契約しましょう、悪魔さま!
と、いうわけで僕はアルフ・サンダースと契約することになった。
「じゃあまずは血を出してもらっていいかな、なるべく多めに……あっ、痛いのは嫌だよね。緩和する?」
僕が提案すると、彼は妙な緊張感を滲ませながらもすぐに頷いた。
「アッできるんなら是非!」
できるから提案しているんだよと内心で彼に笑ってしまいながら、僕は指をすっと差し出す。不思議そうな彼を傍目に僕はちょっとした魔術で彼の手の感覚を鈍らせて、その手を掴んだ。それからその手の平を手持ちのナイフで切りつけた。慌ててばっと顔を逸したアルフの口から、ヒッと声が漏れる。
「大丈夫だよ、痛くないでしょ?」
そう笑うと、アルフはゆっくりと、どうにか頷いた。
「すげぇ変な感じ……」
そしてその傷から垂れる血をテーブルに載っていたお皿に集める。
魔法も使ったしお腹が空く。魂を食わなくて済む身体を持っているといえど、やっぱりご飯である血を見ると口の中でよだれが出る。多分契約に使う分より少し余るはずだから、それは飲ませてもらっちゃおう。
そう思いつつ、少ししてアルフの手のひらの血が止まる。僕は自分のつけていた革の手袋を外し、彼の手に嵌めてあげた。
「はい、一応傷押さえといてね」
人間は脆くて弱い生き物だ。このくらいのサポートをしてあげないと、すぐに血が足りなくなって真っ青になって死んでしまったりする。まぁ、そういうところが可愛いんだけれど。
「あー、どうも……」
手袋のない手で頭を掻きながら、彼は落ち着かない様子でお礼を言った。
それから僕は契約用の羊皮紙をテーブルに置いて、ラテン語とラテン語の鏡文字の一覧が載ったお手製の表を見せる。5歳でもわかる(と思う)カラフルな構成と大きくて分かりやすい文字が自慢だ。
「ラテン語はわかる?」
一応問いかけると、彼は面食らったような顔をしてから首を横に振った。
「いや分かんねえです」
下手くそな敬語を傍目に、僕は時代が変わったなあと自分の気持ちを噛みしめる。何となくその気持ちを聞いてほしくなって、僕は言葉にしてみた。
「やっぱり最近ラテン語わかんない人増えたよね……もうちょっと前なら学問がどうちゃらで覚えてる人が多かったんだけど、やっぱり時代かな。人間ってあっという間に時代変わるよね。ほんと儚い生き物だよね、すっごく可愛いと思うよ」
「はっ?」
とにかく、僕はそういうラテン語の分からない人間たちのためにも、まだ表を用意してある。
「じゃーん!契約テンプレート!これを模写して二人でサインすれば契約は出来上がりだよ!えっとね、これがノーマルな『悪魔との厳正な契約テンプレート』、こっちが『ジョークたっぷり!たのしい契約テンプレート』。どっちがいーい?」
「えー……ジョーク書かれても読めねぇよ……」
あっ、たしかに。せっかく頑張って作ったのになぁ……。
「そんな顔しないで下さいよ、悪魔でしょ…?さすがに申し訳なくなるし」
「あっ、僕そんなに変な顔してた?ごめんごめん、気にしないで!」
気がついてみると言われたとおり眉毛が下がっている。いけないいけない。人間の前では笑顔が大事だもんね。そう思って僕は眉毛を撫で、明るい笑顔をしてみせた。
「まあいいや、とにかく……このテンプレートを真似て同じように書いてね。サインはアルフ・サンダースだから……こんな感じ」
指に彼の血を取り、ラテン語の鏡文字でさらさらとお手本をあまり値の張らなそうな壁に書いてみせる。そうするとアルフは呆然とした。
「しゃ……借家なんすけど!てか名前知ってんの!?」
もちろん名前は知っている。召喚された時点でしっかり調べておくのが慈悲の悪魔の礼儀というものだ。まあ、他の悪魔はリサーチなんてしないかもしれないけれど。
そう思う反面で、彼が言った言葉が頭の中でぐるっと回る。えーと……しゃくや……借家。ああ、お金のない人が家を借りるやつか。どうにかその人間の経済のシステムから思い出す。自分のものでない家を汚すと大変なんだろう。
