」

「天国にも行ける人ですか?そんな人をご存じなんですか?」

「まあね、色々旅をしてると色んな魂の人に巡り合うものだから」

多恵さん、誠君に念を飛ばす。ややあって誠君がテニスウエアにテニスのラケットを手に持って現れた。

「お呼びでしょうか、河原崎さん」

「御免なさい、試合中だった?」

「いえ、まだ試合は始まっていません。まあ作戦タイムと言った所です。で何か困った事でも?」

「ええ実はここに居る幽霊さんが、どうも天国にいるらしいお孫さんに会って、お詫びを言いたいんですって。写真か何かあれば良いんだけど、今は三歳で彩菜ちゃんと云う名前しか分からないの」

「写真ですか?ありますあります、死ぬ時彩菜ちゃんの写真を握りしめて死にましたから」

女性はポケットから少し皺の寄った写真を取り出した。

「皺が寄ってますが、分かりますか?」

「はい、僕が元通りにいたしましょう」写真は元通りの綺麗な状態に戻った。

「あら綺麗になったわ、素晴らしい力をお持ちなんですね」女性は感心する。

「こんな力は幽霊さん達も直ぐ付きますよ。処で僕は天国かあの世に行って、この彩菜ちゃんを探し出し、ここに連れてくれば良いんですね」

「その通りよ。その子に会ってお詫びを言わない限り、彼女の心は晴れないらしいわ。あ、それからあなたのお名前が知りたいわ。名前が分からなくてはどう呼んで良いやら」

「済みません、町屋静香と言います、孫は娘の方の孫でして、水上彩菜と言います。彩菜はこの月見区の小島町に住んでいました。亡くなったのが・・いえ・・私が殺してしまったのです・・わたしの不注意で殺してしまったのです。あの子が三歳の時、たった三歳だったんです、かわいい盛りでした」

また彼女はおいおい泣き出した。

「静香さん、済んだ事は幾ら後悔してもそれをない事には出来ないのよ。泣いたら少しは気が晴れるかも知れないけど、これからの長ーい時間をもう少し前向きに歩いて行かなくてはいけないわ」

「僕が必ず彩菜ちゃんを探し出して来ます。少し時間がかかるかも知れませんが、待っててください」

「ありがとうございます、お願いいたします。どんなに彩菜に会いたいか、本当に首を長くして待ってます」

誠君、手のラケットを見る。

「あ、僕、テニスの途中でした」

「そうね、ちょっと杉山君を呼び出して事情を話し、あなたが暫くリタイアすることを伝えましょう」

多恵さんがそう話すか、終わらない内に目の前に杉山君が姿を現した。

「まあ、あなた、ずっと前からそこに居たのね?」

「ヘヘ、実は誠君が呼び出された時、気になったので、本当は一緒に来たのですが、姿を現すのは遠慮してました」

「ふーん、でも良いわ、手間が省けて。お聞きの通りよ、向こうの方はあなたに任せるわ、良いように取り計らってちょうだい」

「ええ、でも彼はおじいさんチームのエースですから、おじいさんご機嫌悪くなるだろうな?」

「だから今はチーム対抗ではなくて、普通の練習試合にすれば良いんじゃないの、そ云う事にして頂だい、誠君が返ってくるまで」

「では画伯がそう言ってたとおじいさんに伝えます。何しろおじいさんは画伯には全く弱いですからね」

「じゃあ僕はテニスウエアから天使モードに切り替えて、暫く皆さんとお別れします」

誠君の姿がパッと銀色に光り輝く天使の姿に切り替わる。そこに居た三人は吃驚し、その眩しさに一瞬たじろいた。誠君は少し微笑むと消え去って行った。

「彼奴、彼奴は本当に天使だったんだ」

「ええ、彼は天使だったのよ、元々そうだったのよ」

「あ、ありがたいことです、こんな罪深い私なんぞの為に天使様が働いて下さるなんて」

静香さんは又泣いたが、それは嬉し泣きに違いないと多恵さんは感じていた。

「じゃ俺はみんなの所に戻るよ」

「あ、待って、彼女も連れて行ってよ、彼女、もしかしたらテニス、出来るんじゃないかしら?」

「はい、学生時代選手やってましたし、彩菜が無くなる前までやってました」

「だと思った、普通の女性とは筋肉の付き方も、それに少し日に焼けている所からも推して知るべしね」

「そうか、画伯は人の観察眼に鋭いですね、参りました。さあ静香さんみんなの所へ行きましょう、ここで泣きながら誠を待つよりも、俺達とテニスをしたりする方が、心の為にも良いですよ」

静香さんは大人しくその言葉に従った。

ああやっと落ち着いた感じ。もう大丈夫、六色沼は静かだし、風も穏やかだ。もう誰も残ってはいない。

「ええっとわたしはこの六色沼に何をしに来たんだっけ?」と多恵さん我が身を振り返る。

スケッチブックに色鉛筆、ああそうだった、キツネノカミソリのオレンジがかった赤い色がベランダ越しに覗き込んだ時チラホラ見えて、心惹かれここまでやって来たんだっけ?少し時間を取られてしまったが気を取り直し、改めてスケッチの続きに取り掛かろう。

じりじり照り付ける太陽に、柏木さんの事を思い出す。彼女も何か興味を惹かれる花でも見つけてスケッチしてるのかしら、ああそうそう、又日光に九輪草でも描きに行ったかしら。それともバイトに精出し、次のスケッチ旅行の資金稼ぎに余念がないのかしら?ま他の友人達も同じようなもんだろう。

その夜友人の一人から電話があった。

「ねえ、比企郡に詳しい?」

「ええっ、藪から棒に。それにわたし、比企郡何て全然分からないわ」

「同じ勾玉県なのに?」

「おんなじ県と言ってもずーと離れているし、知り合いもいないわ。そこが如何したのよ?」

「ヘヘヘ、そこにね、トキカワと言う所があってね」

「トキカワ?」

「トはね都、キは幾何の幾て書くの。川は普通の川よ」

「そう、それでその都幾川が如何したの?」

「フフフ、そこの景色が心洗われるように綺麗なんですって」

「へえーそう、そこにスケッチ旅行に行かないかとのお誘いなの?」

「モチ、当たりー。結構大人数で泊まれるバンガローがあるらしいわ。水が綺麗で木々とのハーモニーも素晴らしい、小さいけれど滝もある、夜は満天の星が見れる。何しろ近くの山の上には天文台があるとか聞いてるし」

「何となく良さそうに聞こえるわね。で何人で行くの?」

「今の所あなたを入れて6人くらいかな?」

「6人、結構な数ね」

「大きいバンガローの方を借りれば、みんな全員で1つ所に泊まれるわ。でもバンガローでしょう、夏と言っても寝袋くらいは必要かな?」

「何時頃行く積りなの?」

「6月か7月、7月も遅くなると夏休みになって、いくらコロナと言っても子供たちで混むでしょう?7月も初旬までだわね」

「丁度梅雨に入っている頃だわ」

「そう、だからあなたを誘うように三宅さんや奥山さんに言われたのよ」

「雨が降っても責任は取れないけど」

「ハハハ、一種のお守りみたいなものよ。あ、気を悪くしたらごめんなさい」

「いえ、そう思ってくれる方が気が楽だわ」

「ああ良かった、では来てくれるわよね河原崎さん」

「はい行きましょう、みんなのお守り、チャームとしては行かざるを得ないわねえ。日程が決まったら教えてね。それに寝袋、持っていないから、準備する必要があるわ」

久々のスケッチ旅行だ、それも本来のスケッチだけを目的とする旅、今は幽霊軍団もいないから、本当に本当に心より絵に打ち込めると云うもの。

先ずはネットで寝袋を手に入れた。聞く所によればその近くの鳩山町と云う場所は夏は熊谷を凌ぐほどの暑さで、しばしばテレビのお天気番組に取り上げられているらしいけれど、それは心配ないのかしら?今度電話の時聞いてみよう。

日程は6月の3週目の水曜から木曜日となった。それが一番人出が少なくてスケッチのし放題と云う所らしい。ふーん、スケッチのし放題ね。つまり、誰にも邪魔されずに心置きなく絵が描けると云う意味だ。

「でさあ、そこの近くには暑さで有名な所があるけど、都幾川町は涼しいの?」

「そうねえ、良く判らないけど、まあ、ここいら辺りと同じか、夜は随分涼しいんじゃないの?河原崎さんは暑さに弱い方なの?」

「あまり強いと言うほどじゃないけど、まあ普通かな、程々が良いわ、何事にもね」

「そりゃそうだ。あそうそう、虫よけは必要かもね、夏だし、木も茂ってる所だから、虫はきっとわんさかいるわよ」

「良い事聞いたわ、虫よけも持って行くけど、母に虫に刺されなくなる漢方を送ってもらおう」

「ええ?虫に刺されなくなるの、わたしも欲しいなあ。わたし、ハチャメチャ虫に刺されやすくて」

「はいはい、準備いたしますよ、その位」

「ありがとう、じゃあ、川越駅に7時に集合ね」

「JRの方の川越で良いのね、その方が助かるけど」

「他の人達を拾ってから行くから大丈夫よ、色は赤か青のセダンね、借りられたらの話だけど」

「この前、伊豆に柏木さんと行った時も車の色は赤だったわ」

「まあ普通はそうよね、わたし達は画家で、女なんですもの、ハハハ」

その説に多恵さんも同意したのだった。

ありがたい事に多恵さんの近くの駅からその川越駅まで乗り換えなしで行ける。6月の中旬と言う事で少し心配したが、その日の空は綺麗に晴れ渡り、更に多恵さんの晴れ女の名声を高めてしまう結果となってしまった。

朝用のお結びは昨日握って冷蔵庫にしまっておいたものを取り出し、夕食用はレトルトパックとインスタントみそや汁ポタージュスープ等を詰め込み、明日の朝用にはお湯を注げば出来上がりのカップ麺の大を準備した。勿論パンやお菓子も抜かりなくリュックに忍ばせ、いざ出発だ。

東京方向の電車はぎっしり満員だが、反対方向に向かう方はゆったりしてる。今日は寝袋持参だから何時もに増して大荷物だから、これで上りの方に乗っていたら、わたしも辛いが周りの乗客の人達も大迷惑だったろうと思う。でもまだお腹も空かないし、食べようなんて気も起らない。やはり周りの人たちが、幾らら空いてるとは言え、これから勤めに向かうという雰囲気が満ちている状況の中で、一人のんびりと食べるなんて事は顰蹙を買ってしまうに違いない。

川越に着いた。久々の川越である。めったに来ない。世間では小江戸と言って特に若い女性に人気があるらしいが、若くもないし、自然の風景を主に描いてる多恵さんとしてはちょくちょく来る、来たいと云う場所ではない。だから何時まで経っても不慣れな場所だ。メインの川越駅がjRと私鉄が2つあって、それが離れているのも少々不満だ。

プープーと自動車のブザー音。ブルーの車だ

「はいお待たせ」と国谷さんが声をかける。

「ううん、わたし、今着いた所よ、車、ブルーだったのね」

「まあ乗って、一人増えたから、赤い方は満席なの。赤い方が良かったら、サービスエリアにでも止まったら、誰かとチェンジしたら?」

「いいえ全然、わたしブルー大好きなの、キャリーバックも明るいブルーだわよ。ただ車は赤い方が時々しか運転しない者にとっては事故防止の助けにはなるけど」

「それはそうだけど、河原崎さんは運転自信ある?」

「うーん、運転は任せなさい!と言うほどには自信ないけど、まあ車の少ない所ではある程度は運転できるわ」

「じゃあ、わたしと代わり番こね、後ろに踏ん反りがえってる奥山さんは全然駄目らしいから」

「わたし別に踏ん反りがえってはいないわよ。恐縮して乗ってるの、レンタカー代も大した額ではないけど多めに払ったし、助手席も遠慮して後ろの席にしたのよ」

「はいはい、分かりました。では出発」駅を出ると待っていたらしい赤い車が後ろを追ってくる。

「赤い方は誰が運転してるの?」

「多分、三宅さん、彼女良く車で滝巡りしているから。他にも武田さんや池内さんもぼちぼちよ。梅沢さんは全く出来ないと言ってるわ」

「そう、少し不安だけど道は空いてるみたいだから、今の所大丈夫よね」

「うん多分ね、三宅さんの腕は確かだと思うけど、こう言っちゃ少し失礼だけど、年が年だからね。だから二人、運転できるらしい者を同乗させたの」

「用意周到ね」

「さあ、如何かしら、あの二人?」

「分かんないの、二人とも?」

「ええまあ、お守りみたいなものよ、何しろ二人ともここ数年運転した事ないって言ってるから」

「わあ酷い、三宅さん疲れちゃたら如何するの?」

「わたしかあなたのどっちかに代わるか、あの二人が車に乗ってる内に運転の勘を取り戻すかねえ」

そうこうしている内に少し大きめのサービスエリアに着く。

「朝食タイムと行きましょうか?あなた方も食べて来てないんでしょ?」

「ええ、食べて来てないわ。お結びは昨日の夜、握って来たけど」

「わたしはパンを買って来ただけだから、サービスエリアで何か買って食べるわ」

「わたしも同じ。まあみんな降りて挨拶をした後、朝ご飯にしましょうよ」

後続の車も止まってぞろぞろ4人が下りてくる。「おはようございます」と声掛けが始まる。

「河原崎さんが来てくれたので今日は本当に良く晴れたわ、ありがとう」と三宅さんに言われる。

「アラー、これはわたしの所為じゃないわ、偶々今日が晴れの日だったんで、これは・・この日に計画した人に感謝すべきだわ」

「うーん、じゃあ国谷さん、ありがとう」

「いやだ、この日が良いんじゃないかとみんなで決めたんじゃないの、わたしが決定したんじゃないわ」

「そう言えばそうね、みんなでこの日が良いって決めたんだっけ。じゃあ、皆にありがとうって言うの?」

「そんなことはどうでも良いわ、わたしお腹が空いてるの、早く中に入って何か食べましょうよ」と奥山さん。

「そうね、腹空いては戦は出来ぬ。早く何か頂きましょう」

がやがやと7人中に入る。それぞれうどんやそばを注文する人あり、コーヒーとサンドイッチにする人もいる、てんでばらばらだ。

多恵さんはホットコーヒーを頼み、持って来たお結びを頂くことにする。

「でも、ここでソバを食べると・・多分お昼もきっと蕎麦屋しか見つからなくて、又ソバを食べる事になるんじゃないかと推理の名手の梅沢は嫌な予感に襲われるのであった」とそばを食べ終わった後、気が付いて梅沢さんは呟く。

