ここで会ったが百年目
※ ※ ※
「まぁったく、なんであたしがこんな目に……」
時刻はまもなく夕方。ずっと代わり映えのしない夕陽と、水面に映る美しい茜色を、ビッキーはうんざりとした顔で眺めていた。
背が大きく開き、覗くうなじと肩甲骨がセクシーな赤のドレス。遠目には年若き貴婦人といった装いだが、その実近寄って凝視すれば、無理矢理身体を収めたゆえのぱっつんぱっつんが見て取れることだろう。
「いいじゃない。ここ客間よ? どうして脱いじゃいけない訳?」
「ルームサービスとか、部屋を間違えましたとか。入って来るのはボクたちだけじゃないだろ」
自分たちは札づきのワルで密航者だ。どこで監視の目が光っているかわからない。だから脱ぐな。いつでもそういう女性のフリが出来るようにしておけ。言い出しっぺの女装少年は、そう言って父を探しに出ていった。
「船に乗るなんて、言わなきゃ良かった……」
そうしなければ先に進めないとわかってはいるが。
自分だって、謎を謎のまま終わらせたくないと分かってはいるが。
だからこそ、この道を選んでここにいると解ってはいるのだが。それにしたって窮屈すぎる。
(少しぐらい、脱いだって構わないわよね)
右見て左見て、そのついでに右を見て。気配も足音も無いことを確認し、背中のホックを少し緩める。『借りた』ドレスを傷つけないよう、慎重に両の腕を抜いてゆく。ビスチェめいた華美な下着と、鍛え抜かれたどうにもミスマッチな姿が顕となる。
「あぁ、暑い暑い」
女性のおしゃれとは、どうしてここまで窮屈を強いるのかしら。大鏡に今の自分を写してみる。昔"アーカイブ"で観た、化粧まわしをした力士にそっくりだ。それなりに着飾って、化粧だってしているはずなのに。ビッキーは自らとは住む世界の違う人々に思いを馳せ、無駄よねと切り捨て嘆息する。
『はしたない格好をして。いつ、どこで誰が見ているのか分からないのよ』
「な……ッ!?」
今、この瞬間まで此処には誰もいなかった。名うての賞金稼ぎとして、後ろを取られるなんてあり得ない。なら空耳か? そうであれば良かったが、得体の知れないこの気配は、気のせいで済ませられるものではない!
『久しぶりねビッキー。ちゃんと会うのはもう何年ぶりかしら』
上半身はかくあるべきシスターの姿。下半身はロングスカートを縦に裂いて、いやらしい脚を外に晒したアンバランスな存在。失った左目をアイパッチで隠したカナエ・バシュタール。ピースメーカーの大物がどうしてこんなところに?
「久しぶり。久しぶり、ですって……?!」
だが、そんなことなど彼女にはどうでも良かった。カナエの姿を見た瞬間、内々にしまい込んで忘れていた感情が一気に噴き出した。
『ねぇ、パパ。ママは、ママはいつになったら起きるの』
――ビッキー。母さんはな、もういない。いないんだ。
――哀れな。不正義に加担し身を挺すなど。その生命を無駄に散らしたと分からないのですか。
冷たく降りしきる雨の中、上半身と下半身をお腹を境に真っ二つにされ、二度と目覚めることのなかったあの日。淡々と事実を告げる父と、父と対峙するシスター姿の教団幹部。
「よくもぬけぬけとあたしの前に顔が出せたわね。あんた、自分が何をしたのか憶えているの!?」
あの頃の自分は悲しみに打ちひしがれていることしかできなかった。けれど今は違う。経験と実績を蓄えた。ストッパーになるであろう父もここにはいない。運命が、自分に『行け』と促している!
