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多恵さん 旅に出る Ⅷ  作者: 福富小雪
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船乗りになりたかった父の夢を多恵さんは祖父のスパルタ教育をかいくぐり、無事に叶えさせられるのか?又恋人に裏切られて自殺した女性の心を救えるのか?

 父が入院してからバタバタと時間だけが足早に過ぎて行く。母はその間大変な苦労をしているに違いないとは感じているが、多恵さんは何にしてあげられない。

毎水曜日の定休日を病院の見舞いに当てると、今までその日にやっていた家の事や銀行の事、薬の配送等、何にも出来なくなるので日曜日も定休日とすることを決断した。病院には土曜日に息子が見舞いに行き、母は水曜か日曜のどちらかを当てる。又、日曜は息子の運転で、遠くの大型店に近くのスーパーでは手に入らない食料や日用品の買い出しを済ませ、時間があれば他の野暮用もやる事にしたらしい。

多恵さんは病院が遠くであることもあって、母には悪いと思いつつも中々行けないでいるが、真理ちゃんはそれを補うように暇を見つけては足しげく通っている。

「駅から病院まで結構あるんだ。丁度良いバスがなくて、この北風の中をひたすら歩くしかないんだ。勿論走っても飛んでも良いんだけど、わたしにはそこまで走っていく気力もないし、飛んでいく羽もないからね、歩く、ひたすらね。うーん年寄のばっちゃんには少しハードかな?でもおじちゃんは車だから何にも感じていないみたい。あ、病院?病院自体は綺麗だし、大きくて立派だし、きっと設備も充実してるんだろうね」と真理ちゃんが説明してくれた。

まあその辺は、幽霊軍団といるのが何故か居心地が良くて入りびたり、あの世に帰るのを、または行くのを忘れてしまった祖父母が、母の家と多恵さんのマンションの間を行ったり来たりしてるもんだから、母の店が今どんな様子なのか、父の様態の事や病院がどんな風なのかも大体分かる。なぜ大体なのかと言うと、見聞きするのも、判断するのもど素人もど素人の祖父母だからだ。

「多恵はそう言うけどさ、オイは死ぬ前にちゃんと原爆病院に入院して、山ほど検査を受けさせられてさ、そいで疲れてしまって、手当受ける前に死んでしもうたと。そいやっけん、病院にはえらい詳しかと」

「わたしも付き添いでおったけんね、大体の事は分かるばい。まずさあ、こっちの病院の方が、数倍綺麗かもんね。それにさあ、こっちの病院は付き添いが全然要らんとよねえ」

「あーそうねえ、まだ付き添いが要る処もあるらしいけど、ほとんどの病院が付き添いは要らないんじゃないの?」

「早く全部の病院がそうなってくれんば、あれは年寄にはきつかあ。あれで寿命が10年は縮まったと思うもんね」と百三歳まで生きた祖母が忌々しく言う。

「病院が立派できれいなのは良いけども少し足の便利さも必要よねえ、真理によると駅から大分歩かなくてはいけないらしいわ、いくら車社会とは言っても、年寄りに運転させるのは危険だし、運転しない人には不便極まりなしだわ、まして病院なんだから」

「そうだねえ、この北風の中あそこ迄歩くのは由美ちゃんには辛いと思うよ」母思いの祖母は本当に辛そうだ。

「それより早う良うなってさ、さっさと退院すればよか事たい」と祖父が言う。

「あんたも分らん事を言うばいねえ、それが出来んから心配しとるとやかね。まだ意識もはっきり戻っておらんし、あんなに管に繋がれて定一さんも本に可哀相か」

「ありゃあ酒ばっかり飲んどったけん、ばちの当たったと。元々酒に弱かったくせに」

「酒はほんとに弱かったんだけど好きだったのよ、タバコも50くらいまで中々止められなかったわ。弟が酷い喘息持ちだったと云うのに」ついつい多恵さん迄も祖父母のバトルに加わった。

「そうそうタバコと言えば、あんたもタバコばよう吸いよったねえ、ありゃあほんとに迷惑やったよ、今更だけど」火の粉が祖父の方に飛んでいく。

「あん頃は誰もタバコの害なんて言わんし教えなかったからなあ、まあ仕方がなかったんだ。そのうち結核にかかってしもうて辞めざるを得なかったけどね、ハハハ」

「じいちゃん、結核にかかったの?」

「言わんかったかな、まだ多恵が1歳になるかならない頃やった、療養所に入っていたんだ。お前が由美やばあさんと一緒に見舞いに来てくれたんだよ。赤いリンゴの涎掛けをしてさ、そりゃあ可愛かったばい。こんげん可愛か子は世界中探してもおらんばいと思ったもんね」祖父の目は過ぎ去った遠い日々を見ていた。

「大袈裟ねえ、孫はみんな可愛くてそう思うものなのよ」多恵さん否定する。

「いいや、ほんとに可愛かったんだ。早くここを出て多恵を抱っこして歩きたか、きっとみんな多恵の可愛さに歓声を上げる、みんなおいを羨ましがるだろうなと思わずにはいられんかったと」

多恵さんも思い出す、父が良く言ってたことを。

「多恵がさ、長崎からこっちに戻って来た時、あれは雄太が生まれる前だから3歳になるかならない時だったかな、東京駅まで迎えに行くと、確かピンクのスカート穿いてて俺の顔見て、少し恥ずかしそうにママの陰に隠れて微笑んでた、あの時の多恵は本当に可愛かったなあ」と。

きっとそのころの私は可愛かったのだろうと多恵さんは一人思う。うん?待てよ、確かあ、母はこう言ってたっけ、小学校に入学して親の付き添いが無くなって、一人で帰って来る様になり、鼻の頭に汗をかきかき戻ってくると、父も母も店先でそれを見守っていたが、あの頃の私が1番可愛かったようだと。

そうか、人は心配したり、または久しぶりに会えたりした自分の幼くて愛しいもの、幼い、力なきものを、ひどく可愛いと感じるものらしい。ま、ここはわたしと云うものは幼い頃、せいぜい小1ぐらいまでは可愛かったという事、それも祖父母と両親には。多恵さんの少し捻くれた心はこう決断を下した。

真理ちゃんが帰って来る。真理ちゃんはとても持てる、性格のさっぱりした所、頭の良さ、器量もわたしと大樹さんの良い所だけを受け継いで万々歳だ。でも、何の因果か今はガマガエルの顔をした王子の役を嬉々として演じている。いや、演じる稽古をしている。

「どうだった、劇の稽古?ダンスは上手く行った?」

「ああ、上手いものよ、わたしダンスの才能もあるのかしら、ハハハ。でもさ明日からは期末試験に向けて稽古は一時中止なの。わたしもう少し試験に力いけないとダメかなあ?」

「真理ちゃんにしては珍しい事言うのね、何かあったの?」

「ううん、別にないけどさ、東村君凄く出来るんだ。だからさも少しわたしも勉強に精出して、総合点で彼に並べば、そしたら演劇部に引っ張りこむのに楽かなあって思ったの」

そうだ、東村君が居たんだ、彼女の思い通りに行かないと言うか、どうしても演劇部に入れたい男性。でも彼だって祖父母によれば、真理ちゃんに首ったけらしいが。

「そうねえ、も少し、もうちょっと学校の勉強に真理ちゃんが力を入れたら、きっと試験のランク、東村君に並ぶわねえ」

「ああダメダメ、他のは何とでもなるけど英語がねえ、もうそりゃ余りにも差があり過ぎて。大体他の科目は日本語で説明してあって、それを読んだら即理解できるけど、英語は発音も意味も私の脳に沁みてこないのよ。先生は日々の努力が大切と言うけれど、私はそういうものをやるんだったら日本語で詩や短歌をやりたいの」

「要するに英語が嫌いなのね」

「そう嫌いなの。名前は呼び捨てにするわ、一人称や二人称は一つしかない、泥棒が入ったとするでしょう、でも男か女か分からない、日本語だったらそいつはとかその人間はとか言える、公園で散歩してる人がいるとか、その人が男か女か不明の場合、それを現す言葉が無いじゃないの。言い出せば切りがないけど兎も角、いや、それに発音が曖昧で聞き取りにくいったらありゃしない」

「でもさあそういった言葉を使って生活してる人がいるのよ」

「そうなのよね、東村君てさ、どうもそんな匂いがするのよ、教えに来てるアメリカやカナダの先生とも不通に会話してるみたいだし・・あれは怪しい」

「小さい頃外国にいたのかもしれないわ」

「うーん、聞いてはいないけど、その可能性は十分あると思う」

作ってあったパンケーキを食べながら、ひとしきり喋った後。真理ちゃんは自分の部屋へ消えて行った。

 で、その結果は?どうも祖父母によると英語が響いたのか、総合4位だったらしい。真理を除いてどの子も英語が抜群に出来る子がそろっているとの情報。

「他の教科は殆ど一番の子と変わらんけど、矢張り英語が今一だなあ」

元教育パパの祖父は本当に残念そう。

「でもうちはあの成績で十分だと思うとよ、何しろ演劇に夢中なんだもん」

「あの子、将来は演劇やらないらしいよ」と祖母に言う。

「ああ、小説家を目指してるのね」

「いいえ、どうも母のように化学者になって、目の見えない人達を救いたいんですって」

「でも由美は医学部の研究所を辞めて、今は薬剤師ばしよるよ」

「それは教授との折り合いが悪くて、心ならずもって事なんじゃない?」

「ばってんか、そいにしては今の仕事、楽しかごと見えてるけどね」

「うん。あれは楽しか以外なんもなかばい」祖父も加わる。

「ええ、楽しんでやってるわ。自分を必要としている人を助けたい、この病気治りませんと言われた人を救いたい、自分は救えると思ってるから、とても遣り甲斐があるし楽しい。その時気づいたのよ、店の前を白い杖を突いて歩く女性に。ああ、漢方でも直せないものがある、もう一度生まれ変わってその研究をしなくちゃとね。それを聞いた真理がわたしがばっちゃんの代わりに化学者になって研究するんだと決心したらしいの」

「ふうん、そうなんだ。ばってんか、うちは昔のように雑貨や普通の薬も売ってた時の方がずっと好きばい、人が一杯来て賑やかだったもん」

「あの頃の方が数十倍はもうかったと聞いてるわ」

「そうやろう、今は閑古鳥が鳴いてるもん」

「でも母は自分を頼って来てくれるお客さんとゆっくり一対一で治して行きたいのよ。只チエーン店の役員やらされているから、売り上げもそこそこ要求されてるみたいだし、周りの人達の視線も冷たい。役員になる時、会社が売りたいものでなく、母や、お客さんが必要とするものを売って行くという約束でなったらしけど、それも担当の人達が代わって行き、最初の約束もだんだん蔑ろにされて、その会や会社が売りたいものを売らざるを得なくなってるみたい」

「理想と現実は厳しかとばい、会社はもうかるもんを売りたかし、それを売ってくれるもんばちやほやするのは当たり前、それが世の中たい」祖父はそう結んだ。

絵も同じだ、と多恵さんは思う。自分が描きたいものを描いたとて中々世間は認めてくれない、同じような絵は幾らでもあるし、その違いに感動してくれる人は僅かだ。かといって奇抜な絵を描いてもそれを理解できる人は極めて少ない。只商業スペースに旨い具合に乗っかって人気が出れば、この絵のどこが良いんだろうと心の中に疑問を抱きつつも、良い絵だ、味がある、大胆だ、今の世の中を切り取ってるなどと評価し、賛美する。悲しいことに多恵さんもほんとに?そうなの?と思いつつその波にあらがえないし、自分も隙あらば、その波に乗りたいとさえ思ってしまう。自分の描きたいものを描きたいように、世間の声を無視して心静かに描いて暮らす、それは毎日の生活に追われているものには余程の覚悟がなければできない話なのだ。それとも、それこそ霊になって、自分の描きたいものを描きたいように描く、それしかない!

 そんな中、柏木さんから電話があった。

「あなた、黒田里香さん知ってるわよねえ?」

「ええ勿論よ、大学同じだもの。只彼女は塑像部だったけど、絵も抜群に上手かったわ。確か私たちとは別の美術団体に入ったわ、塑像を扱ってる。彼女、そこの会を取り仕切ってる瀬川先生の作品の大好きで、彼にのめり込んでいったのよね。彼の作品の為なら裸体モデルも辞さないと言ってたし、実際に喜んでモデルをやってたのよねえ」

「うーん、それが高じて愛人になっちゃって・・それは知ってた?」

「ええ、大体はね。でも彼にはまだ彼の作品が売れなかった頃から、面倒を見てきた10歳年上の奥さんがいるの。だから周りの人達は彼の愛人になるのだけは止めなさいと注意して来たんだけど・・」

「そこまで知ってるのなら話は早い、彼女、この所、少し精神的に不安だったらしいわ」

「まあ、そうだったの?それで彼女、自殺でもしたの?」

「自殺ならまだ救いようがあるけど‥いや、自殺しちゃだめだけどさ、相手を殺害するよりはいいよね」

「ええっ、殺人ですって」

「いえ、殺人未遂よ、未遂」

「ああ、良かった、で、だれを殺害しようとしたの?」

「勿論彼の奥さんよ。で彼女は即精神病院に入院させられちゃったの」

「そうか、何時かこういう日が来るんじゃないかとは思っていたけど。彼女、一際感情の激しい人だから」

多恵さん、彼女の端正ではあるけれど、何処か陰のような、けれど燃えるようなちょっと複雑な横顔を思い出していた。

「わたし、彼の作品に惚れたのよ。彼の『働く手』を見たわ、あの手にわたしはしっかり抱き締められたいと、その時はっきり悟ったわ。おかしい?でも私は本気なの」

彼は15歳近くの年上で今売り出し中の塑像家だ。その上、奥さん迄いる、未来はどちらに向かうにしろ悲劇しか見えてこない。だが彼女はここ20年ばかり、愛人と言う名の下ではあるが彼の愛を一身に受けて満足な日々を過ごしていると風の噂に聞いていた。その彼女にどんな変化が起きたと言うのか?