「それは言えるわね。わたし、うどんにして良かったわ」

「うどんもソバも大して違わないんじゃないの。それに麺類はすぐお腹が空くわ、何かちょっとした物を買い足して食べて行ったら」

「それは名案、わたし、お結び貰うわ」

「わたしも」「じゃあ私も、サンドイッチも直ぐお腹空くわ」「モチわたしもお結びころりんよ」

何だかお結び争奪線みたいになっている。

「さあて、腹ごしらえも終わったから、目的地まで頑張りましょう。あ、三宅さん運転疲れたら早めに言ってね、河原崎さんが代わるから」

「わたしはこのくらい平気よ、何時も運転しなれてるから」

「そうでしょうけど、万が一運転が出来なくなったら、同乗者の二人はどうもペーパードライバーみたいだから、一応ね」

「始めっから当てにしてないわ、見れば判るわ」

「そう、じゃあ又後で」

また車は走り出す。大分人家が少なくなって、畑や林が多く見受けられるようになった。

「こりゃ、蕎麦屋が見つかれば良い方だねえ」

「ええ、あまり、そういった類の建物がないようだわ、コンビニでもあれば良い方かも」

「まあも少し行ったら、何かしらのお店きっとあるわ。人家もポチポチ存在してるんだから」

でも田舎の道は車も少なくて、例え暫く運転していなくとも十分走れそうだなと多恵さんは思った。

「ここいらが梅林で有名な生越よ、今梅の収穫で忙しいのかな?それとももう終わったのかしら?」

「ああ、わたしお土産に梅干し、買って帰ろうかな?それとも他にも梅を使った物があるのかな」

「そうね、梅酒、梅ジャム、もしかしたら梅羊羹なんてのもあったりして」

「梅味の飴何かはありそうだけど」

「わたしはさ、あの梅の香りが大好きなのよ。だからバラ園なんかに行くとバラ水とかオーデコロンが売ってるじゃない?それに倣って梅の匂いを集めたコロンがあれば、是非欲しいわ」

「そうよねえ、梅の香りは上品で高貴な香りがするわ。わたしも大好き。どうして梅のコロンは存在しないのかしら」

「もしかしたらあるのかも知れないけど、わたし達が知らないだけなのかもねえ」

「梅は梅干しや梅酒づくりに多用されるから、そんな香り迄手が回らないのよ、多分」

生越を過ぎて車は目的地に近づいて行く。増々それに連れて人家はまばらになり、木々は茂り、時々目に映る川の水は清らかさを増して行くようだ。

「天文台があるとか言ってなかった?」多恵さん思い出して国谷さんに尋ねた。

「ええ、山の上にあるのよ。星に興味あるの?」

「ない事はないけど、星は絵にし難いわねえ。でも近くにあるんだったら行ってみたいなと思わないでもないけど」

「多分、ここいらを描いてたら、行けないと思う、残念だけど。まああなたが建物に興味があるのなら、その天文台はちょっと描いてみたい恰好をした建物ではあるけど、あなたはネイチャーの景色を描く画家だから今回はパスと言う訳」

「ええ、それで結構よ。調べてみたけどわたし達、木の村キャンプ場に泊まるのよね?でもそこは都幾川の何かずーっと上流にあって、スケッチするメインの三波渓谷と言われている所とかなり離れているんじゃない?」

「うーん離れていると言っても、同じ地繋ぎだから、いや川繋ぎかな。それにわたし達にはスケッチ旅で鍛えた足でスケッチして上流に向かってスケッチして行くの。ほらあの秋川渓谷の時のように一日目である程度の所まで描いて、後は明日と言うようにね。うーん今回は車がある分、少し話が面倒かな。ま、適当な所で車を止めてスケッチして時間を決めて待ち合わせて、温泉もあるらしいから温泉に入って、目ぼしい食べ物屋があったら空いたお腹を満たしてから、その木の村キャンプ場に向かう予定なの」

「そう、良く判ったわ。納得、合点招致の介よ」

「何それ、誰が言ったの?」

「勿論、河原崎画伯がおっしゃたのよ」

「わたしも良く判ったわ」後ろから声あり、奥山さんも少し気にかかっていたようだ。

「ええっと、都幾川には着いたんだけど。うーん、先ずは腹ごしらえ、それとも喫茶店でコーヒータイムする?兎も角、車止めるわ」

暫くして赤い車も追いついて止まる。

「わたしが聞いて来るわ」と多恵さんが車を降りて、もう一方の車の方へ。

「予想に反してここ蕎麦屋以外に喫茶店もうどん屋もラーメンもありました。その他にも色々ありそうですが、先ずは腹ごしらえしますか、それともコーヒータイムにしますか?」

車から三宅さんが下りて来る。時計を見る。

「うーんお昼には少し早そうだし、かと言ってコーヒー飲んでスケッチに取り掛かっても・・」

国谷さんも降りて来た。

「わたし、パンを持って来たわ」

「勿論わたしも」「パンは画家の必要品よね」

「一応みんなに聞いてみよう」

結局、パンは全員、携帯してるとの事で喫茶店に入る事になった。

「コーヒータイムではあるけれど、わたしは少し暑いのでクリームソーダーを貰おうかな」

「わたしはこの際だからフルーツパフェをお願いします」

「じゃあ私は甘党見え見えだけどあんみつを頼むわ」

「チーズケーキとアイスティー」

みんな自分勝手に注文して行く。ちなみにチーズケーキとアイスティーと言ったのは多恵さんだ。

コーヒータイムならず、甘党タイムは賑やかに過ぎた。

又車に戻り、三波渓谷へと向かう事にする。

「じゃあさ、車はこっちの真ん中の駐車場に入れるわね。良く場所を覚えていてね、まあ車の方は2台とも目立つ色だから分かるけど、駐車場の場所を忘れちゃ如何にもならないから」

「それから川の、ここは三波渓谷と言う所だけど、その渓谷に降りて行って、各自、好みの場所を探して絵を描く。大体4時になったらここに戻って来る。それから、予約してある温泉へ行って疲れを癒し、それからそこで何か食べられたら、それを頂いてキャンプ場に向かう予定になっています」

「凄い!国谷さん、素晴らしい計画だわ、尊敬しちゃうわ」

「ヘヘ、絵の方で尊敬されたいわ」

「モチ、絵の方でも尊敬してるわよー」

「うん、終わりの伸びている所が何か今一信じられないけど、ま、良いや。じゃあ行きましょうか」

車が動き出す。時折橋から見える水の青い事、何とも言えぬ美しさだ。

「ええっと真ん中辺りの駐車場ね、ううんとこの辺りかな。緑も多くて少し日陰になってる所が良いわね」

「川に降りる所が近いと良いけど」

「うん贅沢は言わないけど、近い所が良いわ」

向こうの車も横に止まる。

「ここは日陰になってグッポジションだわ」

「それにこの木が良い目印になって、多少方向音痴な者でも分かり易いわね」

「さあて、みんな荷物を持って出かけましょうか?と言っても寝袋は要らないわよ、池内さん、お昼寝でもするの?」

「あ、そうだったわ、スケッチの道具だけ持って行けば良いのか」

「それに貴重品とお腹減った時の食料と飲み物ね」

「ああ、それ大事」

「まるで小学生ね、大丈夫?誰かとペアーを組んだ方が良いんじゃない?」

「そ、そうね、じゃあ梅沢さんお願い、自動車に今まで同乗したよしみで」

「あ、良いわよ、わたしも一人では心細いと思っていたので」

「まあ、一人で行くのもよし、2,3人で行くも良しよ。ただ一人で行動するときは十分気を付けて。梅雨時で水量も多いし、流れは速い、描きたいと思っても足元には十分気を付けて行動して頂だい」

三宅さんがみんなに注意を促す。

「あったわ、渓谷入り口が」

一列になって階段を下りて行く。水の流れの音が段々強くなって行く。

「わー凄く綺麗、別世界だわ、ここ」

「涼し過ぎるくらい涼しいし、清々しい気分ね」

「緑滴るってこんな状態をいうのね」

「水は清く、緑も滴る、描くのが水も滴る好い女、なんてね」

「さあ、早く、描くとこを見つけて取り掛かりましょう」

「目移りしそうだけど、一番ぐっと来るとこ探さなくちゃ」

「三宅さんはここにある小さいけど趣のある滝を描きたいって言ってたんだわね」

「ええ、ホントに小さい滝、外国人が見たら滝とは言わないような滝を描きたくなったの。ここにはそんな滝が幾つか点在するのよ、この先の方に確かあるとか書いてあったわ」

「じゃあわたし、そこまでお供するわね、もしかしたらわたしもその小さな滝を描くかも知れないな」

「わたしはも少しぶらぶら歩いて描くとこ決める」

「わたしもここの雰囲気を味わってから何をテーマにするか考えるわ」

兎も角それぞれ目の前の景色に魅了されつつも、より自分にぴったりな景色を求めて歩き出す。

段々人数が減って行く。残ったのは三宅さんと国谷さんと多恵さんだけになった。

「あら、あなたも滝がお目当てなの?」

国谷さんが尋ねる。

「滝も描きたいけど、ほらこの先の岩がごろごろしてるとこがあるでしょう?あそこいらを描きたいとおもっているの」

「ああ、確かに岩場も魅力的だわねえ」

〈あ、見えましたよ、滝が。梅雨時だから、小さいながら迫力ありますね」

「ああ、あったわねえ。ここからよりも、も少し左に行ってそこからグッと寄った所がわたしが決めたスケッチアングルね。うん、ちょうど好い、ここに決めたわ」

「じゃあわたしもそのスケッチアングルの少し外れたとこで描かせてもらいましょうか」

国谷さんは三宅さんより滝の正面寄りに陣取った。

多恵さんは二人に別れを告げ岩が折り重なっている所へと向かう。

「?」誰かいる。人だ。40歳前後の綺麗な女性だ。彼女は生きている正真正銘の人間だ。

「こんにちは」互いに挨拶を交わす。

「あなたも絵を描きにいらしたの?」と女性は聞いた。

「ええ、ここの岩場をスケッチしに来たんですが、あなたもここで絵を描こうと思っていらしたの?」

彼女は少し笑った。

「いえ、わたしは描きません。でも私の伴侶が絵描きだったんです。緑の草花がとても好きで,と言うよりとても愛していたと言っても過言ではありません。ホントに一つ一つ、どれもひとまとめには出来ないんです、神経が擦り切れてしまうんじゃないかと心配になるくらい」

「それは・・でもそういうのを好む画家の人って結構多いと思います。本人は他の人が思うほど、苦にはしてないと思います」

「あなたは画家をしてらしゃるの?」

「ええ、一応ですが。今日はその仲間7人で一緒にやってきました。でも皆、好みの場所が違っていて、わたしは岩場の所を描きたいと思って、ここまで来たんです」

「わたしの連れ合いも死ぬ前には、何故か岩の魅力に嵌って、もう、取りつかれたように描いていました。あの日は激しい雨と風が吹いていて、でも彼はここの感触が良く判らない、これから行って確かめて来ると、もう夕刻も迫る時間、わたしが止めるのも聞かず飛び出して行きました。家はこの近くなんですが、あの人はそれっきり夜になっても帰って来ませんでした。友人の何人かに電話して、助けを求めました。彼らも心当たりがあると、雨の中、探しに出かけましたが、見つかりません。あの人はきっと岩場で足を滑らせたのでしょう、明るくなっても少し下流の方で遺体として発見されました」

「まあ何て事でしょう、ホントにお悔やみ申し仕上げます」

「それ以来こうやって、来ても仕方がないとは思うんですが、彼が良く描いていた所に、時折やって来るんです」

「その方をとても愛していらしたんですね」

多恵さんはスケッチの用意をして、取り掛かる事にした。心の中でどうしたらこの女性を救えるのか考えて見る。いや、彼女はもしかしたらもうすでに救われているのかも知れない。残された絵の中に彼は生きているのだから、わたしなんぞが彼女を救うなんて大それたことだ。

「きっと、素晴らしい絵を残されたんでしょうね」

「ええ、みな光り輝いています。売って欲しいと言う方が沢山いらしゃるけど、どの絵にも彼の思いが込められていて中々手放すことが出来ません。でもいずれは手放さなければならないのでしょうね、その方が絵にとって環境的に見て良いと、わたしも思います、でももう少しだけ、わたしだけの絵であって欲しいのです。未練がましいですね、でも絵が私の手元からみんな無くなってしまったら、わたしは何を心の支えに生きれば良いんでしょう」

「あなたは全然絵は描かれないの?」

「はあ、わたしも元は美大生だったのですが、彼に出会い、彼の絵のすばらしさに圧倒され、自分の絵に全く自信を無くして、描くのを止めてしまったんです」

「だと思いました。だったらもう一度絵を描かれてみたら如何ですか、亡くなった方もそれを望んでいられると私は思います」

ここの岩々はたっぷりの清流に洗われ、ある物は青みを帯びて光り、ある物は緑を帯び黒ずむのもあれば、明るく黄緑色を呈している物ありで、いや実にさまざまに変化して正しく宝石を眺めるようなものである。

でもこれも明るい日を受けての輝きだ。彼は色を確かめに来た訳ではない、一体何を確かめに来たんだろうか。分からない。多分彼しか分からないと思う。草木一本一本を愛を込めて描いていた彼のことだから、岩に対しても何か深い愛を感じていたのだろう、それは凡人が目で感じ取るものではなく、雨であろうが風であろうが、いやそういう時にしか感じ取れない、それを彼は確かめに行ったのだ。

「わたし、昨夜夢を見たんです」暫し時間を置いて彼女が口を開いた。

「笑わないで下さい。わたし、夢の中で彼と話が出来るのです。でもどうしてあんな雨風の酷い時に川になんぞに行ったのかは、どうしても話してくれません。凄く寂しそうに微笑むだけです」