『確かに。あれは私も軽率でした』
瞬時に飛んだ右拳を、カナエは首の動きだけで細やかに躱し、冷静な口調を崩さない。避けた先にあった洋服タンスがその風圧をモロに受け、幾重もの亀裂を走らせる。
『ですが、積もる気持ちは横に置きましょう。ブリットが"カレ"でなくなった今、あなたにしか話せないことがあるのです』
「ふざ、けんなっ!」
殺した事実を棚に上げて、どの口がそれを言う。死角となる左目掛け振られた回し蹴りは、何も掴めず空を切る。
『抵抗は無駄です。私に殴打蹴打は通じません』
「そう、かよっ!」
だからと言って、仇を前にうなるこの手を止められるものか。美しいドレスを振り乱し、拳圧蹴圧が狭い客室を内側から砕いてゆく。
(なんでだ! なんで当たらないッ)
ビッキーの攻撃は、眼帯で覆われたやつの左に集中している。狙いが単純なら見えずとも感覚で躱すだろうことは理解している。
だが、『これ』はそういう類のものではない。この破廉恥なシスターは初めからそこに来ると解っているかのように、のらりくらりとこちらの攻撃を躱し、いなし、澄まし顔を保っている。
『貴方のそういう所。やはりカレの娘ですね。諦めが悪くて、自らの非を認めようとしない』
「知ったような、口をぉお!」
実の娘を差し置いて、寝ぼけたことを抜かすんじゃない。その形相は鬼の如く烈火に怒り、なれど頭は冷静に。小さく、細かく、素早く。脇を締めて拳を握り、流星めいた勢いで叩き込む。
『私は、争いに来たんじゃありません。話を、聞きなさい』
どんな疾さもカナエには届かない。首を、肩を、腰を捻り、寸でのところで躱し続ける。向こうに攻撃の意思はない。それは解った。隙を突いて叩くつもりなら、自分はもう三回は死んでいる。
『ビッキー。ブリットの子。鍵はあなた。コードは今……!』
(どうする……。どうすれば……!)
なにか、手はないのか。集中じゃ足りない。その上で感覚を研ぎ澄ませ、決定打の通る場所を探す。
『今はまだ分からなくて良い! でも頭の片隅には留めておいて!アルカディア・コードは"そちら"にある。誰の手にも渡しちゃいけない。だから――』
元々聞く耳を持たなかったが、だから、以降はけたたましい音に掻き消えた。
(なんなの……あれ)
法螺貝を天に向かって吹いているのか? よく通る大きな音が徐々にこちらに近付いてくる。
「野郎ども! 今日の獲物だぁ! カネもオンナも食料も! 根こそぎ奪い取れィ」
船だ。こちらよりも一周り大きな帆船が真横にいる。黒い帆にはデカデカと描かれた白い髑髏。甲板には船員らしき物々しい声、声、声。
「冗談でしょ。これって、まさか……」
※ ※ ※
「おじさん! 何やってんだよ、探したぞ」
「オウ。何だ、意外と早かったじゃあねえか」
こちとら必死に探してたというに、酒壜傾けての赤ら顔。その上とぼけた返ししやがって。真面目に船じゅう走り回ってたのが馬鹿馬鹿しくなる。
「早かったってあんた。ボクがどれだけイヤな目に遭ったか知ってる!? この姿でスカート引っ張りながら駆けずり回って! 男性客たちから色目使われて! 断っても纏わりつかれて! もう散々最悪だったんだからな!」
「まあ、合流出来たんだから良いじゃねぇか」
「よかねぇよ!」
最近のおじさんはたるんでいる。銃持ちであることをやめられなくて、ピースメーカーに睨まれているというのに、危機意識ってものがまるでない。
「今まではのほほんとやってられたけどさ。次陸地に着いたら、そっから先は奴らの支配区域みたいなもんなんだぞ。もうちょい気合ってもんをさあ」
「ああ、はいはい。解ったよ」
なんか……ヘンだな。いや、いつもヘンではあるけれど。これはちょっといつもと違う。なんかこう、『憑き物が落ちた』みたいな。
「おじさん。今の今まで何やってたんだよ」
「何だ。それを俺に訊くのか? そうさな……」
どうせくだらない話なんだろう。そう舐めてかかったのが行けなかったのか。おじさんの言葉を遮るように、ドオォンという音が船中に響き渡る。遅れて、軽い縦揺れの後船体が左に傾き、目の前の大扉が勢いよく開け放された。
「手前ェらそこを動くなヨぉ」
「俺たちが欲しいのはカネとメシ。大人しくしてりゃあ命だけは保証してやるからな」
冒険者たちが大きな船で海を越える理由はふたつ。ひとつはランダムに発生する時化などの天候変化。その日の海の『機嫌』を読み、相応に頑丈な船でないと乗り越える事ができないからだ。
そしてふたつ目がこれ。むしろこれが本題。パンゲアには海という不安定なフィールドを棲家とし、漁業と略奪で生計を立てる悪辣な者たちが存在する。
「ほぉら手前ェら頭下げろォ」
「俺たちのカシラが入船ダァ」
それが海賊。やつらが海賊。捕まったら最後、ケツの毛まで毟り取る悪辣極まりない連中だ。