「でも彼女。幸せに生活してると聞いてたわ、寧ろ奥さんの方が彼女を殺したいと思っている方が自然と言うもの、ただ少しそれには齢を召されているようだけど」

「わたしもそう思うわ。彼の作品が売れるまでお金を稼ぎ、生活の世話もやき、やっと売れるようになったら美人のモデル兼弟子に乗っ取られたんじゃ堪んないわよねえ。でもさ、奥方、じっと耐えた。まるで自分の子供を見るように、今に飽きるわとね」

「ふうん、そう偉いわねえ。私ならさっさと別れちゃうけどさあ」

「彼女も又、彼の作品に惚れた人間なのよ」

「成程、それなら解る、作品に惚れてるんじゃ彼を捨てられない、彼が彼女の存在にもう一度気づくまで、じっと待っている」

「でも黒田さんにしてみれば、あんな年寄りの女性なんかに負けるのはショックだったに違いわ。どうして彼女と別れてわたしと結婚してくれないのか、きっと何度も催促した事間違いなし」

「そうよねえ、でもそれなりに幸せだったはずなのに、なぜ奥さんを殺そうとしたのかしら?」

「解らないわ、今度わたしの絵の特集をしてくれる美術雑誌の人に聞いてみるわ」

「まあ凄い、柏木画伯の絵の特集だなんて、めでたい事よね」

「残念ながら大分お金を取られたけど。これがめでたいと言えるかどうか、さっぱり分からない」

「そうなんだ、そうよねえ、余程高名じゃなくては、美術誌に絵を特集すると言う事は、お前の絵を宣伝してやるんだ金寄こせと言う事なのよねえ」

「ほんとに画家は貧乏を強いられるばっかり。まあその美術誌の方も金がないと来てるのよ、トホホホ」

この日の電話はそこまでだった。

やがて真理ちゃんの醜いガマガエルの王子様の劇、もとい真説シンデレラ伝説(?)の劇も無事に終わり、クリスマスがやって来てついでにお正月もやって来た。

父の様態な相変わらずだった.それに関わらず我が家の正月は何時もの通りだったし、母の所も父不在を除けば何時もと同じ料理が並び、弟が父の分までそれを喜んで食べたらしい。その後弟の運転で、二人して神社ならぬ父の入院している病院へ、様子伺いに行ったそうだ。

だが行った所で父が話をする事も出来ないし、表情も無表情で、喜んでいるのか、悲しんでいるのか、二人には彼の心の内を知ることは出来ないのだ。

でもそんな父だったが、その後母がタオルを持参して手足や拭ける所だけでもと、ごしごし拭いてやった所父は少し表情を和らげている様に母には見えたそうだ。そして母が「じゃあ帰るからね」と声をかけ、ドアに向かう時、なんと父が小さくではあるが手を動かしてるではないか!母は立ち止まり「また来るから」ともう一回声をかけると病室の外へ出た。病院からの駅までの道は木枯らしが吹きまくっていたが,母は父の体調が少し良くなっていると確信したのだった。

だが、たいていの病院では、増して余りお金にならない患者は3ケ月すると転院しなくてはならない。それもその病院が決めた病院にだ。初めてそう言ったことにさらされた、どちらかと言うと世間知らずの母には病院の言う通りにしか行動出来ない。

先ずは指定された病院へ母は指定された日に、その病院に話を聞きに行く。今度は何時もの電車を降りたところから更にバスに乗り換える。バスは走る、彼女の知らない道をえっちらおっちらと。何だか人家の少ない所でバスを降りる。そこは吹きさらしの道で、少し上り坂になってなっていた。自動車が、それも大型の自動車がバンバン走る。まともに歩道のない道を忍者の如く横歩きになって必死で歩く。前の病院とどちらが遠いのか分からないが初めての道は得てして遠く感じるものだ。おー、やっとお目当ての病院が見えた。まあ可なり見かけは大きくて立派に見える。そうそう、この病院の名前もとても立派だ、勾玉総合医療大病院と言う。名前だけ聞けば誰もがひれ伏すような名前なのだ。

着いたぞう!うん?そのだだっ広い門らしき所から入り口までがヤケに遠い。北風にめげることなく(内心は大いに負けていたけれど)やれやれガラスの自動ドアまでヤットコドッコイ辿り着いたぞ、開けゴマじゃない開け自動ドア!うん?開け自動ドア!幾ら待ってもドアは閉まったまま。ここではないのかと何面かあるドアを調べて回る。どこも開きそうにない。

風はぴゅーぴゅー吹きまくる。それだけで少し体を壊していた母はぶっ倒れそう。しかし何としても中に入らねばならない。そう、ここと今までいる病院の最大の違いは、人が全く見当たらないのだ。ちょっと薄暗くて広めのロビーらしき所に人影が見えない、看護師さん一人、患者さんらしき人も客も全くいない。でも入らなければならない!わたしは約束したんだ、指定の時間に行くことを、と母は思う。そうこの馬鹿でかい自動ドアをこじ開けてでも。母は電源の入ってない自動ドアと格闘することを決めた。そしてなけなしの力を振り絞りドアをこじ開ける。

電気の節約か、暗くてがらんとしたロビー、だーれもいない。受付の所に行って「すみません何方かいらっしゃいませんか」大声で喚く。やっと一人、奥の方から女性が現れた。「わたし今日、転院するのに必要なものや心構えを聞くべく、約束の時間にお伺いしたんですが」「ああそうですか、少々お待ちください」そう言うとまた女性は姿を消した。

母はここでも長く待たされたが、やがて年配の女性が現れて「今日約束されてた方ですか、まあこちらへどうぞ」と受付から薄暗い廊下を挟んだ部屋へと通された。

カウンセラーなる女性は細々とプリントされた紙を母に渡して一通りの話をする。ここでは紙おむつは使わないとかベッドのマットを購入するかリースにするか、寝間着が3,4枚は必要等、前の病院とはとんでもなくかけ離れているようだ。それに室内用の靴がいるとのこと。今は寝た切りの人に靴が必要なのか?と母は訝しくも思ったが何にも言えなかった。その他にも不必要な物も何点かあると思ったけど、ハイハイそうですかと承るより仕方なかった。

「では院内を案内しましょう」と女性は立ち上がる。母も立ち上がり後を追った。

院内もあまりきれいとは言えなかったが「ここがリハビリする所ですよ」と見学させてもらえたのが嬉しかった。夫も何時かきっとここに来てリハビリに励む日が来るんだ、そう思うと今までの不愉快なこの病院への思いは吹き飛んだ。

その日の病院での話はすべて終わった。さあ帰ろう。そこで質問、

「あのう、バスの時刻とバス停は何処いら辺りにありますか?」 

珍しく1階のエレベーターの前にいた2,3人の病院関係者らしき人達に聞いてみた。「ちょっと待っててください」時刻表を持ってきた。

「あと30分程したらありますよ」

「で、バス停は?岩川駅に向かうバスの」

2,3人の人達暫し無言。

「誰か乗せてもらえる人いないの?」その中の女性が聞いた。

「いえ、一人でバスで来ましたから」母は決然と答えた。

「そう、ここは一方通行の道路なの。だからそのバスに乗るにはここから坂道をずーと下って行くと向こうの道へ出る大きな橋が架かってるから、それを渡ってそこからしばらく又下ると、岩川駅行きのバス停があるわ」

「えー、車のない人はどうすれば良いんですか?」「みんな文句を言わずに、そのバスを利用してるんじゃない、それしか無いんだもの」

表の広い敷地は車で来る人達の為、ここに来る人にとっては必要欠かさざるべきものだったのだ。

かくて車を運転出来ない母は、言われた通り、夕刻が迫りかけた大型車がまるで攻めるように走って行く中をとぼとぼと歩いて目的地に向かうしかなかった。

やっとたどり着いたバス停。だがバスは来ない。日が落ちていく。風は増々冷たく強くなって行く。ああ、絶対にこの日のこの心細さを忘れない、忘れるもんですかと心の中で叫ぶ。バス停を見回しても後ろには壊れかけた小屋と何も植えてない畑、目の前は大型トラックの洪水、さらにその奥の目の前には谷底になっていて、そこには忌々しい高速道路が走っているのだ。これがあるためにここは一方通行になっているんだ!

ふと、誰かが傍にいるように感じたが、それは押し寄せる闇と凍り付く寒さがなせる業だった。このままバスは永遠に来ないかとあきらめかけた時、仏のような岩川駅行の文字を付けたバスが現れて母は一命を取り止めたそうだ。

でもそれは悲劇の始まりに過ぎなかった。介護タクシーで前の病院から、その怪しげで寒々とした病院に点滴装置と共に運ばれた父だったが、看護師は点滴の装置が外れかかってるのにも気が付かないし「この方が主治医の先生です」と紹介された男性を見て母は内心驚き、抱えていた不安が一層強くなった。彼は余りにも若いし、いかにも頼りなさそうだった。「宜しくお願いいたします」とは言ったものの、心の内は「あなたの代わりに私に主治医をさせてちょうだい」と叫んでいた。

カウンセラーに言われた物、大物は毛布や寝具類を始めその他の物は弟の雄太が車で運び込んだ。が、大半の細々した物は当面不要なもので持って帰るように言われた。

父のベッドは窓際だったが、ベッドからは下界を除く事は叶わず、見えるのは病院と同じく寒々とした冬空だけだった。父も気落ちしたようにぐったりと横たわっている。

何処か他の、もっと設備が整った、まともな医師や看護師のいる病院に移れないものかと母は思う。でも地元出身でない母には、どうする事も出来ない。父に心を残したまま病院を後にするしか術はなかったのだ

その次の土曜日に雄太が見舞いに出かけ、洗濯物を渡されたと言って下着などの入った袋を持ってきた。

成程、ここは前の病院とは全く別の種類の病院だ、だから寝間着や下着を沢山用意させられたんだと、その時に母は気づいた。でもそれは良い、夫の衣服を洗うのは当たり前、今までの病院が至れり尽くせりだったんだ。と母は納得した。

でも父はその三日後に亡くなった。その前後の事を母は語りたがらない、何か余程ひどいものを見たに違いない。只病院から父の訃報を、何故か母の家の電話や雄太のスマホも繋がらず、父の兄,つまり多恵さんの伯父さんが受け取った。駆け付けた伯父さんは「一体死因は何なんだ」とその頼りなさそうな若い医師に尋ねたそうだ。

「はい、老衰と言う事で・・・」

「何、老衰だと、彼は私よりもずっと若いんだ、老衰なんてあり得るか」

「じゃあ、弟さんは何で入院してたんですか?」

「へっ?そ、それを医師であるあんたが知らないのか、知らないで良く主治医と言えるなあ。弟は家の階段から落ちて、家にはその時誰もいなかったんで時間がたって救急入院したんだよ」

「はあ、じゃあその後遺症で亡くなったと言う事にしましょう」

さすがの伯父さんも,暫くはこの若く無責任な医師にあきれ返り、腹を立てていた。

しかし母は立ち止まってはいなかった。瞬時に葬儀屋を決めて、連絡を取り、にっくき病院から彼の遺体を葬儀屋さんの霊安室に運び入れ、父の遺志通りの葬式を執り行う準備を進めた。葬式は火葬場の順番待ちで一週間後に執り行われることとなった。

多恵さん達も勿論出席した。

出来たばかりのこの葬儀場は、式場と焼き場は別にはなっているが同じ敷地にあってとても便利が良いのだ。木もあれば花壇もあるが、残念ながら今は冬で殆どが枯れ木と土だけの花壇だった。

通された式場には父の高校時代の友人と(もう一人いたけれど、彼はデイズニーランド建設繁忙中の犠牲となって、働き盛りの齢、若い奥さんと小さな男の子を残してずっと前に亡くなっていると言う話だ)他には父の兄とその奥さん、奥さんのお兄さん、それと母と弟、わたし達親子三人が集まった。

父の言ってた簡素な葬式が始まる。殆ど、母の指揮の下で行われたその葬式では、お坊さんの読経に代わって、母が筆ペンで表には般若心経をそのまま書き、裏には山田無文氏の現代文に訳したものを書いた紙を全員に配って、母がそれを読み上げた後、みんなでそれを繰り返すと言うものだった。

墓所も勿論決まっていているらしく、骨壺を持って、母と弟の車に我々3人、それに伯父さん夫婦の車が墓所に案内する葬儀屋さんの後に続いた。

冬枯れの桜並木が続き、左手はどうも薬科大学らしい立派な建物が広大な敷地の向こうにちらちら見える。その大学の正門か裏かは分からないが、墓所はその前に位置する。しかし、骨壺はすぐに納めるのではなく、一年後にお坊さんのお経の中、厳かに納められるのだとか。

帰りはすぐ近くにあると言う駅に弟に車で送ってもらう。だが、その駅は本当に近くて冬でなかったら歩いたほうが良いくらいの近さだった。

 こうして父の葬儀も片付き、一応前の日常に戻って行った。多分母は色んな手続きや書類の提出で忙しいのであろうが、そういった類の愚痴は一切聞こえてこないから、一人でそれを整理し片付けているのだろう。

只店の定休日を各水曜日に、第一、第三日曜日を加えることにしたとは言ってたけど。

そこでだ、幽霊さんたちは今回、やけに静かじゃないか?それに祖父母もだ。父が転院する前後からぱたりと音沙汰がない。もしかしたら、何処か旅にでも行ったのかな、それじゃあ多恵さん旅に出るではなく、幽霊さん旅に出るじゃないかと、多恵さん少し腹を立てている。こんな時にこそ励ますなり、今父の魂の状態は如何なのか、多恵さんだって聞きたいのだ。その父でさえ多恵さんに声をかけてこないとは。まあ、父はまさかわが娘が霊と話したり出来るなんて全く知らないし、それを教える幽霊さんたちもいないから、そのまま母の傍に留まっているか、即天国へ行ったか,はた又あこがれていた海の男になりたいとそちらの方へ飛んでいったか、その中の一つだろう。

そうこうしている内に母から電話があった。

「面白いことがあったのよ、この間サッカーの試合があったじゃない?」

「サッカー?わたし、関心ないから」

「わたしも全然関心ないけどさあ、あの人、パパはサッカー大好き人間じゃない?」

「うん、そうだねえ、自分の所のイザナックじゃなくて、わたしの住んでるところのツキミーラを応援してるのよねえ」

「ツキミーラの方が彼が子供の頃からあるチームだから、どうしても応援したくなるらしいわ」

「それで面白い事って何があったの?」

「わたしが何気なくテレビを付けたら、そのツキミーラの試合をやってたのよ」

「分かった、その観客の中にお父さんがいたんじゃない?」

「わたし、そんなに目良くないからそこまでは分からないわ。でもその方がみんなの迷惑にならないで良いわよねえ。兎も角その日、台所のテレビを何気なく付けたらツキミーラの試合をやってるのよ。そこでその試合をあ、パパ、ツキミーラ好きだったなと、思い暫く見てテレビを消したのよ。するとふと気が付くとテレビがついてるじゃない。わたしの消し方が悪かったと思ってまた消したの。でも又直ぐに付く。面倒になってそのままにして置いたら、優太がテレビの前を通る時、あの子もサッカーに興味ないから当然テレビを消したのよ。すると優太が、このテレビ、変だよ、付いたり消えたりすると騒ぎ出したの。それで、気が付いたのよ、彼サッカーが見たいんだって」

「それでどうしたの?」

「仕方がないので、台所のテレビを付けっ放しにして、その前に彼の写真立てを置いてやったの。大体そこの席がパパの居場所だし、そこに座ってテレビ観戦するのが毎日のお仕事だったからねえ」

「まあそうだったわよね」

「で言ってやったのよ、あなたはもう魂だけになって、どこにでも行けるし、だれにも見えないから、これからはサッカー場に行って見てちょうだいって」

「成程、お父さん、納得したかしら?」

「多分したと思う、それからはテレビが付いたり消えたりしないから」

ふーむ、父はまだこの世に未練があるらしく、それとも母に未練があるのかも知れないが、どうもまだまだこの世に居座っているようだ。少しでも早春の風を感じたくて、一分開けておいたベランダのガラス戸からその風が吹き込んでくる。早く父母に連絡を入れ、父にわたしが霊と話しが出来ることを知らせてもらわなければと、多恵さん先ずは杉山君を呼び出そうと六色沼公園に向かった。

「はい、お呼びでしょうか、河原崎画伯?」杉山君、何やら軽快な姿で現れた。

「随分久しぶりじゃない?それにその姿、何かスポーツでもやってたの?」

「はい、テニスを少々。おじいさまの指導の下、熱海のテニスコートで男衆は皆やらされているんです」

「はあ、熱海のテニスコートでなの?」

「ええ、おばあさまが熱海で冬は過ごしたいと御所望だったので、みんなで熱海に出かけたんですが、ついでに、あなた方と生前、一緒に旅行に行かれた、伊豆の方にも行って見たいとおしゃったので、そちらの方にも暫く逗留してました。伊豆は暖かいし、いや幽霊である私たちにはあまり関係ないんですが、あったかくて天気が良くて、富士山はくっきり、空も海もこの上なく青いでしょう?それに伊豆の山々だって、味わい深い。そ、それに伊勢海老が、そりゃあ旨いし,金目の煮つけも抜群、他の刺身やてんぷらも言う事なしでした、ヘヘヘ」

「そりゃあ云う事なしでしょうよ、しかもタダと来てるんですから、懐の心配しなくて良いんですものね」

「はあまあ。でもおじいさまもおばあさまもそれはそれは喜んでいらしゃいました。で、あんまり居心地が良いので、何もかも忘れて過ごしてたんですが、そろそろ梅まつりがあると言うので熱海に引き返したわけです。はい、梅は匂いが良いですが少し華やかさには欠けるみたいですねえ、でもわたしは好きですよ、ええ、でも、おじいさまはあまり興味を惹かれないみたいで、そんな中、バババーンとテニスコートがあることに気が付かれて、それからは毎日テニスの特訓です。幽霊だから疲れると言う事もないですし、筋肉痛が起ると言う事もありませんが、幽霊になってからと言うもの、いえ、その前からスポーツとは縁のない生活をしてましたから、なかなか上達しないんです。それにしてもおじいさまの元気の良い事、それにテニスが上手いですねえ」