「彼はあなたが画家として独り立ちして、画家と云うものがどんなものか分かった時、画家が如何自分の絵に対して向き合って行くか分かった時、その時を待って話そうと思っておられるんじゃないですか?いえ、その時が来れば、彼が話さなくても分かるとお思いなんでしょう」

「昨夜、彼が珍しく自分から話しかけて来たんです、元々無口な人でしたから、生きてる時も自分からあまり話をする方ではなかったんです、そのあの人が私に語り掛けたんです」

多恵さん、清流の周りの景色とごろごろ重なり合う岩たちをスケッチして行く。

「ああ、、こうしてあなたがスケッチしているのを見ていたら、わたしも昔のように絵筆を取りたくなりました、きっとこういう気持ちにさせたくて、あの人はわたしに『川に行け、岩場のあの場所行け、そこで君は君の人生に出会うから。君が知りたい謎が解ける道に辿り着けるに違いない』と言ったんですよ。おかしいでしょう、こんな話」

多恵さん、スケッチする手を止めて彼女の顔を見つめた。

「ううん、可笑しくなんかないわ。わたし、色んな人に出会うのよ、あなたのように死んだ人が夢に現れる人もいるし、中にはツバメが夢の中に現れる人がいるの」

「ツバメ?」

「ええ、ツバメなの。ツバメがね、毎年挨拶に来るんだって今年もよろしくお願いしますって。それでその翌日から巣作りが始まるの。それで南に帰って行く時は、お世話になりました、来年も宜しくお願いしますときちんとお礼を言って帰って行くんですって」

「まあ、それ本当ですか?」

彼女が笑った。

「本当よ、だって、彼女、冗談の言えない人だし、それ以外にも色々夢以外にもある人だから」

「え、夢以外にどんな事が?」

「そうねえ、人間知らなくて良い事もあるのよ」

その友人も又霊が見えるとは言えなかった。

「それよりあなたのお名前聞かせてよ、わたしは河原崎多恵って言うのだけど」

「え、あなたが河原崎多恵さん‥あの神秘的な風景画を描かれる方でしょう?一度お会いしたかったの、これも彼の引き合わせなんだ。あ、御免なさい、わたしは平井加奈、因みに亡くなった彼の名は平井誠二と言います」

「ええ、ああはい、話をお伺いした話から大体の見当はついていましたけどね、そう、そうだったのあなたが彼の奥さん、いえ、ご伴侶と言うべきね、御免なさい」

「いえ、いえ、みんな奥さん奥さんと言ってますから。どんなに私が連れ合いだ、伴侶だと言っても、反応は奥さんの一言で返って来ます」

「そうよねえ、奥さんならまだ良い方で嫁さん、かみさん、母ちゃんなんてのもあるわ。ああそうそう、その先にある滝の見える所で三宅さん、三宅画伯がスケッチしているの、後から紹介するわ」

「あの滝の絵で有名な三宅文江さんですか?」

「そう、時々彼女のスケッチ旅に付き合ってるの」

多恵さんふと気配を感じる。どうも平井誠二さんのお出ましのようだ。

多恵さん軽くお辞儀する。彼も軽く礼をする。彼が傍にやって来る。

「どうも済みません、あなたがここにやって来ると言う情報をある者から聞き出しましてね、それで彼奴の夢に現れて、ここに来るように言ったんです。お願いがあります、あなたのスケッチ道具を少し、彼奴に貸してもらえないでしょうか?わたしが生きてる時、何度もお前も描くべきだと勧めたのですが、聞いてはくれませんでした。彼奴はあなたの画と三宅画伯の画にあこがれています。どうか、同じ美術の団体で勉強させて下さい」

多恵さん頷く。

「ねえ、平井さん、こっちのスケッチ帳にあなたもスケッチしてみたら?水彩もあるし、カラーペンシルもあるから好きなの使って」

「え、良いんですか、これに描かせてもらっても」

「どうぞ、あなたの画を是非拝見したいわ」

始めは少し遠慮していたが、根は描きたい、描いてみたいで一杯だったらしく、暫くすると彼女、無我夢中で描き始めた。

多恵さんもそれに触発された訳ではないが、彼女に負けず劣らず描いて行く。それを嬉しそうに見守る誠二氏。流れる川の音が一段と高らかに響き渡って来る。

一枚目が出来上がる。

「わあ、綺麗な色合いねえ。先が楽しみだわ。二枚目に取り掛かりましょうと言う所だけど、生きてる人間はお腹が空くものね、ほらここの中にはパンがどっさり、飲み物もあるの。少し休憩を取りましょう」

「あ、ありがとうございます。ごちそうにまでなって良いのかしら?」

「この程度のごちそうで破産はしないわ、遠慮しないで召し上がれ」誠二氏もじっと見ている。

「あのう、こいつ少しおかしいと思うかも知れないけどちょっと言わせて」

「いいえ思いませんからどうぞおっしゃって下さい」

「じゃあ、誠二さんもパン好きでした?」

「ええ、特にカレーパンが好きでした。あそれ、それそのカレーパンが大好きでした」

「やっぱりそうか・・」

「えどうしたんですか?」

「わたしの友人に、霊と話できる人が居て、先ほどの人ではないのよ、その人が言うには、霊は好きなものを実際には食べられないけど、その感触や味、匂いは楽しむことはできるそうよ」

「まあそうなんですか?」

「だから今、ここに誠二さんが同席していたら、このカレーパンを食べると言うか味わう事が出来ると言う訳よ。今3人で仲良く自分の好きなパンを食べてるって、素敵な事じゃないの」

「あなたって、おかしなことを言うんじゃなくて喜ばしい事をおっしゃるのね。もしそうだったら本当に本当に嬉しい事だわ」

「ええそうですとも、目をつぶって感じてごらんなさい。きっとあったかな温もりを感じる事が出来るわ」

多恵さんが誠二氏を促す。催事氏は加奈さんを優しく抱きしめる。

「ああ、本当だわ、あの人の微かな匂いと温もりを感じるわ」

《ね、彼の肉体は亡くなってしまったけれど、魂は今もあなたの傍に存在し続けるの。だから、彼の為にも絵を描かなくてはいけないのよ、彼はそう望んでいるから、夢の中に現れて、今日ここに来るように言ったに違いないわ」

「そう、そうなんですね、わたし描きます、彼のような絵は描けないけど、わたしなりの絵を描きます。どうか是非、あなたの所属する美術団体に入会させて下さい」

「フフ、そう来なくっちゃあね。でもそれは後から、今はパンやお菓子でお腹を満たし、次のスケッチに取り掛かりましょう。あ、このカレーパン、お家に持って行って彼の遺影に備えてあげて。今少し食べたけど彼は後でもっと食べたくなるわ、だから」

「ハハハ、ほんと、河原崎さんって本の少しだけおかしなこと、いえ面白い事を言われるのね。でもありがとう、これ頂きます、彼も喜ぶと思います」

加奈さんの横で誠二氏もニコニコ笑って頭を下げた。

「さあ、腹ごしらえが済んだら、さっそく次の絵に取り掛かりましょう。何しろわたしの隣の人には平井誠二と言う画家が付いてるのだもの、頑張って描かなきゃ直ぐ追い抜かれちゃうわ」

「さっきより、おなかも満ちて力も出てきましたが、あの人が傍にいてくれると思うと嬉しくて、こう何というか、描きたい、描かねばと言う意欲が湧いてきました。わたしも本腰を入れてスケッチいたします!」

「わあ怖い。お手柔らかにお願いします」

二人は朗らかに笑いスケッチを始めた。

大分描き進んだ所に国谷さんがやって来た。

「あら、お仲間が出来たの?」

「ええ、素晴らしい仲間が出来たの。彼女は、1年前ほどに亡くなった平井誠二さんの連れ合いだった人で、平井加奈さんと言うの」

「えっ、あの有名な平井誠二さんの連れ合いだった人なの、どうしてここに?」

「始めまして、平井加奈です。実は夕べ、夢の中に誠二が現れまして、ここの場所に行くように言われましたの。普通こんな話をすると大抵気持ちが悪いとか、少しこの人おかしいと思いますよね?でもこの河原崎さんは少しもおかしいとは言わず、かえって元気づけられ、わたしも昔のわたしのようにスケッチをする事を思い出させて下さいました」

「ほら見てごらんなさい、素晴らしいスケッチよ。わたし負けそう」

「河原崎さんが負けそうだなんて・・どれどれ、わっ本当に凄い。わたしは完全に負けてるわ」

「そんな二人とも、全然です。まあ2枚目は少し昔の勘が戻って来たんで、少しはスケッチらしくなりましたが・・」

「で、彼女、わたし達の仲間に入れて欲しいんですって」

「ほんと!三宅さん喜ぶわ。後で書類送るわね。でもここも好い所ねえ、わたしも少し描きたいわ」

三人でせっせとスケッチする。

「でもここが彼が亡くなったとこなの?」国谷さんが尋ねる。

「遺体が見つかったのはもっと下流の方ですが、描いていたのがこの石達のようなんです。単に川へ確かめに行くと言って出かけたものですから、確かなことは判りませんが」

「そう、辛い事思い出させて御免なさい」

「いいえ、もう大丈夫です、河原崎さんに教えてもらったんです、彼は今もわたしの傍にいるんだと。そしてわたしも彼の温もりや匂いを感じることが出来て、それを確信したんです」

「ええっ、凄-い河原崎さん、天気を晴にするだけでなくそんなことまで出来るのね」

「わたしが晴れ女なのは偶然の一致なの、何回も言ってるじゃないの」

「それはそう言う事にして、その温かさとか匂い迄感じさせる事が出来る方がもっと凄いじゃない?」

多恵さん少々、いや大そう困る、困り果てる。本当のことを話せば気は楽だろうがそれは今するべきでない事を多恵さんは知っている。

「それはこの加奈さんが夢で誠二さんに会って話が出来ると言ってたから、とても感受性が強い人だと考えて、もし、彼がここに居るとすれば、わたしの要請に応じてくれると確信したからよ」

多恵さんは何とかこの状況を打破しなくてはならない。

「ふーんそうなの。でもそんな力何処で手に入れたのよ?」国谷さん食い下がる。

「ああそれはね、わたし、合気道遣ってるでしょう?そこの先生も霊に対して詳しいけど、そこにやって来る人達も霊に対して詳しかったり、幽霊が見える人もいるの」

「キャーもう止めて。大体解かったわ、うん今度そう言った事で困ったら河原崎さんに相談しよう」

やれやれ、国谷さんはめっぽう幽霊に弱いらしい、助かったわ、多恵さんは今回、参加ゼロの幽霊さん達に心の中で感謝した。

「どう、そろそろ描き終わった?」と三宅さんも現れた。

「あら、同業者さん?」三宅さんが平井さんに目を止めた。

「あ、彼女、平井加奈さんと言って、亡くなった平井誠二さんの配偶者さん」

「平井加奈と言います。縁あって河原崎さんと知り合い、スケッチをさせてもらい是非同じ会に入って絵を学びたいと思いましたのでよろしくお願いします」

「まあ、あなたがあの誠二さんの連れ合いさんなのね、誠二さんが亡くなった後どうしていられるのか、気にはかかってはいたんだけど。そうわたし達の会にねえ、大歓迎よ、きっと誠二さんも喜んでいる筈だわ、ああ、わたし、会の副会長してる三宅文江と言います。宜しくね」

「はい、滝の画で有名な三宅先生ですね、存じ上げています。ご指導いただければこんな嬉しい事はございません」

「これがあなたの描いたスケッチなのね」

三宅さんが彼女のスケッチ帳を手に取る。

「良い感性してるわ、彼があなたの才能を見過ごす訳が無いのに、どうしてあなたを表に出さなかったのかしら」

「彼は何度も私に描くことを勧めてくれたんですが、わたし、彼の画を見てるととても描こうと言う勇気がおこらないんです」

「ま、分からないでもないけど、画はね、画はどんな絵であっても、それはその人の一種の自画像なのよ。だから彼の画に何にも臆することはないわ、自分は自分なりの絵を描けばいいのよ。細かい事を描くのが好きな人もいれば、大雑把に描くのが好きと言うか、そんな風にしか描けない人もいる。人それぞれなの、これからは誰に憚る事なく、堂々とお描きなさい。連れ合いさんもそう願っているわ」

「あ、ありがとうございます、わたし、これからは彼の画に縛られる事なく自分の絵を堂々と書いて行きます」

「その調子よ、今度の会の作品楽しみにしてるわね、秋にあるから」

多恵さん、時計を見た。もうすぐ約束の4時が迫っている。

「ではお名残り惜しいけど、わたし達、他にも4人ばかりいるもので、彼女らと待ち合わせているの。しかも車の運転できるのはわたし達3人だけだから行かなきゃいけないのよ。スケッチブックはプレゼントするわ、それにカレーパンもね」

「何から何までありがとうございます」

「大丈夫よ、彼女には夫と言う名のパトロンが居るのだから、遠慮しないで持って行きなさい」

国谷さんの言葉に加奈さんは笑った。笑顔がとてもかわいいなと多恵さんは思った。

加奈さんも一緒に駐車場まで戻って行く。三宅さんが誠二氏が亡くなった後のことを聞いている。

「ええ、画は数点は画廊の勧めで手放しました。大きいのは生前から目にかけ頂いてた美術館で預かってもらってます。自分で管理するのはとても大変ですから、本当はきちんとそう言った事の出来る方に買っていただく方が、画の為には良いのでしょうが、中々思い出や、愛着が強くて手放せないのです。まあここいらの家はとても広く出来てますから、何とか済んでいますが、わたしも絵を描き始めると、も少し、整理した方が良いのかも知れません」