そう納得しつつ、僕は彼にウインクをしてみせた。
「悪魔たる者契約者のリサーチは肝要だからね。それと……借家だから後で消すんだね?大丈夫、任せて」
どうせちょっと指を鳴らせばすぐ消えるんだから、彼は何も気にしなくていい。そう告げると彼は怪訝そうに頷いた。
それからついでに、指についた血を舐め取る。美味しい。もうちょっと舐めたいなぁ。早く契約書を書き終えれば余りの血はもらえるしと思って彼を急かす。
「早く書かないと血固まっちゃうよ」
そう言うと、アルフの方はまだ狐につままれたような顔をしながらテンプレートの模写をし始めた。
子供が書いたような下手なラテン文字が可愛いなぁ。微笑ましい気持ちでその模写の様子を眺めているうち、彼はそれを完成させたらしい。
彼は緊張した手付きで最後に模写したサインを記すと、僕の方を見遣った。
「うん、満点」
そう微笑むと彼は安心した様子で溜息をついた。
「良かったぁ……ラテン語なんて書かねえから緊張しちゃって……」
彼のサインの横に、さらさらとラテン語の鏡文字でサインを記す。エレオス、と。そうすると羊皮紙に記された血が暗い赤になって契約書に深く刻みつけられる。
「これで……契約が……」
「できたよ、完璧にね」
彼は少し怯えたような顔をして唾をごくりと飲み込んだ。
「俺、悪魔と契約しちまったんだよな……地獄行きかな……」
契約してすぐにその心配をする彼に、他の人間を思い出す。
普通の悪魔を召喚する人間は、大抵代償も何もかも承知の上で手間のかかる儀式をしている。だから契約したあとはむしろ清々しい顔や欲の滲んだ顔をする。後で魂を食らい付くされるときにはそれはもう沈痛に泣き叫ぶのだが、それは自業自得だからキュンとしない。
けれど彼は突然現れた僕、いわば救世主である"悪魔"に縋ってしまったわけだ。勢いで契約をしてしまって不安なんだろう。
地獄に行くことになるかなんて心配をするのに首を傾ける。
「それは分からないな、僕はただの悪魔で天界の関係者じゃないし……」
彼はさっと顔を青ざめさせた。取り返しのつかないことをしてしまったと気づいたんだろう。そんな彼の肩に僕はぽんと手を置く。
「でも君は幸運な方だよ。他の悪魔との契約だと最後には四肢をもがれて、魂を引き抜かれて、その魂をムシャムシャ食べられちゃうんだから……その上悪魔のお腹の中で永遠の絶望と暗闇に浸らなくちゃいけないし。でも僕の主食は血だからね、魂は食べないよ。魂さえ自由なら地獄には行けるし、悪魔のお腹の中よりはよっぽどいい環境だから!」
そう説明してみせたものの、彼の気には召さなかったらしい。
「結局地獄行くんじゃねえか!」
確かに地獄に落ちるのは変わらない。上手くごまかせなかったなと思って、僕は苦笑いを浮かべた。
「ごめんって。でも地獄ならほら……昔聞いたことあるよ、悪魔と契約したけど後で許してもらった人とかいるみたいだし。それに僕天使の知り合い何人かいるしさ。僕の名前出して反省すれば許してもらえるかもよ」
天使の知り合いと言ってもさすがに審判担当の天使は知り合いじゃないんだよなぁ。あくまで人間に連絡したり神託授けたりするあたりの部門の天使たちとしか付き合いないし。審判担当の子たちともコネがあったら死んだ後のサポートまでできるかも。そのうち天使たちと会ったらコネ作りしてみようかな。
けれど審判担当の天使が知り合いじゃないことは伏せておいて、代わりに彼をちらっと見る。そうするとやっぱり苦々しいような顔をしている。ちょっと申し訳ないな、ごめんね。
とりあえず契約は済んだ。その契約書をくるくると丸めて、僕のマントの内側に突っ込む。
「改めて、三日後の零時までよろしくね。アルフくん」
僕はにっこりと微笑んでから、余った血を飲み干した。