「生きていたら錦織選手には感動したでしょうね」

「いえいえ、ちゃんと錦織選手の事、ご存じでしたよ。彼にはもっと活躍してほしいとか、彼に続く選手がどんどん出て来て欲しいとも、おっしゃっていました」

「で、折角の楽しい一時を過ごしている皆さんには残念なニュースなんだけど、実は私の父が一月の末に亡くなったのよ。それで父はまだ母の所に居座っているみたいなの、だから祖母に言って、母の所から父を私の所に連れて来て欲しいのよ。それに石森さん、父が亡くなったら美味しいソバを御馳走するって言ってたでしょう?まあ父が私の所にやって来てからの話だけど」

「そうでしたか、俺たちがバカ騒ぎしている間にそんな悲しいことがあったなんて、河原崎さんには何と言って詫びたら良いのやら、申し訳ありません、これから急いでみんなの所に引き返し、そう伝えます。女性軍はおばあさまの号令の下、別行動を取っていらしゃいますが、なに直ぐ連絡は取れると思います」

「じゃあ、わたしは家に帰って祖母が来るのを待ってるわ」

杉山君と別れて多恵さんはマンションに帰った。

真理ちゃんが帰ってきた。真理ちゃんは念願の東村君が自分から演劇部へ入る事を希望したのでこの所ずっと機嫌が良い。勿論大好きなじっちゃんが亡くなったのはショックには違いなかったがそれとこれとはまた別問題だ。それにその劇の中で二人はキツネと女の子と言う設定ではあるが、ほのかな愛も垣間見え、手をつないで歌たり踊ったりするすると言う。

その東村君、実はこのマンションに住む伯父さんの所に住んでいるらしい。実際の所、良く本当の姿が分からない少年のようだ。

「あのさ、東村君、お母さんの絵が好きなんだって、今度我が家に連れて来て良い?」

「そうなの?わたしの絵を知ってるなんて、彼は美術界の通ねえ。良いわよ、何の接待も出来ないけど連れていらしゃい」と多恵さん返事をする。

その夜、多恵さんが画布に向かっている時、祖母がやって来た、祖父と言うおまけ付きで。

「多恵ちゃん、お父さんが亡くなったって本当なの?」

「ええ、そうよ。母なんか、おばあちゃんがわたしに世話を焼かせるのが不憫で連れて行ったんじゃないかと、思い込んでるわ」

「実は少しはそれも考えたけどね、でもわたしは定一さんの手を引っ張ったりなんかしてないわよ」

「オイも引っ張っていないぞ。第一彼奴は不甲斐なくてつまらん男ばい、こっちに呼んでも何の楽しみもなかけんね」

「父はね、心の優しい人よ。それに全然欲がない人だったわ、だから父は親からの遺産は兄や妹はそれなりにあったけど、彼は何にもなかったらしいわ。お供えのメロンさえもらえなかったそうよ」

「だから余計腹の立つ、少しでも受け取っていたら、由美はもっと楽が出来たとばい」

そう言われればそうだけど、母もそう決めた父に何にも言えなかったのだ。

「父は仏様のような人だったのよ、ちょっとお酒が自分に合わないと分かっていながら、みんなに合わせる為、酒を飲み、最後にはアル中みたいになって、タバコも中学時代に悪ふざけで吸い出したのよ」

「つまり自分を制御で出来んかっただけの話じゃなかか」

「まあ、仲間に良く思われたかったとさ、それに多恵ちゃんのお父さんなんだからここは仏さんと言う事にしようよ」

この最後の祖母の発言により祖父と多恵さんの口喧嘩は終わりを告げた。

「明日早速由美ちゃんの所に言って、ここに連れてくるからね、ウチさあ、まだ少し熱海であってるショウの続きを見たかけん、これで失礼するよ。あんたもウチと一緒にはよう来んね」

祖父母は消えて行った。

次の日大樹さんと真理ちゃんが出かけた後、祖父母に連れられ父が現れた。

「おう」酒を飲まない時の父はどちらかと言うと寡黙である。

「お前、俺が見えるんだって」

「見えるわよ、声も聞こえるわ」

「ふーん、知らなかった。母さんは知ってるのかい?」

「知らないんじゃない、話したことないもん。でもお母さんはそんなこと知らなくても、元々動物や植物と話しできる人だから、少しも驚かないんじゃないの」

「そうか、そうだな、猫も彼奴の言ってること分かるもんな」

「でさあ、お父さんがお母さんの傍から離れたくないのは分かるけど、折角自由の身になったんだし、少しあの世に旅立つ前に、この世を楽しんでいったら。お父さん船乗りになりたかったんでしょう?今ならその夢かなうわよ」

「一から修業を始めるのか?なんか 面倒だな」

「まあどう云うもんか、横浜あたりに出かけて好さそうな船を見つけて、見学させてもらったら」

その時まで黙って聞いていた祖父が大きく咳払いをした。

「なんだ、お前、船乗りになりたかったのか?それをはよう言わんけん。オイは知ってると思うけど、元海軍の将校やったとばい。船の事も知ってるし、昔の飛行機も操縦したこともある」

「えっ、飛行機も操縦してたの?」

「ああ、戦争中だったから、必要ならさっさと覚えさせて操縦させられたよ、命の保証はなかったけどさ」

「まあ飛行機の件はこっちにおいて、今は船よ。お父さんを横浜へ連れて行って、いろんな船を見学させてちょうだい。もし出来るなら、幻で良いから少しだけ操縦させてやって欲しいなあ。ほかの幽霊さん達とも相談してさ。そうそう、他の幽霊さん達で思い出したわ、その幽霊さん達の中に石森さんと云う生前蕎麦屋さんをやっていた人がいるんだけど、彼が父がソバ好きと聞いて、もし亡くなったら是非自分のソバを食べさせたいと、ずっと死んだ後も修業を続けているのよ。彼、やっと自分のソバを食べさせられるときっと喜んでいるわ、食べさせてもらってね」

「う、うん。俺、ソバ好きだし、是非食べてみたい。何しろ、由美はソバ嫌いだから、あそこにいては中々ソバにはありつけないよ。でも、雄太は結構ソバ好きみたいだから、彼奴が休みの日にはたまにお目にかかれるけどさ」

「じゃあおじいちゃん、おばあちゃん、後は宜しくお願いするわね」

「はいはい、ここからはウチが引き受けたけんね。何しろこの人に任せたら凝り性だから良い加減に出来んもんで、大抵のモンがネばあぐっとよ。だからウチが目を光らせとかんば、定一さんがかわいそうかもん」

本来ならば海に行ける、船に乗れる、もしかしたら念願の船を操縦出来るかもと云う喜ぶべき状況なのに、今の祖母の言葉に父の顔色は冴えない(まあ、もう死んでるんだから、元々冴えていることはないと言うべきか)寧ろ凄く不安そうだ。

そうだ思い出した、父は漢方の勉強に行って帰って来ると2,3日寝込んでしまうので、勉強に行かせるのを諦めたと母が昔いっていたのを。

「あのね、父はまじめに学習するのがとても苦手なのよ。おじいちゃん、スパルタ教育は禁止だからね」

「ほんとに由美はとんでもない奴を選んだもんだ」祖父はブツクサ。そして3人は消えて行った.

父のその後の事が気になって、六色沼公園に杉山君を呼び出した。

「はい、河原崎画伯の呼び出し、嬉しいな。天気は良いし、すっかり春ですね。少しそこいらを散歩しながら話しませんか?」

「良いわよ、わたしの方が用があって呼び出したんだから、その位付き合うわ」

「今年も桜、早いんでしょうね。もう伊豆の方では河津桜が満開になりかけていますよ。おばあさまも女性軍も大満足してます」

「又、熱海や伊豆の方にいる訳?」

「はい、はじめは横浜だったんですけど、おじいさまが話にならんと御父上にお怒りになって。御父上も初めは喜んでいらしゃったんですが、おじいさまの詰め込み勉強にうんざりされてしまったんです」

「そうなるんじゃないかと心配はしてたんだけど・・・」

「で、気晴らしに伊豆の方へお連れしたんです。まあ花見と言う事でこの所毎日お酒が飲めて御父上は上機嫌です」

「そう、大体分かったわ。仕様のない祖父と父だ事。ああ思い出したわ、あのね、ちょっと前祖母と一緒に伊豆旅行したと祖母も言ってたけど、その時、観光船に乗ったのよ。もしかしたらあのくらいの船なら、父にはあってるんじゃないかな。何とか祖父の目を盗んで、あなた方だけでその船に案内してもらえないかなあ。祖母にも協力してもらってさ」

「はあ、そうですね、あのお二方は水と油ですからねえ、今の所」

「ああ、そうそう、石森さんのお蕎麦はどうなったの?」

「ええ、石森氏、張り切りましてね、さっそく作って御馳走しました。私たちもご相伴にあずかりまして、そりゃ旨いソバでしたよ。御父上もこの時ばかりは嬉しそうでした。それに二人とも酒で亡くなったようなもんですから、とても気が合うみたいです、特に酒の話では、ハハハ」

「そうだったのねえ、二人とも酒が原因でなくなったのね」

「それに二人とも奥様に首ったけと云うところも、はい」

「まあそれは良いとして、何とか父にぴったりの船を見つけてあげなくちゃいけないわ。うん、最後の手段は・・・」

「最後の手段は?」

「生きてるときには力仕事はあまりできなかったけど、今は疲れる事もないので、川舟でギッチラコなんてどうかしら」

「はあ、だったらモーターボートなんかも良いですね。あれは自動車の感覚で良いし、おじいさまは運転できないし」

「それ良いかも。祖父が口出しできないのが良いわ」

「これ、そっと提案してみます」

「本当は大型の船で大海原を運行するのが夢だったんだけどなあ、口うるさい祖父がいたんじゃ夢も幻となっちゃたわ。まさかモーターボートや手漕ぎの舟で太平洋を渡るなんて出来ないでしょうね」

「でも、今は霊だけになったんだから出来ない事はないと思いますよ、もう死ぬ事は絶対にないですから。

少し、滑稽ではありますが・・・」

「そうね、もう死ぬ事はないのよね、だったらそれも提案してみたら?一人では滑稽かも知れないけど、みんなで太平洋の真ん中でモーターボート並べて、走らせるなんて楽しいんじゃないかしら?」

「俺たちもモーターボートやるんですか?」

「いや?」

「いいえ、飛んでもない、俺たちも是非やりたいと思っている奴いるはずです。テニスやるよりずっと楽しいですよ。

杉山君、来た時の何となく浮かぬ顔だったのが今は実に楽しそうに見える。

「では、ここは俺っちに任せてください。成果のほどはまたこの次にお呼びいただいた時に」

と勢いよく消えて行った。

「あ、杉山さん、俺たちの事、完全に忘れてる。ね、ね、河原崎画伯、俺たちどうすれば良いんです?」

多恵さんの周りでどよめきが起こった。そうだ、杉山君を幽霊界の師と仰ぐ六色沼の幽霊たちの事を忘れていた。

「うーん、そうね。今、彼はテニスの特訓中なの。だからみんなもテニスを特訓してさあ、彼が戻って来るまで腕を磨いて強くなるのよ。そうすれば、今彼を仕切っているテニス好きのおじいさんを相手に試合を申し込んで、幽霊界のテニス大会が開けるわ。そうすれば、彼もあなた方をきっと見直すはずよ」

「へっ、テニスですか?そんな高尚な趣味の奴いたかな、おい、だれかテニス出来る奴いるか?」

「まずはこの近くにあるテニスコートを探して、そこを見学して勉強すれば良いでしょう?ただこれから日差しが強くなるから、昼間は見学だけ、夜に練習にした方が好いわ」

「へえ、矢張り女の人ですね、細かい所まで気を回して頂いてありがとうございます」

「じゃあ、頑張ってね、どの位強くなってるか楽しみにしてるわ」

幽霊集団も消えた。多恵さんも帰る事にする。もしかしたら真理ちゃんご執心の東村君が今日あたり尋ねに来るかも知れないし。

でもその日には彼は訪ねては来なかった。彼が訪ねて来たのはその次の月曜日だった。

「これ、東京土産です」と彼は噂の通りに美しい眼差しで多恵さんをしっかり見つめながら手提げ袋を手渡した。

「まあ、ありがとう、でも東京土産って」

「ハハハ、おかしいですよね。僕、東京にも親戚がいるんです。今度の土日にそこに行って来たんで・・」

「そう、あ、これ、有名なキックモックのクッキーじゃないの。わたし大好きなの。今紅茶を入れるわね」

聞けば彼の両親は外交官で、今も外国で日本大使として赴任しているらしい。そこにいては余り良い教育が受けられないと日本に帰されたらしい。本当は私立の中学校に入れたかったらしいが、受験までに出国できなくなって、母方の伯父が住んでる所の中学が、公立ながら評判がすこぶるいいと聞いて母方の伯父の所に住まわせたとか。只この冬に編入試験があり、それに彼はパスしたらしい。でも彼はここに居たいと願っている。そこで東京にいる父方の伯父に呼び出されて、こんこんと意見をされ、どうしてもこの春を境に転向せざるを得なくなったようだ。

彼は本当に多恵さんの絵が好きなようだが、今は買えない、一緒に住む母方の伯父は買ってあげようと申し出てくれたが、彼は自分のお金で買いたいのだ。

「僕が自分のお金で買えるようになったら、必ず、また来ます。それまで待っててくださいね」と彼は言った。その言葉が多恵さんに言われたものか、真理ちゃんにも向けられたものなのか多恵さんには分からなかったが、彼が真理ちゃんを好きだと言う事は良く分かった。

彼は帰って行った、多分真理ちゃんへの思いを残しながら。

隣の藤井家の武志君に言わせれば、数年後まだ作家だか詩人か、将又売れない女優になっていたら彼が後ろ盾になってやろう、もし良かったら結婚もしたいという彼の精一杯のアピールだったんだとか。それを真理はわたしは科学者になる、もしかしたらここにはいないかも知れない、なんて彼の夢をぶち壊すような事を

言って彼を追い返したとか。

まあ、みんな青春だねえと、多恵さんは過ぎ去った自分の中学時代を少しだけ思い出していた。

で、父は?多恵さんの父上はあれからどうなった?まだ何の連絡もないというか、遊覧船やモーターボートとかの練習に励んでいるという連絡は受けた。何故か遊覧船の方が父にはぴったりのようで、祖父のスパルタ教育も馬耳東風と受け流して、嬉々としてやってるとか。

真理ちゃんの劇も今日公演、と言う事は東村君ともいよいよお別れなんだ。それについて真理ちゃんは外から見ては全然平気な風に見えるし、寂しいという言葉も増して悲しいと言う言葉も聞かない。多恵さんもその事について尋ねなかった。

東村君がこの地から去ってからの事、真理ちゃんが血相を変えて聞いて来た事がある。

それは隣の武志君の事だ。藤井家は本来は会社の社宅としてそこに住んでいる。だから、藤井氏が遠くの地に転任すれば、そこを引き払わなければならないのだ。その時は武志君も当然引っ越ししなくてはならないのだ。それが真理ちゃんにとっては東村君が居なくなることよりもショックな事なのだった。

小さい時から二人はずっと一緒に過ごしてきた。もう殆ど肉親に近い存在なのだ。でも、何時か二人にも分かれる日が来る、二人が結婚しない限り。多恵さんはそれは言えなかった。

振り返って自分について考えてみても、藤井家がお隣さんでなくなることは、とても辛い事だ。と言うか、考えたくないことだった。今まで藤井家がお隣であることが当たり前であり、それが日常であり何か事が起こればそこへ駈け込めば良いと、脳裏にインプットされているのだ。そう言った事に思いを馳せていたら、多恵さんも真理ちゃん以上に落ち込んでしまった。

「なあに、そんなにしょげ込んでどうしたの?」と藤井夫人から尋ねられた。

「ねえ、3月よ、あなたのご主人、大丈夫?」

「な、なによ、藪から棒に。勿論元気に今日も勤めに行ったわよ。もしかしてあなたの旦那さん、コロナにかかちゃったの?」

「え、いえいえ、そうじゃないの。3月は転勤の季節じゃないの、だからあなたのご主人、無事に又1年、ここいらの職場で済むのかなあと心配してるのよ」

「ふーん、そう、いえ、大丈夫だと聞いてるけど、あなたの旦那、何処か他の大学に行って、それも遠くの大学に行ってしまうの?教授とかになってさ」

「ああ、そういう事も考えられるわねえ、でも哲学科やってるとこ少ないし、内のは今の教授のお気に入りで中々手放さないんじゃないのかしら」

「じゃあ、あなたはうちの旦那の事心配してる訳、あまり話した事もないのに気にしてるの?」

「実は、真理がね、お隣の武志君が引っ越ししていなくなったらどうしようと、心配してるのよ。そこでわたしもあなたがいなくなったらどうしようと思ったの。そしたら悲しいし寂しいし、第一一番の頼る人がいなくなるんだもの、とても心細いわ」