生活の方も尋ねているようだ「はい、前から地元のスーパーで働いていますので大丈夫です。彼が生きてる時から同じ職場で働いていますので」

駐車場には仲間達が戻っていた。

「一応紹介しときましょうか、どうせ何れ入会するんだから」と三宅さんがみんなに紹介する。

「これからあなたはどうするの?」

「はい、実はこの奥の駐車場に車を止めていますので、そこから家へ帰ります」

「あらあ、じゃあわたし達に合わせてここまで来たの。お疲れさんだったわね、一言言ってくれれば良かったのに」

「いえいえ、名残が惜しくてご一緒してしまいました。では皆さん、お気をつけて、これで失礼いたします」

「あなたも気を付けて帰ってね、さようなら、又逢う日を楽しみにしてるわ。あそうそう、入会の書類は遅らせるからね、宜しく」

彼女が手を振って奥の方の駐車場の方へ消えて行った。

「さあて、我々も予約してある日帰り温泉場に向かいましょうか。みんな揃っているわよね」

「はーい揃っていまーす」

車に戻って、その予約してあるとか言う温泉場へ向かう。

フムフム、中々外見は新しく清潔そうだ。先客も何人かいるようだ。

「新しく立て直したようだけど、その後、コロナでしょう。苦労したと言うか、未だ苦労の途中。でも結構歴史的には古いのよ。本来は予約をした人しか受け付けないのだけど、さっきも言った通り経済上、飛び入りでも今は受け付けているらしいわ」

女7人がやがやと入って行く。硫黄の匂いがそこが温泉であることを物語る。

「あーこの匂い、温泉に来たんだわと感じるなあ」と奥山さんと池内さんの声あり。

「ゆっくりここは時間を取ってるから、長湯をしても大丈夫よ。かと言ってあんまり長湯をしてのぼせないでね」国谷さんが仕切る。

「この後夕食にします」と付け足した。

「わーそれも楽しみ。でもお蕎麦とかうどん、ラーメンと言う所でしょうね、ここで食べれるとしたら」

「わたし、お寿司食べたい、ウナギでも好いけど」

「えー、わたしも食べたいけど、こんな所では無理じゃない?予算的にも」

「どこか探せば100円寿司があるかも知れないわ」

「お寿司かー、うーんあるかなあ」

「御免、良いの良いの、お蕎麦結構、ラーメン結構。何でもいただきまーす」

その時声あり。我がグループでない所から声が上がった。

「えー、寿司ですか、そんな豪勢なお寿司ではないですが、ま普通のお寿司屋さんならここいらにもありますよ」

「わたし達、貧乏な絵描きなんで、そんなにお金ないですが、それでも食べれるくらいのお店ですか?」

「ハハハ、まあ、ラーメンよりは値が張りますけど、目が飛び出るほどの値段ではありませんよ」

「そう、そうですか、一応みんなの懐具合を尋ねましょうか」

国谷さんがみんなの意見を求める。

「2,3千円くらいならなんとかなるわ」

「出せて3千円までよねえ、わたし達は絵に描いたような貧乏絵描きの集団なんですもの」

「回転ずしならそれだけ出せば、2千円だって好いもの腹いっぱい食べれるものねえ」

「ハハハ、2千円では無理かも知れませんが。3千円以下で結構美味しいものが食べれますよ」

国屋さんが皆を眺める。皆大丈夫なようだ。

「ええっと、何とか皆セーフのようです。そこのお店を教えて下さい」

話はまとまった。

「わたしがそこのお店によーく言って置きますから、きっとサービスしてくれますよ。でも出来たら5時半までにお店に行って下さいね、ここいら、店じまいが早いもんですから」

「はい、楽しみが待っているんですから、ここはのんびり湯ボケしてる場合ではありません、5時前後には到着させますよ」国谷さんが約束する。

よって、皆、温泉の中でボケる事もなく、けど、折角の温泉、それはそれでその古来から続くと言う温泉の湯をたっぷり楽しみ尽くした。

「さあ行くわよ、貧乏軍団、寿司屋目指して、エイエイオー!」

「エイエイオー」

軍団、再び車に乗り込む。教えられた寿司屋は少し入り組んではいたが、かなり近場に在った。

「あのう、この先の温泉場で知り合った方に教えてもらった者ですが・・・」

「はい、いらしゃいませ。話は伺っていますよ、画家の団体さんとか」

「団体と言うほどではないんですが、7人ばかり」

「いやあ、今コロナでしょう?7人は立派な団体さんですよ、団体割引させてもらいますよ、ハハハ」

店のご主人愛想よく多恵さん達を迎えてくれた。

「まあお聞きななっておられるでしょうが、わたし達、殆ど無名の画家でして、つまり、極貧の身。それなのに、お寿司を食べようなんて大それた事を誰かが言い出しまして、はい知り合った方に教えられ、やって来た訳です」

店のご主人も女将さんらしい女性も二人とも大笑い。

「ええ、大丈夫ですよ,お一人2千円で出来る限り、おもてなししますよ。きっと何れは名画を残される人達だ、その人達を満足させられないで帰しちゃあ、そりゃあ寿司屋の看板が泣くってもんだ。さあ、どうぞ、存分に味わって行って下さい、なあお前?」

「ええお前さん、腕の見せ所ですよ。さあさあお掛けになって下さいな」

皆、それぞれ腰掛けるが、二人はみ出した。

「じゃあ、わたしと河原崎さんはテーブル席にしましょうか」と三宅さんが言う。

多恵さんも同意した。

「では我等の中では1,2のブルジュワにはテーブル席についてもらいましょう」と国谷さん。

大変なごちそうだった、とても回転ずしでは味わうことの出来ない物ばかりだ。

「出血大サービスだわ」

「そうね、これは普通の大サービスじゃないわね」

三宅さんと多恵さんは顔を見合わせる。

「あなたのスケッチとわたしのスケッチ、一枚ずつ置いて行かない?」

「そうしましょうか?」

多恵さんは国谷さんのもとに行き、車のカギを受け取り、三宅さんと共に車へ戻り、スケッチを1枚取り出した。今日はあまりスケッチ出来なかったのが残念だが、明日その分を取り戻そうと、多恵さんは思った。

「あなたは今日2枚しか描かなかったのね、それを上げても後悔しない?」

三宅さんが心配して尋ねた。

「ええ、少し、でももう一枚、ありますし、写真も何枚か取りましたから、多分大丈夫です」

「そう、でも無理しなくても良いのよ。このスケッチ、とても素晴らしい出来だわ、わたしの方だけにしときましょうか?」

「いえ、そういう訳には行きません。三宅さんとわたくしの絵を両方差し上げて下さい」

「じゃあサインを入れましょうか、それに日付と」

二人は店内に戻る。

「あのう、今日は思いがけないごちそうになってありがとうございました。このスケッチは今日、ここの渓谷を書いた物の1枚です。私とこっちの、今人気上昇中の河原崎多恵さんの画ですが、この2枚どうかお納め下さい」

店の夫妻も驚いたが、食べるのに夢中になっている残りの5人も驚いた。

「え、こ、これをわ、私どもに下さるとおっしゃるんですか?それも2枚も」

「はい、お納めください。私のだけより彼女の絵の方がホントに今、美術界では引っ張りだこでして、彼女も是非と言っておりますから」

「一枚は‥これは勇壮な滝、あああそこですね、でもこうやって見ると感じが、見る角度によって随分勇壮に見える、画家さんは我々とは目の付け所が違うんですね。それにこっちの画は、ああ、あの亡くなった平井さんがとても気に入って良く描いていらしたとこだ。でもこの絵には何か、分からないけど何か、こう心に語り掛けて来るような、岩の堅さの中に優しさと、滑らかさ、それに何だか胸が熱くなって泣けるようなものを感じる」

「わたしにも見せて頂戴。え、本当に私どもに下さるんですか?2,2枚とも?どちらも素晴らしいわ。この滝も今にも滝の音がしてきそうだし・・そ、それに・・こっちの画は‥あの平井さんが良く描いていらした所だけど、彼の画も素晴らしかったけど、この画には優しさが満ちているわ。それに、本当にこの画を見てると涙が出て来てしまう」

皆ものぞき込む。

「河原崎さん、又あなた、腕を上げたわねえ、ホントにこの絵、凄いわよ」

「出来たら、わたしが貰いたいくらいよ」

「河原崎さんの画には元々、何か不思議な雰囲気を醸し出しているけど、これは特別ね」

「そうね、彼女の画には神秘的な物を感じていたけど、この画は最高にそれを感じるわ」

「早く、河原崎さんみたいになりたいと思っていたけど、これは技術だけでは補えないものがあるわ」

今までぱくつく事に夢中だった連中が、画家の本分を取り戻し、2枚のスケッチの批評に夢中になってしまった。

「こんな凄いものを本当に貰っていいのか分かりませんが、兎に角手元に納めさせていただき、額装してお店に飾らしていただきます」

女将が頭を下げる。

店主、先程からカウンターの向こうでこそこそしている。

「おい、出来たよ」と女将に声をかけた。

「あのう、ここに巻き寿司と稲荷を作りましたので、明日の朝にでも皆さんで召し上がって下さい」

7個のパックに詰められた稲荷と巻き寿司がみんなの前に並べられた。

皆、遠慮する夫妻に約束の代金を払い、もてなしのお礼を述べ、暗くなった駐車場に戻った。

「暗くなったから、ここは私と三宅さんが後退するわ。そっちの車は河原崎さん宜しくね」

「ええ、暗い道はあまり自信ないからゆっくりお願いね」

「勿論よ、わたしも全然自信ないの、ハハハ」

車は超スローモードでキャンプ地に向かう。

何とか2台とも無事にキャンプ地に辿り着いた。

手続きを済ませ、大きい方のバンガローに荷物を持って大移動。何しろ寝袋も今回は一緒なのだから。

「わー何だか疲れたー」

「温泉にも入り、お望みのお寿司、いえいえお望み以上の寿司を平らげたにもかかわらず、なーんか疲れたわね」

「あんまり無理して食べ過ぎたせいじゃない?」

「そうね、今食べなくては、もう食べる時はないと必死で食べたもんね」

「でも、さすが三宅さんと河原崎さんはこんなもの何時でも食べれると、そんなに食べていなかったわ」

「そんな事ないわ、お腹いっぱい食べましたよ、わたし」慌てて多恵さん否定する。

「わたしも美味しくて結構頂きました」三宅さんも同調する。

「でもお二方には折角描いた画をわたし達の為に供出させてしまって、申し訳なく思ってるわ」

「もしかしたら私たちの画だって良かったんじゃないの?」

「うーん、良いような、今一悪いような」

「あのお寿司屋さん、見る目あったわよ、平井さんとも知り合いのようだったし」

「そうね、あの人たち、今考えると、タダモノではなかったような」

「うん私もそう思う」

「良かったーわたしのスケッチ、渡さなくって」

「正解、正解。三宅さんと河原崎さんの画を渡して」

「じゃあ寝袋に入りつつ、今日のスケッチの批評会、始めましょうか」

寝袋に足だけ突っ込んで、画の品評会が始まる。勿論、お菓子も同席するするようだ。

「寝る前に夜空の観察も忘れないようにしないとね」

「そうそう、天文台が設置されるほど、星が良く見えるのよね、ここ」

明日は速いので、みんなで九時ごろ外に出る。ご同輩があちこちにいるらしく「今晩は」と声を掛け合う。

「ああホントに綺麗に良く見えるわ、秋川渓谷の時も綺麗だったけどここも負けていないわ」

三宅さん、前多恵さんが言った事を思い出したのか、眼鏡をはずして星空を見直し、満足したのか又眼鏡をかけなおした。

「さあ、星空観察は終わり。明日も早いのよ、帰ってさっさと寝ましょう。以後私語禁止ー」

国谷さんの号令の下、列をなしてバンガローに引き返す。

 翌早朝、霧が出ていた。

「霧が出てるってことは今日も良く晴れるってことだわ」

歯磨きしながら国谷さんが言う。

「ほんと、河原崎さん連れて来て良かった良かった。寿司屋さんにスケッチ迄渡して、わたし達の面子を保ってくれもしたし」

「そうそう、平井夫人もメンバーに加えられたし」

「今回は出しガラになるくらい利用させてもらったわ」

「あーわたしも本当は利用するんじゃなくて、利用されたいのよ、もっとわたしの画がみんなに認められるようになって、ね」

「それは言える、そのために今日も頑張りましょう」

「うん、それしかない。ではここで大きな声でご唱和くださいな。はーい、頑張るぞー、頑張るぞー」

「頑張るぞー、頑張るぞー」二,三人が後に続いた。

「さあ、朝は昨日差し入れてもらったお寿司と、お湯が沸いているから、それぞれ、スープなり、コーヒーなり好きに使って、腹ごしらえをして頂だい」

皆、それぞれ、飲み物を作る。多恵さんは持って来たインスタント味噌汁と紅茶を作った。

「あー、温かいものってなんかほっとするわ」多恵さんがつぶやく。

「ほんと、お寿司は美味しくてありがたいけど、やっぱり朝はあったかいものが欲しくなるわ」

「河原崎さん、ちゃんと味噌汁持って来たの?」

「ハハ、インスタントよ」

「そうか、その手があったのね、うん日本人は朝はやはりミソスープで決まりよ」

「わたしはクリームスープ、インスタントのね。何時もはパンだからこれがあってるんだけど、今日はお寿司だから、ちょっと合わないわねえ」

「みんな用意が良いのねえ、わたしなんか紅茶オンリーよ」

「じゃあ、みそ汁余分に持って来たから、これ差し上げましょうか?」

多恵さんが奥山さんに味噌汁の元を渡す。

「あ、良いなあ、わたしが先に言えばよかった」

「わたしも右に同じ」

「うーん、あと2人分はあるわ。これを分けて頂戴」

「クリームスープも1つあるわよ、それで良ければどうぞ」三宅さんも供出する。

みんなお寿司と飲み物を食し終えた。

「ああ、霧が晴れかかって来たわ、急いでスケッチ、出かけましょう」

全員、スケッチブックとカラーペンシルを引っ掴むが早いか、外へ飛び出した。川までどたどた走る。

やっと起きだした他のキャンパー達は何事かと目をぱちくりさせている。

霧はどんどん晴れて行き、あっという間のスケッチタイムだったが、そこはプロフェショナルの画家だ、霧にも負けない速さでそれを仕留めた。

「さあて、簡単な身支度をしたら、大荷物は自動車に入れましょう。午前中はも少し上流の方をスケッチしましょうね、1時ごろになったらここに戻って、今度こそお蕎麦かラーメンの店に入って食べましょう。え、うどん?そうね、それもあるわね、そば嫌いの人もいるから。ま、兎に角、今度は絶対麺類のお店に入るぞう」