「へっ、そ、そうなの?そんなにわたしの事頼りにしてくれたんだ。わたし、今まで何にもしてないよ、ほんとに。ありがとう、これからはもっと頼りがいのある隣人になるよう努めます」

「ううん、今までのあなたで良いの、十分、十分過ぎる位よ。わたし世間知らずだから、本当にあなたが頼りなの、これからも宜しく」

「こちらこそよ、それに真理ちゃんが武志の事を思ってくれてるなんて、武志が聞いたら舞い上がるわね」

「真理にとって、武志君は本当の兄のような存在なんだと思うのよ」

「そういう事か、でもきっと喜ぶわ、何気なく話しておくわ」

多恵さんと藤井夫人の話は済んだ。これで一応多恵さんの心は落ち着いた。真理ちゃんにも塾から帰ってきたら、話してあげなくちゃいけないわ、彼女もきっと落ち着かないだろうから。

桜が満開になった。そうだ、父の墓所の近くは桜の名所とか聞いてる、真理でも誘って行って見るかと多恵さん彼女に声をかけてみた。「ああ残念でした、わたし、明日、武志君達と横浜に出かけるんだ」とあっさり断られた。うん、娘が駄目なら友達がいるさ。そう、花を描かせたらグループ1の柏木さんだ。

「ねえ、柏木さん、お墓参りに行かない?と誘ったらいやと答えるよね」

「なあに、それ?お墓だって誰のお墓によって良いと思うかもしれないし、そのお墓のある場所でも答えが違ってくるわよ」

「ヘヘ、そりゃそうね。実は名もなき人の墓、わたしの父の墓なのよ。まだ納骨はしてないけど、一応そこに預けてあるの。その墓所のある周りがどうも桜の名所らしいのよ。そこで父の墓参りを兼ねて桜の花のスケッチをしようと思って、娘にさっき声をかけたんだけど振られちゃったのよ。一人で行っても良いんだけど、花と言えば柏木さんでしょう?よって、今電話した訳なんだ」

「明日なの?」

「いや都合悪ければ少しずらしても良いけど」

「うん、明日で良いわ。こっちの方が魅力的だし、勿論お父様のお墓参りでなくて、桜の名所が魅力的なのよ。もう一つの方は例の黒田さんの件で裁判があるとか。で、その傍聴に行こうと友達に誘われていたのだけど・・・」

「ああ、黒田さんねえ。それも心配だわねえ、どうなるのかしら」

「まあ、神経を病んでるのは間違いないのだから、無罪は間違いないと思うわ」

「本人は出るのかしら?」

「分からないわ。たとえ無罪になったとしても暫くは入院しなくてはいけないでしょうね」

「彼女、塑像に今打ち込んでいるけど、絵も上手いんだから、暫く私たちの所にでも入って、絵画の方をやったらどうかしら」

「ええ、塑像をやってるだけあって、人物画は描き慣れてるし抜群に上手いわ」

「もし話せるようになったら、そう勧めてみたら」

「そうね、折を見て話してみる。その方が精神的にも楽だし、きっといい方向に働くと思うわ」

「じゃあ、明日は桜の方で良いのね?ただあそこにはあまり食べ物屋さんも弁当も売ってなかったようだわ、イザナギ駅で落ち合って食料を調達しましょう?」

「ええ、良いわよ。では朝の10時と云う事でどうかしら?」

 翌朝、娘たちはもっと早い時刻に横浜に向け出発したが、多恵さん達は朝の10時にイザナギ駅のコンコースにある、ジャックと豆の木からヒントを得た金属の豆の木のモニュメントの前で落ち合った。

コンビニで弁当やおにぎり、パン、飲み物を仕入れて、先日乗ったニューシャトルに乗り込む。

「昔、これがない時、雪が降ると駅まではバスしかない時代だったから、バスが朝来なくてほんとに困ったそうよ。まるで陸の孤島だったと、独身時代にこの近くの団地に住んでいた伯父の所から通っていた母はこぼしていたわ」

そこの沼地に古代バスを植えてからと言うもの、ちょっとばかし有名になった原市駅を通過する時、多恵さん、母の思い出話を語った。

「母が残念がるのよ、原市にこんな駅が出来るんなら、ここいらの土地を買ったのにって。勿論薬屋をやるためによ。駅ができる前は安くって、その時の貯金で買えたのにって。まあ、だれも教えてくれないから、その土地の所有者とか、鉄道の関係者を知り合いに持っていなければね」

「それはそうよ、土地を持ってる人間は知り合いでない限り売らないわよ、みすみす高くなるの分かっているのに。鉄道の方も鉄道の関係で何かあるんでしょうからね」

目的の駅に着く。道具を背負って降り立って歩き出す。多恵さんの手にはチューリップの花束が握られている。

「お父さんの墓前に供えるの?」

「そう。墓前に菊や百合の花とか、決まっている訳ではないでしょう?チューリップが春らしくて良いなあと思ったのよ」

「わたしもこの季節、チューリップ咲いてるのを見ると、ああ春なんだって感じるわ。如何にも春らしい花よねチューリップって、暖かい感じがするし可愛いくって大好き」

道路の脇には木々が生い茂り、その奥の方は見えないが、時々森の奥に入る細い道があるので、何か建物があるらしい。

「もしかしたら奥の方に喫茶店か何かがあるのかしら。ちょっと気になるわねえ」

「そうよね、この先にはゴルフ場や乗馬クラブもあるし、ほらこの凄い敷地の立派な建物は薬科大学なの、

ここの学生だっているのだもん、なにもない筈はないわよ」

「まあ学生食堂はあるんでしょうが、それだけじゃつまらないわよね、わたし達の学生時代を振り返ってみても」

「あとからちょっと失礼してみましょうか」

「その前にお墓に行きましょうか、右に曲がってちょうだい」

前方に広がる桜の花達を無視して右に曲がる。そこからすぐだと思ったのに少し歩いた所に墓所はあった。前回は車で過ぎたので感覚的にマヒしていたのだ。

「ここよ、でもさ、実をいうと今父は伊豆の方に、例の幽霊軍団や祖父母の霊と一緒に連れだって行ってるの。多分まだここにはいないと思うわ」

「え、伊豆旅行をしてるの?」

「旅行というか、修業と云うか、兎も角船を動かす稽古をしに行ってるのよ」

「船ですって、伊豆に船を動かす稽古に行ってるの?」

「実は横浜の大型船に初めは挑戦したのだけど、祖父がね、海軍出身なもんだから、スパルタでしかも細々とした事までさせるもんだから、嫌気がさして、伊豆の観光船を動かすことにしたのよ」

「成程ね、解るわあ、お父さんの気持ち。日本丸みたいな大型船を軽々と動かしてみたい、大海原を航海したいとなんとなく思っていたのが、一から教え込まれたんじゃあね、しかもスパルタで」

「もともとね、父は勉強すると2,3日寝込む質で、母が父を漢方の勉強会に行かせるのを諦めたくらいなんだから」

「ハハハ、あなたのお父さんっておかしな人」

「でも几帳面な人ではあったのよ、まだ今みたいな状態になるまでは。きれいな字を書いていたし、仕入れの帳簿もきちんと付けてたし、母とは別個に売上帳も書いてたんだって」

共同墓地の花入れには今日もきれいな花が沢山飾られていたが、多恵さんのようにチューリップを持って来た人はいないようだ。

線香をあげてお参りを済ませる。その多恵さんに後ろから声がかかった。

「多恵か?今日来てくれたんだ」

父だ!伊豆に行ってるとばかり思いこんでいた多恵さんビックリ。

先ずは柏木さんに一言、断らなくてはならない。

「あのう、柏木さん、父がねえ、今ここに戻って来たの」

「え、そうなの。伊豆の方は大丈夫なの?」

父の方を見る。

「伊豆の方は大丈夫なのかと彼女心配してるわよ」

「彼女も俺の事見えるのか?」

「ううん、見えないけど、わたしが見える事話してあるし、彼女信じてるの」

「そ、そうか、彼女信じてくれてるのか。じゃあ改めてこんにちわ、柏木さん、多恵を宜しく」

「柏木さん、父が宜しくと言ってるわ」

「あ、はい、こちらこそ宜しく。で今日は船の練習はないんですか?」

父もビックリ、姿も見えず、声も聞こえない人間に、こんな質問をされるなんて考えもしなかったのだ。

「ああそうですね、実は杉山君と云う幽霊さんから、多恵が今日、俺の墓参りをすると言う情報を得まして

じゃ、俺の墓のある所に行こう、そこは桜の名所でもあるから、ついでに花見もしようと言う事になって、こうしてやって来たんですよ」

多恵さんが柏木さんにかいつまんで説明した。

「まあ、幽霊さんたちの花見会なんて」

「彼らは毎年、花見の会を開いているわ。ほら、お酒も御馳走もロハ出し場所取りも要らないでしょう」

「成程ね、じゃあ、わたし達も桜の咲いてる方に行って、彼らみたいに豪勢ではないけれど、ささやかにお弁当を食べて、スケッチに取り掛かりましょうか?」

「ええ、そうしましょう。腹が空いては戦は出来ぬと言うからね」

少し戻って、桜の並木の方に向かう。

「こんなすごい桜の並木があるなんて」

「わたしもこの大木が全部桜だと気づくまで、ちょっと時間がかかったわ。そしてこれは春になったら是非来なくちゃあいけないな、と思ったの。後からここは昔から桜の名所としてこの辺りでは夙に有名だと、知り合いの人に聞かされたのよ」

並木道の中ごろに桜の広場がある。二人はそこに向かう。

「ここが好いわね、桜も風情のある木が何本もあるわ」

「ええ、ここに座りましょうか?日陰になって暑くもないし」

二人はシートを広げ座り込むコンビニで仕入れた弁当を広げる。

「幽霊さん達は何処いら辺にいるのかしら」

「えーと、ほらそこのもっと広い日陰にみんな集まっているわ」

「きっとすごい御馳走なんでしょうね」

「羨ましい?」

「でもお腹は膨らまないんでしょう?」

「そう、全然。お酒もいくら飲んでも酔わないんですって」

「好いような悪いような、やっぱり現実が良いかな。え?何?なんだか、この弁当、凄い御馳走の味がするわ、本当よ」

「それはねえ、この間日光であなたに散々いたずらをした中学生の子たちが、この間の埋め合わせに、あなたのお弁当に自分たちの何処かで仕入れた折詰の味を移したからなのよ。彼女達、この間は御免なさいと誤ってるわ」

「えっ、そうなの。こちらこそ失礼したわ。ふーんそんなことまで出来るんだ、あなた達」

「彼女らもあれから絵や音楽の勉強に励んで来たから、大分冷気が消えて来て、良い霊になりかけて来たわ、楽しみ楽しみ」

二人は弁当を食べ終わり、飲み物で喉を潤すと、それぞれが気に入った場所に移動してスケッチを始める。

多恵さんが選んだのは、がっしりとしたした根の張りがあり所々盛り上がっている太い木で、下の枝が

大きく垂れ下がっていて、心無い人ならば折って持ち帰りたく花の付きようの木だ。

これならばその魅力的な根の張り具合も描けるし、桜の花だけでなく、その枝ぶりも十分描く事ができる。

その向こう側にある林立する桜や、今正に芽吹かんとする木々もバックとして最高だ。

早速若い二人が向こうのグループから離れてやって来る。さっきもちょっといた瑠奈ちゃんと奈々ちゃんだ。

「良かった、今日来て」

「そうよね、おじさん達を中心にした花見だから、あまり乗り気じゃなかったんだ」

「でもさ、輝美さんや美咲さんが熱心に誘ってくれたので来てみたの」

「陽気は良いし、桜はきれい。それにあのもう一人画家の人・・」

「彼女、柏木さんと言うの。あの時をきっかけに、彼女も霊の存在を信じる様になったのよ」

「ええ、みんなから聞いて知ってたわ。だからこの間の悪戯の埋め合わせをしなくちゃと考えて、あの人のお弁当に私たちの煮物をプラスしてあげたの」

「フフフ、そうね、上出来だったわ。彼女も美味しいと目を丸くしてたわ」

「良かった、この間少しやり過ぎたからなあ」

そうする間にも鉛筆でのスケッチは大体書き終わり、後は持って来た水を使って水彩で色を乗せて行く。

「これは油彩の下絵だからそんなに細かく塗らなくて良いのよ。でも桜と水彩の取り合わせって、とっても相性が好いわ、このまま水彩画として仕上げても良いくらいね」

「ええ、とっても素敵。これが下絵だなんて可哀相だわ」

「そうだ、向こうで描いてる柏木さんの絵も見てきたら、またわたしとは別の感覚で描いてると思うの。彼女は花の絵のエキスパートだから、きっと素晴らしーい絵が描けてると思うわ」

「ほんとですか?じゃ向こうに行って、少しの間見学してきます」

二人は仲良く飛び去った。

二人が居なくなったのを見計らって、多恵さんの父上と杉山君がやって来る。

「やれやれ、これであれからの事話せますね」

「ええ、祖父は向こうで誠君と話してるみたいだし、今の内に話して聞かせて」

「はい、あれからおじいさまもおばあさまに注意されて、大分口出しなさることが少なくなって。ね、お父さん」

「ああ、一時はどうなるかと思ったよ。やれ、もっと腰を入れて甲板を掃除しろ、窓はもっとよく磨かないとダメだろうとか。肝心の船の動かし方はそっちのけで指導されて、お父さん、頭痛くなって、いやもう死んでるからこれが全然痛くならないんだな、悲しい事に」

「でも飽き飽きした様子ははたから見ても十分伝わります。そこでおばあさまの提案と言う事で、昔多恵さん達と行った伊豆旅行で乗った観光船にしてみたらと、その観光船にしてみたんです」

「でもおじいさんが口出ししたら同じじゃないのかなあ?」

「所がですよ、おばあさまのお口添えも効いたのかも知れませんが、おじいさまは『オイは観光船は好かん、勝手にしろ』と言われて」それからは一切口出しされなくなっちゃったんです」

「まあ、ほんと。観光船はおじいさんの頭の中にある船とは違う物だったのね」

「俺だって、本当は大型船、豪華な客船が運転して見たかったよ」

「でも、観光船、随分上機嫌で伊豆の海を運行なさっていましたよ」

「ハハハ、運転して見るとこれがすっごく楽しくて止められないんだ。それで思い出したんだが、ほら、みんなで東北の方旅行したの覚えているかい?店に来ていたお客さんが教えてくれた浄土ヶ浜を見に行こう、と岩手県などを旅行したことを」

「まあ、ぼんやりとはね」

「あの時、観光船に乗ってウミネコにパンをやったんだよ」

「ああ、少し思い出したわ」

「だからあの観光船も走らせてみたいと思ってさ」

「そんな観光船なら全国に山ほどあるわよ」

「へへへ、それはそうだろうけど、まずは知ってる所から」

「もし、観光船もだめならモーターボートでも良いかな?なんて杉山君と話していたのよ。モーターボートを他のみんなも練習して、太平洋の真ん中でみんなで走らせるなんて、きっと楽しいわよ。生きてる限りは出来ない相談だけど、空も飛べるし、幻のモーターボートなら太平洋の真ん中に軽々と持って行けるわ」

「うんそれも楽しそうだな。今度みんなで計画立ててくれ、杉山君」

「はいお父さん、喜んで。あー、生きてる時にお父さんと呼びたかったなあ」

「うん?何それ?」

「あ、何でもないの。彼時々変なこと言うけど気にしないで」

多恵さん、慌ててごまかした。

「あ、そのおじいちゃん、いないわねえ、どこに行ったの?」

「あ、おじい様ならさっき大学の中にあるテニスコートを見つけて、誠君とテニスをやろうと誘っておられましたから、多分そっちの方でしょう。誠君はおじい様のとてもいい弟子で、熱心なうえ筋が良いので教えがいがあるとお気に入りです」