国谷さんやけくそ気味に叫ぶ。みんな笑いと拍手を贈る。

「河原崎さんは今日も岩場を描くつもりですか?」と武田さんが尋ねた。

「今日はこの木々と清流をメインに描きたいわ、折角目の前に青く透き通る川があるのに、それを描かないでは帰れないじゃない?」

「そうですよねえ、清流に洗われる岩も良いけれど、小石や水草、それをついばむ小魚を描くのも、難しいけど描き甲斐があるわ」

「わたしもそう思うわ、今日は頑張りましょう」

「少しの間、一緒に行動して好いかしら?」

「ええ、勿論よ、一緒に行きましょう」

多恵さんと武田さんは同じコースを歩く事にした。

国谷さんは又三宅さんと同行して滝を描くつもりらしい。ふと多恵さんも滝を描きたくもなった。でもそれはこの道を歩く途中に出会ったらと言う事にしよう、今はこの川とそれを取り巻く木々を描きたい。

「わたしね、ほら、こんな小さい魚が好きなんです。ここはとても良く見えるわ、流れの速いとこでは見えないけど、この上流の流れの穏やかな所では沢山見る事が出来て幸せです」

「ほんと、沢山いるわねえ。じゃあここいらで1枚目のデッサンを描きましょうか?ここは木々の茂り加減も良いし、小魚ばかりでなく、藻や水草も丁度好い具合だわ」

「ええ、わたしも描きます、1枚と言わず2枚でも3枚でも。嬉しいな、河原崎さんとこうして並んで絵が描けるなんて」

「わたし、そんなに喜んでもらえるような大物でなくってよ。近所の人達は単なる絵が趣味のおばさんとしてしか理解してくれないのよ。まあお隣の藤井さんが唯一、わたしが画家であって、あちこちスケッチしに出歩くのを理解して協力してくれてるの。ありがたいと思うわ」

「歯がゆいですね、河原さんがどれほど凄い画を描いているのか知らないなんて。わたしみたいのが絵を描くのが趣味の、年頃をとっくに過ぎた変わり者の女と思われるのは仕方がないですけど」

「あら、あなたこそ、胸張って今は売れない画家だけど、何時かは引っ張りだこの画家になる武田だと言ってやりなさいよ」

「ハハハ、こいつ頭おかしくなったんじゃないかと思われるのが落ちですね」

「所詮画家なんてものは、あまり普通の人が欲しがらない物を製作して、少しお金に余裕があったり、裕福な友達や親戚の袖にすがって、何とか生きてる者が山ほどいる集まりなんだから、仕方ないのかなあ」

「わたしも誰か、パトロン兼夫みたいな人か、わたしの画が好きでたまらない、是非応援させて下さいと言うような人現れないかな」

悲しき画家と言う宿命を背負った女、だけれどもそれ故に高い誇りを持った女二人は川とその周りの木立をスケッチして行く。

「ああ、あなたは、柏木さんと同じ感性の持ち主なんだ」

「え、柏木さんて・・あの花の画を描いている?」

「そう、あの柏木さん。魚と花では似てないと思うでしょう?でも構図の取り方が似てるのよ。自分の好きな物、それをクローズアップして、それ以外はそれ程気にしない、出来たらぼかしてしまえ、ないと言う事にしてしまえと言う感じ。乱暴な言い方をすればね」

「ハハ、ばれました。わたし、自分の興味のあるものにはとことんのめり込んで描いて行く方でして、それを背景の一部として捉えるのって中々旨く出来ないんです」

「うーん、あなたの場合、心惹かれるものが小さい魚だし、相手は水の中を泳いでいるものだから、周りの景色も描き込むことは、とても難しいと思うわ」

「でも、周りの景色も気になるんです」

「そうねえ、ちょっとシュールかも知れないけど、周りの景色と川の中を合体させたらどうかしら」

「ええっ合体させるって?」

「まず川の中を、あなたの思いを込めて描くでしょう。その上に周りの景色を薄く、でもこれも心を込めて描くの」

「はー、つまり二重に描くってことですね」

「そう、でも小さいものを景色の中に埋没させるより良いんじゃなくて。それか、思い切って景色を描くのを諦めて、川岸の草木に留めておくか。このどちらかよねえ」

「はい、一つ今日試してみようかな?」

「フフフ、スケッチは別々に描かなくちゃ駄目よ。風景は風景、川の中は川の中、今は別々に描いて、油絵に画をを起こす時に合体させるのよ。でも最初描いた物の上に描くのは勇気がいるわよねえ」

「ええ、そう思います。まして自分の大好きな世界の上に描くんですから」

「そこを上手く切り抜けるのがプロと云う者よ。始めは全部書き込むんじゃなくて、本の一部を所々描き込んで、薄く薄く色を乗せて行く。どう?こんな感じで」

「うん、そういう風にやるのかー。わたし、やってみます。でも心配になったらまた教えて下さい、電話しますから」

「じゃあここは最低2枚書かなくちゃあね、川の中とここから見える風景。うん、わたしもそのイメージ、少し頂こうかな」

「え、河原崎さんも同じ物を描くんですか?」

「フフフ、同じ画にはならないわよ、ただそのイメージが好いなあと思ってね、少し入れてみようかと思ったの」

「でも・・河原崎さんが似たようなものを描けば、わたしの画はすっごく見劣りするじゃありませんか?」

「大丈夫よ。それにあなたが負けるもんかと必死で描けば、素晴らしいものが出来上がると思うわ、とても楽しみよ」

武田さんはそれでも少し不安気に、スケッチの鉛筆を走らせて行く。

そこでのスケッチが2,3枚仕上がる。ここで二人とも持って来たお菓子などでお腹を満たす。

「も少し、上流に行ってみましょうか、川幅は大分狭くなっているけれど、素敵な景色に出会えそうな気がするわ」

「ええ、三宅さん達も登って行かれましたよ」

「と言う事は、滝があると言う事ね、多分」

「はい、ここの説明書に滝が2,3ケ所あると描いてありましたよ」

「あなたは滝には興味はないの?」

「勿論、画家ですから滝にも大いに興味あります。でも中々滝の豪快さが描けないんです」

「そうね、わたしはね、雄大な滝を描く時は女を切り捨てるの、気持ちはすっかり男になってスケッチする。そうすれば少しは滝の雄々しさが描けると思うんだ」

「はー、女を捨てるんですか?うーん成程、分かるような気がします。男が描いた女性には、何処となく男の心が残っていますもんね。それ処か男の欲望丸出しの女性像なんかあって、いやらしいたらありゃしない」

「ハハハ、そういう絵にも時々お目にかかるわ。だから反対に、なーんだこの滝、なよなよして少しも滝らしくないと思われるのが嫌で、女を捨てて描くと不思議と雄々しい滝が出現すると確信してるの」

「成程、勉強になります。わたしも滝を描く時は女の気持ちをサッパリ忘れて描きましょう。ああ、これで又縁遠くなりそう」そう言って武田さんは笑った。

二人は上流目指して足場の悪い中を登って行く。風が少し強くなった。木々のざわめく音が鳥たちの鳴きかわす声を打ち消して、少しばかり不安な気持ちにさせる。

「なんだか風が強くなりましたが雷雨にはならないでしょうか?」

「ええ、ここは山と云うほどの山ではないけど、用心した方が良いわ。雨具は持って来た?」

「まあ一応持って来ましたが、置いった人もいるようです」

「うーん、わたしの晴れ女を信用し過ぎるのも困りものよねえ。責任取れないわ」

「でも降られても河原崎さんのせいではありません、山や高度の高い所は天気が変わりやすいのは、画家として当然心得て置くべきです」

「わー、あなた、良い事言うわ、雨具を持って出なかった人達全員に聞かせてあげたいな」

と言ってる間にぽつぽつ降って来た。二人は雨具を身に着ける。

「酷くならなきゃ良いけどね」

「そうですね、少し土手の方に上がって様子を見ましょう」

多恵さんと武田さんは川岸を離れ木々の茂る土手の方へ移動した。暫くするとどうにか雷もならず、雨も止んだようだ。

「ああ、良かった、酷くならなくて。この位の雨だったら、何とかみんな無事やり過ごしたわよね」

「そうですね、多分大丈夫だと思います」

「あら、あそこに滝が見えるじゃない?ほら、この先の木立の先に」

「ああ、ほんとだここは場所が高いので色んなものが良く見えますね」

「早くあそこに行って滝を描いて、引き返しましょう。早くしないと約束の時間に間に合わなくなるわ」

二人は滝の所に急ぐ。だが足場は雨のせいで増々悪い。時々滑りそうになりながらやっと辿り着いた。

「そうね、もしあなたが構わないならば、わたしはここから描かせてもらうわ。武田さんはどの辺りから描きたい?」

「あ、わたしは‥ここからのアングルも好いですが、も少し引いた所の方が描きやすいので、少し、バックします」

「じゃあそうしましょう。滑りやすいから足元には十分気を付けてね」

「はい、ありがとうございます」

二人はそれぞれの場所から、それぞれの思いの滝を描く。多恵さんは1枚目を描き終えると、場所を変えて又描き始めた。昼に近づいたのか日差しが大分強くなってきた。

「あら、河原崎さん達もここを描いているの?」

三宅さん達が上流の方から降りて来た。

「ええ、折角来たのだから滝も描こうと思って」

「それはそうよねえ、滝も清流も、そして岩場も描かなくちゃ、来た甲斐がないわよねえ」

「もうそろそろ引き返さなければいけない時間ですか?」

「ええ、そろそろそういう時間だわね」

「でも、わたし達三人が居なければ、他の連中じゃどうする事も出来ないのよね」

「それは言えますが、やはり定刻を守って上げなくちゃ、かわいそうです、雨に会って濡れた人もいるかも知れませんし。わたしは大体終わりましたから大丈夫ですが‥」

多恵さん後ろの方を振り返る。未だ武田さんはスケッチ中のようだ。

「はい、わたしはもう少しです。もう少し時間をください」

「慌てないで。ゆっくりでいいのよ。わたし達が居なければ、みんなリュックの中から何かを引っ張り出して、それを食べながら待っているわよ」

ようやく武田さんもスケッチし終わったようだ。道具をまとめてバッグにしまう。

「お待たせしました。すみません、さあ行きましょう」

4人はほんの少し、水かさが増したように見える川を下る。でもその分爽やかさが一層感じられる。

「好いスケッチ旅行だったわね、昨日も今日も」

「ええ、収穫ありました、絵以外にも、色々ね」

「わ、わたし、本当に今日は河原崎さんとご一緒させてもらって、大収穫でした。こんなに満足したスケッチ旅行はありません」

「あらわたしも三宅さんと同行させてもらって、滝の描き方や、滝に向かう心構えが良ーく分かったわ。ありがとうございました、わたし、煩くありませんでした」

「寂しくなくって良かったわよ。何時もは一人だから、話し相手は鳥や草花しかいないから、あ、時には虫もいるか」

3人は大きな声で笑った.

キャンプ場に戻ると、他の3人が待っているはずの駐車場に向かう。

いたいた、皆スケッチ用の折り畳み椅子に腰かけ、お菓子をむさぼっている。

「やっぱりだわ、余りお菓子食べると昼食が入らないわよ」

「だって、約束の時間、オーバーしてるんだもん、お腹空いてるし」

「ご、御免なさい、わたしが最後のスケッチで手間取ったものだから」

「良いのよ、例え、早く帰って来ても。多分彼女等、同じようにむさぼり食べているわよ」

「ははは、ばれたか」

「さあみんなの食べたいもの決まった?今日は絶対麺類ですからね」

「テンプラ、とか焼肉なんて許されないのね」

「それは天ぷらソバとか、肉うどんで我慢するのね。お金は個人の責任だから、それは自由よ、出来たら二つとっても良いわよ」

「と言う事は蕎麦屋兼うどん屋に決まりなのかな?」

「結構、ここいらには蕎麦屋の看板を目にしたわ」

「じゃそう言う事にして出発するわよ、車に乗って」

赤い車には三宅さんと国谷さん、それに奥山さんが乗り、国谷さんと三宅さんが運転を担当。青い車には多恵さんがハンドルを握り、後の3人も乗り込んだ。

今日は赤い車が先行だ。何しろ国谷さんが実行委員なんだから。

先行の車が止まる。それに倣って青い車も止まる。

「ここにするわ。うどんもソバも、他にも手巻きずしや稲荷もあるらしいわ。ある物は何でも注文して頂だい、ただし、さっき言った通り、勘定はめいめい責任をもって払う事」

国谷さんのお達しが下った後、女7人「御免ください」と入って行く。

時刻はもう1時半近くだから、店は空いていた。

「わたし、根っからの関東人だからお蕎麦で行くわ。えーと、天ぷらソバかな?決めた、天ぷらそば一つ」

「じゃあ私は、さっきのお菓子が祟ってそんなにお腹空いてないから、山菜そば」

「わたしは絶対うどん派なの。うーん、山菜山掛けうどんお願いします」

「関東のうどんもお蕎麦もお汁が真っ黒けで、今一食べれないけど、ま、その山菜山掛けうどんなら大丈夫かな?それをわたしもお願いします」

と言う風に注文は次々決められていった。

美味しい食事とスケッチの成果で場は盛り上がる。

「雨は大丈夫だった?」

気になって多恵さんが尋ねる。

「うんまあ、ほら両側には気が沢山生い茂っているから、雨具なくても何とかなったわ」

「そうね、これが木も何もないとこだったらどうしようもなかったわ」

「やはりどんな時でも雨具は携帯しなくちゃいけないと肝に命じました、はい」

「所でこれからどうする?」と国谷さんがみんなに尋ねる。

「帰るのには少し早いから、昨日の渓谷に又行くのも好いけど、ここには花菖蒲園があるのよ。みんなどちらかと言うと花より、風景画を得意にしている人が多いけど、花を描くのも勉強になるわ。どう行ってみない?わたしは渓谷の方を描きたいと言う人が居れば二手に分かれても良いし・・」

「わたしは花菖蒲園で良いわ」と多恵さんが先ず賛成の意を述べた。

「わたしも花菖蒲」と武田さんと梅沢さんが次に賛成。

「池内さんと奥山さんは?」

二人はひそひそ相談している。

「あのう、大変ご迷惑だと思うんですが、わたし達是非三宅先生に滝の描き方を御教授願いたいんです。それで昨日見つけた小さな滝をモデルにして、もう一度挑戦しますのでご一緒して頂きたいのですが」

国谷さんは三宅さんの顔を見る。

「どうします、三宅さん、もう一度昨日の渓谷へ行ってもらえます」

「そうねえ、花菖蒲も魅力的だけど、二人の申し出も袖には出来ないわね。良いわ、じゃあわたしは二人を乗せて渓谷の方へ向かう事にする」

「じゃあ、ええっと、菖蒲園の場所は・・」国谷さん地図を取り出す。

「ここが今いる蕎麦屋で、花菖蒲園はここの先にあります。滝の画が描き終わったら3時半ごろまでに花菖蒲園に来て下さい」

「分かったわ、、出来たら3時頃には菖蒲園に行きたいわ。折角来たんですもの、花を見物して帰りたいわよね」

「済みません、ご迷惑かけます」

仕方なく赤い車には三宅さん池内さん、奥山さんが乗り込み三波渓谷へと引き返し、残った4人が青い車で菖蒲園に向かう。

「じゃあ3時ごろまで自由時間と言う事にしましょう。スケッチするのも良し単に散策するもよし」

「見ごろは少し過ぎた感ありだけど、まだまだ良く咲いてるわ」

「コロナの所為でお客さん少なくて花も可哀そう」

「花の名手の柏木さんなら、枯れかかった花こそ描き甲斐があるわ、味もあるし、面白みもあるんだからと言うわね」

「その柏木さんはどうしてるの?」

「彼女は少し前に奥日光の九輪草描きに行ったから、今頃はその仕上げに夢中なんじゃないかしら」

「この頃柏木さん、少ーし変なのよね。霊が如何の、こうのとか言って」

「ああそうよねえ、死んでも霊があるから大丈夫だって。それに死んだら、自分の好きな物、タダで好きなだけ食べれるから、今は粗末なもの食べてても良いわ、死んだ後で食べれるんだからとか言っちゃってさ」

多恵さん、内心、ドッキリ。何と言うべきか、いやここは黙って聞き流すのが利口と云うものだ。でも彼女の為には少し用語しなければならないのかも知れない。

「で、でも、死後に霊が存在するって云うのはごく当たり前の話なんじゃない。そ、それに死んだ後で、おいしいものが食べれるって、素敵な発想じゃないの、貧しくってろくなものも食べれずに死んだ人が、霊になって、好きな物が食べれるって良い話じゃないの?」

「そう言われれば、そんな気がして来たわ」

「そうよね、生きてる時にも好きなもの食べれず、死んだ後も好きなもの食べれないのって酷い話だもん」

やれやれここは何とか収まった、今度彼女に会ったら、霊の話は程々にと言っとこうと多恵さんは冷や汗をかきながら、そう思った。

「まあ、柏木さんは置いといて、わたし達はわたし達の画を描きましょう」

皆スケッチブックを広げる。

「でもあの人本当に花を描かせたら、右に出る人いない位上手いわよねえ、花そのものも素晴らしいけど、その構成や雰囲気も何とも言えないわ」

「花を愛しているのよ」

「誰だって花が好きだけどあの人の花はそれだけじゃ済まない何かがあるわ」

「所で河原崎さんは風景画は得意中の得意だけど、余り花そのものを描いてるのは見た事ないわね」

「ええ、でもスケッチでは良く描くわ。柏木さんともこの所良くスケッチのお供をしてるし」

「そう言えば、柏木さん、河原崎さんと一緒に旅行して楽しかった、見る世界が広がったとか言ってたわ」

「何を話してるの?見る世界を広げる話、気になるなあ」

「別に特別の話はしてないわよ・・精々わたしの母の話とか、そんなもんよ」

「あなたのお母さん、薬屋さんよね」

「ええ、まあ」

「そのお母さんの話ってどんなのかしら?」

「母には色んな引き出しあって、それを話してるだけ。特に仙人に成りたいと試行錯誤してるとか、そんなもんね」多恵さん、又冷や汗をかく。

「あ、わたし、あの赤い橋のアングルがもう少し左寄りの方が良いと思うので、少し向こうに行くわ」

多恵さん堪りかねて逃げ出した。でも逃げ出してみて気づいたのだが、そこから離れて見た方が花も橋もグッと美しさが際立ち、構成も良くなった所為かとても描きやすくなった。

「あらあ本と、ここからの方が素晴らしいわね。好い画だわ、河原崎さん、柏木さんとはまた違った味わいの素敵な花菖蒲の画だわね」暫くしてから、国谷さんが見つけて近づいて来た。

「あ、ここからの方が描きやすいし、花もまだ枯れていないわ」

「わあ、素敵。河原崎さんは風景画だけでなく、こう言った花の画も得意なんですね」

他の二人もよって来た。

「わたしね、昔、小さい頃、花に嫉妬してたのよ」

「え、花に嫉妬してたんですか?誰か好きな人が河原崎さんよりも花を愛していたとか?」

「ええ、母がね、とても花を愛していたのよ。母はもしかしたらわたしよりも花の方が好きなんじゃないかと、そう考えたのよ。思えば結構、わたしって嫉妬深い子供だったの、他にも色々とね。そういう訳でなるべく花の画は描かないように努めたんだけど、その思いも段々薄らいで行って描くようになったの。それどころか花に愛着が湧いてね、密かにどんどん描くようになったのよ」

「へー河原崎さんが嫉妬深いなんて、信じられないわ」

「ほんと、わたし達が河原崎さんに嫉妬したい位よ」

「嫉妬して描かなかったんでしょう、嫉妬してなかったら、どれくらい上手くなってたかと思うと、残念なような、ほっとするような」

「じゃあ、ここの場所は次の人に渡すわ。も少し時間があるようだから、柏木さんの真似して、グッと寄って、花菖蒲のクローズアップを描きたいと思います。さーてどの花にしようかな?」

多恵さん、そのスケッチには絶好の場所を皆に譲り、花菖蒲にギリギリ近寄り、一番多恵さん好みの花を探す。黄色に赤が少し混じった花芯に斑点を吹きかけたような紫の花びらをした花に多恵さん釘付けになる。

「ああ、柏木さんが居たらきっと夢中になって描いただろうな」と多恵さんは思った。

ようし、柏木さんの分も思いを込めて描こう、と多恵さん、スケッチに力が入る。

〈あ、居た居た」聞き覚えの声がした。三宅さん御一行の到着だ。

「わあ、綺麗な花」池内さん。

「綺麗な花でしょう?川も美しいけど、花も又格別」

「うん、格別だから、川とは別に描かなきゃいけないのよねえ」

「そうねえ、急いで描けば、何とか間に合うかな」

「少しぐらいなら待つわよ」と国谷さん。

三人は並んで多恵さんが見つけた花をスケッチする。

「柏木さんが居れば狂喜するわね」と三宅さん。

「わたしもさっきそう思いました」多恵さん相槌を打った。

「柏木さんてこの頃変だと思わない?」

三宅さんまでがそう来たか、と多恵さん身構える。

「いいえ、全然思いません」心で身構え、口ではうそぶく。

「そうを?ふーん、死んだらどうのこうのとこの所会う度に彼女話すのよ、まさか彼女自殺するんじゃないでしょうね?」

「トーンでもない、彼女心も体もぴんぴんしてます。まあ少し哲学的にはなってますが」

「へええ、哲学的ですって。うーんそう言われれば、哲学的なのか?哲学教授夫人がそう言うんだから」

「いえ、哲学准教授です、わたしの夫は。まあ、教授夫人にはお世話になっていますが。今わたしの一番のパトロンです」

「一番のパトロンなの、羨ましい」

「好いなあ、パトロンが居て」

皆の羨望の声が一斉に上がる。

「パトロンはね、素晴らしい絵が描けてからの話よ。その絵に心奪われるから、その絵を描く者を応援しようとパトロンになるの。河原崎さんは素晴らしい絵を描くから、パトロンが付いただけ。素晴らしい絵を描いてもそういう人が現れなかったら・・」

「現れなかったら?」皆一斉に三宅さんに詰め寄る。

「そりゃ、死ぬまで貧乏で終わるしかない、よねえ、残念ながら」

「どうにかならないんですか?」

「今までどれだけの才能のある人が、極貧の中で素晴らしい画を描きながら死んで行ったと思うの」

溜息をつきながら、又自分のスケッチに戻って行く。

「わたし、今話をしながら気づいたの、柏木さんが言ってた事に。うんうん、彼女が言ってた事、哲学なんだ。そう受け取れば何でも説明が付く、ありがとう、さすが哲学教授夫人」

「だから、教授夫人じゃなくて、準教授夫人なの。昔で言えば助教授夫人」

「まあどっちでも良いじゃないの、言いやすい方で」

「給料が全然違います」

「ハハハ、それはそうね、給料は大事ね、うんそうだ」

三宅さん笑いながらスケッチして行った。

「はい、ではスケッチも大体終わったようですから、急いでわたし達も退出してまずは川越に戻りましょう」

国谷さんが皆を急かす。

青い車には国谷さん、三宅さん、池内さん奥山さんが乗り込み先行する。残りは多恵さんの運転で後を追う形となった。

来た道を川越目指して突っ走る。勿論途中で休憩。多恵さんは月見うどんを頼む。それにコーヒーは運転する者には欠かせない。皆それぞれ、それぞれの思いで注文して腹を満たし、眠気も覚醒させる。

とにかく無事に我が家に着いた。扉を開けた途端にお土産を買ってくるのをすっかり失念していたことに気が付いた。

「お帰りー、お母さん、お父さんが何だか名前は分からないけど、美味しいイタリア料理なるものを作ったよ。早く食べよう」真理ちゃんは相変わらず元気が良い。

「ありがとう、着替えて来るから少し、待っててね」

ああ、やっぱり我が家が一番ねと荷物を置き、着物を着換えながら多恵さんは独り言ちた。


 次の日多恵さんは六色沼へ向かった。あれから霊界の世界はどうなったのだろう?

先ずは杉山君を呼び出そう。と思う所に杉山君が現れた。

「まあ早い。今呼び出そうと思っていた所なのよ」

「はい俺達はあなたが返ってくるのを今か今かと待っていたんですよ」

「まあ、そうなの?でも留守にしてたのはたった二日よ」

「でもその前から音信不通でした」

「そ、それはあなた方がテニスの仕合の為、練習に励んでいるだろうと思っていたからよ」

「で、でも、少しぐらい声かけてくれても良いじゃないですか、出かける前ぐらいは」

「そうか、そうよね、ごめんなさい」

「声かけたら俺達が付いてくると思ったんじゃないんですか?」

「そう思わないでもなかったけど、今皆ばらばらだから、難しいと思ったわ」

「でも、俺達、石森と良介、この最初のメンバーはあなたの向かう所、例え火の中水の中、何処へでも付いて行きます。俺たちの楽しみだけじゃないんです、河原崎さんの事気がかりなんです、本当に。それにお役にも立ちたいし」

「うーん、ありがとうね。でも今回は大勢だったし、殆ど一人にもなれなかったわ。そう、幽霊さんじゃない、どちらかと言うと奥さんの守護霊に近い人には出会ったけど。彼は生きてる時にも優れた画家だったけど、事故で死んだ後も奥さんを守って、立派な守護霊を目指しているの」

「あーそれ、俺っちへの当て擦りかな?」

「当て擦りなんてもんじゃないわ、彼は生きてる時も死んだ後もとても立派なのよ」

「ふーん、何か良く判んないけど、彼は兎に角立派なんですね、河原崎さんが褒めるんだから、きっとそうなんでしょう。その彼が出て来てどうしたんですか?」

「彼ね、奥さんの夢の中に現れて、わたしと引き合わせたの」

「それで?」

「彼女、元々画家の卵だったのよ。それで私がスケッチの道具を貸して描かせてみた所、彼女素晴らしい絵を描くじゃないの。そこで是非自分の画を描くべきだと説得し、これからもデッサンなどをやって絵を描く事を約束して、わたし達の団体に入会させることに成功させたの」

「そうですか、結局俺達の出番はない、要らないと言う訳ですね」

「まあ、そう言う事なのよ、だから安心しておじいちゃんたちとテニスを楽しんでもらってて良かったの」

〈ああーあ、面白くないなあ、何か一つでも、俺達に居て欲しかったと言うような話はないんですか?」

食い下がる杉山君に多恵さん負けそう。

「うーん、別に関係ないのだけど、柏木さん、知ってるでしょう、この所何回か一緒に旅をしたから、その柏木さんがみんなの話題に上ってね、彼女がこの頃おかしい、変だ、死んだ後の話をして、死んだら好きな物をたらふく食べれるから、今は貧しくても我慢できる、だから平気よとか、死んでも悪い事さえしてなきゃ平気よとか言ってるらしくて、心の中で冷や汗かきながら、彼女の弁解に努めさせられたわよ」

「へええ、そりゅご苦労さんでしたね。彼女、意外と口軽いんですね。でも彼女の言ってる事って、ごく当たり前の事なんじゃありません。言い訳する必要は尚ないと思いますが」

「でも今まで、そんな事なんか言わなかった人が、急に死後の世界の話を喋り始めるんだもの、この人、少しおかしくなったんじゃないかと、皆思うわよ。うん、矢張り、幽霊や霊について他の人に話すのは、止めておいた方が良いんだわ」

「まあ解る人には解ると思うんですが・・・」

「でもそんな人はとても少ないわ。喋らない方がお互いの為なのよ」

「で、その亡くなった画家の奥さんには話したんですか、あなたが霊が見える事?」

「ううん、話さなかったわ。だって亡くなった人も奥さんを吃驚させちゃいけないと、夢の中と言う事にして現れてるんだから」

「優しい人ですね、彼」

「そうよ、あなたとは大違い」

「ハハハ、耳が痛いですね」

「所で誠君は天国から戻っていないの?」

「へえ、まだ帰っていないみたいです。でもそろそろ帰って来ても好い頃だと思いますが・・」

多恵さん、梅雨の間の晴れた空を見上げる。実に綺麗な青い色をしている。

「五月晴っていうのよね、梅雨の間の晴れた空の事を」

「そうですね、でも今では一般に5月の晴れた空を言っていますよ」

「梅雨の長雨で洗われた空だから、青さが際立っているので、特別にそう名付けたのに、きっと昔の人は怒っているわよ」

「仕方がないですよ、知識人より大衆の方が強いのが、断然言葉に関しては世の常ですから」

「うん、それは言える,抗っても抗っても、無駄な抵抗だ、大体テレビと言う本当は知識人の方でいなければならないものが、平気で使っているんだから」

「テレビは一番大衆よりですよ、一般に」

「母も常々怒ってるわ、薬草を指してタレントやレポーターが直ぐ漢方薬って言ってるって。たとえばドクダミなんか、漢方薬の原料にもならない物を、あっこれ、漢方薬のドクダミですねとか」