「おじいさんはね、この俺にもテニスをさせようとしたけど、俺はサッカー以外、スポーツはやらないと突っぱねたんだ。その後剣道は初段だとつけたしたけど」

「おじいちゃん、良く無理強いしなかったわね」

「まあ、船の事もあったから、そっちの方でしごけば良いと思ったんじゃないのかな。お陰で大型客船で太平洋を運行する夢ははかなく消えたけどさ」

「その内,夢が叶う事もあるわ、諦めなければね」

「でも、今の小型観光船も捨てたもんじゃない。当分これで楽しむよ。もしかしたら、こっちの方が俺には合ってるのかもなあ」

「あ、石森さんが呼んでますよ、飲む相手が居なくて寂しいんですよ」

「そうか、ハイハイ、すぐ行きますよ。石森さんと飲むのは実に楽しい。彼の作るソバも上手いけどね」

父は石森氏の所に飛んで行った。

「女性軍はなにしてるの?」

「いやー、実は我々も含めておばあさまの指導の下、俳句を作っているんですよ。我々幽霊軍団もここに来て大分文化的になってきましたねえ」

「じゃあ、あなたも何か一句読んでみたら」

「えー、一句ですか、そうだな、花の下・・愛しき人よ 現実に なんて如何ですか?幽霊の悲しき思い、伝わってこないですか」

「まあね、じゃあわたしも何か読まないといけないわねえ。うーん・・・」

満開になり始めた桜の花がもうちらほら散り始めている。

「桜散る 芝生の上に 君と吾 なーんてどう?」

「え、ええっ、良いんですか、本当に。たとえ、幻になってしまった俺ですが、この上もない喜びです、みんなに報告して来よう」杉山君は嬉しそうに祖母たちの方へ飛んで行った。

「うーん、おしゃべりばかりして絵がおろそかになってしまったわ、も少し心を込めて書かなければ、柏木さんに叱られちゃうわ」

まもなくしてその柏木さんが、彼女が気付く事のない二人の少女も引き連れてやって来た。

「どう描けた?」 

「まあまあよ、この太い根張りが気に入って描いてみたんだ。花は水彩が相性が好いようだけど、幹や根っこは油の方が感じが出しやすいと思うわ」

「どれどれ、フーム、でも中々の物よ。水彩でこれだけの圧倒的ボリュウーム感、威圧感を出せるなんて、さすが河原崎画伯だわ」

「ありがとう、あなたの絵を見せてよ」

彼女がスケッチした絵を見せた。多恵さん、息を吞む。

小さな桜の花が広いスケッチ帳一杯に広がり、その上に大きく描かれた桜の花が描かれている。その濃淡も色使いもただただ溜息が出るばかり。

「凄いわ、凄いわ。それしか言葉が出てこない。やっぱりあなたは花の名手だわ。こんな桜の大木が居並ぶ中で、その大木には目もくれず花だけに集中して描くなんて。しかも花それぞれが引き立て合ってる。大きい花も小さな花もそれぞれの存在があっての花達よねえ」

「うん、大木に目もくれず、と言う言葉は少しわたしの耳には痛いけど・・勿論根があって、幹があって、枝があって花が咲く、だからあなたの根に注目して描く事こそ本筋なの。でもさ、それを重々分かった上で花だけに焦点を当てて描く画家が居ても良いんじゃないのかなと思ってね」

「たいていの画家、あるいは写真家やアマチュアの絵かきさんだって、満開の桜に出会ったら、矢張り花を中心に描くわよ。満開の花が咲いてるのに、わざわざ根っこや幹を写したり、描いたりする人はいない、でも、あなたのはそれを遥かに飛び越えているわ」

「ありがとう、あなたの批評を聞いて力づけられたわ。そうだ、どうせあなたの周りには誰かいるんでしょう?その人たちにも聞いてみてよ」

「いるわよ、例の女の子達。一人の方が絵に興味があってね、霊界の画家を目指してるから。もう一人は音楽の方が得意らしいけど」

「そう、霊界の画家か。それでお二人さん、二人なのよねえ、私の絵と彼女の絵、見てどう感じたか言って見て」

多恵さん二人に目配せをする。

瑠璃ちゃんが先ず喋りだした。

「はい、二人とも凄く感激しました。河原崎先生の絵からは大地の力強さと春が来た喜びを感じます。柏木先生の絵からは春の喜びと光や愛を只々感じます」

「わたしはメロデイで例えると、河原崎先生の絵は力強いベートーヴェンの曲、柏木先生の絵は明るくて華やか、まるでモーツアルトの曲です」

多恵さんが通訳する。

「まあなんて素敵なコメントなのかしら。ありがとう、二人とも素晴らしい批評家になれるわ」

柏木さんはとても喜んだ。

「さあてここで一寸休憩を入れたら、もう一枚ぐらい描きたいわねえ」

「ええ、朝仕入れたパンやおにぎりを頂きましょう」

二人はシートの上に座っておやつタイムを取る事にした。 

「日が長くなって来て嬉しいわ。それだけ長くスケッチ出来るんですもの」

「ええ、でも家庭持ちはそうはいかないわ。人間も太陽みたいにお腹が空くのを待っててくれれば好いんだけれど」

「そうか、パンやおにぎりだけで満足してくれないかな」

「時にはそう云うのも良いかもしれないけど、栄養学的にはねえ、家庭を任されている身にとっては余り感心出来ないんじゃない?」

「そりゃそうよね、素敵な旦那さんと可愛い娘さんの為、精々頑張って頂だい」

「はいはい、頑張ります。所で黒田さんはどうしてあんな事したのかしら?彼女、今の状態で十分満足してたと思っていたのに」

「そうよねえ、みんながそう思っていたんだけど・・・それがさあ、ここに来て状況が違って来たみたい。

瀬川先生が気が付いたのよ、自分が売れない時、彼をひたすら支えて来てくれた奥さんの事。もう黒田さんとの縁を切ろう、これからは年を取って体力がなくなった奥さんをいたわって暮らそうと決心したのよ」

「まあ、本来なら歓迎すべき結論だわ。もっと早くと言うか、始めからそう思っていたら、黒田さんも瀬川先生、素敵、大好き止まりで済んでいたのに」

「そうよねえ、、黒田さんは愛人と言うより、公の所でも奥さん然として認知されてたし、自分の作品よりも彼の作品が成功するように助手として力を入れてたもの」

「でも助手と言うだけの方が彼女のために良かったと思うわ。その方が自分の作品にも力入れられたでしょうに」

「辛いわねえ、黒田さんには早く立ち直ってほしいわ」

二人は休憩を終わるとまた別の場所を求めて立ち上がった。 

その日はそうやって終わり、二人は又来た道を帰って行った。

「あ、忘れていた、あの森の奥を探検するの」

「そうよねえ、あの若い二人にでも探検させれば良かったわねえ」

帰りのニューシャトルの電車の中で、二人は今日やるべき事の中で一つだけやり残していた事を思い出していた。

「あの森の奥には一体何があるのかしら?」

「とてもミステリアスね、でも秘密は秘密のままにして置いた方が好いのかも」

「今度来る時の楽しみにしとこうかな。でももうあなたは来る事はないかも知れないわ」

「あなたが分かった時点で教えてよ、それで十分だわ。でももし素敵な所だったり、心惹かれる物があるんだったら、その時は又二人で来ようか」

「うん。そうしよう。ここは桜もきれいだけれど、本当はバラ園の方が有名なのよ。バラの花はお好き?」

「バラの花が嫌いな女性は聞いた事がないわ。もし居るとすればそれは心が病んでいる人でしょうね」

「わたし、園芸種のバラも好きだけれど、本当は野バラに心惹かれるんだな」

「あらわたしもよ。今度、野バラの咲く山か高原にでも描きに行かない?」

「ええ行きたいわ。でも野バラの花で有名な所って何処にあるの?どこか当てがあるの」

「そうよねえ、野バラはちょったした丘みたいな所では良く見かけるけど、それ自体が有名な所ってあまり聞かないわね。今度調べてみるわ」

多恵さんの脳裏にふと川西さんの面影が走る。御岳山の帰り際に土手に日を浴びて咲いていた野バラの花を手折ってくれた彼。彼の笑顔が多恵さんを包み込む。ダメダメ、彼はもう過去の人なんだ、今は大樹さんしかいない。多恵さん、頭を振った、少し激しく。

「どうかしたの?」柏木さんが訝しがって尋ねる。

「いえいえ、別に何でもないの。虫が飛んでるみたいだったから。わたしの勘違いだったわ、ハハハ」

多恵さん笑って誤魔化した。

実を言うと夕べも夢を見た。丘に続く道を川西さんとずっと二人で登って来た。所が突如、道は2つに分かれている。どうしても多恵さんは左の道を行かねば目的地に着かないのだ。反対に川西さんは右への道へ行かなくてはならない。

「ではまたね!」川西さんは明るくそう言うと、手を挙げて右の道の方へと消えて行った。

彼にはきっとその先に家族が待っているんだ、わたしは独りぼっち。と涙を流して目が覚めた。

彼に今家庭があるのかないのか、多恵さんには全く分からない。分かるのは多恵さんには大樹さんと言う夫があり、真理ちゃんと言う娘がいる事実のみ。

何という矛盾した夢、もし川西さんがこの夢の話を聞いたら、自分こそと言って怒るかも知れないな。多恵さん思い出し笑いをした。

「何、今度は思い出し笑いなの」柏木さんが呆れかえった。

「うん、夕べ見た夢があんまり矛盾してたのを思い出して」

「へえ、どんな夢」

「自分には立派な家庭があるのをすっかり忘れて、昔好きだった男の人が別の道を通って去って行くのを、ああ彼はわたしを独りぼっちにして自分の家族のもとへ帰って行くんだわと泣いてる夢なのよ。その人が今、奥さんがいるのかどうかも知らないのに。彼がそれを知ったら怒るだろうなと思って、彼が今も好きだと言ってくれたのに、大樹さんを裏切ることは出来ないと、別れてしまったのはわたし自身なのによ」

「うーん、そりゃ怒るよ。でもさ、それって黒田さんに置き換えてみたら、彼女こそ、長い道のりを只ひたすら瀬川先生に尽くして歩いて来たのに、じゃあ、ここでと彼女を残して去って行ったんだから」

「ああ、そうか、あの夢は黒田さんと瀬川さんの代理の夢だったのねえ。これで納得したわ。うん、そう云う事で川西さんも許してくれるかな?」

「川西さんて言うの、元カレの名前」

「え、元カレ?そんな軽いもんじゃないわ。ずっと好きだったのに、彼の本心が分からなくて、わたしは

心を埋めるべく次々男の人と付き合ったわ。そうこうしてる内に彼の事殆ど忘れていた頃に大樹さんと出会ったのよ。わたしは大樹さんと付き合うと決めた時、心に誓ったの、もう誰の心も裏切りません、とね。だから夕べの夢だって、大樹さんに悪いなって思っていたのよ。川西さんは怒るわ、大樹さんは裏切るわ、ほんとにろくな夢ではなかったのよ」

「ハハハ、ほんとに黒田さんと瀬川先生の代理の夢と云う事に落ち着いて八方丸く収まるのね」

電車はイザナギ駅に到着、二人は別々の電車で帰るのでここで分かれる。

「野バラの花が描ける所を探して置くわ。この暖かさだもの、きっと野バラも早く咲くと思うから、すぐ出発できるように準備しててね」

柏木さんはイザナギ駅の中にある何処かで食事をして帰るとかで消えて行く。多恵さんも付き合いたかったが、そうもいかず我が家を目指して帰って行った。

それから暫くしてから、別の友人から黒田さんに無罪の判決が出たけれど、大分精神的に不安定だから,ここ暫くは入院生活が続くようだとの知らせを受けた。

「もしかしたら、伊豆かどこかの療養所に移って暮らすことになるかもね」

「そう、その方がこっちの病院にいるより良いかもね。向こうは景色も良いし、彼女の画家としての魂が目覚めるんじゃないの?」

「ええ、わたしもその方が好いと思うわ、費用は瀬川先生が持つようよ。何しろ瀬川先生が一番悪いんだし、今までかけた苦労に少しは報いなくちゃあね」

「そうよねえ、その位してあげなくちゃ、彼女があんまり可哀相だわ。早く心の傷が良くなって、と言うか傷はずっと残るでしょうが、少しでも回復して絵を描けるようになったら好いわね」

「わたしもそう願っているわ。何しろ彼女、塑像を始める前は抜群に油絵、上手かったんだから」

「そうよ、特に人物画は上手だったわ。でも今は風景画や静物画の方が精神的に良いと思う」

「そうよね、お世話する人に一言言ってたほうが良いかも」

「お世話する人を知ってるなら是非伝えて頂戴。それで、良い絵が描けたら我々のグループに入って、活躍して欲しいわ」

黒田さんの事はとても気がかりだったが、暖かで(少し暑過ぎかな?)穏やかな日々を送る多恵さん達には彼女の心の闇は分かりかねた。あんなに才能のある女性が、いくら尊敬し深く愛してるからと言って、彼が妻の元へ戻って行く事に逆上し、その女性を傷つけるなんて。辛い気持ちは分かる、でも彼の不遇の時代を支えて来た人の元へ帰って行く事を承知し、自分は頭を上げ、今こそ自分の才能をきらめかす時と考えなかったんだろう?見舞いには行きたい、でも彼女の心を理解しない今の私が見舞いに行って良いのだろうか?

それに加えて、わたしには彼女が手に入れたかった物、温かな家庭を持っているのだ。

多恵さんは今は行かない決心をした。彼女の心がもっともっと落ち着いてから、それがいつになるかは分からないけど、彼女に会おうと多恵さんは思う。冷たい奴、薄情な奴と思われるかもしれないけどそれで良いのだ。遠くから彼女の回復を願おう、出来たら素晴らしい作品も描いて欲しい、瀬川先生を見返すぐらいの。

数日後、今度は柏木さんからの電話だ。

「どう、桜の絵は描けてる?」

「うん、まあまあね。あなたはどう?あなたのあの幻想的な桜の絵、他人の絵ながら油絵でどう仕上がるのか、とても楽しみよ」

「へへへ、ありがとう。秋の展示会を楽しみに待っててね。所でさあ、野バラの咲く所、探したわよ」

「近場で良い所見つかった?」

「ハハハ、見つかったも何も、うじゃうじゃよ」

「うじゃうじゃですって」

「そう、もしかしたら、あなたの近くにも咲いてるかもね、ほんと」

「うーん、、もしかして六色沼公園にも咲いてるって事?」

多恵さん、公園のあちこちに思いを馳せたが野バラの花が咲いている所には行きつかなかった。

「それは分からないけど、あなたが昔描いてた春山公園のあたりの河川敷に、沢山咲いてるらしいわよ」

「あら、そうなの。全然気が付かなかったわ」

「あなたは風景の絵を描くでしょう?風景の中の白い花なんてあまりその花が何の花か気に留めないで描いてるのよ、そうでしょう?」

「うんそう言えば白い花なんてのは多い色だから、風景描く時は全然気にしないわ」

「都内でも沢山あるけど、足が良いのは新宿御苑とか目黒の白金台にある科学博物館の附属自然教育園、それに田園調布のせせらぎ公園と言うとこかな」

「ふーん、新宿御苑はまあよく行くけど、他の所には行ったことないわね、白金台も田園調布にも」

「そうね、まあ、附属自然植物園にはわたしの絵の性質上、2,3度行った事があるけど、田園調布なんて全然、掠った事もないわ」

「掠ったと言えば、母の祖母の家が鹿児島のお酒の醸造元で、その子供が本社を東京に移し、確か母の従兄と親族がその田園調布に住んでるの。小さい頃一度だけ親戚の集まりで都内のホテルで会ったことがあるけど、それ以来全く音沙汰なしだわ」

「へええ、そうなんだ。気さくな親戚だったら絵を買ってもらえるのにねえ」

「いやだあ、袖にすがってまでして絵を売りたくないわ。それに気さくどころか多分、お高く留まって私たちの事見下してると思う。元は同じ家に生まれ、一人は男、一人は女だっただけの話じゃないの、そんな性格の人となんか付き合うなんて、こちらから願い下げよ」

「ハハハ、珍しく河原崎画伯が怒ってる。うん、こりゃ過去に何かいやな事があったに違いないわ」

「別になーんにもないわよ、ほんと」

「じゃあ決まり、その田園調布にこちらから乗り込みましょうよ、そこには時期的になんじゃもんじゃの木に花が咲くらしいし、カルミアやブラシの木にも花が咲いてるらしい」

「ふーむ、なんじゃもんじゃの花か、それは少し魅力的だな。まあカルミアは華やかではあるけれど、ここいらにも結構咲いてる・・でもブラシの木の花って一体どんな花?」

「そう聞かれると思ったわ。これが傑作なの、見た目がね、赤いブラシにそっくり。花としては精いっぱい美しく咲いてるのに、あのビンを洗うブラシに例えられるのはきっといやあなこったと思ってるわよ」

「赤いブラシなの、大体検討はつくわね。でもきれいかも知れないわ、名前がなければ。とにかく変な名前の植物があるとこなのね」

「ここは近くに玉川が流れていて、多分風光明媚な所だと考えられる。風景画家のあなたをきっと満足させてくれると思うわ」

「うん、この所スケッチ旅行にも行ってないし、近くはあるけれど、少し遠くて知らない所に行くのは気分転換になって、良いかも知れないわ。そうしようか?」

多恵さんも承知した。

5月の連休明けに出かけることに決める。玉川とはよく聞く名前ではあるが、恥ずかしながらまだお目にかかった事もないし、勿論そこに降り立った事もなかった。色んな情報通によると本当に風光明媚な所が、まだ各所に残っているとか、それに川の周りには昔ながらの虫や植物も沢山見られると言う。どうも柏木さんはこれがお目当てなのかも知れない。

新宿の北改札口で落ち合う。この賑やかな新宿の駅の中でも、どう見てもおしゃれとは縁遠い服装をし、黒い帽子をかぶり、大きな絵描きの道具を詰め込んだリュックを背負った姿は奇異に目立ち、二人は苦労することなく相手を見つけ出した。まあ山登りをするらしい人も見受けたけど・・・

「東急線に乗るのね」

「その線の多摩川駅で降りるのよ。まあ長旅とは程遠いけど、一応初めての所を行くんだから窓の景色を楽しもうか?」

折角の柏木さんのアイデアだったけれど、あまり楽しむような景色は存在しない。

多摩川で降りる。多摩川の両岸は野球の練習場とかテニスコートになっていて、球技には興味のない多恵さんとしては、折角の川辺の景色が半減どころか壊滅感さえしてがっかりさせられる。それを感じた柏木さんは「大丈夫、その分せせらぎ公園や宝来公園が埋め合わせしてくれるわよ」と慰めた。

「ええ、解っているけど、きちんと整備された処でなく、川辺の自然な風景の方がわたしの心を打つのよねえ」

「まあ、東京の一等地で贅沢は言いなさんな。公園でも十分自然が生かされていると思うわ」

「うん、仕方がないか、ここは東京だものね、まずは公園に行って、心打つ物や場所を探しましょうか」

「はーい、画伯は物分かりが良いわ」

「物分かりが良いと言うより、諦めが早いと言ってちょうだい」

「と言うのは心の中に不満分子が渦巻いていると言う事だな。じゃあさ、ここを描いたら伊豆の方に行って見ない」

「え、今日行くの?」

「ま、まさか。勿論日を改めてよ。ほら黒田さんが療養してるとかいう病院の近くだったら、山にしろ海にしろ、あなたの好きな手つかずの自然が一杯残っているわよ」

「黒田さんの見舞いを兼ねて行くの?」

「ええ、勿論よ、折角行くんですもの」

「黒田さん、わたしが行って喜ぶかしら?彼女さ、心が傷つかないかしら、今家庭を持つと言う事に絶望しきってると思うの。そんな彼女の前に、夫があり子供まであるわたしが行くことは、少なくとも1、2年は遠慮すべきじゃない?」

「ふーむ、成程ね。じゃ、こうしましょう、一緒に療養所のある所まで行ってくれない?伊豆の先端にあるとか聞いたその場所まで、一人ぼっちで行くのは堪らないわ、他の友人を誘っても良いけど、行きがかり上

やはりあなたと行きたいわ。あなたは私が見舞っている間、好きな所で好きな景色を描いてれば好いわ」

「そうね、それなら好いわ。私も彼女の様態は知りたいの、どうしてこのような事に至ったかも。でも、彼女が話したくないなら無理に聞き出さなくても良いわ」

「それはわたしだって同じよ。それが分かれば慰めようがあると言うものじゃん」

せせらぎ公園に入って行く。木造のような感じで、一面のガラス張り3階建てで細長い建物がある。どうして細長-いのかと言うと、昔の日本建築に良く見られた縁側をイメージし建てられているからだそうだ。

その建物を取り囲むように草木が植えられていて、その中には「せせらぎ」の名の由来となる小さな滝や水の流れが、今日のように晴れ上がった日にはとても嬉しくありがたい。これから真夏に向かう日々、今よりずっと喜ばれる事だろう。

「あ、カルミアの花ね。みんなが写真撮ってるわ、矢張り一番人気ね」

「珍しい花の形だしきれいで華やか、群を抜いて目立っているわ」

「そうね、なんじゃもんじゃの木は一頃新聞に書かれて巷をさわがっせたけど、今も健在よね、当たり前だけど」

「あ、あれがブラシの木ね、ほんと赤いブラシそっくり」

「目的の野バラは何処?」

「野バラはこの森の入り口の所で見かけたけど他にもあるかな?」

「野バラは日当たりを好むでしょうから、矢張りこんな木が茂った所より、入り口とか木の茂みが切れてる所に咲いてると思う」

一通り公園内を散策した後、野バラの花の元ヘ戻る。時期が合わなかったのか、やや花数が少ない。

でも二人は張り切った。多恵さんは少し離れた所から、柏木さんは花にぐっと近寄った所に陣取る。

「野バラの香り迄描き込めたら素晴らしいだろうな」

「ええ、そうねえ、香りを色で表すのは幾ら柏木画伯と言えど難しいでしょう」

「うんまあそれはそうだけど、挑戦したくなる。かおり、匂い、うーん、難しいどうすればそれを伝えられるんだろう、こんなに清々しい匂いがしてるのに」

「一生懸命描いていれば、きっと柏木さんの事だもの、花の匂い迄描けるようになるわ」

「そんなに言ってくれるのは嬉しいけど、今はとても無理、精々頑張ってその清純さをスケッチするだけだわ」

2,3枚のスケッチを書き上げた所で例の建物の中でお昼を済ませた。

「お昼から腹ごなしもかねて宝来公園まで行きましょう。中々素敵な公園らしいわよ、野バラは咲いていないかも知れないけど」

「ええ、そうしましょう。如何にも田園調布にふさわしい名前だし」

「ハハハ、そういえばそうね。金ぴかの東屋が在ったりしてね」

「そ、それは御免こうむりたいわ、そんなの絶対いや」

「嘘よ、寧ろ自然を生かしたあなた好みの公園よ」

本当にそうだった。多恵さんの好みにぴったりの場所だ。池のような沼のような水辺を取り囲むように木々が生い茂り、あるものはその上に枝をしならせていているものも多く見受けられ、多恵さんの心を轟かせるようだ。

「わたし、何故か水辺に垂れ下がっている木を見ると、今まで一度もこんな所に住んだことないのに、小さい時にこう云った気によじ登って遊んだ気がしてならないのよ。勿論こんな深い水辺でなく、浅い小川なんだけど。不思議よねえ」

「あら、好い思い出!」

「だから気がするだけで思い出じゃないのよ。ほんとに川や水辺には縁のない場所に住んでいたし、小川のあるような所にも連れて行ってもらってないんだから。秩父の川には岩はごろごろしてたけどこんな木は皆無だったし、湖にもあっちこっち行ったけど、こんな情景に出会った覚えがないもの。多分、映画のシーンを自分の記憶として認識してるのかも知れないなあ」

「でも今は水辺に住んでいるじゃない、六色沼だっけ?」

「ハハ、あそこはあの景色に魅かれて無理して買ったんだけど、でも木が生い茂ってもいないし、木が垂れてもいないわ。どちらかと言うと六色の方が陽とすればこっちは陰になるのかしらね。でもどちらも好き」

「フフフ、でも陰にしては黄菖蒲が沢山咲いてるわ。特に池の真ん中の島みたいになってる所に」

「ええ、是非これを描かせて頂きましょう、木の茂り具合も丁度好いわ」

「そうよね、あなたにはぴったりの地点だわ。わたしはも少し、あっ、あそこが好いわ、岸辺に咲いてるあそこをアップにして、それからバックに大群を描き込みましょう」

「じゃあ暫く離れて、お仕事しましょうか」

二人は2,30メートル程離れて自分の構図に取り掛かる。

多恵さんのいる処は木々の日陰になって、時折吹く風が気持ちよい。

一枚目が終わる頃、柏木さんも描き終えたらしくこっちにやって来る。

「どう調子は?ああ、す・て・き。でもここは丁度日陰になって描くのに最適なんだ。わたしの所なんか結構日差しが強くて、すっかり喉乾いちゃった。少し休憩にしない?」

「大賛成!せせらぎ館でうどん頂いたけど、麺類は消化が良いのか、お腹空いたわ」

「わたしはだから、カレーにしたのよ。でも喉も乾いたけどお腹も空いたわ」

「じゃあ、おやつタイムといたしましょう。食べ終わったら、もう一枚ぐらいは描きたいものね」

「うん。つつじの花も綺麗だから、今度はつつじに挑戦しようかな?」

「あ、わたしもそう思っていた所なの。緑の多い水辺に咲くつつじ、色合いも好いしもう構図的にも文句なしだわ」

「今度はも少し日陰の所で描こう」

「あなたは花をアップで描くから、どうしても日の当たる所になるのよ、天命と思って諦めなさい」

「おお、冷たい言い方。ほんとそうなんだ、お陰で日に焼けて日に焼けて、真っ黒よ、ハハハ」

二人は用意してきたおにぎりやパンを平らげ、飲み物も2本ずつ飲み干した。

「さあて、また仕事に戻りましょうか、でもこの頃は日が長くなって来たので、これだけは助かるわ」

柏木さんはあらかじめ決めていたらしい場所へ向かう。さっきの黄菖蒲の花より少し奥まった所で、赤いつつじ(もしかしたらさつきかも知れない)が密集して咲いている所だ。多恵さんはやはり岸辺に咲いてる場所を探してアングルを決める。つつじだけでなく、菖蒲の黄色もちらほら見えて、それでいて決してけばけばしくないのが多恵さんにはありがたい。

「も少し先に行くと轟渓谷と言う景勝地があるけど、今日はとてもいけないわ、この水系もそこに繋がっているのよ、確か。昔、昔、ここいら全体が、きっと景勝地だったんでしょうね」とここに来る途中に柏木さんが教えてくれた。

「多摩川も今は運動場ばかりだけど、ずっと上流の方に行けばきっとわたしを唸らせる景色があるに違いないわ。何時の日か描きに行ってあげるわ、それまで、どうか、これ以上、人の手で壊さないで欲しい、持ちこたえて欲しい。待ってて名勝たちよ」

そういう祈りを込めて多恵さんは絵筆を動かす、その面影を微かながらも残しているこの景色を描きとどめようと。

その日はこうして穏やかに過ぎて行った。

その日から2,3日後、ベランダから公園を覗くと,何と下で杉山君が手を振っているではないか。

ふーん、この間は黙って田園調布あたりに出かけたのが面白くなかったのかな?と多恵さんは考えた。

でも、この所、彼らの方がわたしを置き去りに、頻繁にあっちこっちに出かけてるじゃないか、文句を言われる筋合いではない。いろいろ考えつつ外に出て、公園の方へ向かう。

5月と言えど、日差しは強く真夏並みの暑さを感じる。

「なあに、今日はどんな御用ですか?」

「どうしたんですか、ご機嫌斜めですね?」

「ううん、別に機嫌を損ねてなんかいないわよ。只どうしたのかなと思っただけ。今日はテニスの事、それとも父の船の件、将又みんなのモーターボートの件?」

「いやあ俺達っていろんな問題抱えているんですね。そうか、そうなんだ、さらに問題を作ったら怒ります?」

「どんな問題かによりけりよ」

「そりゃそうですよね、実は石森さんが終にお店を開くことになりまして」

「えー、お店を!幽霊のお蕎麦屋さんなんて聞いた事がないわ、落語か何かにあったかしら?」

「俺もそれは分り兼ねます。只御父上や他のみんなが、彼のソバがこの所めっきり上達して上手くなったと褒めまくるんでね、じゃあ店でも開こうかと言う事になったんです」

「で、どこに開くの」

「そりゃ決まってます、ここですよ。ここは俺の仲間がうようよいますからね、客には困らないと言いますか、旨いソバに飢えてる奴が結構いるんですよ」

「まあ、関東はソバ好きが多いからね。でもここで蕎麦屋をやるとなると、それも夜やるんでしょう?うーん、煩くなるんでしょうね」

「で、考えたんです、一週間に一日だけにしようと。河原崎さんの迷惑にならないように、あなたが寝た後に開店すると言う事に」

「へえ、わたしが寝た後ね。まあそれならいい事にしましょうかね。で父はどうしてるの?」

「はいお父様はすっかり伊豆が気に入られて、みんなを乗せて毎日のように遊覧船を走らせていらしゃいます」

「はあ、あの何でもすぐ飽きっぽい父がねえ」

「おかげでモーターボートを稽古する暇もありません。だからみんなで太平洋上でのモーターボートを突っ走るのは一時休止と言う事に。それからテニスですが、誠君を始め良介君、輝美さんに美咲さん、ヘヘそれに俺もそこそこに上手くなりましたよ、俳句の方は今一だけど。おじい様の方はご満悦、おばあ様の方は少し、ご機嫌斜めでしょうか?おじいさまはやっぱりスパルタの方が上達は早いと、威張っておられます」

「まあ、困ったおじいちゃん。そうそう、あなたを慕うここ界隈にいる幽霊さん達もテニスが上手くなってあなた方と御手合せしたいと頑張ってるわ」

「成程、そういう訳か。何時もならここに帰って来ると、ベタベタまとわりつくのに、このところ帰って来ても、挨拶程度で偉く冷たいんだ。いや幽霊だから冷たいのは元々ですが、なんかこそこそそわそわしてるんですよ。テニス上手くなりましたか?って聞くから、吃驚するほど旨くなったから今度、ここいらのテニスコートで披露してやると言ったら、なんか悲しそうな顔して、みんなでこそこそ話しているんだ。その後、じゃあ私ら、ちょっと用があるから失礼しますと言って消えてしまいやがる。ほんとに冷たいでしょう?」

「だから彼らも早く上達して、あなた達と試合したいのよ。分かるわあ、彼らの気持ち。だって長い事あなたにほったらかしされていて、しょげ返っていたもんだから、わたしがあなた達がテニスの稽古をしてるから、彼らもテニスが上手になって試合申し込んだらって言ってやったの。彼らは強くなってあなた達を負かしたいのよ」

「へえっ、そうだったのか、じゃあ、さっき旨くなったなんて言わなきゃよかったな。うーんこれからテニス、少し熱心に練習しなくちゃ恥をかく事になるぞ」

「じゃあ、これから精々テニスの練習頑張って頂だい。あ、それから私、例の柏木さんと二人で伊豆の方に旅行に出かけるけど、付いてこないでね」

「え、そんなあ、一緒に行きたいですよ」

「何よ、あなたたちは冬から今までずーっと伊豆にいたんじゃないの、何も今更わたしと旅をしなくても良いんじゃない?」

「それは・・・あなたのおばあさまの要望やお父様の船を乗り回したいとかの要望などを取り入れたら、こうなったんです。俺たちはあくまでも河原崎画伯と旅をしたいんです」

「でも、誰の要望だろうと、そこを旅した事に違いはないと思うけど、それでも行きたい訳?」

「生きてる人間と魂だけになった者とは、少し感覚的に違うんです。それに伊豆と言っても広いし・・山も沢山あるし、周りはぐるりと海ですよ。温泉だって数知れずです」

「そう言われればその通りだけど,まあ付いて来たければ、どうぞと言うしかないわね」

「ヘヘ、ありがとうございます。でも付いて来るなとと言われても付いて行きますけどね、ハハハ」

 伊豆への1泊旅は次の週に決まっている。ただその療養所は伊豆の最南端、下田からさらに車で30分程かかる所にあった。海を見下ろす山の中腹に立つと言う。

「下田だって電車で行っても2,3時間かかるわ。それからバスに乗り換えて・・」

「仕方がないわ、レンターカーを借りましょうか」

「わたし、もう長い事運転してないわ」柏木さんは不安そうに言う。

「わたしは実家の車をしばしば使って練習してるから、そんなに上手くはないけどまあまあ大丈夫だと思うわ。それにこっちより車少ないし、シーズンオフでウイークデイだから」