「大体漢方薬と言う概念を知らないんじゃないですか?」

「知らなければ、これ薬草のゲンノショウコですねとか言えば良いのに」

「あれは本人が心から言ってるんじゃなくて、デイレクターなんかが言わせてるみたいですよ」

「常識のないデイレクターが世の中の常識をどんどん退化させてるのかあ、怪しからん」

「あ、何か感じません?」

「感じる感じる、温かな春の日差しみたいな・・誠君がわたし達の元へ帰ってくる」

青い空から一筋の光が差し、それと共に幼子を片腕に抱きかかえ、白い天使姿の誠君が降りて来た。

「待ちました?」と誠君が言う。

「今日あたり帰って来るんじゃないかと思っていたけど・・少し待ったかな程度よ」

「お、俺は大分待ったぞ、お前もそれに

誠君は彩菜ちゃんらしき子を抱いたまま、前のテニスウエアん姿に戻って行った。

「ああ、これでやっと話が出来ると言うもんだ。それが問題の彩菜ちゃん?」

「はいそうです、死んだ時のショックが余りに大きくて、中々死ぬ前の事が思い出せないでいたんですが、やっと少し思い出したらしいです」

「そうなんだ。思い出さないでそのまま天国で暮らした方が幸せかもしれないなあ」

杉山君、彩菜ちゃんを頷きながら見つめている。

「でも、出来たら、少しは両親やおじいちゃんおばあちゃんの可愛がってくれた思い出だけは思い出して欲しいわ。そうでなくちゃ、今もきっと彩菜ちゃんの冥福を祈り続けているご両親が可哀そう過ぎるもの」

多恵さんが否定する。

「そうですね、、矢張り思い出した方が本人の為にも良いと思います。何も思い出さない時は自分が幸せなのか不幸なのかさえ分からず、只ボーっと時の流れの中に漂っていただけみたいですよ」

「そりゃいけないなあ、矢張り、辛くても、しっかり生前を思い出してこれからの事を考えなきゃいけないんだ」

「ねえ、彩菜ちゃん、おばあちゃんのこと覚えている?」

多恵さん、短答即入に尋ねた。彩菜ちゃんはこっくりと頷いた。

「おばあちゃん、とても彩菜ちゃんに会いたがってるの、彩菜ちゃんも会いたい?」

又彩菜ちゃん、頷いた。

「良かったあ。ねえ、杉山君、町屋さん、彩菜ちゃんのおばあちゃんをすぐここへ連れて来てくれない」

「はいはい、俺もそうしようと思っていた所です、では暫しお待ちくだされ」

杉山君が消えて行った。

「ねえ、誠君、あなたには十分天国で暮らす資格はあるのよ、わたし達は少しあなたに頼りすぎて要ると思うの。もしあなたが天国で過ごしたいと考えているのなら、わたし達に遠慮は要らないわ、そう言ってちょうだい。さっきあなたの天使姿を見て感じたのよ、この姿こそがあなたの本当の姿だと。彼らみたいなごく普通の霊やもっと下の幽霊さん達と一緒に居て、心が少々色づいたりすることはないかしら?それよりも、一緒に居ることが辛くはないの?」

誠君は優しい眼差しで多恵さんを見つめ、ほほ笑んだ。

「いいえ、少しも。どうか僕をここに居させて下さい、ここに居てこの子のおばあちゃんの様な、死んでも救われない魂の為に、僕を役立たせて下さい。僕は気付いたのです、あなたにあの川で救われ、一緒に皆さんと過ごし、苦しむ霊に巡り合い、あなたの導くように行動して、その人達が苦しみの鎖から解き放されて行くのを見てきましたが、これこそ僕の使命に違いないかと。だから、僕はここに居たいのです。みんなと一緒に居たいのです。彼らはみんな心の中は良い人ばかりです、決してやましい心の人は一人もいません。だから僕の心が明るくなる事があっても、決して悪い方向に引っ張られるような事はありません、ご安心ください。ここに居てあなたの手伝いをする、それが僕の神様から与えられた使命なんです」

「あ、おばあちゃんだ」

彩菜ちゃんが叫んだ。初めて聞いた彩菜ちゃんの声、かわいく元気に溢れる声だ。

彩菜ちゃんが大きく手を伸ばしている。その先に杉山君が町屋静香さんの手を引いて現れた。

誠君がそっと綾菜ちゃんを抱き下ろした。

「あ、綾菜ちゃん、ご、御免なさい」静香さんはその場に泣き崩れた。

「おばあちゃん、何故泣いてるの?」綾菜ちゃんが静香さんの傍に駆け寄り、背中をさする。

「静香さん、彩菜ちゃんは死んだ時の事は覚えていないようよ。それどころかほんの少し前まで、生前の事は何一つ覚えていなかったの。今の彩菜ちゃんは優しくて可愛がってくれたおばあちゃんの記録しか残っていないのよ」多恵さんが静香さんに語り掛ける。

「え?」静香さんが顔を上げる。

「もしかしたら、時間がたてば思い出すかもしれないけど、今は全くその記憶がないの」

静香さんは彩菜ちゃんの顔を見つめる。

「おばあちゃん、何か悲しい事があったの?」彩菜ちゃんが静香さんの顔を覗き込む。

「おばあちゃんはね、おばあちゃんは彩菜ちゃんにとても酷い事をしたのよ、だから彩菜ちゃんに謝らなくてはいけないと、ずっとずっと彩菜ちゃんを探していたの。でも今日やっと彩菜ちゃんに巡り合えることが出来たの。本当は彩菜ちゃんに合わせる顔はないんだけれど、でもでも、彩菜ちゃんを思いっきり抱きしめたい、許されるもんなら」また静香さんは泣き崩れた。

「彩菜もね、彩菜もね、おばあちゃんに会えてとても嬉しいの、おばあちゃんに抱きしめられたいの,ほんとにほんとによ。どうして前みたいに抱きしめてくれないの?」

静香さん、泣き止んで彩菜ちゃんを見つめた。それから間髪を入れず彩菜ちゃんを抱きしめた。

「おばあちゃんもね、何もかも忘れて、最初から彩菜ちゃんを抱きしめたかったの」

感動の再開はしばらく続いた。

「ね、杉山君、輝美さん達の所へ行って、女性群を連れて来てくれないかな、特に花岡恵さんとその赤ちゃんの真澄ちゃんに、この二人の事を頼みたいと思って」

多恵さんはその再会の一部始終を誠君と一緒に見守っていた杉山君に切り出した。

「え、あの野ばらの花の恵さんですか?」

「そう、あっちは親子で、こっちは祖母と孫の関係だけど、真澄ちゃんはもう少ししたらこの彩菜ちゃんとおんなじくらいに成長すると思うの。きっと二人は仲良しになって遊びだすわ。そして彩菜ちゃんの記憶が段々戻ってくる、その時までの時間がとても大事なの。思い出さない方が互いに幸せなように考えるでしょう?」

「はい、出来るなら、思い出さない方がいいと思いますが」

「でもそれだったら静香さんの魂は何時までたっても救われないの。それに記憶は突如として戻ることがある。だからその時までに何故おばあちゃんが御免なさいと言い続けているかを考え、また感じてその記憶を取り窓すことが出来れば、きっと二人は心底救われるわ」

「うーん、何となく解ってきました。では女性群を呼んで来ます」

「僕も彩菜ちゃんの記憶が戻って来て、それで尚且つおばあちゃんを許し、おばあちゃんを愛してこそ、彩菜ちゃんの魂も救われると思います」

六色沼に六月の風が吹き抜け、沼の上に小さな波が輝き立つ。ここは日陰になってるが日向はかなり暑いだろう。

静香さんは立ち上がり彩菜ちゃんの手を握っている。天使と幽霊のコラボレーションだ。でもそれだからと言って何にも反応は起こらない。むしろ静けさに満ちている。

「これから、彩菜ちゃんと暫くの間一緒に過ごすことになるわ」と多恵さんは静香さんに語り掛ける。

「まるで夢みたいな幸せです。彩菜ちゃんにこうして巡り合っただけでなく、しばらくの間だけでも一緒に居られるなんて、ほんの少し前には全く考えられない事です。こんなに、この罪深いわたしが幸せで良いのでしょうか?」

「徐々に彩菜ちゃんの記憶が戻って来ることになるでしょう。その時に彩菜ちゃんがどう反応するか、だれにも分からないわ。だからその時までに彩菜ちゃんへの愛情をたっぷり注ぎましょう、悔いのないように。その時、もし彩菜ちゃんがおばあちゃんの過ちを許してくれなくて、再び別れる時が来ても、それは仕方のない事としてあきらめるしかないのだけど、わたしはきっと彩菜ちゃんはおばあちゃんを許してくれると確信してるわ、これは気休めでない、だから、愛情をこめてこれからの時間を過ごしてね」

「ありがとうございます。でもどこでどうして過ごせばいいのでしょう。今まではわたし一人、しかも罪を背負ったものとして、どんな場所で過ごそうと気にも留めなかったんですが、今は彩菜ちゃんがいます。彩菜ちゃんの心を落ち着かせ、満足させるところを探さねばなりませんが・・」

「そうね、彩菜ちゃんが満足して静香さんと向き合える場所を探してあげたいわねえ。これはみんなに相談しなくちゃいけないわね。とりあえず、あなたのテニスの腕前を披露したり、わが父上の運転しまくってる観光船を楽しんだりしててちょうだい」

「はい、観光船はとても喜ぶと思います」

「フフフ、父がそれを聞いたら喜びます。女性群がここに来たら話を進めましょう」

多恵さんの脳裏に父の優しい笑い顔が浮かぶ。生前から小さい子供に親切で結構人気があった父なら上手く取り計らってくれるかも、と多恵さんは考えてもいた。

ざわざわと吹き抜ける風とは全く異なった風が起こり、どうやら杉山君達が到着したようだ.

「はいはいお待たせしました、皆さん、引き連れて戻りましたよ」

成程、みんなだ、女性だけでなく多恵さんの父上も交じっている。

「あらお父さんも来たの?」

「うん、なんか事件でも起きたのかなあと思ってさ」

「ううん、何にも事件は起きてないわよ。ただ天国から小さな天使がやって来ただけよ」

「天使だって。そりゃあ事件だよ、天使なんて今まで見たことないもん」

「え、ほら、恵さんの抱いてる真澄ちゃんだって、本来は天使なのよ。ただお母さんが恋しくて天国へ行かなかっただけよ」

「あー、そうか、そうなんだ、解ったような気がする。じゃあ新入りの天使さんは何方かな?ええっと、彼は前から居る誠君だし‥ああ、ここに居るご婦人とお子さんかな?」

「ええ、半分あたりで半分外れ。こちらのご婦人は由緒正しい幽霊さんで、こっちのお子さんの方がさっき。誠君が天国から連れてきた天使ちゃんなの。どうして一緒に居るかと言うと二人は生前は祖母と孫の関係なの」

「わたしは悪い祖母です。とてもとても、わたしはこの可愛い孫を誤って、車をバックしようと思って、この子がいるのを知らないでひき殺してしまったんです」

静香さんの叫びに近い告白にその場は暫し沈黙した。

「わたしは、その後悔に日々明け暮れました。苦しくて苦しくて、泣いて泣いて、でも鉛のような毎日から抜け切れずに自殺したのです。死んでも苦しみも悲しみも全然無くなっていないのです。そういう時この方の噂を聞いて、もしやこの方なら私を救って下さると思い、この六色沼にやって来たのです。所がここには沢山の幽霊仲間がいて、そばに近づく事も出来ません。それが先日その仲間がテニスをすると言っていなくなり、やっと話すことが出来たのです。この方はすぐこの誠さんという方を呼んで、彩菜を天国へ行って探し出すようにして下さいました。私は彩菜にすぐ謝りました。でも彩菜は死んだ時の事は記憶を失くしていて覚えていないのです。記憶を取り戻すには時間がかかるそうですが、それまでわたしは彩菜と一緒に過ごして彩菜が記憶を取り戻した時、改めて謝罪を乞いたいと思います。それまでの間、この彩菜とわたしが話し合ったり、寛いだりする場所をどうしたら良いかご伝授いただけたら嬉しいのですが」

「何も悩むことはないわ、こうしてみんなと一緒行動して、時にはホテルの空き室があったら、今はコロナでホテルもガラガラだから、そこで話をすれば良いだけよ」

「そうよ、ホテルにわざわざ行く必要もないわ、いつも一緒なんだから話したくなったら話せば良いのよ。誰もあなた方の話を聞き咎めるものはいないわ、だって、何のメリットもないんだもの」

「もう少し立てば、この私が抱いてる真澄も歩いたり話せるようになるわ、本当よ、この子、毎日大きくなっているの、だからとても楽しみなの、そしたら、彩菜ちゃん、遊んでくれるかな?」

彩菜ちゃんはこっくりと頷いて、嬉しそうに真澄ちゃんを覗き込んだ。

「あら、真澄、何か言いたそうだわ。それに、さっきより又成長したみたい」

恵さんはそっと真澄ちゃんを下に降ろしてみた。

驚いたことに真澄ちゃんは立ち上がり歩き出したではないか!