「じゃあ、運転任せるわね。その代りほんの少しだけレンターの料金多く払うわ」

「良いわよそんな気を使わなくても。半分子にしましょう。その方が気が楽だわ」

「そう、では何かで埋め合わせするわ。と言っても大した事が出来る訳じゃないけどさ」

「ハハ、だから気を使わないでと言ってるでしょう。まあ飴玉1個ぐらいで良いかな」

「じゃあ、そう云う事で。明日東京駅の中央改札口に7時集合よ」

 久しぶりの外泊のあるスケッチ旅行だ、多恵さんの心も弾む。柏木さんは他にも黒田さんを見舞うと云うちょっぴり重くて薄暗い用件もこなさなければならないから、多恵さんのように底抜けに明るく楽しむのは無理だろうと、多恵さんは友を気遣う。

熱海を過ぎればもう伊豆だ。青い海が日差しを受けて煌めく。真夏ではないけれど、そんな気分がする海と空の景色だ。

「わたし、朝ごはん抜きできたの。さっき東京駅で買った弁当を失礼して食べるわ」と柏木さん。

「ミーツー。わたしも同じよ、東京駅で仕入れた弁当よ。奮発して松花堂風弁当にしたわ」

「風と言うのが味噌なのね」

「ええ、言い切っていないのが偉いのよ、遠慮深くて。でも値段はそれなりにしたわよ」

多恵さんが弁当を開くや否や、祖母の声が響いた。

「アッそればいそれ。あれは何時だったかなあ、小学生の雄太君もいたしまだ前のパンダが生きていて子供もいた頃の話、こっちに来て長崎に帰る時にさ、夜行寝台に乗る前に動物園を見学したと。パンダの子供がいたずら盛りでさ、良か冥途の土産が出来たと思ったとよ。そして列車に乗り込んだ時由美が買って来て呉れた弁当がそれやったとばい。ホントに美味しかけん、はよ食べてみんね」

「うんじゃあ食べてみる」祖母の声に返事をすると弁当に取り掛かった。

「美味しかろ、本当に」

「うん、本当に美味しか!」

「なあにさっきから・・ははん例の人達ね、矢張り現れたか。この間は現れなかったみたいだけれど」

小声で話していたけれど、柏木さんに感づかれてしまった。

「祖母がねえ、この松花弁当を長崎に帰る時、東京駅で母が差し入れたんだって。だからその時を思い出して現れたのよ」

「今回はおばあさま一人なの?」

「うん今は一人みたい、それも声だけよ」

「ふーん、透明人間ならず、透明幽霊か」

「ハハハ、でも祖母は幽霊じゃなくて霊なのよね、それにもともと霊には姿はないから、あるとしても仮初の姿なのよ」

「仮初の姿か、同じ仮初の姿なら若い頃の姿が良いわね。うん出来たら絶世の美人の姿が良いわ」

「そしたら相手に認識してもらえなくなっちゃうわ」

「うーむ、それは困るわねえ。仕方がない、若い止まりにしておこうかな・・精々プチ整形したぐらいは美人になるのは構わないと思うけど」

「ハハハ、死んでなんかお前、随分美人になったなあ、なんて霊界で評判になったりして」

伊豆は好いなと多恵さんは思う。気候は温暖、海もあれば山もある。おまけに温泉もある。反対側だと富士山も眺められる。でも地震と云う怖い副作用もある。何もかもが全て良し、という訳には行かない、何事にも。

「母はね、長崎で育ったでしょう。長崎は海もあるし山もある、それが今は海もなければ山の姿さえ見られない所に住んでいるのよね。昔、結婚した当初は、六色沼の近くに住んでいたから、六色沼を海と思い、冬には遠くに見える富士山で山への思いを満たしたんだって」

「まあ、そうなの。何だか泣ける話ねえ。私は小さい時からこっちに住んでるから、全然そんなこと感じないけど、小さい時海あり山ありの所で暮らしていればそう感じるのかしら」

「わたしもずっとイザナギ市で育ったから、母の気持ちは分からないわ」

「そんなに山や海のある所に住みたかったら、なぜ川崎や横浜に結婚する時、住まいを移さなかったのかしら?」

「母は実を言うと、そちらの方に住みたかったので希望を言ってたのだけど、父が勾玉の人で父方の祖父母も勾玉の人だと言う事で、そこから離れるのが嫌だったらしく、さっさと一人でアパートを探して契約して来たんだって」

「そうかー、男だったら冒険してみたいと思わなかったのかしら」

「思わなかったらしいわ。お店を持つ時も母が神奈川県の何処かを希望してたけど、父は無視して親戚の不動産屋に頼んで今の所に決めたらしいの。父に言わせれば、神奈川や千葉は海からの風で車が傷みやすいからって事らしいわ」

「それだけの理由でなの?ちょぴり可哀相なお母さん」

「下の大伯父さんがもっと早く川崎の方にマンション買ってれば、母の運命は大きく変わていたでしょうね。配属が勾玉から神奈川になるわけだから、父と母は巡り合う事もなかったでしょうから」

「じゃああなたも存在しなかったかもねえ、ほんの少しの違いで、その人の存在さえも無くなるなんて、考えさせられるなあ」

電車は終着駅下田に着いた。今日も実に良い天気で暑いのが心配なくらいだ。

「少し買い出しして、ついでに軽くお昼を済ませてから車借りましょうか?」

二人は駅の前をうろうろ。見つけたスーパーで飲み物やおにぎり、パンお菓子などを仕入れる。黒田さんへの見舞い品はそれぞれ前もって買っておいたので心配は無用だ。

ラーメン店を見つけてそこに入る。

「あ、ここ茎若芽があるわ、これもらおう」

「わたしも茎若芽、大好物なの、ミーツーと言う事で。茎若芽ラーメン2つお願いします」

下田は海の傍にあるからか、わたし達の話を聞いていたからか、想像以上に茎若芽がたっぷり入ったどんぶりが目の前に現れた。

「わあー凄い」

「大サービスね、いただきます」

二人は軽くお店の人に頭を下げて茎若芽ラーメンを食する。

「美味しい、とっても。茎若芽のコリコリした何とも言えない歯ざわり、スープも美味しいし、ラーメンもつるつるしこしこ、すっごく美味しい」

「ミーツー、ミーツー。ベリーグッだわ」

「うん成程、下田は初めてアメリカの船が寄港したとこだもんね、英語を使わなくちゃ」

「あ、ダメ。わたし英語苦手なのよ、これ以上続かないわ」

「私も同じなの。娘の転向して行ったボーイフレンドが、娘の英語が上達するようにと、英文の手紙をよこすの。お母さん訳してー、て言われるんだけど、なかなかねえ難しいのよ。何しろ相手は外交官の息子でこの間まで外国暮らししてた子だから」

「成程、そりゃ難しいわ。外交官の息子か、娘さんその子と思い思われなの?」

「うーんどうかな、分からない。なんせ、娘には沢山の男の友達がいるから」

「ふーん、持てるんだ。お母さんと同じかな?」

「わたしと?」

「そうよ、他に誰がいるのよ、お母さんと呼べる人が」

「娘はね、まだ精神的にまだ子供の次元から抜けきっていないのよ。だから男の子も女の子も同じ感覚で接しているの。でも相手はそう考えてはいないのね。良いような悪いような気持ちでわたしは見てるの。今は和気あいあいでやってるけど・・・」

「うん、少し心配ね。そのまま麗しい友情で過ぎて行けばいいけどさ」

「そうであって欲しいと、親は祈るのみよ」

御馳走さまとラーメン店を出て、いよいよレンターカー探しだ。

「はいレンタカーですね。それならええっと、ほら向こうの少し広くなってるん所にありますよ」

出たー、杉山君だ。

「向こうの広くなってる所なの・・ほんと有ったわ、ありがとう」

「今度は誰、だれがでたの?」

「今度は腐れ縁の杉山君、前も店探し手伝ってくれたから・・」

「ああ、鎌倉でお世話になったわねえ。腐れ縁て言ってるけど、彼はあなたが今も好きなのよ、涙ぐましいほどに」

「でもわたしは彼が自分の奥さんの所に戻って欲しいの、娘さんもいるんだから」

「中々複雑なんだ、娘さん迄いて幾ら初恋の人と言えど、ずーとあなたの傍にくっついているなんて」

「わたしが初恋の人だなんて、それは全然聞いていないわ、単なる片思いよ。彼に言わせれば、わたしの笑顔を見てると彼の持病のうつ病が治りそうな気持になるんですって」

レンタカー店に入る。

「わたし、1度真っ赤な車に乗りたかったんだ」柏木さんの言葉だ。

そう言えば、長野のビーナスラインを走らせたのも赤い車だった、と多恵さんは思い出した。

「真っ赤ねえ、消防自動車みたいなの?」

「違うわよ、も少し暗くって、ああ、これが良いわ」

「ワインレッドね、女性の好みって似たり寄ったりってとこ、わたしの好みも同じだわ」

お店の人も笑っている。

「ええ、この色の車はご婦人に特に人気があります。家ではみんなの好みに合わせているけど、旅をする時ぐらいは自分の好みに合わせて欲しいと言われて」

「それに赤い色は目立つから、事故予防にもなると思うわ」

一寸これから療養所に見舞いに行くのには気が引けるが、それには目を瞑ってもらおう。

一応お店の人に療養所の場所も確認して、いざ出発。

「本とあなたと旅行するって、晴天続きで助かるわ、今日は又一段と天気で、あなた、待ってる間スケッチするんでしょう?日焼けには十分気を付けてね」

「ありがとう、気を付けるわ。うわ、高度が少し高くなっただけで視界が開けた。入り組んだ海岸線が素晴らしいわね」

「野口さんに言ったら羨ましがるだろうね。それとも怒るかな、どうして私も連れて行かないのって」

「そうね、3人だったらレンタの費用、安くついたのにね」

「うん、それは言える」

「野口さんは海と言っても波が砕け散る岩場を描くんでしょう。方やあなたは花、それもググっとアップした花を描く。それって同居しにくいんじゃない。わたしは二人の板挟みよ」

「費用は安く上がるけど、描く物の対象が違って喧嘩が始まるのね。うーんこりゃ大変だわ、やっぱり二人で正解だったわねえ、良かった、良かった」

「あ、ここよ、着いたわ。少し古そうな建物だけど、外観より中身が大切だわ、。彼女の為にも」

「そりゃそうよ、ヘルパーさんに虐められたとか、殺されたとか時々新聞を賑わせるてるじゃないの。どうか、良い看護師さんやヘルパーさんに恵まれていますように、わたし達は只祈るしかない出来ない」

「あ、わたしのお見舞い品も持って行ってね」

リュックの中から品物を渡す。

柏木さんは病院内に入る時、一度こちら側を振り返り笑いながら手を振った。

多恵さんも車から降りて、駐車場から病院の反対側に向かう。

ああ、やっぱり素敵な景色が広がっている。

おや、なんと駐車場から下にかけての土手に白い花が。そう、あれはまごう事なきノイバラだ。それも沢山群れを成して咲いている。

「初めからここに来れば良かったのかな」と多恵さんは思った。

いやいや、あれはあれで素晴らしい1日を過ごし、良い絵を沢山描く事が出来た、ここはここで素敵な絵を描こう。多恵さんはスケッチブックを取り出してちょっと構図に困りながらも格闘し始めた。

「ここは欲張らないで、海は海の景色としてスケッチし、野バラは野バラで描こう」

先ずはここから見える青い海と白い砂浜、日を受けて光る人家や緑の木々と草花をスケッチに納める。

次は野バラだ。ここからは絵として成り立たないので、もう少し下へ行けないものかと獅子奮迅。

「あのねえ、ここは一度下に降りて、下から行く道を探す方が好いわよ」

柏木さんの声がした。

「あら、戻ったの、気が付かなかった」

多恵さん、上を見上げる。

「今戻った所よ、あなたが居なかったので探してたら、こんな所でサーカスまがいな事やってんだもの」

「へへ、そうかもね。上から目線ではどうも構図が決まらなくて」

「ここにもこんなに沢山ノバラが咲いているなんて。この間のせせらぎ公園は何だったのかしら?」

「あれはあれで良かったのよ。わたしも一瞬そう思ったけれど、あそこの野バラとここの野バラ、別の輝きがあるわ。只ここの野バラは沢山咲いて綺麗だけど、とても描きにくい所に鎮座されてるのが、大幅減点ね」

「ハハ、それは言えるけど、それは人の手の届かない所と言う事でもあるから、こんなに見事に咲いているのかも知れないわ」

多恵さん元の土手の上に戻った。

「じゃあ、下に降りて、ここよりも野バラが良く見えて、バッチリ構図が決まる所を探しましょう」

多恵さんはリュックを背負いなおし、柏木さんは車から自分のリュックを引っ張り出した。

柏木さん、立ち止まって少しの間病院の上の方に目を向けた。多恵さんもその方向に視線をやる。

「彼女、わたし達の事見てるかしら」

「分からない、でも気分が乗ったら見てるかも」

「早く良くなって、外に出られたら好いわね。そしたら3人でスケッチ出来るのに」

「そうよね、そう願うわ、心の傷はどんなに深くても、だんだん薄れて行くと信じてる」

下へ行く階段を見つけた。どこか野バラの方へ通じる小道はないかきょろきょろしながら降りて行く。

「うーん正式な道はない様ね、でもほら、そこの所からならなんとか行けそうよ」

「そうね、わたしがさっき格闘してた所より、ずっと良いみたい」

「うん、数倍はね。行って見ましょうか」

何とか野バラのふもとまで辿り着く。

「やっと念願の花の元へ行きついたわ、さすが花の名手だけあって、どうしたら花の元へ行けるのか、良おく心得ていらっしゃる」

「花を描くには花の傍まで行かなければならない、風景や遠景ばかり描いてる人とは違うわ。時にはさっきのあなたみたいに、少々危険な事もやる事にもなるけど、

「へっへえー、恐れ入りましたあ。見る人はああ綺麗ね、まあ素敵、これは珍しい花ねえとしか思わないけど、その裏には隠れた苦労話が埋もれているんだ」

「そうよ、これからは心して鑑賞してくれたまえ、河原崎画伯殿」

「でもここ日当たりが良すぎて暑いわねえ」

「それも花描きの宿命よ。この間の菖蒲やつつじの花を描いてた時のこと思い出してみてよ。あなたは日陰で描いてたけど、わたしは日の当たるとこで描いてたわ」

「うん、それをわたしも思い出していたわ。でもここは早くスケッチして退散したいわ」

「まあそういう事にしましょうか。でもここの野バラは見事だわ、あなたは早く仕上げて日陰の所に行っても良いわ。わたしはこんな見事な野バラはめったにお目にかかれないから、少し時間を入れて描く事にしよう」

多恵さんは芳香を放つ真っ白い花々に心惹かれつつも、手短にスケッチし終えると、じゃあ私はあそこの木が茂っている所へ避難するわと、柏木さんに告げると荷物を背負って木の下へ向かった。

勿論、そこから周りの景色を入れて野バラを描く。

「花のクローズアップは柏木さんに任せたわ」と多恵さん自分のスケッチに没頭する。

何だかやな気配を背後に感じる。後ろを振り向く。いたいた、女性のどこを見ても幽霊だ。3,40歳ぐらいの女性だが髪はぼさぼさ、着てる物もパジャマ姿のままだ。大体ここに来た時からと言うよりこの病院に行くと決めた時から、覚悟は決めていた多恵さんだったが、今まで日の当たる場所にいたので、何とかそういった霊を避けてこられていたのだが、この幽霊さんは周りの日差しに気が付いてるのかいないのか、たじろいでいる様子が見えない。