「ま、真澄ちゃん、自分で歩けるようになったのね」

「凄いわ、本のさっきまでは赤ちゃんだったのに」

「ええ、どんどん成長して行くわ、怖いくらい」おののく女性陣。

「真澄ちゃんはまだ成長しきれてない状態で亡くなったでしょう?だから本人が良いなあと思う所まで成長して行くの。でも、精神的には、まだ全然知識を吸収し切れてないから、これからの経験が大切だわ。みんな、真澄ちゃんの精神的発達の為、力を貸してあげて」多恵さんがそこにいるみんなに頼み込んだ。

「わたしからも宜しくお願いします」恵さんも頭を下げる。彩菜ちゃんがおばあちゃんの手を放して真澄ちゃんの手をそっと握った。

「真澄ちゃん、わたし彩菜って言うの、仲良くしてね」

「あ・や・な・ちゃん」

「そう、彩菜、これから宜しくね」

「宜しくね」

「うん、お友達になりましょう、ずーと仲良しの」

「お友達?ずーと仲良しの?」

「そうよ、仲良しの友達にわたし達になるのよ」

彩菜ちゃんと真澄ちゃんが互いに手を取り合う。

「あ・た・た・かーい。あたたかい。おひさまみたいにあたたかいな」

「ああ、わたしは幽霊の身だから、きっと今まで真澄は冷たい思いをしていたんだわ」恵さんは涙ぐむ。

「わたしもです、私も幽霊、それも悪い事をした幽霊です。だからあなたよりずっと冷気が強い。それなのに彩菜ちゃんは今まで私の手を握っていました。ごめんなさい、彩菜ちゃん」静香さんも涙ぐむ。

「わたし、平気よ。手はどんなに冷たくっても心は暖かいわ、だから大丈夫なの彩菜は」

「どうやら先行きは見えてきたようだな、じゃあおじさんの、いや、おじさんがちょっくら借りてる観光船で、島巡りに出かけようか、今度は北海道なんていかがかな?」

「わあ、北海道?素敵だわ、行きましょう行きましょう」

「今頃は北海道はハマナスを始め、色んな花が一斉に咲きそろう頃、船だけでなく、陸の方も楽しんだら?可愛い幼児服も欲しいでしょう?」多恵さんが一言添える。

「あらあ、わたし、お金なんて持ってないわ」静香さんがうろたえる。皆がどっと笑う。

「わたし達は幽霊なのよ、お金なんか必要ないの。これが欲しいと思えば手にすることが出来るの。心配ご無用だわ」

「洋服だけじゃないわ、食べ物も人形もなんでもね」

「ええー、そうだったんですか、全然知りませんでした。これで彩菜ちゃんに好きなものをプレゼント出来るんだ、嬉しいー」

静香さんが初めて朗らかに笑い、皆も一緒に笑った。

多恵さんのお父さんと女性群は北海道の何処辺りにするか、暫しもめているようだったが,目途がついたらしく「じゃあ、またねえ、おじいちゃんにも宜しく言っといて」と、消え去った。

残ったのは杉山君と誠君。

「お疲れ様でしたねお二人とも。こんな悲劇の幽霊さんなんて初めてだったから、どうなるかと思ったけど何とかなりそうね、少し時間は掛かっても。どうもありがとう。ではお二人さん、わたしのおじいちゃんが待ってるわ、早く戻ってテニスの練習なり試合なり、頑張って参加して頂だい。そちらの成果は後から聞くわね」

杉山君と誠君は顔を合わせた。

「でも河原崎さん、もし今度旅行する時は絶対に俺達に一言でも好いから、声かけて下さいよ」

杉山君のその言葉を置いて、二人は仲良く消えて行った。

 ああ、何もかも片付いたと多恵さん大きく伸びをする。そうだ自分の仕事をしなくちゃあいけないな。それに真理が今度「珍説ピノキオと桃太郎」とか何とか言う劇で、めでたくも主人公役のピノキオをやるとかで、長年伸ばして来た髪をバッサリと切ることにしたらしい。まあ周りは色んな意見が飛び変わったが、本人もついでにわたしも黒髪への未練はなく、ましてその髪が慈善団体に寄付されると知って、願ってもない事と喜んだのだった。

しかも、バッサリ切った髪型が真理に良く似あい中学生には余りありがたくないのかもしれないが、ググっと若返って小学生にややもすると見えてしまうようだ。つまり、物凄く可愛くなってしまったのだ。これはどちらかと言うと反対派だった大樹さんを喜ばせた。が、でも若返ったとは言え,それは風貌だけであって、再びわたし達をパパ、ママと呼ぶことはなかった。

今日はこの間行った三波渓谷のあの岩がゴロゴロした流れを描こう、と多恵さんはキャンバスを立てかける。こうやってスケッチして来た絵を眺めると、亡くなった平井誠二さんの迫力があり、つやつやとした水にぬれた岩肌やそれによりそう瑞草やコケ類の生き生きした画が蘇ってくる。

「如何して、雨風の強い、しかも暗くなる直前に、あの場所に行こうとしたのだろう?」

またその疑問が多恵さんの脳裏に大きな疑問としてのしかかる。

「どんなに考えても答えが見つからないわ、きっと奥さんも答えが見つからなかったと思う。本当に惜しい才能がこの世から消えてしまった。ただ、奥さんが、自分の画を描き始めたのが救いと言えば救いね」

多恵さんは頭を振ってキャンバスに向かう。

「わたしはわたしの石と清流の姿を描くだけ」

ここで彼の画を思い出してはわたしの画が彼の世界に引きずり込まれてしまうと、多恵さんは必死になって自分がスケッチして来た絵を睨みつけながら格闘する。

それでもちらほら彼の画が脳裏に蘇る。

「コーヒーでも飲んで一服するしかないな」

多恵さん諦めて立ち上がった。

元来余りコーヒーは好きな方ではないが、今は無性にコーヒーを飲みたい、そうでなければ、このむしゃくしゃしたような感覚から自分を引き戻すことが出来ないと感じたのだ。

コーヒーは苦かった、この苦さが拭い切れない彼の画の感触を忘れさせてくれると多恵さんは考える。

彼の画は余りにも素晴らしかった。彼の画を見た時、ああ、こんな絵を描きたいと激しく思った。でも、多恵さんと彼の描く絵とではその精神も技法も根本的に違っていたことに暫くしてから多恵さんは気が付いたのだ。そう、絵は描いてて楽しいもの、感動し、心に飛び込んで来たものを描く。それは同じだけど、表現は自分に合った表現でその感動を表す。自分に合ってれば例え困難が伴うとも、描いていて楽しくて仕方がない。素晴らしいと彼の画を目にした時震えた。こんなに草木を一本一本、生き生きと描けるなんて、と思う、それは大変な労力がいることだろう。彼を尊敬もする。でもわたしには出来ない。私が目指すものはその一本一本ではない、全体から受ける感動だ。それにわたしには緻密さの為の注ぐ気力が足りない。そこに気力を注ぐよりも他の所に気力を使いたい、と多恵さんは考える。

もう一度、キャンバスに向かう。少し気が抜けて自分の画になっていく。

「良かった」多恵さんは心からほっとした。

「もう、惑わされないわ、平井誠二画伯!でもあなたの絵からもらった感性や技術は全部ではないけれど、確実にわたしの脳裏とこの体の中の一部として根付いている、ありがとう感謝してるわ」

開け放した窓から風が吹き抜ける。大分暑くなったがまだまだ、この自然の風で凌げている。が、間もなくエアコンに頼らざるを得ないだろう。うーん、なるべくならエアコンは使いたくない、扇風機で凌げたらそれで済めば良い、何しろ油絵だ、有機溶剤の臭いは家族には大不評だ、それにそれ自体が余り体には良くないように多恵さそれも思えるのだ。

「?」何か気配がする。知り合いの幽霊さん達にはこの家の室内には絶対入らないでと、厳しく言ってあるはずだ。

「おばあちゃんなの?」出入り自由は肉親だけだ。と言う事は、ここ暫くはあの世にやっと友達に会うために旅立っている祖母が帰って来たのかと思った。

「いえ、違います。すみません、平井です」

「えー、平井さん、平井画伯なの?」

「はい、画伯と呼んでもらえる程、大した絵描きではありませんが・・・」

「もう、ここは身内の者しか出入り禁止なの。わたしが許可した人たちは来てもいいけど、基本的には立ち入るべからずなの。あ、でも、平井さんとはこの間あったばかりだから、まだ話もしていなかったわね」

「ええ、先日はお礼も言わない下失礼しました。何しろ妻もいるしお友達もやって来たしで。妻はこういった霊とか、幽霊なんて好きでないもので」

「そうねえ、一般に大好きという人はいないわねえ」

「特に妻はそういう話に弱くて。だから、妻に会うのは夢の中だけと言う事になります」

「夢の中でもあって上げるのは、奥さんが止めるのも聞かず、雨風の強い時、渓谷に行った為、事故で亡くなってしまった罪滅ぼしね」

「まあそれもあります・・それにわたしが一番あれと話したいからです」

「フフフ、それはそれは、ごちそう様」

「そうじゃないんです、生きてる時、わたし達、あまり会話をしていなかったんです」

「え、そうなの?」

「はい、わたしは絵を描くことにしか気が向いていなかったものですから。死んで、ばったり絵を描くことから放り出されて、はっと気が付いたんです。私たち夫婦には会話らしい会話がなかったなあと」

「奥さんが寂しそうな顔をされていたのは、一つはそれが原因ね」

「本当は直に向かい合って話したいんですが、あいつは霊とか幽霊の区別もつかない、もし起きてる時に彼奴の目の前に現れたら、恐れおののき、下手するとぶっ倒れてしまうでしょう。よって、仕方なく夢枕に立つしかなくて」

「そうなんだ、でも夢の中でも会話出来るなんて素敵だと思うわ」

「ハハハ、でもそう上手くは行かなくて、あいつが疲れていると、わたしの語り掛けは無視されて、本当に熟睡してしまうんです。何しろ、昼間、スーパーで働いているもんですから」

「それにあなたの声が子守唄みたいに聞こえるのかも」

「うん成程、これからは少し大きな声で喋るとしようかな」

「で今度の件はどうしたの?」

「ああ、そうでした、あちらの世界で会った人からあなたの事を聞きましてね・・そう初めはやはり奥さんを残してガンで亡くなった人でした。ちょっとした油断から奥さんの行方が分からなくなった時、あなたが探し出して上げたとか」

「ああ、北海道での事ね」

「それから奥さんがスケッチしながらご主人と四国をお遍路しているご夫婦」

「うんうん、思い出した、那智の滝が見たいけどわたし達は心中した身だから結界があって入れないと言ってた二人だわ」

「それから切り札になったのが、あなたの恩師、高田先生にお会いして、あなたの事を詳しく伺いました」

「ひょえー、高田先生迄聞いたんだ」

「それからここを突き止めて、あなたがわたしの絵画の拠点にしている都幾川にスケッチしに行くことを知りまして、妻に行くように勧めたんです」

「でも私があそこに行く事は分からないではありませんか?」

「まあ、そうなんですが、わたしはあなたがあの場所をきっと選んでくれると、確信していたんです。わたしとあなたの選ぶものは、似てるところがあるもんで」

「ふーん、でももしかしたら、その手前の滝が見える所にしたかも知れないわ」

「そ、それは危なかった。でもその時は仕方がない、あなたの前に現れて妻の待つ処へ行ってもらうしかありません」

「成程、まあ、どうしたって奥さんに巡り合うように出来ていたのね」

「ハハハ、どうもその様ですね、すみません」

「で、その後、彼女絵を描いてるかしら?」

「はい、まるで水を得た魚のように没頭してます。昼間は働いていますので、あまり今までと変わりはないんですが、夜や休みの日はこちらが心配になる程,描きまくっています」

「きっと今まで内心では描きたくて、描きたくて堪らなかったのをグッと抑え込んで来たんだわねえ」

「そうだと思います。わたしは彼女に口ではお前も絵を描いたらとは言って来ましたが、彼女が描けるような環境を少しも提供して来なかった。不定期なわたしの絵の収入では心配だからと昼間は働き、夜や休みの日にはわたしの事や家のことに追われて、これで描けという方が笑えますよね」

「まあ、大抵の画家がそういった無い時間をやりくりしながら描いてるか,誰かが犠牲の精神で必死に支えているか、このどちらかだわ」

「そうですね、彼女はその僅かな時間さえわたしの為に尽くし、働いて来たのです。だからこれからはどんどん描いて欲しい、才能を開花してほしい。でも少し心配です、彼女にはわたしの時のように支える者がいない、見守る者もいないのです。お願いがあります、どうか彼女に時々電話してやってください。時々は呼び出して遊びにも連れ出して下さい」

「分かったわ、それを言うために今日は来たんでしょう、引き受けましょう、喜んで。ところで、あなたにどうしても聞きたいことがあるの。ほんとは聞かない方がミステリアスで良いのかも知れないけど、折角こうしてわざわざわたしの目の前に現れたのだから、聞かないわけ行かないわいわ」

「はい、大体は何を聞きたいのか解りますが、どうぞお尋ね下さい」

「ええ、ご推察通り、あなたは何故、雨風の強い日の、しかも夕方、書きかけの画と止める奥さんを残してあの渓谷に向かったのか、その理由を教えて下さい」

「ハハ、やっぱり。今考えると、実はわたしにもはっきり分からないんです。ただ無性に描いている石や岩の肌を触りたくなってしまったんです、本当です。この風と雨に打たれて岩たちはどう耐えているのか、その時岩たちはどんな感触なのか、無性に知りたくなったんです。このままじゃ絵が描けないとも思いましたよ、嘘じゃありません。こういうのを魔が差したと言うんでしょうね、あなたはわたしを軽率な奴とお思いでしょうね?」

「いいえ、それは画家と言う者の宿命の様なものだと思います。あ、これはどうなってるのだろう、どんな感触なんだろうと絵を描いてる途中で、ふと気になって絵筆が止まることが間々あります。それがあなたの場合、雨風が強く夜が迫っている時だった。それは分かります、解りますが、引き留める奥さんの声にも耳を傾けて欲しかった、それが一番言いたい事です。そうすれば、あなたの素晴らしい感性と技量は死なないでいたのに」

また風が吹いてきた。

「ここは景色も抜群だし、風の通りも良い。画家として理想的な場所に居をかまえていらしゃるのですね?」

「ええ、ありがとうございます。夫が無理をしてここを住まいにしてくれたんです。本当に感謝しても、感謝してもし足りないくらい」

「理想的なのは場所ではなく、どうもご主人の様だ」

二人は笑った。六色沼の水面が風に吹かれて白く波立ち光輝いた。

               続く









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