「あなた、幽霊さんよね、出て来る時にはもう一寸綺麗にして出て来たらどう?」

「えっ、あなたは私が見えるの?」

「ええ良く見えるわ」

「わあ恥ずかしい、こんな所で人に会うだなんて考えてもいなかったから」

「わたしは、こんな着の身着のままの幽霊さんにあったのは初めてよ」

「ご、ごめんなさい、髪の毛ぐらいはすぐ何とかなるわ。どう少しは好いかしら?」

「ふむ、さっきより良いかも。少し前髪半分くらい上げた方が顔が明るくなって似合うかもね」

「この位ですか?」

「あ、良いわねえ。ちょっと待って、日向でも平気な人呼び出すから」

多恵さん、誠君だけを呼ぼうとしたのだが、目の前に所狭しとばかり幽霊軍団も一緒に現れた。

「きゃっ、ここにも幽霊は沢山いますけど、こんなに仲良くグループ作っているのは初めて見たわ」

「もう、みんな、彼女が吃驚してるじゃないの、わたしは誠君にあの野バラを少しだけ取って来て欲しかったの。そしたら彼女の髪に挿してあげたいと思って」

「わ、わたし、実は野バラの花を見ていたくて、ここに日差しの危険も顧みず立っていたんです」

「何だか野バラに深い思い入れが有るみたいね」

「ええ、わたしの思い焦がれていた人がわたしの事を、君は野バラのような人だって言ってたものですから、花が咲くたびにここに来て眺めていたんです」

誠君が幻ではあるけれど白い花が沢山ついた枝を持って来て、彼女の髪に挿してやった。

「う、嬉しい!あの人もこの位優しかったら、わたしもノイローゼなんかにならずに済んだのに」

新入り幽霊さん、泣き出した。

「もう遠い昔のことよ。思い出に浸るのは良いけれど、それを悔んだり、囚われていちゃ、何時までも幽霊のままなのよ。少しずつ前を見て進まなくちゃいけないわ」

「幽霊のままじゃいけないの?」

「幽霊のままじゃ、心は救われないわ、何時までも辛さを抱いたまま過ごさなくちゃならないのよ。両親や友人の傍にも冷気があるから、近づくと迷惑がかかるの。勿論おひさまは大敵、日向には行けない」

「それは分るわ。でも如何すればこの心のわだかまりを追い出せるというの?死んだらこの苦しみから抜け出れると思っていたのに」

「そうよね、抜け出たい心の悩みがあるから、それを忘れたいから、手っ取り早く死ぬ事を選んだと思う」

「ええ、その通り。睡眠薬をこっそり飲まないで貯め込んで、ある夜一度に飲んだの。でもでも、わたしは死んだと言うのに、あの世の門が閉ざされていて入れないまま今日に至ったの。何もかも忘れてあの世の門の向こうに行きたかったのに」

彼女、泣き出した。

「大丈夫よ、わたし達がいるわ、きっとその苦しみから抜け出られるわ」

その時までじっと聞いていた輝美さんが声をかけた。

「そうよ、彼女の苦しみに比べれば、きっとあなたやわたしらの苦しみなんて、取るに足らないものかも知れない」

美咲さんも声を上げる。

「まずはあなたの名前を教えて下さらない、そして一体あなたが何故、苦しんでいるのか教えて頂戴」

多恵さんが仕切った。

「わたしは花岡恵って言います」

「あら羨ましいくらい素敵な名前!」輝美さんがそう言うとみんな頷いた。

「でも、良い名前だけでは生きて行けません」

「そりゃそうだ、当たり前だけどよ」石森氏。

「わたし、この頃の人達ってあまり結婚したがらないでしょう、でも、わたし、結婚願望が強くて・・」

「別にそれは普通の願望よ、全然」

「だけど周りにはしたくなるような男性がいなくて、気が付いたら30をとっくに過ぎてしまっていたんです。そんなある日、私の勤める会社に彼が社用で訪ねて来たんです」

「それで付き合い始めたわけか」又石森氏

「いいえ、その日は彼をその部署に案内しただけです」

「なんだ、それだけか」

「それだけで終われば良かったんですが・・・それから2,3日後に会社の帰りにばったり会って、やあお茶でも飲みませんかと誘われたんです」

「ふむふむ、良くある話だ」

「ええ良くある話です。彼の話はスポーツや音楽、絵にも詳しくて、それを面白おかしく話してくれるんです。彼は全然イケメンじゃないけれど、気が付くとすっかり心を掴まれていました」

「その人、もしかして奥さんがいたりして?」

「いいえ、いませんでした、それは本当です、正式な奥さんは」

「正式な?じゃあそんな存在はいたんだ」

「ええと言うかそこまでの人ではなく、単なる元の彼女が」

「ふうん、単なる元の彼女か・・なんか微妙だね」良介君だ。

「良介君は元の彼を振り向かせたくって利用されたのよね」

「わたしも多分二股かけられていたんだと思います。デートも月に1,2回ほどでしたが、仕事が忙しいからと言う事でおかしいとは思いませんでした。何時も面白い話をしてくれましたし、結婚式や新婚旅行の話も段々するようになって親密度は増々深まりました。その頃,何だかわたしの体に変調が起きたみたいでした」

「もしかして赤ちゃんが?」

「ええ多分そうだろうと、わたしも思いましたが、彼には言い出せずにいました」

「そんな時はなるべく早く医院に行って、はっきり判ったら彼に報告するのよ。赤ちゃんはあなたと彼、二人によって生まれて来るんだから」

「その頃、彼が、急に会うのをためらう様になって、聞いても仕事が忙しいに決まっているだろうと言うばかり」

「何か怪しいわね」

「怪しすぎるわよ」

「わたしぼんやり歩いていました、彼の事ばかり考えていて。狭い道を歩いていたら、後ろから大型車にクラクションを激しく鳴らされて、吃驚してまだ塞がれていない側溝に落ちてしまったのです。お腹が痛くて痛くて,誰が連絡してくれたか分かりませんでしたが,漸く救急車が来て病院に運ばれました。通報が遅れ、時間が大分かかっていたので赤ちゃんは助かりませんでした。彼に連絡しましたが、彼が来たのは3日後。彼にその時、赤ちゃんが出来ていた事、事故で流産したことを話して誤りました。彼は暫く呆然としていましたが、やがて口を開きました。別に流産したことを謝ることはない、僕も君に引き合わせたい人がいると言うのです。わたしは彼の両親を引き合わせると思いました。彼が廊下に出て連れて入って来た女性を見てびっくり。彼女は両親どころか、わたしよりもはるかに若い女性です。妹さんと判断しました。でもそうではありませんでした。彼はニッコリ笑って、彼女と今度結婚することにしたんだ。今まで何回か彼女と一緒になろうと思ったんだけど、薄給の身では中々決断が付かなかったんだ、今仕事も上手く行ってて給料も上がり、生活も大丈夫そうだから、彼女に結婚しようと申し込んだ次第だ。君には本当に色々世話になって礼を言いに行こうと思っていた所だったんだ。それが聞けば、君は車にぶつかりそうになって、側溝に落ちて酷い目にあったって言うじゃないか。そこでこの際、彼女と相談して僕たちの結婚の事報告しようと思ってさ。彼はわたしの体の事何にも心配してないみたいでした。単なるお世話になってる会社の知り合いの人と言う話し方でした。勿論彼女の方もそんな風で、これからも貴社に参りましたら、宜しくお願いします、と言ってニッコリ。二人で手を繋いで出て行きました」

「そ、それは酷い。流産した女性に、しかも自分の子を流産してしまった女性に、言うべき事じゃないよ。

どうしても彼女と結婚したいならば、も少し、君の傷が和らいでからにして欲しいもんだ」

杉山君が一気に話す。そうね、彼は幸子さんの体が自分の所為で病気が悪化したと聞かされてて、慌てて結婚に踏み切った過去がある、本来優しい人間なのだ。

「それであなたはどうしたの?」多恵さんは尋ねる。

「流産の予後が悪くて中々回復せず、それに彼の余りの仕打ちに精神的にも二重のショックで、半分、正常な精神ではありませんでした。親が彼に掛け合って、慰謝料を出させまして、この療養所に入れさせたんです。でも、心の傷はここの美しい海や山を見ても治りません。それどころか生きる気力も無くなって、死にたいと思う様になったのです」

「それで睡眠薬を貯めて死んじゃったんだ」

同じように睡眠薬で自殺した美咲さんがしゃべる。

「でも、彼はあなたに君は野バラの花のようだ、と言ってくれたんでしょう」多恵さんが優しく慰める。

「ええ、一度だけ。こんな良く晴れた日に近くの公園に出かけたんです。まだ知り合ってそんなに立っていない頃の話です。公園の片隅に野バラが咲いていて、それが凄く綺麗で、ここのバラよりも本数もボリュームも劣りますが、その時はとても感動しました。わたしがあんまり綺麗綺麗と言うものだから、彼もつい、君も野バラの花のようだよって言ってくれたんです。だから、わたし、その言葉だけを抱きしめて、毎年ここに咲く野バラだけを待ち続けているんです。でも花が咲くのは僅かな期間だけ、後は次に咲く日を待ちながら、涙を流し続けるのです」

「まあ、それはいけないわ,ねえあなたも私たちと一緒に来ない。世界は広いのよ、幽霊してても楽しい事は一杯あるわ」輝美さん。

「わたしも川の傍で泣き暮らしの幽霊だったけど、今では明るく楽しい幽霊生活を送っているわ」

「僕も杉山さんに出会い、この河原崎画伯に紹介されて心から救われました。是非僕たちと一緒に行きましょう。そうすれば、きっと希望が見えて来ますよ。幽霊だって何かをやりたいと思う様になりますよ」

美咲さんや良介君の言葉に恵さんも少し心が開いたようだった。

「明るい楽しい幽霊生活なんて聞いた事がないわ、それに何かをやりたいですって。そんなのが有ったら死にはしない、意地でも生きていたわ」

「だからこれから見つけるんですよ。ほらこの石森さん、元々蕎麦屋さんだったけど、死んでも修業して、今度幽霊たちに美味しいソバを食べさせてあげたいと、お店を開く事になったんだ」

「今ここには来てないけど、いじめられて自殺した女の子がいて、一人は河原崎さんみたいな画家になりたいと高校で勉強したり、絵の勉強をしてるし、もう一人はピアノが上手くなりたいと猛練習してる」

「わたしらは自分の愛する人の守護霊になりたいと願っているし・・」

「守護霊ですって、愛する人って?」

「親や、兄妹、幼馴染でも良いんだ。それに輝美ちゃんは子供の守護霊だった」

「子供、子供?わたしの子供はどうなったのかしら?水子でも魂はあると聞いたけど」

「そう、多分。可哀相にきっと彼か彼女か知らないけど、お母さんにずっと振り向いてもらえず、泣いているに違いないわ」

多恵さんは頷く。

「母親に顧みられないので、多分あなたのご両親にしがみ付いてるわ。早くご両親の元へ行って、子供を引き離して、あなたの子供として一緒に行動しなさいな。そうすれば、あなたのご両親も助かるし、子供もあなたの愛があれば成長できると思う」

「本当に、本当に彼女、真澄は成長出来るの?」

「幽霊でも霊であっても霊界ではもともと肉体はないの、あるのは魂だけ。だから精神的には成長出来る、それでも、幻でも良い、肉体的なものが欲しいと思えば、それなりの物を得る事が出来るわ」

「う、嬉しい!早くあの子に会いたいわ、でも如何すればあの子の元へ行けるのかしら」

「大丈夫、ちょっと練習したら飛べるようになるし、夜になったら飛び立ってご両親の元へ行きましょう」

杉山君がここは仕切った。

「さあ、も少し広い日陰の所に移動しましょう」

輝美さんと美咲さんが恵さんの手を取り飛び立ち、他の者もその後に続いた。

「ああら、ここは随分と涼しいのね」

目の前に柏木さんが立っている。

「ええ、寒いくらいでしょう?さっきまで新人の幽霊さんが居たもので」

「ええっそうなんだ。わたしもここに幽霊がいない方がおかしいと思っていたんだ」

「本当はウジャウジャ居るみたいだけど、なるべく合わないように日向を選んでいたの。でも、この小さな木陰にまさかいるとは思わないじゃない?でもいたんだなあ野バラに執着する幽霊さんが」

「へ、野バラに執着する幽霊なの?」

「ええ、彼女を裏切った彼が唯一残した優しい言葉、君は野バラのようだ、それを唯一支えとして,ここに

泣きながらのバラが咲くのを、ずっとずっと待ち続ける幽霊さんがね」

「やだ、今もいるの?」

「大丈夫、みんなで彼女の目を覚まさせて、彼女をご両親の元にいる流産した子供の霊に引き合わせることにしたわ」

「ああ良かった。彼女もその子の魂も救われるのを祈るばかりね」

「そこで野バラの花は暑さに負けずでスケッチ出来たの、思う様にかけた?」

「まあまあね、あなたは幽霊騒動で余り描けなかったんじゃないの?」

「うーん、今更始まった訳じゃないから、それなりに描けたわよ、ほら」

「へえ、なかなか上手く描けてるわ、この野バラ見てると、どうしてかしら涙が出て来ちゃう、初夏の日差しが一杯の絵のはずなのに」

「多分、彼女の話を聞き、彼女の野バラに対する思い入れを込めて描いたからかもしれない」

多恵さんは柏木さんに彼女、恵さんの死に至るまでの話を説明した。

「ふーんそうなの、随分可哀相な人なのね。金のない時は年上の彼女になびき、金の心配が無くなったら、年下の女性になびく。うーん、黒田さんとは少し違うわ、男の身勝手と言うところは同じだけど・・」

「そうだ、その黒田さんは如何だった?まだ立ち直ってはいないでしょうけど」

「ええ、全然。と言うか、わたしの事さえ良く認識してないみたい。まあ精神安定剤を山ほど飲まされている所為もあるけど」

「誰も付き添いの人はいないの」

「時々お母さんが見舞いに来てる程度よ、何しろここは交通の便が悪いから」

「そうね、それは言えるわね。じゃあ、なぜ彼が奥さんの元に帰る決心をしただけで、奥さんを刺すなんてとこまで考えが及んだか分らないのね。ふつうは悲嘆に沈む、行かないでと彼に取りすがる、欝になる、と言う所でしょう?まあ、彼女は激しい性格ではあるけれど」

「そこよねえ、看護師の人がお母さんに聞いた所によると、彼が若くて綺麗な女性の元に走るのは、同じ芸術家として少しは分かる。でも彼は年老いてしまった老婆に過ぎない女性の手練手管に騙されて、まるで蜘蛛に絡め捕られた虫みたいに、彼女の元へ嫌々ながら戻って行くんだ、と言ってたらしい」

「蜘蛛の巣にかかった虫かあ。彼女は自分の美貌にも肉体にも自信があるのよねえ、だから彼が年老いた奥さんの方が好いだなんて考えられない、これは奥さんが何か陰謀みたいなものを彼に仕掛けたに違いない、

と思い至ったんだわ」

「まあ、顔もスタイルも良い女性とそうでない女性、しかも年取ってるとなると、普通は前者を選ぶよね、

所が彼は後者を選んだ。彼女は納得出来ない、何としても彼を連れ戻さなきゃいけないと言う考えが浮かんだとしてもおかしくない」

「でも私たち当事者じゃないからその心の内は如何なのか、全く分からないわ」

「あ、海に日が沈みかかってるわ」

「素晴らしい夕日!いつまでも眺めていたいけど、暗い夜道は慣れていないわ、早く自動車に戻って宿屋へ向かいましょう」

「勿論、民宿でしょう?」

「当たりー、あなたのあの幻想的な桜の絵が、高値で売れたら、今度はあなたの驕りで素敵なホテルに泊まりましょう」

「そうなると好いけどねー」

二人は笑いながら荷物を背負い、ワインレッドの車の方へ戻って行った。

          第Ⅸへ続く  お楽しみに!









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